救いの血/2
救いの血/2
審暦1862年〈古大種:生命の樹〉が堕ちた日、暗い土地にその根が深く刺さった。
それらはみな、死してなお実を付け、実からはなり損ないの〈準位種〉が生まれた。
遠い昔──隕石が墜落し地球環境が激変、それと共に新種の生命が地上に出現した。
それらはこれまでの常識と乖離した生命で、この星に〈古大種〉という怪物達を生み出し人間を蹂躙した。
時代がまだ西暦と呼ばれていた文明の時代。
突如として宙から現れた隕石、それにより齎された文明の崩壊は人類の数を七十億から三千万という数まで減らした。
古大種とは常識とは乖離した超常の存在の事を指す、現在の生命では至る事の出来ぬ、原理、その出自さえ不明な異界の法則で武装した新種の生命の事をそう呼ぶ。
中でも〈生命の樹〉は未だにその災厄を生み続けている。
だが、人類はただ嬲られるだけで終われる生命体では無かった。
古大種への対抗策として、旧暦より存在する血の力を扱う〈血族〉と呼ばれる存在と手を結び、魔術師達が造り出した人間に血族と同等以上の能力を与える技術〈罪過式〉という術。
古大種の魂から固有の特質さを凝固させ使役する〈幻想兵装〉。
協会の行う〈血の儀礼〉は罪過式を元に、より強力な力を人に与えるが、時にその理性を奪う。
それら三つの禁忌なる力が生まれた。
遠く東にある暗い邦──エラトゥス。
その国の中、山間に造られた街〈サベクト〉は月教会がその都市の開発に携わり、この国においては異形を狩る組織の先駆けとなった。
元々は海に面した小さな村は巨大な都市となり、上層、中層、下層に別れている。上層には月教会の本部があり、その象徴たる〈塔〉が街を見下ろすかの様に聳え立っている。
しかし、生命の樹が堕ちて以降人口は大きく減り今や廃れた都とされている。
生き延びた僅かな人々の大半が貴族階級の人間であり、教会の庇護を受けている上層で暮らしている。
そして彼らはその身可愛さに上層以外の人々を見捨てた。
十つの根に、十つの暗い土地、死んだ生命の樹が落とす生命の実は、一つの根に一つ成る。
セフィラと呼ばれる生命の実。
それのある土地は、十つの区画をそれぞれの実の名で分かたれた。
貴族階級の人々と教会は古大種の残滓たる落し子や厄狩りを隔つ為の壁を造った。
壁は上層以外の全てを別ったが、教会の兵である〈聖杯騎士団〉はサベクトのどこにでも現れている。
中層以下の地域は狂気と血の匂いが充満する穢れた土地と化した。
そこには異常存在と相対する危険を顧みず、血の儀礼の力を用いて古大種の残滓から生まれる準位種や落し子、罪過式による暴走者、獣堕ち、狂気に囚われた者達……それらを狩り殺す事を生業とする者達がそこに住み着いた。
彼らは〈厄狩り〉と呼ばれ、血に酔った者達と認識されており、教会、魔術魔法連盟にも属さぬ異端の協会の狩人として人々に認識されている。
◇
──ゲブラー区画/石塊通り
サインの眠る倒壊した家屋に、厳しさが顔に刻み込まれた様な大柄の男が訪れている。
未だ眠るサインの横で彼の武装である〈鉄剣〉を見て眉間に皺を寄せより険しい表情を作ると、次に短銃二つをサインの腰から抜き取り中折れ式の機構を確認し、更に眉間の皺が深くなった。
「……起きんか」
低く嗄れた声でサインに呼びかけ、覚醒を促すと彼はすぐに目を覚ました。
「──! 」
目覚めたサインは咄嗟に起き上がり腰の銃に手を掛けようとする。その形が掴めず、彼は銃が無いことに気付き次に腰に携えた短刀を抜き取る。手入れのされていない短刀は刀身が刃毀れを起こしているが人に対して使うのであれば十分な殺傷能力がある、その切っ先を大柄の男に向けた時、サインはようやく状況を理解した。
「エルガか……」
大柄の男に対しそう述べると、短刀を仕舞い床に並べられた自身の武装を見ると、再び大柄の男の方を見る。
「お前さん、また無茶をしたな」
エルガと呼ばれた大柄の男はそう言うと鉄剣を手に取り、サインが酷使した所為で歪んでいる様を見て、どことなく落胆している様子である。
彼こそがサインの武装一式を製作した本人〈錬鉄者エルガステリオン〉なのである。
その彼が落胆しているのも自身の作った武器が歪んでいる事だけではなく、鉄剣に仕込んだ特殊機構が使用されていない事に起因している。
「そのままの方が使い勝手がいいんだ」
彼が言わんとしている事を察し、先に言い訳の様な事をサインが言った。
「やれやれ……今はどうにかなっているのかもしれんが、この街に巣食う異形どもは時に巨大なモノもいる。いずれ必要になる筈だ」
エルガはそう語り、鉄剣の歪みを眺める。血で汚れ、仕組みを起動する為の機構にも血が溜まりえづきそうな程の悪臭を漂わせている。エルガはこれでは機構を作動させるのは難しいと判断し、サインに提案する。
