襲撃 ③

 出港準備はウィンドラスによって滞り無く整えられた。

 こと仕事に関しては一切の妥協がない彼の手並みは実に鮮やかだった。

 出港準備といっても用意せねばならないものは数多くある。

 水、食料、弾薬、備品、不足していれば水夫の募集などなど、万端を整えなければ航海にならない。

 どれもこれも金がかかることばかりだ。

 領主からの依頼であれば多少の金銭的、物的支援も期待できるが、個人の依頼となれば全てを自費で賄わねばならない。

 嘆かわしく思いつつもウィンドラスは諸々の業者のもとへ駆け、彼らの安眠を略奪して回った。


 博打と女遊びですっかり財布を空にした水夫たちも残らず船に戻ってきた。

 この世の快楽に別れを告げ、夜明け前だというのに馴染みの娼婦たちや持ち帰る獲物に期待する商人、出資者などがこぞって見送りに訪れた。


 せり上がった船尾楼プープデッキの指揮所に立つヘンリーがふと群衆の中に眼を向けると、あの黒尽くめの男が帽子を掲げていた。


 よろしく、とでも言いたいのだろう。


 ヘンリーは不敵に笑って応え、ウィンドラスに指示を下す。

 岸壁と船を繋いでいた係留索が引き込まれ、水夫たちが身軽に縄梯子(シュラウド)を伝って各マストへ登っていく。

 揚げ索がリレー形式で引かれると前部フォアマストと中央メインマストのアッパーヤードが上昇し、畳まれていた帆が水夫の手で解かれた。

 対照的に後部ミズンマストには巨大な三角帆があり、いざというときはこれが舵の代わりにもなる。

 ゆっくりと港を離れたグレイウルフ号は外海に吹く潮風をしっかりとメインセイルに捉え、増速のためにメインセイルの上方に位置するトップセイルも展開した。

 さらに船首に備え付けられたバウスプリットセイルも開かれ、海の狼は波涛を砕き、銀飛沫を巻き上げながら件の獲物を追って蒼い海原を駆けた。


 水平線の彼方が赤らみ、朝日の輝きが筋となって空に浮かぶ雲の間を貫いている。

 進路は南南西サウ・サウ・ウェスト

 キングポートの正面に広がるマーメリア海を東西に横切る航路を目指す。

 大抵の船はこの航路を通って各国に渡る。依頼の獲物もこの航路を通るに違いない。

 襲撃を控えた水夫たちは仕事の傍らでカットラスやピストルの整備に勤しんだ。

 ウィンドラスが組み立てた航海計画を再度確認しようと海図室チャートルームに入りかけたヘンリーを、古参の甲板長ボースンが呼び止める。


「ヘンリー、調子はどうだい?」


「すこぶる順調だ。そっちはどうだ? 女だてらに血が騒いでいるか?」


「まあね。オレも部下もやる気満々さ」


 にこりと獰猛な笑みを浮かべる褐色肌の女性。

 だが、彼女を女性というのはいささはばかられた。


 袖のない白いシャツに長ズボンは男のそれで、黒い髪は短く、刺青が彫り込まれた身体は細身でありながら筋骨たくましい。

 だが肌は若々しく艶があり、古参とはいえども歳は未だ二十代であった。

 襲撃となれば切り込み隊長として誰よりも先に相手の船に乗り込んで血に濡れる為、全身の刺青も相まって、キングポートでは黒豹と呼ばれていた。

 黒豹は怠けている水夫の尻を蹴飛ばしながら仕事に戻り、ヘンリーも海図室に入って獲物の予測位置をウィンドラスと割り出した。


「正午に近海……ですか。本当に信用できる情報ですかね」


「出来るわけねえだろ。あんな怪しい男は見たことが……まあ何度かあるけどよ。前金を受け取った以上はやるしかねえ。金は嘘を吐かんからな。正午まであと三時間か」


 銀色の懐中時計を気にしながら、彼はウィンドラスが天測(太陽や星を観測して現在地を計測する航法)によって割り出した自船の位置を睨んだ。

 周囲は大小の島々が広がっていて浅瀬が多い。

 北に帝国本土、南に敵対する諸国が広がっており、地図で見れば狭い世界だが、いざ海に出てみるとはじめは誰もがその広大さに舌を巻く。


「今日は風が良い。運が良ければ先回り出来るかもしれん」


「あまり武装していなければいいのですが」


 近頃の商船は海賊や私掠船に備えて少なからず武装しており、中には傭兵を雇っている船も出始めているというが、ヘンリーは全く意に介さずに襲撃予定地点を無言で睨み続けた……。


