海戦 ④
舵を左へ大回転させたのは大きな博打だった。
周囲は浅瀬、喫水がそれほど深くないからやってのけたものの、船底がサンゴや岩礁を抉ればたちまち海水が流れ込む。
だが彼はやってのけた。
猟犬の砲列を真正面に捉える丁字状態から脱するため、グレイウルフ号はロイヤルハウンド号の船尾へ向けて全速で回避し、敵から放たれた砲弾をまともに喰らわずに済んだ。
回避が成功した後は舵を右一杯に戻してサンゴ礁から脱し、ヘンリーが命じる前に黒豹たちは砲撃の用意を整えていた。
敵もまた左へ転舵して二隻が並列し、次の瞬間にも撃ち合いになるかと思ったが、敵の指揮所からこちらを見る銀髪の士官がヘンリーの目に留まった。
立ち位置から艦長らしく、中指を立ててこちらの進路を予測した手腕に敬意を払う。
そのとき騒ぎを聞きつけたルーネが甲板へ駆け上がり、ヘンリーが視線を向ける先に立つローズの姿を蒼い目に捉えた。
薔薇のような顔立ち、銀色の髪、そして士爵を示す胸の勲章。
「ローズ!」
無意識に彼女の名を呼んだルーネの声も、グレイウルフ号の砲撃によってかき消された。
「敵の砲列を食い破れ!」
斉射された12ポンドカノン砲の砲弾が帝国の兵士たちを傷つけ、尚も生きている砲が狼に照準を合わせた。
元より砲門数が段違いなのでまともに撃ち合う考えなどヘンリーにはなく、一撃を加えた後はロイヤルハウンド号に尻を向け、全ての帆を展開して逃走を図る。
船尾が船の弱点であることは彼も百も承知していた。
舵が折れれば一巻の終わりだが、あの傷ついた砲兵たちが冷静で正確な射撃が出来るとはとても思えず、案の定苦し紛れに撃ち込まれた砲弾も船長室の窓を粉々にしただけだった。
まず敵の意表を突く回頭をやってのけ、然る後に敵の脇腹を食い破る。一撃を与えれば速力に物を言わせて相手を追跡させ、傷ついた猟犬は必死になって獲物を追うが、そのときには大抵冷静さを欠いてまともな指揮は取れない。出血によって体が鈍っていくように、焦燥と疲労が牙の威力を鈍らせる。たとえどのような巨獣であっても、傷つけば弱るのだ。
だが手負いの猟犬は敵意をむき出しにして追跡してくる。
「いっそ火薬に引火してくれれば楽だったんだがなぁ」
望遠鏡を覗くヘンリーの傍らで、ルーネも後方から迫る猟犬をジッと見つめた。
「知り合いでも乗ってたか?」
「知り合いというほどでもないけれど、名前を知ってる人がいた。ローズ・ドゥムノニア。騎士に叙されていたと思う」
「へぇ、あの嬢さんがねぇ。犬に跨った騎士様がお姫様のお迎えってか? 傑作だ」
「かなりの情熱家だった。父に対する忠誠も強かったわ」
「ふぅん。なるほどねぇ。真面目なのは感心するが、熱くなると視野が狭くなるもんだ。俺なら一撃貰った時点で諦めるね。戦いは先手必勝。見ろ、左舷の砲列は半分以下に減らした。右舷はまだ健在だが、弱点が出来た時点でこっちが有利だ。何ならお前さんの名前を出して降伏でも呼びかけてみるか?」
「……大人しく戦いを止めてくれるなら、それも良いかもしれない」
「冗談だったんだがな。ああ、不味い。風向きが変わってきやがった!」
追い風が突如として向かい風に変わり、進行方向から吹いてくる風が抵抗となって船の速度がガクンと落ちた。背後の猟犬が距離を詰めつつある今、追いつかれる前に決断せねばならない。ヘンリーは部下たちに呼びかけた。
「野郎ども! もうすぐ追いつかれるわけだが、殺るか? それとも降るか?」
すると水夫たちは武器を掲げ、マストに翻る黒旗を指して叫ぶ。
戦おうと。レイディン海賊団の力を見せてやろうと。たとえ銃弾に撃たれ、刃に斃れるとしても、彼らは名誉を選んだ。何よりもヘンリーが帝国軍から尻尾を巻いて逃げた、などと後ろ指をさされるのが堪らなく嫌だった。船長のため、自分たちのため、彼らは死地へ赴く。
部下たちの意向を聞き届けたヘンリーは無言で右手を上げ、指で大きな円を描いた。
敵前大回頭の合図だ。
グレイウルフ号は大きく右に舵を切り、すべての帆が左舷側に角度を変えて船に軸を作り出した。まるで回転扉のように突然船首を向けられたロイヤルハウンド号の水兵たちは度肝を抜かれ、損傷した左舷側にグレイウルフ号が再び喰らいついた。
互いの甲板はマスケットやピストルの硝煙によって白く染まり、砲を撃ち合う中でカギ付きの縄や梯子が引っ掛けられ、黒豹率いる水夫たちが次々に敵船へ乗り込んでいく。
数の上では猟犬に分がある。確実に敵を仕留めれば海賊たちはいずれ降伏するはずだとローズが叫び、自身もサーベルの腕前を存分に披露した。
