見習い ⑤
航海士にとって何よりも大切なのが海図だ。
未だ世界の全ての海が解き明かされているわけではないが、腕の良い測量士たちによって描かれた世界の姿の上に自分たちがいるのだと想うと何やら不思議な気持ちになる。
今しがた観測した天候を航海日誌に記したウィンドラスは、次なる獲物の予測位置と帰港の算段を立てるのであった。
さて、見習いに与えられる仕事の基礎とは一先ず掃除である。
陸と違って閉鎖的な船に於いて衛生状態は文字通りの死活問題であり、一度疫病でも流行れば即全滅となりかねない。
故に貴重な真水も積極的に使う。
箒での掃き掃除、雑巾で水拭き、モップがけ等など、特に居住区は念入りに。
タックはぶつぶつと文句を言いながら手を動かしていたが、掃除などは使用人に任せっきりだったルーネからすると身体も動かせて存外に楽しく思えた。
居住区の次はさらに一階層下にある船倉だ。
ルーネが身を潜めていた部屋も含め、グレイウルフの胃袋ともいえる船倉には、先日の襲撃にて得た略奪品が積み上げられていた。
元々は他国へ外遊する際の旅費や贈り物であったのだが、それらも港に戻れば商人たちに売り払われて水夫たちの賃金となろう。
捕虜を収容する牢も同じく船倉にあった。
鉄格子に囲まれた狭い牢は、さながら猛獣を閉じ込める檻のようだった。
牢の壁にいくつも爪痕と思しき引っかき傷が見え、ルーネは背筋が寒くなる。
果たしてここに閉じ込められていた捕虜はどうなってしまったのか……一歩間違えれば、自分自身がこの中に入れられていたかもしれない。否、これから先に入ることになるかもしれないのだ。
皇女であることが知られれば、ただの見習いとして放っておくわけがない。
今は仲間であるから気さくに接してくれるだけで、帝国の奴隷だった者たちも乗り組んでいるなら、その帝国を継承する身分の者がいると知れば復讐にはしるかもしれない。
そんな不安がルーネを襲った。
檻は怖い。自由がない日々に戻るのはもっと怖い。
たとえ無事に船を降り、宮殿に戻ったとしても、彼女を待つのは女帝の玉座。
見知らぬ者たちから頭を下げられ、周囲には気を使われ、使用人からは蔑まれ、老いて死ぬまで絢爛豪華な檻の中で過ごさねばならないのだから。
気鬱になって視線が足元に下がると、彼女を案じるように見上げてくる灰色のネズミが彼女の靴の上に乗って――。
「いやぁああ!」
絹を裂くような絶叫に飛び上がったタックが慌ててルーネのもとへ駆けつける。
「どうしたの!?」
「タ、タ、タックぅ……ネズミがぁ……」
涙声で震える彼女の足に乗ったネズミを見た彼は、ポケットからビスケットの欠片を取り出してネズミを誘い、素早く掴みあげて袋の中へ仕舞いこんだ。
「大丈夫?」
「ありがとう。でも、よくネズミなんて捕まえられるね?」
「へへっ、得意だからね。それにこのネズミ、よく育ってるみたいだから美味しいと思うよ」
「……え?」
ルーネは自身の耳を疑った。
タックは今なんと言った?
ネズミが、美味しい?
