見習い ④

 言われてみれば、海や船のことなど今まで本で読んだ知識しかなく、航海に出たのも先日の外遊航海が初めてのこと。

 そんな自分が役立てることなどあるのだろうか……と、不思議なことに、逃げ出す予定であるにもかかわらず、彼女は自分に与えられた仕事について真剣に考えていた。


 あるいは、今までと全く違う環境や生活に高揚していたのかもしれない。

 兎も角も彼女は見習いとして受け入れられた。


「あの、船長さん。質問いいですか?」


「なんだ? 固っ苦しいのは嫌いだ。船長でもヘンリーでも楽に呼べ」


「じゃあ、船長。次の港に入るのはいつ?」


「さあな。航海の目的は果たしたんだが、如何せん一度海に出たからにはそれなりに収穫がないと港の商人共が煩いんでね。もう少し獲物を狩ってから戻る予定だ。お前さんの分前も収穫量次第だぜ? まっ、見習いは見習いらしく、難しいことなんて考えずに手を動かせ。船の上でノロマは命取りだぜ? もう下がっていい」


 追い払うように手を何度も動かしたヘンリーはそれから海図を睨んだまま口を開くことは無く、船長室から出たルーネは心臓の高鳴りに今更ながら気がついた。


 余程緊張していたのか足が震え始め、呼吸が乱れてしまう。己では存外に平然としていたと思っていただけに、部屋の外で待っていたタックを見た途端に駆け寄った。


「どうしたのさ? そんなに震えちゃって。まさか、船長に変なことでもされたの!?」


「う、ううん。違うの。誓約書にサインして、仲間に入れて貰えたよ」


「そっかぁ! じゃあ、今日からルーネはオイラたちの仲間だね! 改めてよろしく!」


 差し出された彼の手をルーネの白く細い手が握り返す。そのきめ細かな肌に触れたタックはかすかに頬を赤らめてすぐにそっぽを向き、一先ず彼女に船の幹部を紹介していくこととした。


 階段を駆け上がって強い風が吹き抜ける甲板へ躍り出る。


 波の揺れで軋む船体、無数に張り巡らされたロープと、天に向かって伸びるマスト、そして風を一杯に受けて膨らんでいる灰色の横帆。逞しい水夫たちが動き回る中、船尾にある舵輪の近くで、青空に浮かぶ綿のような雲の動きを観察する航海士のもとへ二人は赴いた。


「やあ、ウィンドラスさん!」


「やあ、タック。今日も元気そうだね。お嬢さんも、身体の具合は如何かな?」


 船長を含めた乗組員とは空気のまるで違う紳士的な態度に驚きながらも、ルーネは軽く会釈をして応えた。


「今日から、見習いになりました。ルーネです」


「航海士のウィンドラスです。しかし、貴女も自ら業を積むことはないだろうに。この船は悪徳と罪業に満ちている。神の怒りを畏れるのならば、この航海が終わったら船を降りることをオススメしておくよ」


 敬虔な信仰者であるウィンドラスの忠告に、ルーネはふと芽生えた疑問を投げかける。


「神の怒りを畏れるなら、何故あなたはこの船に?」


 するとウィンドラスは青い空を見上げたまま口ごもった。


「私は……少し昔に、船長に世話になってね。まあ、人に話すほどのことではないさ」


「今は何を?」


「天候を観測していたんだ。船にとって天気や風向きほど重要なことはないからね。ほら、あそこを見てご覧」


 ウィンドラスが指さした先、遥か遠くの海上に分厚い雲が浮かび、雲と海の間が濁って見える。


「今、あの雲の下では雨が降っている。陸ではわかりにくいけど、海に出ると晴れと雨の境界がハッキリと見える。まあこの風向きならあの雨に濡れることは無さそうだ」


 ウィンドラスから望遠鏡を借りて雲の下を伺うと、確かに雨が降っていた。


 時折雷の光も煌めいている。海の天候が変わりやすいと言われているのも、あのように雨雲が彷徨っているからなのだろう。幻想的な海の姿にも感動したが、何よりもルーネはウィンドラスの人柄に感服していた。


