救いの血/3

 


   救いの血/3


 時計台の長針はIVを指し示している。

 それが朝か夕なのか判別のつく者は居ない。

 時の正常さなど誰も覚えてはいない。

 正しい時間は無いに等しく、ただ数字を刻む役割を果たすのみ。

 しかして暗澹あんたんに包まれる街でも、少なからず〈時〉の意味はあった。

 盲目に夜明けを信じる者達にとって〈時〉は希望であった。

 時間とはその者達の最後のすがなのである。

 今となっては豫すがを持つ者も僅かばかり。

 この世界から夜明けという概念が失われて久しく、世界は常に夜であった。


  ◇


 橙の街灯が照らす石塊通りの出入り口。崩れた建造物が辛うじて穹窿きゅうりゅうの形を保ち、入り口を表すかの様に機能している──その場に、エルガとサインの姿があった。


 「行くのか」


 装備の点検を行なっているサインにエルガはそう聞いた。その答えなど分かりきったものであったが、傷が癒えるのを待つ事は出来んのか、という呆れが含まれていた。


 「ああ」


 それとは知らずサインは無愛想に答え、腰の小鞄に麻布に包まれた干し肉と塩を詰め、水の入った革袋もその中に収めた。

 点検の終えた〈鉄剣〉は既に赤茶色の布に覆われ背中に背負われている。投擲用の短刀を数本外套の内に仕込み、二丁の銃は腰の左右のホルスターに下げられていた。

 そうして旅支度を終えるとサインはエルガに視線を向けた。


 「最下層だったな? 道はお前が言っていた通りに階層を一つずつ下っていくしか無いようだが」


 「ああそうじゃ、下層にあるイェソド区画の経由が必要になる。教会が知らぬみちはそこしかないじゃろうしな、でもって無論危険はゲブラーよりも跳ね上がる。あそこには厄狩りはおらず、連盟も介入しない場所じゃ。じゃが……儂もこことホドを繋ぐ昇降機の整備だけはしておった。しかしホドにいるはずの市民達とは一切連絡がついておらん……何かが起きた、或いは起きているのか──どうにもここ最近の街の様子はいつにも増しておかしい雰囲気じゃお前さんも気を付けた方がよいぞ」


 エルガに対しサインは視線もよこさず口を開く。


 「そんな事はどうでもいい……奴らが何を考えていようが俺には関係無い。どうあろうと俺には歩まなければならない理由がある。どんな手を使っても俺は止まるつもりは無い」


 そう言って石塊通りより踏み出したサインはそれきり振り返る事は無かった。

 エルガは霞が充ちる街の湿った空気の向こうにサインの姿が見えなくなると、工房の方へと戻っていった。


 サインが向かった土地は暗い土地の一つ、見棄てられた区画。

 サベクトの下層イェソドにあり、最下層と呼ばれる掃き溜めへと繋がる土地である。

 事の始まりは上層に居を構える月教会がこの地に関わっているとエルガがサインに対して語った事が原因であった。エルガは何の為にあの青白い眼をした男が月教会を求めているのかは知らない。聞いたところで男がまともな答えを返すとも思っていない。

 しかし予感だけはあった。

 サインという男はまたここに戻ってくるであろうという事を。

 

 「全く、おかしな男じゃ」


 呟いた言葉は霞に呑まれ、当然サインの耳に届く事は無く静穏な街の静けさに溶けるだけであった。


  ◇


 薄靄に包まれた市街には人の影も、歪な落し子どもも蠢いてはいない。

 ゲブラーの区画は同じ中層区画の中でも比較的安全な場所であるというのは確かに事実である。しかしそれでも古大種やそれに似た落し子と呼ばれる異形は現れる。あの歪な生命がどこからやってきたのか。


 ある一人は隕石と共にやって来たという。また一人は更に彼方とおくからやって来たのだという。最後の一人は常人の智慧では触れられぬ領域にあるのだと既に諦観していた。

 誰もが真実を知らず、常人は理不尽に恐怖し怯えるだけである。

 その理だけがある事。それだけは真実だった。

 

