漂流 ②
甲板に打ち付ける激しい雨。
マストを軋ませ、船を玩具のように振り回す猛烈な風。
空は灰色に染まり、白波の丘を狼は疾走る。突如として発生した嵐が船を襲った。
まるで神が謀略に嵌った船乗りたちをあざ笑うかのように、あるいは試練を与えるように。
ともかくも黒豹に率いられた水夫たちは死に物狂いで綱を引いて帆を操作し、指揮所ではヘンリーが舵を取り、ウィンドラスが的確な指示を下す。
「まぁったく、嫌なときには嫌なことが重なるもんだ! だが、この風は使える! 今のうちに距離を稼ぐぞ!」
「船長! これは神の罰かもしれません! 我々に審判が降ろうとしているのです!」
「やれるもんならやってみろってんだ! 神が俺を呪うなら、俺も神を呪ってやる! そぉら、でかいのが来るぞ!」
山のような波が船の真正面に迫り、乗り越えた先には崖のような落下が待っていた。
甲板が大いに揺れるならば船内もまた同じで、ハリヤードは棚から食器が飛び出してこないように押さえつける。
船倉に幽閉されたルーネもまた、外の様子が分からないまま壁や床を転がっていた。
頭や背を打って痛がる彼女は船が今にも沈むのではないかと不安に陥り、しかしそんな不安もさらに頭を打って消し飛んだ。
「いたた……もぅ、どうなってるの?」
後頭部を擦っていると、部屋のすぐ外に誰かの気配がした。
「ルーネ! ルーネ! 大丈夫!?」
「タック! 頭一杯打っちゃった!」
「オイラもだよぉ! 今、すごい嵐の中にいるんだ! みんな大忙しだよ!」
「沈まないかな!?」
「こんなことでグレイウルフは沈まないって……て、うわぁ!」
一際船が大きく揺れた。このままひっくり返ってしまうのではないかというほどに傾いたが、なんとか姿勢を持ち直し、帆を何枚か破りながらも灰色狼は暴風圏から脱することが出来た。
嵐の後は雲ひとつ無い快晴になるもので、眩しい太陽に照らされた灰色狼は満身創痍だった。
帆はボロボロ、水夫も何人か波に飲まれ、皆疲れ果てて甲板に倒れこんでいる。
ウィンドラスはすぐに太陽を観測して自分たちの位置を割り出し、ヘンリーは海図を睨んで今後のことを考えていた。
そもそも無理な航海をしていた。
補給もままならず、水夫たちも足りず、食料も水も前回の残りしかない。
加えて先の嵐だ。本格的に何処かへ立ち寄って修理と補給、また乗員の休息を取らねばジリ貧になってしまう。ルーネのことも悩みの種だった。ヘンリーは幹部たちを船長室に集め、今後の対策を練る。
「とりあえず補給が最優先だ。次に船の修理。で、問題は何処で補給するかだが」
「我々は私掠免状を剥奪され、帝国からも追われる身となりました。補給をするとなれば南方の諸島に隠れて狩りや水を探すしか……」
「でも船の修理は? 浜辺に乗り上げるだけじゃ限界があるし、どこか港に停泊しないとさ」
「食料だってそうさ。そりゃ島なら獣はいるだろうが、野菜はどうする? 壊血病で全滅はゴメンだ」
「包帯や薬も不足しているねぇ。それとも昔のように血抜き療法でいくかい? ヒッヒッヒ」
「要するに、だ!」
皆の意見をひと通り聞いたヘンリーがまとめにかかる。
「俺達はどうやったって一度は港に入らないといけねぇ。なら港に行こうじゃねぇか」
「しかし、帝国はもとより、敵対国が入港を許可するとはとても……」
「許可なんか要らん! 無理にでも入らせて貰おうじゃないか。俺達は海賊だからな! 久々に港湾に乗り込むぞ。物資は、心優しい住民の皆様からお借りする。ここから最寄りの港はリンジー島だ。そこで船の補給と修理をした後は暫く身を潜める」
「ああ、あそこね。確かに隠れるには最適だわ」
古参の黒豹が賛同し、その他の幹部たちも異議を唱えるものはいなかった。
あのウィンドラスも現在の状況を鑑みればやむを得ないといった姿勢で、港湾襲撃の計画を練りながら、ルーネのことが話題に上がった。
計画を練るといっても殆どチェスをしながらの雑談であったのだが。