「この際だ、調整するとしよう。構わんな?」
「いいや結構だ。時間が惜しい、俺は早く上層に向かわねばならん」
エルガの提案を断り、鉄剣をその手から奪い短銃を腰に収める。
どこへ向かうとも決めていないが、立ち上がり石塊通りから出て行こうとしている。
しかし、それをエルガが止める為声を掛けた。
「やめとけ、その武器じゃ教会の連中には通用せんぞ」
エルガのその言葉にサインの足が止まる。
「教会について知っているのか」
血走った眼をエルガへと向け、問う。
彼が教会の情報を求めるのはそれが上層に繋がる手がかりだからだ。例え僅かであれど、それが彼の次に進む道となる。
「ああ、多少ばかりな……だが、行くなら武器の調整は必要だ。後は分かるだろう?」
エルガがそう言うとサインは舌打ちをして鉄剣と短銃二丁を渡し、藁の上で横になった。
「全く……」
サインの態度に呆れながらも受け取った武装を持ってエルガは自身の工房へと向かった。
それは廃棄された鉄道の車両の一つにあり、外装は鉄で、内装の多くが木材で作られている古い鉄道だ。二十年程前はまだ稼働していたが、その年は生命の樹が墜ち、壁が建造され始めた年である。当時はまだこの街はここまで酷くは無かった、月教会による統治は平等に行われ、全ての市民がその庇護下にあった。だが生命の樹が墜ちて以降、聖杯騎士団は壁を建造し、姿を隠した。
中層、下層で出現する準位種や落し子は放置され、多くの市民が犠牲になった。当時異邦からやって来たばかりの〈協会〉が血の儀礼で厄狩りを増やし、同じく連盟は若い人間を募り、討伐隊を編成した。
そうして、力を得た一部の下層市民が武装蜂起を起こし、教会との争いの果て、下層市民は鎮圧され、彼らはみな下層に押し込まれた後、上層に繋がる道を閉ざされ隔離されている。
以後、上層にある教会はその全貌をまるで掴む事が出来ず、僅かばかりの噂話が流れている程度にまで存在が希薄になっている。
情報屋が語ったのは教会の人間が狂っていると言った程度で、その実、何をしようとしているのか、どんな武装を扱うのかは知られていない。その時下層市民であったエルガステリオンを除いては。
工房に戻ってきたエルガはまず短銃の調整を行う事にした。
血錆が中折れ式の機構にこべり付き自身が製作した時よりも明らかに一連の動作をするにあたって滑らかにいかなくなっている。鉄剣もまた同様に血錆が機構の奥にまで入り込んでいるせいで腐臭を漂わせているのだ。
どれだけの返り血を浴びればこうなるのか、エルガはサインがここに来たばかりの頃を思い出した。
◇
──サインはある日、石塊通りの入り口で倒れていた所をエルガと結界の張り主であるエンボリオンが見つけた。
全身が血に塗れ、武器も何も持っていない。この街で何も所持していないと言うのは特異な事であり、市民でさえ出歩く時は斧や銃を持ち歩いている程であったと言うのに。
この街においてその在り方は不可解であり、またサインはあらゆるモノが特異であったが故に監視が付けられていた。
監視は数人のまともな厄狩りによって数日間続いた。彼らは〈まとも〉とは言え、厄狩りである。常人には耐え難い不眠不休の監視ですら行う事が出来る。
〈血の儀礼〉の副作用、身体能力の向上により元来の人が持つ機能が麻痺してしまっているのだ。そんな監視者が数日間も付いているというのに、サインという男は何一つ気にせず、石塊通りの奥から廃棄物も持って来ては何かの作業に没頭していた。
監視者達が言うにはあれは武器だったと、エルガは聞いた。それを聞いて見にいきたくなったが、エルガはそれを抑え、ただサインの疑いが晴れる時を待った。
その時はすぐに訪れた。
商業区に出現した〈準位種:凝視する肉〉によって、多くの人が犠牲となり、石塊通りもまたその被害から漏れなかった。
それを狩る為、飛び出した二人、厄狩りであるガローとサイスレスがまず死んだ。
対象の持つ能力を知らずにその前方に立ちはだかった彼らは凝視する肉によって瞬間で殺された。
複数の目玉が飛び出し、その目玉それぞれが違う一点を常に凝視している。正面にある目玉の二つは人と同じ間隔で付いているが、決してその肉に表情じみたモノを与えるモノでは無い。
むしろ怪物だと相手に思わせるのを助長する役割と言える。
それに対し、まずガローが先制を仕掛けた。右腕に装着された鉄の爪を振り上げ、凝視する肉に対して駆け出す。向上した身体能力を活かす、速度に特化した戦闘方法である。
僅か一秒で肉の正面まで迫り、爪が振り下ろされる。
──次の瞬間、ガローは死んだ。
同時に、追撃を狙っていたサイスレスも死んだ。僅か数秒の内にその場には、凝視する肉とその前方に転がる歪な肉塊だけがあるだけになった。