 宮殿や地方を任されている貴族に比べて余程品がある上に、教養も高そうだ。


 胸に吊るされた十字架からも敬虔な信仰者であることが伺える。

 益々彼が何故この船に乗っているのかわからなくなり、心中で首を傾げている間にも、次なる船乗りが彼女の細い肩を威勢よく叩いた。


「やっほ。新入りさん」


 現れたのは甲板長、黒豹だった。


 はじめは若い美男子かと思ったが、シャツの膨らみから彼女が女性であることを察したルーネは、タックが言っていた男勝りの人だと悟る。といっても、褐色の肌に刺青という姿は帝国ではほとんど見られないため、一体どこの国から来たのだろうとルーネは訝しんだが、同じ女性である安心感も確かにあった。


 黒豹もまた人形のように整った顔立ちをしたルーネに好感を抱いたらしく、頬を指で突いたり髪を撫で回したりしていた。


「ひゃぁ、可愛いねぇ。なあウィンドラス、この子、オレの部下になるの?」


「残念ながら、タックと一緒に雑務に回されるよ。まだ甲板作業は無理だ」


「まっ、それもそっか。オレは黒豹って呼ばれてる。あのどうしようもない水夫どもの面倒をみなきゃいけないから、あんたみたいなのが入ってくれて嬉しいよ」


「ルーネ、です。変わった名前なのね?」


「ずっとアダ名で呼ばれているからね。本当の名前は知らないんだ」


「え? どうして?」


 驚いてさらに問うと、黒豹はあっけらかんと答えた。


「オレ、奴隷だったんだ。帝国の。生まれはここからずぅっと南の島国だよ」


 帝国の収入源の一つに奴隷貿易がある。他国や他国の船に乗る異国人を労働力として売買しており、宮殿でも見栄えのいい奴隷たちを選りすぐって使用人とした。

 だが宮殿の奴隷はまだマシな方で、例えば商船や工事に回された奴隷たちの末路は悲惨そのもの。

 帝国が望むのは単なる労働力に過ぎないのだから、使えなくなれば捨てられる。


 故に奴隷たちが反乱を起こし、黒豹のように海賊に転じる者も多かった。

 ルーネも奴隷に関してはある程度は聞き及んでいる。

 無論、炭鉱などで働かされる末端の事情までは知らないが、自身の身の回りの世話をしていた異国のメイドからは遠回しに故郷に帰りたい話やさりげない愚痴を聞かされたりもした。


「国に、帰りたいって思いますか?」


「今の方が楽しいから、あまり思わないかな。金もたくさん手に入るし、今までオレをこき使っていた帝国人を部下に出来るんだからさ。おいこら、てめえ! さぼってんじゃないよ!」


 そのアダ名に相応しい獣じみた身軽さで水夫たちのもとへ戻った黒豹は、マストの上で怠けている者たちを激しく吠え立てた。なるほどタックの言うとおり、そこら辺の男性よりも遥かに頼もしいとルーネは黒豹の姉御肌におっかなびっくりしつつも、胸がすくような憧れも抱いた。自分もあのくらい強ければ衛兵の包囲もかいくぐって都で遊べただろうに。


「やれやれ。彼女ももう少し女性らしくあって欲しいものだ」


 ため息を吐くウィンドラスにルーネが異議を申し立てる。


「私、ああいう強い人には憧れます」


「憧れるのはいいけれど、決して真似はしないほうがいい。彼女はこの船の中で最も血に濡れている。先日の密輸船襲撃でも真っ先に飛び込んでいったからね」


「……その船の人たちは、どうなったの?」


「残念ながら生き残りはいない。船も今となっては海底に没したよ。我々は神の教えに反している。きっと、末路は地獄行きだろうね。この私も……船も。ああ、すまない。愚痴になってしまったかな。タック、彼女に仕事をよくよく教えてやってくれ」


「了解! 行こっ、ルーネ」


「う、うん。ウィンドラスさん、ごきげんよう」


 タックに腕を引かれたルーネが船内へ潜っていったのを見送ったウィンドラスは、はて、と首をかしげた。


「ごきげんよう、か。海賊になりたい者にしては品がありすぎる。ルーネ……帝国では平凡な名前ではあるけど……まさか、な」


 観測を終えたウィンドラスは海図室へ籠もった。

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