救いの血/4



 ホドの区画は汚染され尽くしていた。


 市街には不浄な獣物けだものが徘徊し、それらを狩る者もおよそ人とは呼べぬ姿に化粧している。常夜であるこの世界では人は容易く闇に足を踏み込んでしまえる。

 否、引き込まれるのだ。みながこの夜を求め、相応しき姿に装いを変える。

 自らの世界を亡失し、這い寄る病みに怯えて生きる事が出来なかった者達。彼等はそうなった時、闇の側に居場所を見出した。世界を認識する術を捨て、自身の全てを闇に委ねて安楽を得た。

 ここでは抗う事が愚かであり、理性を捨てる事が賢さであるのだ。


 ホドの市街。下層に続いている〈螺旋街〉の本道は、無数の瓦礫によって道が分断されてしまっている場所が大半を占めていた。

 サインはホドに着いて早々にこの不浄に犯された街を探索しなければならない状況にあり、この街に蔓延する闇の一端と直面していた。


 「ちっ、数が多い──」


 サインは左手に握る単発式拳銃に弾を込めながら迫りくる獣、〈形り損ない〉に銃口を向ける。狭い路地に十数で押し寄せるそれらはその手に握った斧、松明、槍、剣、様々な道具を振りかざしていた。

 およそ整調などされていないであろう血錆びに塗れた屑ばかりを持って襲い来る彼らには正気など無いのだろう。その内の一人の頭蓋をサインの銃弾が貫く。だがまたすぐに別の一人が迫ってきている。逃亡しながらサインは相対する形り損ない共が減らない事に苛立ちと焦りを感じ始めていた。


 「ならば」


 冷静に思考を定めると、彼は追跡してくる形り損ない共から目を背け、逃走に専念した。この狭い路地では勝ち目がないと判断し、彼は脳内に描いている次の手を実行出来る場所を求め、足に力を込める。踏み込んだ足が石畳を砕き舞い上げ、破片が形り損ない共に降り掛かる。しかし彼らの勢いは依然止まる事はない、獣の様な唸り声を響かせサインの背を追跡する。


 サインの背後に迫る異形の群れは人の形をしているが、それらもまた怪物の類に漏れず、異常な膂力を有している。体毛に覆われた異形の脚部は毛や纏う衣服の切れ端で隠れているが、その足も既に人間の形をしていない。変わり果てた足は狼の様な獣の足になり、筋肉が異常な発達を見せている。しかしその全てが同じ形態を取っている訳ではなかった。サインが彼らを〈形り損ない〉と認識したのはそこにある。


 彼らには個体差の様なものがあった。

 脚部が獣化している者、腕部が獣化し肥大している者、痩せ細った犬の様な姿で二足歩行する者。その姿のどこかに獣という要因を持つが、そのどれもが完全な獣化を果たしているとは言えなかった。


 サインが路地を疾走し、形り損ない共も追随する。ただの人間であれば彼らの速力に勝るはずもない。サインという男もまた、その身に尋常ならざる膂力を有している。


 互いの速力はサインの方が僅かに速く、直線の通り道で彼らとの距離を生むことが出来る。しかし彼はこの街の地理を知らない。

 故に道を選択する時に“迷い”が生じる。


 相対する形り損ない共は持ち前の獣性が彼らに本能的な挙動を可能とさせ、飢えた狼よりも凶暴に、彼らは最早自身らが人であったことすら亡失したのだろう。時に壁を跳ねる動きを見せサインに飛び掛かる者もいた。


 「凶暴さと速力が増している──? まずいな」


 既に彼らとサインとの距離は二メートル程までに切迫し、彼らの爪牙が届くのは時間の問題だった。


 彼らがその獣性を増すと同時に、サインは視線の先に求めていた場所を捉えていた。


 しかし背後の形り損ない共は速力を増しており、そこに辿り着くよりも先に追いつかれるであろう事を理解している。そこまで駆けるにはもう一手必要。そう判断したサインは己の内に響く声に耳を澄ます。


 彼の内側、その精神に取り憑く何か。

 彼に怪物的な力を与え、同時に思考を〈殺戮〉の衝動で埋め尽くそうとする。


 その声が僅かに聴こえる様、精神を律し、聴く。


 殺戮。


 それが脳裏に描かれると同時に彼は、右手を強く握る。


 すると自身の右側の建造物が倒壊を始め、瓦礫が流れ込む。彼はその瓦礫を超常の眼力で見極め、その隙間を縫うように走り抜けた。形り損ない共はその速度を緩めるが、追跡を諦めた訳ではなく、瓦礫を飛び越え、一人も欠けることなくサインを追随する。




 ──そして、両者は路地の先、かつては噴水広場と呼ばれた拓けた空間に出た。


 今は枯れ果て崩れた瓦礫だけが噴水の体を成している場所、この拓けた空間こそサインが求めていた場所である。


 形り損ない共は、始めにサインを追い始めた時とは変わり、その殆どの姿が肋の浮き出た痩身の人狼の様に変態している。更にはその数も十数から三十はいよう群衆になっていた。彼らはこれまで見せた速力を抑え、ゆっくりと路地の先から広場の中央で構えるサインを取り囲む様に動き出した。


