VOYAGE 3

謀略 ①

 早朝、ルーネとタックは他の水夫たちと共に甲板に居た。

 裸足になってズボンの裾を捲り、割れたヤシの実を持って身を屈め、横一列に並んでゴシゴシと甲板を磨いている。

 デッキブラシなんて甘いものは使わせてくれない。

 ヤシの実を割ると表面がブラシのようになっており、こちらのほうが綺麗に磨けるのだとか。

 甲板に撒かれる水と吹き抜ける早朝の風の冷たさで白い手が赤く染まり、時折波しぶきが降り注いでくるので、目覚めたばかりのルーネにはかなり応える作業だった。


 ただでさえ今朝は波が荒く、黒豹に起こされてハンモックから出ようとした時に転がり落ちてしまったのだから。朝食もまだありついていない。タックが言うには、この甲板磨きと簡単な船の整備点検が終ってから朝食が始まるという。ルーネの場合は朝食の支度を手伝わなくてはならないので、甲板磨きが終わり次第、倉口ハッチから船内に降りてハリヤードがいる厨房ギャレーへ向かう。


 ふと、帆船の命ともいえるマストを見上げた。

 船と垂直に左右へ伸びる、帆が取り付けられたマストのヤード。

 そこで水夫たちは足場である細いロープに足を乗せて作業をしており、見張り台に立つ者は望遠鏡で獲物の姿を探す。


 いつかあの見張り台に乗って水平線の彼方を見てみたい……。


 そんな風に思いつつ、ルーネは台所に行き、ハリヤードと一緒に朝食のオートミールを作った。昨日のこともあって水夫たちは比較的大人しく食事を進めており、ルーネも仕事が終った後に朝食を済ませると、タックに伴われて船の第二階層へ足を運んだ。


 居住区が第三階層、船倉が最下層の第四階層に位置し、甲板からすぐ下に位置する第二階層こそが灰色狼の牙である12ポンドカノン砲がずらりと並んだ砲列甲板となっている。


 黒光りする大砲の整備も大切な仕事だ。いざというときは火力がモノを言う。


 ルーネとタックは布や装填棒を使って大砲の掃除を始め、その様子を眺める者が甲板の隅に座り込んでいた。視線に気づいたルーネがその男に眼を向ける。


 だらりと両足を甲板に放り、手にラムの瓶を握る男は若い水夫たちと違って顔に深い皺が刻まれ、髪も口髭も白く染まった老船乗りだった。

 遠目にもかなり酔っていることがわかるが、彼の鋭い眼光はヘンリーにまったく引けをとらない。

 知らぬものから見れば、歳の差からこの老人が船長と思うものもいるだろう。


「ねえ、タック。あの人って……」


「ん? ああ、まだ紹介してなかったっけ。キール爺さん。飲んだくれの大工だよ。確か六十はいってたかな。うちの船では最年長。いっつも酒に酔ってるけど、頼めば何でも作ってくれる。かなりの偏屈だけど根はいい人だよ」


「大工さんまで乗ってるんだね」


「戦いになったら船も壊れるからね。自分たちで直さないといけないから、爺さんみたいな職人がいると助かるんだ。普段はああやってサボってるけど、まあ気にしなくてもいいよ」


 と、タックは大砲の手入れを続けるが、ルーネはどうにもキールから注がれる視線で作業に集中することが出来なかった。まるで皇女であることを見透かされているような不安が彼女の脳裏に過ったからだ。無論、杞憂に過ぎない。しかし皆に真実を隠しているという後ろめたさを彼女は感じるようになっていた。彼らは悪党だ。悪党だが悪人ではない。


 人を殺め、略奪する海賊であるはずなのに、何故か居心地が良い。


 タックという良き友人も出来た。


 皇女という身分である限り、友人など上辺だけにすぎないと思っていた。

 近づいてくる人間はルーネという少女ではなく、皇女という肩書にしか興味を示さないのだから。


 他国の王族もそうだ。

 同じ身分だから心を許せるかといえば決して無い。


 王とその一族が絢爛な暮らしを許されているのは、国の為に働いているからだ。王という個人を以って国の富と権威を象徴しているからだ。


 故に表では友人だと言いつつも、裏では自分の国や民のことが第一であり、相手が下と見れば途端に友人から敵となる。そんな世界で産まれ、またそんな世界に君臨せねばならぬ重責が彼女の肩にのしかかることなど、目の前でせっせと働く少年は知る由もない。


「タックはさ、どうしてこの船に乗ってるの?」


「オイラ、世界を見てみたかったんだ。父ちゃんも母ちゃんも病気で死んじゃって、身よりもなかったからさ。港の酒場で働いていたんだけど、目の前に海が広がっているとあっちゃぁ、船に乗りたくてたまらなくなったんだ。オイラだって男だ。男なら世界を旅してみたいってね。ルーネこそ、女の子なのに何で海賊になりたいって思ったのさ?」


「そ、それは……」


 見事な返しに彼女は言葉に詰まった。別に海賊になりたかったわけではない。


 ただ生き延びたいから、殺されたくなかったから口走っただけのこと。

 理由など考えたこともなかった為、どう返事をしたものかと悩んだ末に、彼女は偽りない本心を語った。


「私ね、ずっと檻の中にいたの」


「奴隷だったの?」


「ううん。でも自由がないところ。食べ物も、着るものも沢山あったけど、自由だけはなかったの。いつも誰かが側にいて、やりたくもない役を演じないといけなかった。ただその家に産まれたって理由だけで……だから、窓の外に広がる世界が眩しくて、憧れてたの」