「ヘイ、ヘイ、オレと踊ろうぜぇ! 銀髪のお嬢ちゃん!」
「海賊は地獄へ堕ちろぉ!」
両手にカットラスを携えた黒豹と、軽やかにサーベルを操るローズがぶつかり合う。
その様子をヘンリーと共にグレイウルフ号の指揮所から見ていたルーネの手にはピストルが握られ、彼女の前には、同じくピストルを構えるタックが騎士さながらの勇ましさを水兵たちに見せつけていた。
グレイウルフ号に乗り移った水兵は一先ず三人で、子供が乗り組んでいることにも驚いたが、剣を向けられていながら何処吹く風とばかりの余裕を見せているヘンリーに慄いていた。
「ヘ、ヘンリー・レイディン! 皇女殿下暗殺の罪により、お前を誅す!」
「おうおう、勇ましい水兵さんだ。ところでお前ら、この娘、その殿下様だぞ?」
えっ、と水兵たちがヘンリーから視線を逸らした刹那、彼らの胸に弾丸が撃ち込まれ、カットラスで貫かれた水兵たちは海中へ落とされた。
「ルーネ! 怪我は無いかい?」
彼女は答えない。今戦っているのは紛れもない帝国の兵士たちだ。
ルーネは崩れるように甲板へ座り込んでしまった。
もう見ていられない。大切な仲間たちが傷つき、故郷の兵士たちが海へ落ちていく姿は、彼女の精神的な容量を遥かに超えていた。
「お願い……もう、止めて……」
震える彼女を見たヘンリーはウィンドラスを呼ぶ。
「ここいらが潮時か?」
「やむを得ません。戦力不足は如何ともし難い。いずれ制圧されます」
「やれやれ。あの逆風が運の尽きだったか……まあ、メンツが立つ程度には戦っただろう。白旗を揚げろ」
唸るヘンリーが頭を掻き毟り、ウィンドラスに戦闘停止を命じた。
グレイウルフ号に白旗が掲げられ、それを見た海賊たちは驚愕と共に武器を落とすと次々に拘束され、船に水兵たちが続々と乗り込んできた。
「タック、銃を下ろせ。ここまでだ」
「まだオイラは戦える! ルーネを守らないと!」
「お前の意気は買うが、ルーネを守るのは俺たちじゃなく、あちらさんの役目だ」
彼はルーネを抱き起こし、身をかがめてその顔を覗き込む。
「ルーネ、悪いがそういうわけだ。お前さんにお迎えが来た」
「でも、船長や皆はどうするの!? 私は誰を頼ればいいの!?」
「帝国への忠誠が強いなら、あいつらに守って貰えばいい。それに俺たちは元々悪党だ。だからな、悪党は最後まで悪党をやらせてもらうぜ!」
ヘンリーは懐から取り出した布切れをルーネの口に縛り付け、ピストルを彼女の頭に押し付けてロイヤルハウンド号の甲板へ渡った。
「てめぇら動くな! こいつはお前さんたちの国を継ぐ皇女様だ! 船長を出せ、話し合いをしたい」
無数の水兵たちが銃を向けてくる中、言葉にならぬ声をあげるルーネの腕を捻り上げた。痛みで涙が滲む彼女の目に、兵士たちをかき分けてくるローズの姿が見えた。黒豹との戦いが余程激しかったのか、髪は乱れ、息も乱れているが、勝者としての余裕が彼女の顔に表れている。
「海賊ヘンリー・レイディン! つまらぬ小芝居は止めよ! その娘が殿下である証拠が何処にある!」
「ほう、だったら今すぐ撃ち殺してやろうか? もしも本物だったら、あんたらの国は終わりだな? それとも、この蒼い目に見覚えが無いってのかぁ?」
涙を零す蒼い目の少女が皇女であることは疑いようもなく、ヘンリー自身一切嘘は言っていない為、ローズは交渉に応じた。
本来ならば海賊と交渉などあってはならない。
殲滅か拘束。話し合いの余地など無いのだが、レイディン討伐に加えて皇女奪還ともなればローズの名声は一気に、全世界に響き渡る。士爵どころか父をも上回る爵位も望める。
もう、女の癖にと馬鹿にされることは無くなるのだ。
何よりも皇女が無事であれば帝国は柱を失わずに済む。
そんな考えがローズに交渉という選択肢を与えた。
「聞こう。条件を言い給え」
「俺達はあんたらに降るが、部下の命は助けてやってくれ。俺は煮るなり焼くなり好きにしろ」
「ほう。極悪非道の船長にしては見上げた心意気ではないか。殿下をこちらに引き渡すのならば受け入れよう」
拘束された仲間たちの涙声を背中に聞きながら、ヘンリーはルーネをローズに引き渡した。
次の瞬間には手足に手錠を掛けられた上に荒縄で縛り上げられ、皇女を誘拐し、リンジー島を壊滅させた大海賊は海軍に屈した……
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