 先程までの病的興奮に包まれた様子と違い、この場には狩人が獲物を仕留める時の様な妙な静寂があった。


 サインもまた、内の衝動を抑え背負われた赤茶色の物体を掴む。

 それは内にあるサインの武装、〈鉄剣〉を包んでいる布であり、その一辺を掴み結び目を解くと布は伸縮し、まるで生きているかの様に鉄剣の柄に巻きついた。

 布の内から現れた鉄剣はその装いを変え、石の塊が何個も連結した様なより無骨に、分厚く、剣と斧の性質を併せ持った姿に変わっていた。


 サインは奇妙な静寂の中、形り損ない共に囲まれた、その状況で鉄剣を石畳に叩きつけ、石の砕ける音と鉄のぶつかる音が広場に響く。


 それが合図となった。


 形り損ないの一体が人ならざる跳躍を見せ、サインの頭上より襲い掛かる。サインはそれに対し目もくれず、左手に握った銃で撃ち落とした。だがすぐに他の形り損ないも動き出し、数体が一度にサインの眼前に迫る。それらに向けてサインは鉄剣を水平に持ち上げ踏み込み、彼らがその爪牙を振るうよりも速く、鉄剣が彼らを横薙ぎに削りとった。


 上半身を失った数体から血飛沫が雨の様に降り注ぐ中、次に背後から迫っていた数体も同じ様に横薙ぎにされ血溜まりのかさを増すだけとなった。


 「残り二十一」


 冷静に形り損ないの数を判断しているサインを余所に、この様を見た形り損ない共はサインの隙を伺うかの様に周囲を依然として取り囲んだままでいる。その彼らに一瞥もよこさず男は銃に弾丸を込めている。そこに飛び掛かる者もいたが、容易く鉄剣に叩き潰された。


 「残り二十」


 再び両者は距離をとる形になったが、サインは未だ広場の中心に立っており、彼らを待ち構えるのみである。

 だが形り損ない共も先に攻めればやられるという思考に至ったのか、サインを取り囲むばかりで闇雲に襲い掛かる事をやめ、ただサインが動くのを待っている様だった。

 そしてそれが彼らを突き動かす“獣性”故の弱さでもあった。


 「所詮は獣擬きか、畏れを知る獣など──」


 サインは正面の形り損ない共に対して踏み込み、鉄剣の柄の部分、その刃の側に着けられた“引鉄”を引く。

 がちん、という音が連鎖すると共に鉄剣の内部の仕掛けが動くと刀身が伸び、内部からは牙の様な細かい刃が飛び出している。

 その形は先程までより倍の刀身になり、獣が牙を剥き出しにして大口を開いたかの様な荒々しさである。


剣の真名まなを〈きば〉。

 形態を変えた時、その様が牙を剥いた獣の様に見える事から名付けられている。

 大鉈は獣性を表し、剣は理性を表すこの〈牙〉はサインが持つに相応しい。



剣と呼ぶよりも、〈大鉈〉と呼ぶべき形態に変形し、そのまま高く振り上げられたそれは──


 ──まるで、月に吠える獣の様だった。


 

 そうして、目の前の偽の獣の頭上に湾曲した刃が振り下ろされる。


 「──真の獣に勝りはしない」

 

 声と共に血飛沫が舞った。



  ◇


 …………


 三十の形り損ない共とサインが争っていた広場には、無数の血溜まりと毛がこべりついた肉片、そこに立つサインだけがあった。


 形り損ないの血を浴び血塗れの姿は、狂気の沙汰に囚われた人間の様にも見えるが、彼はその精神の強靭さ故に生き延びている。この程度の事で狂える筈も無かった。


 螺旋街というこの街はゲブラーを除く中層全域の事を呼び、示している。街の中心にある〈大昇降塔〉の周囲は緩やかな坂道が螺旋を描いており、街が上に伸びるに連れ発展し、螺旋街というものが形成された。名の通りの螺旋があるのは街の中心に寄る辺りのみであり、そこから外れている場所ではゲブラーの市街と特別に変わる事はない。


 だが、この街は上に伸びるに連れて発展した街という事から、後からの増築や改築が多く住民がそれに合わせて建築物を増やし続けた為に、中心地以外は半ば迷宮の様な状態になっている。サインが降り立った場所も、中心からは外れており、見通しの効く場所の少ないこの街では、何も知らない者が中心に自力で辿り着くのも困難である。

 手がかりと言えば、遠くに見えている大昇降塔の上部のみだった。


 「匂いくらいは落としておきたいが……肝心の香草は落としてきたか」

 小鞄の中をまさぐりその形がないと分かると、早々に諦めて歩き出す事にした。


 この周囲にはもう形り損ないの影はなく、同時に生きているものの気配も無かった。

 無論、街の住人があれだけの筈がない事もこの街にいた筈の厄狩り達があの程度の怪物に全滅させられたともサインには思えなかった。

 

 この街は広い。ホド、ネツァク、ケセドの三区画が連なっている大区画である。

 そのどこかに生き延びている者もいるかも知れない。


 そうサインが考えていた矢先、銃声が響いた。


 「近いな」


 銃声は今サインがいる広場から少し離れた路地からのものだった。直線の距離は然程さほどでも無いが、路地の二つか三つは離れているだろうとサインは推測した。


 まともな人間であれば情報を得られる筈だ。サインは鉄剣を携え駆け出した。



 

 

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