 サインは市街の端から中央通りに出た。

 通りには無数に石造りの建築物が幅広の道に沿う様に並んでおり幾つかの建物から僅かに光が漏れている。かつては僅かながら賑わいのある通りであったが、現在は無造作に置かれた無数の棺桶と所々に惨劇の跡を感じさせる血痕、無残に破壊された馬車の籠が転がるだけ。


 ここサベクトの街はゴシック建築が取り入れられ、その様子がまた街に影を生みやすい。巨大な塔や聖堂、月教会の時計塔は街の最上で天を突くかの様にそびえ立ち、街を見下ろしている。この様式が取り入れられたのは審暦においては十五世紀頃からであった。この街は山間に造られたという事で窪んだ土地にあるというのに外から見れば上層とゲブラーの建造物しか見えはしないが、この街の全体像は円錐の様な階層都市となっている。


 始まりは小さな村だった。しかし都市が形成されていくうちに街は上へと伸び下層より下には月の明かりも射し込まなくなっている。

 街の外に続く道は月教会を中心に東西南北の四方に伸びる陸橋である。陸橋は中層のゲブラーに続き外部から来る者の多くは月教会の教えに惹かれて巡礼に訪れる者、商売の為にやって来る者の二種が占めていた。しかしそれも遠い昔の話。陰気な街ながら人の営みというものがあった中央通りにも今は惨劇の跡だけがそれを物語る。


 中央通りの先には円形に広がる広場が二つ連なっており、その二つは大門で分かたれている。この門の先は本来であれば上層区画へ繋がる大橋に行ける道であるのだが、現在はその大橋も取り壊され、分断された。

 上層に住まう貴族と月教会は穢れた暗い土地を恐れたのである。

 

 だが大橋が壊れているにせよサインはそちらを通る必要があった。

 大橋の手前から中層の別区画に続く道がある。

 その先はホド、ネツァクと連なり、次にケセドの順に下層に下っていく様になっている。ケセドから繋がるのはティファレトだがそこは特殊な区画であり、後から付け足された場所の為他の区画との繋がりは薄い。


 サイン自身はゲブラー以外の区画に足を運んだこともない為、知っているのはエルガやエンボリオン、情報屋から聞いた話のみである。

 ホドには断たれていない橋がありそこを渡ればホドとネツァクの区画となる。エルガ達がサインに語ったのはホド以降の区画はより危険性が増すということだった。この街の誰もが知る〈落樹〉の起きた日以降ゲブラー以下の区画は更なる惨劇に見舞われた。


 これまで異形を狩る者の前線に立っていた聖杯騎士団の消失。古大種や落し子の出現。市民の暴徒化。協会に属する厄狩りもそれらと殺し合う中で正気を失っていった。

 故にサインが進む先は、今は厄狩り達の手で封鎖されている厄狩りと怪物の蠢く場所である。


 ホドへと続くのは大橋の横に建てられた昇降用の棟で降りる事ができる。区画同士は繋がっているがそのどれもが地続きという事はなく、特にゲブラーより下の区画は昇降機で移動が必要となる。ゲブラーとホドを繋ぐ昇降機はいくつか存在するが未だ稼働しているのは石塊通りに近い大橋前の大通りにあるこの一機のみだった。それはエルガが時折整備しているおかげだった。加えてホド側の乗り口周辺は協会の〈道切り〉によって異形の侵入を防いでいる。


 錆つき寂れてはいるが要となる鎖と機構を見て、これがまだいきている物だと判断したサインは壁に備えられたレバーを降ろす。すると正面の鉄製の籠が真ん中から横に開き、成人が五人乗れる程の空間が現れた。そこにサインが乗り、内部の壁にあるレバーを引くと籠は閉じ、駆動音と共に昇降機が下降を開始した。


