海戦 ③

 キングポートを出航したロイヤルハウンド号は、真っ直ぐ南方へ向かっていた。

 目指す先はリンジー島から東に広がる珊瑚諸島海域。

 海図室にて艦長のローズ以下、副長や参謀たちが獲物の予測位置を計算する。

 リンジー島襲撃からおよそ一週間。余程の間抜けか島に旨味がなければ長々と居座るわけもなく、今まで幾度となく海軍がレイディン一家を拿捕しようと試みたが、大抵は霞のように消え去っているか、あるいは猟犬が狼に食い殺された。


 相手は速力が高いとはいえ、たかが26門の中型艦。

 砲戦となれば方舷の13門しかない。

 小口径砲ではロイヤルハウンド号を撃ち抜けまい。


 仮に襲撃した商船から幾ばくかの砲を積み込んで強化したとしても、排水量や物理的な問題から考えてもせいぜい40門が限界。

 このロイヤルハウンド号の足元に届くかどうかといったところ。

 相手の乗組員も所詮は荒くれの寄せ集め。

 だがこちらは訓練に訓練を重ね、規律と統率と愛国心によって正確無比な歯車のように機能する水兵たち。射撃も剣戟も実戦を積み重ねてきた。


 木っ端海賊たちを何人も絞首台に吊るし、地獄に送り込んだ。

 だからこそ闘争心が燃え上がる。

 相手はマーメリア海随一の大海賊。

 並みの海賊たちは軍艦を見ればすぐに逃げ出す。


 だがヘンリーは違った。

 まだ彼が私掠船でなかった頃、海軍との戦いで逃げ出すかと思えば突然向きを変えて食らいついてくる。

 そして水兵の白いセーラーを真っ赤に染め上げ、高らかに吼える。

 海軍何するものぞ、と。

 これほど誇りある海軍旗に泥を塗りたくった男がいようか。

 白地の旗に描かれた、錨を抱き、黄金の剣を掲げる人魚姫。

 如何なる国であろうとも、如何なる賊であろうとも、姫君の剣の前に跪かせてきた。

 協議を続ける中でローズは不意に笑った。


「諸君、かつてない敵を追い詰める気分は実に愉快だ。そして私は敵が憎い。栄えある我らの旗を汚し、燃やし、かけがえのない同胞と愛する民を食い殺したあの狂犬が、皇女殿下を汚したあの畜生めが! だが諸君。敵を讃えよう。彼は偉大だ。間違いなく歴史にその名を刻む。悔しいが認めざるを得ない。偉大なる悪党だ。如何なる国も足元に及ばない、帝国最大の敵。これは戦争だ。さあ、諸君。我々も歴史の一頁に名を刻もう。勝利者として。尊敬する敵を歴史の一頁に刻もう。敗北者として」


 士官たちが目を輝かせて頷いた。

 この若くも麗しき艦長に寄せる信頼は並ではない。

 初めて訓示を受けたとき、誰もが彼女が親の七光りだと思っていた。

 何せ名門ドゥムノニア家のご令嬢。何を酔狂にこのような世界に立ち入ったのかは誰も分からなかったが、その情熱、忠誠心、何よりも任務を完璧にこなす手際と統率力。


 加えて正義感と名誉欲をくすぐる今の演説。


 軍人とはいえ彼らも海の男。女艦長の鼻を明かしてやろうと士気は高まり、皇女と戦友の仇討ちという分かりやすい大義が水兵たちを団結させた。中には家族を失った者もいる。


 人を効率的に働かせる最大のコツは目的が単純明快であることだと、ローズは父たる男爵から学んだ。故に彼女が下す命令は一つ……敵を倒せ。


 そして倒すべき敵に近づきつつある。


 ローズはまだ敵の匂いを嗅ぎつける力は無いが、手練の士官は目標をサンゴ礁海域に見定めた。海賊の習性は心得ている。奪って逃げる。それだけだ。ならば餌場で待ち構えていれば必ず来る。