「ルーネも大変だったんだね。オイラも、よく分かるよ。世界の眩しさって」


「ありがとう。私、タックみたいな友達が出来て本当に嬉しいよ」


 タックの手をルーネが握ってにこりと笑うと、彼は顔を真赤に染めて狼狽した。


「あわわわ、い、い、いいからさ、仕事しよ! な? 仕事仕事! さあ、今日も忙しいぞ!」


 握られていた手を振りほどいたタックはそそくさと次なる大砲に張り付いて鼻歌を鳴らし、ルーネもそんなタックが可笑しくて堪らなかった。


 しかし和やかな空気を引き裂くかのように、頭上に聳えるマストから水夫の叫びが聞こえた。


「船が見えるぞーっ!」


 途端に船内が騒がしくなった。多くの水夫たちが甲板に駆け上がり、タックもルーネの手を引いて甲板に上がる。船長室から飛び出してきたヘンリーが望遠鏡を片手に、マストの見張りに向かって獲物の方角を怒鳴るように聞いた。


「三時の方向、距離は六マイルでーす!」


 時計を思い出して欲しい。方角を示す際、時計の一から十二までの角度で確認する。


 船の進行方向を0時として、三時ならばちょうど右手の方向だ。

 誰もが右舷の彼方を睨むと、一隻の商船が近づきつつあった。

 三本マストに洋梨のような幅広い船体、他国のフリュート型商船だった。

 望遠鏡を覗くヘンリーが舌なめずりをする。

 その顔は既に獲物を狩る狼の形相だった。


「諸君! 狩りの時間だ……っ! 砲に弾をこめろ! 剣を抜け! 飢えた腹を満たせ!」


「おお!」


 海賊たちの雄叫びと共にグレイウルフ号が獲物に向かって面舵を取り、黒い旗が掲げられた。


「タック! ルーネ! お前たちは邪魔だ! 船の中にいろ! それとも俺達と一緒に手を血に染めるかぁ?」


 ヘンリーの問にタックが勇ましく進み出る。


「オイラも戦う! 未来の船長が船のなかで震えたとあっちゃぁ、笑いものだもん!」


「よく言った! 期待はしねぇがせいぜい頑張れ。ルーネはどうする? 早く決めろ」


「わ、わ、私もここに居る! 怖いけど居る!」


「そうか。じゃあ、こいつをくれてやる」


 ヘンリーはルーネにピストルを一丁と短剣を渡した。


「無理はするな。そこで大人しく見ていろ。だがいざとなりゃ、そいつがお前さんの牙だ」


 力強く頷いたルーネの髪をぐしゃぐしゃと撫で回し、ヘンリーは船の指揮に戻った。


 これから始まるのは凄惨な略奪だ。相手は帝国に仇なす国の船。見逃せば、それだけ故郷の脅威が力を増す。ゆえに潰す。国を守るために。それが、本来全世界の敵であるはずの海賊に略奪の免状を与えた父の意思であり、帝国の正義だった。


 もちろん相手からすればそんな理屈は理不尽以外の何物でもない。

 商船はただ言われるがままに荷を運ぶだけ。彼らに何の罪もない。

 ただ運が悪かったと諦めきれるものでもない。

 故に抵抗する。あるいは降伏して命だけは助かろうとする。


 持ち前の快速を活かしたグレイウルフと並列した彼らが取った選択は、前者だった。


 放たれたピストルの弾丸が水夫の胸に命中し、海へ落ちた。


「砲弾をたらふく食わせてやれ!」


 黒光りするカノン砲が火を吹いた。狙うのは相手のマスト。せっかくの獲物を沈めてしまっては元も子もないので、砲弾を撃ちこむ場所はかなり限られる。続いてカギ付きのロープが相手の船に投げられ、黒豹を先頭に武器を携えた男たちが相手の船に雪崩れ込む。


 商船側もよく抵抗した。

 カットラスを振るい、ピストルの硝煙で甲板が白く染まった。


 しかし戦力差がありすぎた。実力も違いすぎた。

 タックもピストルを撃って一人を倒した。

 ルーネは離れたところから戦闘の様子を見ていた。


 相手の断末魔に耳を塞ぎたくなるのをグッと堪え、海の狼の狩りを見届ける。


 彼女は夢を抱く。しかし現実から眼を離すこともしない。潮風に乗って火薬と血の匂いが鼻をくすぐった。戦いはあっという間だった。船長を失った彼らにもはや抵抗の意思はなく、武器を捨てて降伏を申し出る。


 ヘンリーはこれを受け入れて捕虜を縄で縛り上げ、作業に邪魔な死体を海に投げ込んでサメの昼食とし、積み荷の香辛料や茶葉などをグレイウルフに運び込ませていく。


 捕虜たちはその場で一味に加わると誓った。

 曰く、彼らは船長の無理な航海計画や理不尽な制裁を受けており、恨みを抱いていたという。


 商船ではよくあることだった。


 気ままに獲物を求めて彷徨う海賊や私掠船と違い、商船は納期や商社からのノルマなど色々と外圧も多く、船員に対する扱いもぞんざいである例が後を絶たない。仕事をしくじればムチ打ちなどが待っている。


 ヘンリーは恨みつらみを訴える彼らに笑いかけた。


「今日からお前たちは自由だ。俺の船で働く限り、富と快楽を与えてやる。だが人の道からは外れて貰う。地獄の釜の底まで付き合って貰う。掟に背けば……わかるな?」


「は、はい……従います」


 新たな主を得た彼らは、同時に新たな畏怖の対象を得た。


 それはヘンリーが己に従わせるための演技だったかもしれないし、あるいは彼の本心であるかもしれない。


 いずれにしても、新たに加わった哀れな水夫たちと同じように、傍らでヘンリーの言葉を聞いたルーネも背筋を震わせた。

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