「た、食べちゃうの!? ネズミだよ!?」
「うん、ネズミだよ。焼いて食べると美味しいんだ」
ニコニコと嬉しそうに微笑むタックはネズミが入った袋をベルトに括りつけ、船内の清掃を一段落させて、ハリヤードが取り仕切る厨房へ移った。
「料理長! ネズミ発見!」
「でかした! さてと、ルーネちゃん。料理を作った経験はあるかね?」
「ええと……あまり」
「はは、いいさいいさ。これから覚えていけばいい」
帆船の食事はシンプルなものが多い。
というのも、野菜や肉など、新鮮な食材はすぐに腐ってしまうため、航海のはじめのあたりで食べ尽くしてしまう。後に残るのは保存の効く干し肉やビスケット、他にも酢に漬け込まれた菜っ葉や果物くらいだ。
しかし食事は毎日のこと。不味い食事が続けば士気が下がり、身体も壊す。
特に壊血病は船乗りたちにとって悪魔そのものだった。
長い航海で野菜が無くなり、栄養が偏ると、歯が抜け落ち、傷の治りも遅くなって、やがて死に至る。それを防ぐためにも船員の栄養管理は重要な職務であると、ハリヤードはしみじみと語って聞かせた。白いエプロンを着たルーネが仰せつかったのは芋の皮むきだった。
ナイフを使って芋の皮を剥く間にも、ハリヤードは手早く夕飯の調理を進めていた。
今日の夕飯は干し肉と豆のスープ、そして蒸し芋にするとのこと。
「船の食事は一日に四回だ。覚えておきな」
「四回? 朝と、お昼と、お夕飯と……あと一食は? おやつ?」
「夜食だよ。ルーネちゃんも昼間に寝ている連中を見たろう? あれらは夕方から夜明けまで働くから、ちゃんと食事を用意しておかないといけない」
なるほど、と納得したルーネは剥き終えた芋を籠に入れてハリヤードに渡し、夕飯の支度が整った旨を伝声管で報せるように指示された。
「み、みなさーん! お食事が出来ました!」
伝声管に向かって大きな声で言うと、間もなく水夫たちが慌ただしく食堂へ駆け込んできた。
早い者勝ちとばかりに器を掴んで早くスープを注いでくれとルーネにせがみ、次から次へと差し出される器にスープを注ぎ、皿に蒸し芋を載せていく。
その後は食事という言葉すら憚られるような夕食が始まった。たとえるならばエサ箱に顔を突っ込む狗のように、皆大口を開け、文字通り食い散らかしていた。
味わうというよりもただ空腹を満たしたいだけのようだった。
「おい、お前たち! こいつはルーネちゃんが一生懸命作った料理だぞ! もう少し味わえ! 愛だ! 愛を噛み締めろ! そして料理長たる僕に感謝しろ!」
ハリヤードの怒声に水夫たちが一斉に声をあげる。
「うるせぇ! 引っ込んでろ!」
「もっと美味いもの出せよ!」
「ルーネちゃーん! おかわりぃ!」
どいつもこいつも好き勝手なことを言い始め、中にはウサ晴らしとばかりに喧嘩が始まろうとした様を目の当たりにしたルーネの脳裏で何かが音を立てた。彼女は持っていた木製のお玉を床に投げつけ、深呼吸の後に、
「あんたたち! 食事は静かに食べなさい! この薄汚い不躾者どもが!」
投げつけたお玉の音が妙に響き、彼女の鬼気迫る一喝が皆を黙らせた。
隣に立っていたハリヤードも彼女の癇癪に驚いて目を丸くしている。
しまった、とルーネは己の短気な癇癪に慌てふためいたとき、別室で既に食事を済ませていたウィンドラスを伴ったヘンリーが食堂に顔を覗かせる。
「今しがたでかい声が聞こえたんだが、どうしたお前ら。どいつもこいつもお上品に黙りこんじまって」
ヘンリーの言葉に誰も声をあげようとしない。
まさか新入りの少女に一喝されたなどと言っては男の株が下がってしまうからだ。ヤクザな仕事ゆえ、金も大切だが面子も何物にも代えがたい。
重々しい沈黙が流れる中、ルーネは出来る限りの笑顔を繕ってみせた。
「お、おかわりが欲しい方はどうぞ! ちゃんと並んでください、ね?」
我ながら道化めいたことをしていると呆れたものの、少なくとも彼女の一言によって空気は多少軽くなり、スープのおかわりを求める列が鍋の前に整列した。させた、とも言えるあたりが彼女が修めてきた帝王学の一端なのかもしれない。
かくして食事を終えた野郎どもが食堂から出ていき、ようやくルーネも夕食にありつける時間になった。タックも幹部たちの食事の給仕から開放され、彼女と食事を共にする。
が、そのとき船体が大きく左右に揺れ始めた。
外では風が強まり、波も高く、まるで時計の振り子のように船が揺れる。スープが器から飛び散り、危うく夕飯がテーブルから床に滑り落ちそうになったのを受け止めた。
「うわっとっと! ねえ、船のお食事っていつもこうなの?」
