ラヴ・フィフティーン

町田雁乃

第1話

 最近、部員たちの間では、学校のテニスコートに一人の幽霊が出ると専らの噂だ。

 誰が言い始めたのか、その噂は脚色を重ねられ、いつしかそのテニスコートでの練習がある日には誰も部活動に参加しなくなるほどの大事件になっていた。

 高校生にもなって幽霊を信じるなんて馬鹿馬鹿しい、と思いながら部のグループチャットを見つめる。チャットには「休みます」の羅列。

 かくいう自分はどうなのかと問われると、答えは一つ、「テニスコートの幽霊は存在する」と答える他にない。

 勿論、一般的な幽霊という存在を信じているとか映像の端に映った白い影が霊魂だと言って人々を恐怖させる番組が好きだとか、そういうオカルトな思考を持っている訳ではない。

 しかし、確証を持って答えられる。“彼女”は存在するのだ、と。

 菱形の金網で出来た扉を引き、中に足を踏み入れる。

「おはよう、今日も早いね」

「おはようございます、先輩」

 この炎天下の中で額に汗一つ浮かべず佇む彼女は、こちらに気が付くとにこりと笑顔を見せた。茶色がかったポニーテールが風に揺れる。

 夏休みも残り少ないというこの日に、コートに来ているのは二人だけ。噂にかこつけて部活動をサボっているのかどうかなんてのは自分には関係ないので気にはしないが。

「じゃあ今日も練習始めようか」

「はい。よろしくお願いします」

 先輩は練習に試合形式ばかり選ぶ。天才肌の人は試合形式を好む人が多いというが、この理説も彼女を前にするとなるほど理解ができる。

 「ラヴ・フォーティ」

 スコアに差が開いていく。強い。体力には自信のある方だが、それでもこの暑さの中で走り続けるというのは酷なもので、額から噴き出すような汗は時々視界を邪魔する。

「毎日毎回部活動に参加して、偉いね」

 投げられた言葉からは皮肉や嫌味は感じられず、純粋な讃称の意だけが感じとれる。

「そりゃ、部活動ってのは毎回参加してこそですから、ねっ!」

 球に言葉を乗せ、打ちつける。スピードのついたボールは真っ直ぐに彼女の元へと飛んでいく。

「良い心がけだねぇ」

 これを軽く返される。飛んできたボールに感情は籠っていない。

「じゃあ先輩は、どうして毎日ここにいるんですか!」

 力強く前に一歩踏み出し、攻めに転じる賭けの一手に出る。

「伝えたいことがあるから、かな」

「伝えたいこと?」

 でも、と彼女は言葉を付け加える

「でもね、それを伝えたい人に伝えたら私は消えちゃうだろうから……だから、言わない」

「それって……」

 それは矛盾だ。言いたいことがあって、伝えたい気持ちがあって、だからこそ此処に通い続けているというのに。

 ふと、ラケットから感触が消える。ボールは自分とすれ違うように後方へ飛んでいく。

「ゲーム。私の勝ち」

 結局この日も彼女から数ポイントしか取れないまま敗戦。毎度の如く負けているんだし、そろそろ基礎練習もした方が良いのではないか。

 ベンチに腰を下ろすと、途端に体の周囲を覆うような暑さが襲い掛かる。

「暑いねぇ。水はちゃんと飲みなよ?」

 彼女がふわりと自分の横に腰かけると、辺りに微かな花の香りが漂った。

「ねぇ、今日は暇?」

 沈黙を破るように、彼女の口が開く。

「暇ですけど」

「じゃ、もう少しお話しようよ」

「えぇ、いいですよ」

 そうだねーと話を始める。その姿を横で見ながら、彼女が試合の時以外にあまり会話をしたところを見たことがなかったな、なんて考える。

「ね、好きな人とかいるの?」

「えっ」

「こういう話、したかったんだよねー、昔から」

 唐突な疑問に動揺が表に出てしまう。好きな人、好きな人……。

「いますよ」

「嘘!? だれだれ!?」

 すごい食いつきっぷりだ。女子はこういう話が好きだと友人から聞いてはいたが、まさかこれほどとは思ってもいなかった。あと嘘ってなんだいると思っていなかったのか失礼だな。