「ところで彼女のことですが……」
「ああ、俺もお前に聞こうと思っていたところだ」
パイプを咥え、白いチェスの駒を動かす。
酒場での一件といい、正体は分からないがあの刺客たちといい、ルーネが只者でないことはだれでもわかる。政治が分からないヘンリーは、商船団の長だったウィンドラスに意見を求めた。この船に於いては誰よりも博識でルーネについて引っかかっていた彼は、いつになく真剣な表情で簡潔に推論を述べる。
「本当のところは彼女本人から聞くしかありませんが……おそらくは、帝国中枢の関係者」
「貴族様ってやつか?」
「いえ、もっと力のある家でしょう。あの刺客は、彼女のことをルーネフェルトと呼んでいましたね? 帝国の中枢に関係し、ルーネフェルトという人物は一人しかいません」
「というと?」
「ルーネフェルト・ブレトワルダ。亡き皇帝の娘、次期女帝の即位が決定した、帝国の継承者たる皇女です」
駒を動かすヘンリーの手が止まった。気づけば、既に勝負は決していた。
手にしていた駒を放り、低く唸りながらソファに寝転ぶ。
「お休みですか?」
「あとは任せる。また嵐が来るか巨大タコが襲ってこない限り起こさないでくれ」
「わかりました」
退室しようとするウィンドラスだったが、ヘンリーは思い出したように呼び止めた。
「ルーネのこと、皆にはまだ言うなよ? 余計な混乱は襲撃に障る」
「心得ています。彼女はいつ出すのです?」
「少なくとも補給が終って一段落してからだ。直接話しを聞かんといけねぇが、今は余裕がない。だが飯だけはしっかり食わせるよう、ハリヤードにもよく言っといてくれ。なにせ皇女様だからな。フルコースってわけにはいかねぇが。あとお前、少しは手加減してくれ。五連敗はさすがに凹む」
「はい」
くすりと笑ったウィンドラスが退室し、ヘンリーも顔に帽子を被せて暫し眠った。
一方、ルーネも退屈を持て余していた。無用の混乱を避けるために閉じ込められたのはわかるが、こうも仕事がないというのは実際困る。彼女自身、これからどういう経緯になるのかまるで見当がつかなかった。
キングポートでの一件はさすがにショックだったが、考えてみれば己のような娘が帝位につくことに皆が皆賛成するわけもなく、当然反対する貴族や、都合が悪くなる勢力もあるだろう。と、ルーネは自身の周囲について考えを巡らせていた。
皇女ということも知られてしまった。今までは見習いということで気さくに接してくれたが、果たして皇女に対してはどんな風に態度を変えるのか、それが何となく恐ろしい。
黒豹も元は帝国の奴隷だった。生まれ故郷から無理やり徴収され、あるいは売り飛ばされて、ひどい目にあったことだろう。明るくしていても、内心では帝国や皇帝の一族を恨んでいるかもしれない。タックも、友達じゃなくなるかもしれない。
それが堪らなく恐ろしかった。
だが一番の不安はヘンリーだ。
もしも帝国軍に捕まるようなことになれば、謂れのない罪でルーネ諸共闇に葬られてしまう。
ただでさえ逃げるときに貴族を殴り飛ばし、帝国の船を沈めてしまったのだから、普通なら絞首刑は免れない。無意識に彼の処刑を思い描いてしまった彼女は激しく頭を振って考えを振り払い、手付かずだった食事を口に運ぶ。固く閉ざされた扉が開くのは、タックが食事を運んできたときだけ。時に皆の目を盗んでは部屋を訪れて話し相手になってくれるだけでも有難かったし、何も聞いてこない彼の優しさに涙が滲むこともあった。
彼の生き方が羨ましかった。
身分も肩書も家柄もない。世間から見れば何の事はないただの子供。
以前タックに言われたように贅沢な悩みなのかもしれないが、それでも、ルーネは彼らの生き方が眩しくて仕方がなかった。
しかし彼女はまだ全てを知らない。
これから起こる狼の狩りを、そして自らを追っている猟犬の存在を。
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