「はははっ、いつものことだよ……ってオイラの芋がぁ!」
まるで生きているように皿から転がり逃げた彼の芋は、そのまま床の餌食となった。
「あうぅ……ちくしょう……」
「わ、私の半分あげるから。ね?」
「いや、大丈夫。まだ食べれるところがあるから。食料無駄にしたら料理長にどやされるし、食えるうちに食っておかないと船乗りはやってらんないよ」
文字通り波乱の夕食も終えてようやく仕事から解放されたのはすっかり夜になってからだった。驚きと緊張の連続だった一日ですっかり疲れてしまった彼女は、濡れた布で歯を磨き、タックと別れて寝室に向かう。
ルーネに充てがわれた部屋は、同じ女性である黒豹との相部屋だった。
ドアをノックして部屋の様子を覗くと、ひどく殺風景で家具らしい家具は一切ない狭い部屋の中、黒豹は既にハンモックに身を預けていた。
眠っているものと思って静かにドアを閉め、自分の寝床を静かに用意し始める。
畳まれたハンモックを広げ、壁に両端を引っ掛けて乗り込もうとするが、船の揺れと不安定なハンモックに翻弄されて中々上手くいかない。そうこうするうちに黒豹がハンモックから顔を出し、四苦八苦する見習いの背を微笑ましく見守っていた。
「アハハ、水夫たちを叱り飛ばした見習いさんも、ハンモックにはタジタジだね」
「ひゃっ! ご、ごめんなさい。起こしちゃって」
「いいってことさ。それよりあんたのことを待ってたんだ。どう? 身体洗わない?」
「え? お風呂があるの?」
「そんなものはないよ。でも皆汗もかくし、何より不衛生だってウィンドラスが煩くてね。寝る前に身体を拭くように言われているのさ。あいつ綺麗好きだからね」
と、黒豹は一切の恥じらいもなく服を脱ぎ散らかしてタオルで身体を拭き始めた。
女性らしいしなやかな四肢に鍛え上げられた筋肉が浮き上がっており、同性であるはずなのにルーネの鼓動が高鳴った。
「ほら、そこで突っ立ってないで、服脱いでこっちへおいで。拭いてあげるから」
手招きをする黒豹の眼が妙に輝いており、微かな身の危険を感じたルーネは首を横に振る。
「じ、自分で拭けるから……」
「そんな水くさいこと言わないの。ほら、脱いだ脱いだ!」
「ひゃぁ!」
抵抗も虚しく身ぐるみを剥がされてしまったルーネは、その雪のように白い肌をランプの灯りの下に晒し、褐色肌の黒豹と並ぶと、その白さが一層引き立った。
「うへえ、綺麗な肌してるね」
結局なすがままに身体を拭かれていくルーネが顔を赤らめて俯いていると、黒豹が背中を擦りながら口を開いた。
「どうだった? 見習い一日目は」
「……今までの生活と全然違って、まだ、よく分からない」
「そりゃそうだ。陸と海じゃぁ、比べ物にならないよ。ハンモックだって初めてだろ?」
「ええ。男の人たちも、あんな狭い部屋で……」
「部屋があるだけマシさ。中には甲板で星を見ながら寝るやつだっているんだから。それに長いこと海に出ているとね、心から安心して眠れる日なんて来ないよ。海は気まぐれ。いつ嵐が起きるかわからないし、オレたちみたいなのもウロウロしている。出逢えば同業者同士、獲物の奪い合い。敵同士ってわけ。だからいつでも起きて戦えるように気構えて寝るのさ」
「辛くはないの?」
「辛いし、ときには、オレだって泣きたいときだってある。でも楽しいんだ。気心の知れた連中と、何よりもヘンリーと一緒に色んな場所で好き勝手に生きるのが。オレを人間として扱ってくれたのは、ヘンリーだけだったからさ。感謝してる。他の連中も同じ。街や海で野垂れ死にが相場だった奴らを、ヘンリーは拾いあげてくれた。おかげで金も沢山手に入るし、不味いけど飯も食える。だからオレはヘンリーの為なら死ねる。死んでもいいって思ってる」
曇りも迷いもない真っ直ぐな言葉を聞いて、ルーネは自身を睨むヘンリーの顔を思い起こした。法律も神罰も一切合切気にすることなく、ただ自分の掟に従って生きる誠の自由人。
他人を殺めることを躊躇わず、他人から奪うことを省みず、他人を自分の世界へ引き入れる。
悪党であるはずなのに何故か憎めない。
むしろ今までルーネに恭しく接していた貴族たちの方がよほど嫌悪感が強かった。
一体この差は何だというのか。
それがルーネには分からない。
身体を拭き終えたルーネは服を着直し、黒豹に抱えられながらハンモックに身を包んだ。
ランプが揺れる薄暗い天井を見つめ、考えれば考えるほどに睡魔が忍び寄ってくる。
いつしか彼女は波の音を子守唄に静かな寝息を立てていた……
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