「先輩のことは、とても大切に思っていますよ」

「えぇーつまんない。変なの」

 さらっと流されてしまった。真面目に答えたつもりだったのだが変なのとは傷つく。

「先輩はどうなんですか」

「そりゃあ秘密だよ」

「えぇ……」

 また流された。まぁ、予想は出来ていたが。

 そんな調子で会話を続けていると、金網の外からクスクスと笑い声が聞こえてきた。そちらに目をやると、部員の女子数人がこちらを見ながら話している。

「アイツまた幽霊と話してんの?」

「つかなんでアイツ毎日来てんの?」

「テニスコートだとめっちゃ喋んだね、アイツ」

 どうやらわざと聞こえるように絶妙な声量で会話をしているらしい。聞き耳を立てなくても済んでありがたい限りである。

 こちらが気が付いたことを確認すると、そそくさと立ち去っていく。

「また来てる……」

「また? 前も来てたんですか」

「うん。君は部活が終わるとすぐ帰っちゃうじゃない? すると入れ替わりみたいな感じでスッと現れるんだよね」

 なんだそれ怖!それこそ霊的な何かだろ。

「迷惑ですよね、すいません……」

「なんで君が謝るの? 謝るのはむしろ私」

「えっ? だって今のは――」

 今のは自分に向けての言葉。部全体がこんな雰囲気に包まれた中、未だに活動に参加している可笑しな奴を笑うのは当然だ。

「……ねぇ、もう一回試合しようよ。気晴らしにさ」

「……はい」

 なんとなく察してくれたのだろうか。暇だと答えたのは自分だし、そもそも部活動の内容はテニスをすることなのだから、断る理由は無い。

「ただし! 勝者は敗者に言う事を1つ聞かせられる権利を与えるものとする!」

「いや、その条件じゃ先輩に有利すぎやしませんか。力の差があるっていうか」

 今さっき先輩に無残な敗戦を喫したばかりであるこの状況で勝敗に関する提案はあまりにも強引ではなかろうか、という訴えの視線を向ける。

「いいからやるの! 先輩の言うことはおとなしく従うのが後輩ってもんだぞ?」

「はぁ……」

 どこか先輩の雰囲気がやけっぱちになっている気がする。彼女たちの言葉が引っ掛かったのだろうか。

「よっし! 全力でやるからね?」

「ちょっとは手加減してくださいよ」

「そこは男らしく『手加減するので全力で来てください、先輩』ぐらい言ってよ!」

 言ったところで結果は同じなので言いません、と心の中で呟きながらいつもの立ち位置へ移る。毎日試合をするうち、いつの間にか様々な暗黙の了解が出来上がっていた。

 心を落ち着かせ、球に力を伝える。先の試合の疲労は大分抜けているため、もう1戦程度ならば問題はないだろう。

「君は毎回部活に参加してくれるけど、友達と遊んだりはしないの?」

「そりゃ暇な日は遊ぶ時もありますけど、部活も十分楽しいですから」

 そう言うと、彼女の顔が少し笑ったように見えた。先輩の笑顔に気を取られている隙にしっかりと決められていたが。

「さっきの彼女たち、ひどいんだよ? 『友達はいないのか』とか『部活動以外本ばっか読んで楽しいの?』とか。私は好きで一人でいるのに!」

 やはり、さっきから先輩の言葉がわがままじみてきている。ちょっと可愛い。

「心配してくれてるって事じゃないですか!」

「挙句の果てには“幽霊”だよ? 心配なんてしてる訳……」

 幽霊。それは彼女が普段あまり人と話さないことで付いたあだ名。否、それは付き合いの悪い同級生を笑いものにするためだけの合言葉である。

 先輩も、部員も、そしてもちろん自分も。このことは知っている。

「君はどう思う? 一人でいてもおかしくないよね?」

 話に重きを置いているのか、打球速度が遅い。こちらも呼応するように優しく打ち返す。

「一人でいることが変だなんてことは断じてありません。そもそも、部活動の時の先輩はこんなにも打ち解けて話しているじゃないですか」

 その時、彼女の肩が分かりやすく跳ねた。

「さっきの彼女たちも、今の先輩を見れば考えを改めてくれると思いますよ。俺も先輩のそういう所、好きですし」

 あからさまに彼女の打球が不安定になる。褒められ慣れていないのだろうか。何にせよチャンスをみすみす逃していては彼女に勝てない。甘い球を逃さず容赦なくたたきつける。

「ちょっ、精神攻撃はズルいよ!」

「別に、普通に褒めただけじゃないですか。褒められ慣れてない先輩が悪いんですから、次行きますよ!」

 ラリーを続けるが、やはり彼女の打球はどこか力なく浮いている。これなら、勝てる。

 「フォーティ・ラヴ」

 そして、いつの間にか追いつき、追い越し、最終ポイント。

「勝ったら言うこと聞いてもらう約束、忘れてないですからね」

 彼女は最後まで不安定な球を打った。すかさず攻め、ついに。

「ゲーム。俺の勝ちですね」

 相対していた彼女は俯いたままベンチまで移動し、そのまま腰かける。空気が重苦しくて約束の話が切り出しにくい。

「いいですか、約束。言いますよ」

「……うん」

 ふう、と呼吸を整え、頭の中に浮かぶ無数の言葉を整理する。そして繋ぎ合わせ、吐き出す。

「先輩が伝えたい事、今ここで教えてください」

「えっ」

「伝えたい事があるって言ってたじゃないですか。教えてくださいよ、相手までは聞きませんから」

「えっ、と……あの……」

 そんなに言いにくい事だったのだろうか。ならば止めるべきか。

「あ、言いにくいなら全然言わないでいいですよ。他のことに――」

「――合ってください」

「えっ?」

 言葉が被さり、初めの部分が聞き取れなかった。

「もう言った。もう言ったから、これでおしまい」

「えぇ……。なんですかそれ」

「次は絶対に負けないからね! 精神攻撃になんて負けないから!」

 彼女はにこりと笑うと、俺の手を取り引っ張り上げる。

「じゃあ、俺からもう一ついいですか」

 立ち上がってから、彼女と向き合う。

「約束は一つだよ?」

「えぇ、だから、約束じゃなく」

 約束ではなく、命令ではなく。

 一つの答えとして。

「よろしくお願いします」

 テニスコートの幽霊は、先輩は、確かに存在する。

 今なら、確証を持ってそう言える。

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ラヴ・フィフティーン 町田雁乃 @machida_karino

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