「船が見えるぞーっ!」


 マストに登った見張りの叫び声が聞こえたのは正午より少し前のことだった。


 既に襲撃予定地点をウロウロと彷徨っていたグレイウルフ号の甲板が一気に殺気立ち、海図室の扉を蹴り開けて甲板に出てきたヘンリーが望遠鏡を覗きこむ。


 マーシア号は大型の武装商船ガレオンだった。

 護衛と思しき小型の戦闘艦スループも二隻付き添っている。

 あれが獲物だと判断したヘンリーは相手の旗を確認する。

 国旗は帝国のものだが、商船のくせに商社の旗を掲げていない。

 となれば相手は密輸船と見て間違いない。


「予定通りだな。船長は真面目な性格らしい。しかも護衛までつけているとは、用心深いやつだ」


「しかし帝国の国旗を掲げています。私掠免状で許可されているのは敵国船のみです」


「商船の癖に商社の旗を掲げて無いってことは密輸船よ。大方旦那は同業者を潰したかったんだろう。密輸は帝国の法律とやらに違反しているんだろう? だったら沈めちまっても構わん。旗を揚げろ!」


 依頼人の意図を察したヘンリーはグレイウルフ号にも旗を掲げた。

 黒地の旗に、人骨に牙を突き立てる凶狼が描かれた紋章フローズヴィトニルを――。


 途端に相手は大きく進路を変えて逃走を始めた。追いつかれれば積み荷は根こそぎ奪われ、乗員の命もどうなるか分かったものではないので相手も必死だ。


 マーシア号の船長が喚く中、甲板の上では水夫たちが駆けまわる。

 徐々に接近してくる海賊船に皆恐れおののいていたが、みすみす降参するわけにもいかないので、若く力のある者たちに銃や銛が配られ、備え付けられた砲に鉄球が装填された。


  すぐさま後方に控えていた護衛船が船を守るべく、グレイウルフ号に向かって突進した。火力も大きさも海賊が勝っているにも関わらず、彼らは勇敢に食らいつこうと接近していく。


 そんな騒然とする甲板の上で水夫たちの慌てふためく様子を呆然と目の当たりにする成人にも満たぬ十六歳の少女は、およそこの場に似つかわしくない姿をしていた。

 背まで伸びた滑らかな金色の髪、サファイアの如き蒼い眼、そして身にまとう綺羅びやかな紅いドレス。宮廷の男性たちの視線を釘付けにして止まぬその端正な目鼻は名工による彫像のようであり、薄桃色の唇や淡雪のような肌の麗しさたるや他に例を見ない。


 帝国皇女ルーネフェルト・キャロライン・ブレトワルダ。

 亡き皇帝の一人娘にして帝国の正統な後継者である。


 彼女は波間の彼方から迫ってくる狼を凝視していた。

 あれこそが海賊。

 昔に読んだ本に登場した、海を荒らし回り、神の罰をも恐れず、勝手気ままに生きる無法者たち。

 ルーネの胸に怒りの炎が一挙に燃え盛った。

 ギリッと奥歯を噛み締め、一歩踏みだそうとしたとき、突然背後から護衛役の紳士に抱えられて船倉の奥深くへと連れ込まれた。


「な、何を……っ」


「御免」


 紳士は突然ナイフを引き抜き、彼女の長い髪を切り裂いてドレスを剥ぎとった。

 あまりのことに言葉を失ったルーネに、彼は水夫のシャツとズボンを押し付ける。


「これを着て樽の中に隠れるのです。もしも敵に見つかったときは、見習い水夫と名乗りなさい。まさか連中もただの見習いを殺すようなことはしないでしょう。そして隙を見て逃げるのです」


「あなたはどうするの!」


「私は……貴女を守るのが勤め。皇女殿下、たとえどのような苦難があろうとも生きるのです。亡きお父上のためにも、そして帝国の未来のために。では、おさらば!」


「待って!」


 ルーネの叫びも虚しく、紳士は彼女を大きな空樽の中へ押し込んで蓋を閉じ、ピストルを片手に甲板へ出て行った。

 暗闇に包まれた彼女は何とか樽から出ようと試みるも、蓋は重く、とても少女の力では押し開けられそうにない。すると外から砲撃の音が聞こえた。水面に着弾した音が響き、船全体が大きく揺れ、暫くすると銃声や水夫のものか海賊のものか分からない断末魔が彼女の耳に伝わってくる。


 ルーネは神に祈った。


 悪逆無道の限りを尽くす賊に神罰が下らぬはずがない。

 今頃水夫たちが奮戦して、悪い連中を追っ払っているはずだ。

 しかし少女の祈りとは裏腹に、甲板は水夫たちが流す血によって真っ赤に染まっていた。

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