 そして最寄りの航路がサンゴ海を抜けた先に広がる、南方航路。


 サンゴ礁の島々も身を隠すのに丁度いい。

 敵はそこに潜んで獲物が通過するのを待ち構えるはずだ。

 仮にヘンリーがリンジー島の西側に進路を取ったとしても、その先には地図に明かされていない闇の海が広がっている。

 あるいは未発見の島や大陸があるかもしれないが、この状況でそのような冒険に出るとも思えなかった。

 またさらに南に下れば他国の海軍が手ぐすねを引いて待ち構えている。

 懸賞金は帝国だけでなく他国にも配布されているのだから。


 北方は論外だ。わざわざ帝国本土に近づくほど愚かでもない。

 となれば、東方に位置するこのサンゴ海を目指すはず。

 彼らの予想は正しかった。


 一つの誤算を除いて……。


「右舷に敵船! グレイウルフ号です!」


 彼らの誤算は、獲物の通過を待たずしてグレイウルフ号がサンゴ礁から飛び出してきたことだった。

 しかも敵はこちらの存在を嗅ぎつけており、互いに、ほぼ同時に相手を視認した。

 水兵の絶叫ともいえる報告に士官たちの心臓が跳ね上がり、ローズが直ちに甲板へ出て、反射的に叫ぶ。


「右舷砲戦用意! 目標グレイウルフ号! 各自装填出来次第撃て!」


 右舷にずらりと並ぶ20門の砲が灰色狼の鼻先に向けられた。


 しかし突然のことで砲兵たちも装填が間に合わず、熟練の砲兵が素早く弾を込めた3門の砲が火を吹いた。


 が、砲弾はグレイウルフ号に命中せず水柱を立てただけで、残りの砲が装填を完了したときには灰色狼の舵が左いっぱいに回され、船底がサンゴに当たるか当たらないかすれすれの大回頭をやってのけた。

 グレイウルフ号はロイヤルハウンド号の船尾に回り、猟犬の砲撃も島の木々をなぎ倒すだけだった。恐るべき旋回性能に士官たちも舌を巻いている。


「このままでは後ろに付かれます!」


取舵一杯ハード・ポート! 次弾装填急げ!」


 帆船で最も非武装なのが船尾だ。そこに砲弾を撃ち込まれれば、最悪舵がイカれて操船もままならなくなる。故に猟犬は灰色狼と同じように左へ旋回し、同航する二頭の犬狼が全ての砲を向き合った。


 マスケット銃を構える水兵たち、フリントロックピストルを両手に持つ海賊たちがずらりと舷に並ぶ。


 船尾の指揮所に立つローズは望遠鏡に映り込んだ敵の姿を見た。

 紅い羽のついた帽子に雨雲のような髪、そして黒い眼帯、風にゆれる外套。

 灰色狼の舵を握る男はローズの視線に気づいたのか、望遠鏡のレンズに向かって笑った。


 この世の如何なる悪党も逃げ出すような危険な笑み。

 ローズ自身、身震いがした。

 違う。今まで吊るしてきた海賊とは全く違う。

 彼は楽しんでいる。この状況を。船の火力は桁違い、相手は手練の水兵たち、捕らえられれば即座に絞首刑。だが彼は笑った。

 中指を立て、やれるものならやってみろ、と。


 ローズの額に冷や汗が滴った。

 ヘンリーの傍らに立つ、少年とも少女とも思える金髪の水夫。

 彼女は思わず「あっ」と声をあげそうになった。

 望遠鏡の倍率を最大まで上げ、その蒼い瞳がレンズに映り込んだとき、ローズの脳裏にある予感が駆け抜ける。


 その一瞬の緊張が隙を生み、灰色狼の13本の牙が猟犬の砲列甲板を貫いた。

 船全体に衝撃が走り、撃ち込まれた砲弾は射撃命令を待っていた水兵たちを薙ぎ倒す。足元から聞こえる苦悶に満ちた断末魔に士官たちも焦りを禁じ得なかった。


「艦長! ご指示を!」


「くっ! 命令は既に下した! 各自砲撃せよ!」


 彼女がサーベルを抜くのと同時にグレイウルフ号は再び大きく進路を変えた。


 斉射された猟犬の牙は灰色狼の船尾に何発か命中したが致命打には至らず、全ての帆を展開した狼が風と潮流に乗って逃走を図る。

 直ちに追撃を命令したローズの胸に迷いが生じていた。


 あの金髪蒼眼の娘は一体誰だ。

 万に一つ、否、億に一つ、彼女の脳裏に過った予感が正しいのだとすれば、ヘンリーの余裕に説得力がつく。


 だが軍人であるローズは根拠の無い憶測を捨てた。

 仮に皇女が生きていたとしても、あのシャツにズボンの格好はまるで他の海賊と同じ水夫ではないか。

 栄えある帝国の継承者たる殿下ならば、海賊の捕虜となり、恥辱を受ける前に名誉を守って自決するに違いない。

 あるいは恥辱を受けた後に殺められたのだ。


 そう自分に言い聞かせたローズは知らず知らずのうちに疑念という底なし沼へ足を突っ込んだことに気づかず、ただ目の前を逃げる獲物を追い続けるより他に無かった。

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