 速度を一定に保ち鉄格子で囲われた籠の外には壁が流れていく様に見える。その途中、それが途切れ外の景色が見えた。ホドとネツァクの街はゲブラーとは少し階層がずれており昇降機で往き来する際僅かだが区画の一端を見通す事が出来る。


 サインの視界には緩やかに下り坂を描く大きな通りと点々と人影らしきものが動いているのが見えた。


 「聞いていた話と違うな、人がいるようだが……」


 そこで彼は一つ疑問を抱いた。

 なぜこの暗がりの街で灯りも持たず出歩いているのか? そう考えていた所、灯りの集団が現れるのが見え──そこで視界は再び壁に遮られ昇降機は到着した。

 あれらは何なのか? それを考える前にサインは不快な衝動に襲われていた。

 

 「疼く──何かが、俺の中で疼いてやがる……くそ」


 不快な感覚を耐え、落ち着きを取り戻す。

 そうして昇降棟から出ると橙の街灯と薄暗い街並がサインの視界に広がった。

 一見ゲブラーでの街の様子と同じ様に見える、しかしサインはこの街の異常をすぐに感じ取っていた。


 「──匂う。まだ乾ききっていない血の匂いだ」


 間違いなくこの区画は今まさに異常と直面している状況である事は確かだと、サインは確信し、同時に疎ましく思った。自身の進む先にこうも障害が有る事に。


 昇降棟を出るとそこはこの区画の路地裏であった。ここも血の匂いと異形の発する蒸気で充ちており、えづく様な匂いが常に漂っている。


 サインはまず昇降棟周辺を見渡し、道切りが行われたであろう名残を発見した。実物を見るのは初めての事だったが、何となしにそれがどんな目的で行われたのかは理解出来た。一つ不可解なのは、昇降棟の前で尋常では無い血痕と共に果てている全身が毛で覆われた生物だ。


 異形についてはこれまでも何体かとは対峙している彼だったが、それらはみなどれも明確なまでに〈化け物〉だった。だがここで死んでいる何かはそれ《・・》とは違う、骨格の変形や全身の体毛はあれど、人型をしている。そして何より服を纏っていたであろう千々になった布が所々に纏わり付いている。

 これと似た化け物と以前にもサインは対峙し殺した事がある。


 「グレゴリウス──」


 かつて殺した怪物、それも元・人間の怪物の名を思い出す。あの時の記憶は曖昧となってしまっているがその名はしっかりと記憶に残っていた。

 巨躯の人狼を殺し、またそれが元々は人間の、それも厄狩りだと知ったのは最近の事だった。

 それに似たものが再び眼前にある。それはこの獣の様な何かも元は人であったのだと推測出来る。けれどサインには何故人がこうなるのかが分からない。何を切っ掛けにこうなるのか。

 彼は怪物を殺す事が可能だ。しかし発生の由縁を知らなければこの世界は永遠に夜の鐘を打つばかり。


 「ここに、あるのか?」


 獣の死体から視線を持ち上げ、路地裏から続く先に見える通りの方に目をやる。

 依然として暗いのは当然だが、そこに先程昇降機から見えたものと同じ灯りが、通りの方に灯りを落とし始める。人か、あるいはここに倒れているものと同種の何かか。

 サインは路地裏の木箱の陰に身を潜め通りの方を伺う。

 徐々に灯りを増し、それが路地裏の入り口前に至ろうとする。灯りの色や揺らめき具合からあれは松明持って歩いているのだと推測し、大方は人だろうと判断出来る。だが彼は未だ身を潜め、姿が確認出来るようになるのを待っている。


 そして灯りを持つ腕が見え、それが人のものであると確認し、一瞬安堵する。

 同時に僅かな安堵ですら瞬く間に消し去られる事となった。


 路地裏の正面、その入り口の前を過ぎようとする灯りの集団の面々。

 それらはみな、人の顔をしていなかった。

 一様に毛で覆われた顔と牙を生やした怪物。人狼の〈り損ない〉に見えた。

 


 

 

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