化け物の前に転がる歪な肉塊からは、所々に触覚の様に見える人間の身体の一部が飛び出ている、乱暴に繋ぎ合わされた箇所からは蛇口を強く捻ったかのように血が流れ出している。二人の頭は肉のどこかしかに紛れる様に埋まっている。
何が起きたのか、など問うのは無意味である。
厄狩り二人が死んだ。
特異な事象、正気を失わせる程の凄惨さ、それらを意図せずして、またその為だけに存在する、明白な人類の天敵として存在しているのが〈古大種〉と呼ばれる存在達である。
尚も凝視する肉は薄紅の躯体から生やした人間の臓物の様な何かを脚の様にして、歩行する。向かう先を到底定めている様には見えず、その進行方向の先は石塊通りとなっている為、結界が存在し凝視する肉が侵入する事は出来ない。
──そう思われた。
結界の前までやってきた肉は再び止まり、その目のいくつかが正面をじっと見つめた。結界の先では石塊通りに残っていた厄狩りが一人と、逃げて来た十数の市民達、それに加えエンボリオンやエルガステリオンも居る。
厄狩りはその先頭に立ち、凝視する肉の動向を伺っていた。
肉が止まる事数分、再び腸の様な脚を動かすと結界の方に脚を踏み出した。
そこにいる人々はみなこの異形が結界に阻まれると思っていた。
しかし、異形は何の事は無く、その境界を踏み越えたのだ。
「不味いっ! 」
始めに叫んだ厄狩りが前に出る。
避難民達は悲鳴を上げ、背を向けて走り出している。
肉は幾つかの眼を既に何人かに定めていた。肉の眼に捉えられた何人かが唐突に消える、実際には消えた事を認識出来る前に事は済んでいる。
その証拠に、市民の前に立つ厄狩りが周囲を確認すると、気付かぬ内に辺りには肉塊が幾つか転がっていた。
「奴の目に捉えられたら終いか……ッ」
逃げろ、と市民に向け叫ぶが厄狩りの背後では無作為に肉塊が現れ続けている。人が消え、代わりに肉塊が現れる、精神を疑うかの様な異常が次々と人々を肉塊へと変えていった。
血が、肉が、人が、消え、現れ、潰れる音を奏でる。
彼らの前に在るは異形の使い、超常の世界からの来訪者。ただ在るだけで生物は死に追いやられる。市民の嘆きや呻き声は増すばかり。
古大種を前に人間はあまりにも弱過ぎた。
嘆くな、嘆くな、人間よ、これは正しいのだ。自然の摂理である。人間が虫の命を知れず奪う様に古大種も知れず人間の命を弄ぶばかり。嘆くな、嘆くな。
厄狩りオディオは凝視する肉に対し踏み込む、右手に握られた鉄の槌が地面と擦れごんごんと音を立て跳ねる。
凝視する肉はオディオを捉えておらず、その背後の市民の群れを肉塊へと変える事に夢中になっている。
今ならばやれる、そうオディオは確信した。
振り上げられた鉄槌が正面を見ている目玉の一つに向け降ろされる。直撃した鉄槌が凝視する肉の目玉を飛散させ、周囲には血と肉が舞った。同時に凝視する肉の目玉が一斉にオディオへと向けられる。
凝視する肉に残った目玉十七つがオディオを視ている。オディオは次の行動を起こされる前にと再度鉄槌を振り上げる。
三百キログラムの鉄の塊を片手で頭上まで振り上げ、それを眼前の目玉の怪物に振り下ろそうとしている。
鉄の塊はその自重とオディオの力で加速し、衝撃は周囲を揺るがす程の威力になる。
「潰れてしまえッッ!!」
オディオの叫びと共に鉄槌が降ろされる。
恐らくはこの一撃で息の根を止めようとするものである。
鉄槌が凝視する肉に迫る中オディオを視る目玉の一つが光った。
「なん──ッ!?」
オディオが一瞬怯んだが、鉄槌は止まらない。振り下ろされた鉄槌は確かに肉を砕いた。
──肉が裂け、骨が砕け、血が吹き出す音が確かにオディオの耳には届いた。
だがオディオは焦っていた。
確かに、彼は振り下ろした、鉄槌を、目の前の怪物に。だが何故だ、何故目の前の怪物は無傷で、自身に激痛が走るのか。
彼は理解できていない、現状を。
砕かれたのは自身の右腕だと言うことを。
「ああああああぁぁ!!!! 」
激痛と共に思考が追いつく。彼の右腕を砕いたのが自身が振るった鉄槌であった事を理解する。
──だが、何故だ。疑問は止まない。
自身を無数の目で見下ろす怪物は一体何をしたのか。分からない、分かることも出来ない。理解しようとする、それが愚かである事に気付くことが出来ていない。
そうして彼は恐怖と失血によって意識を刈り取られてしまった。
──救いなど無い。
生き残っている市民達、石塊通りの住人達もじきに殺される、この怪物に。
常識と乖離した現象で武装した新種の生命、古大種に。
市民達は自ら逃れようの無い袋小路に入ってしまったのだ。石塊通りは行き止まり。奥に逃げても死ぬのが多少遅れるだけ、そんな延命に何の意味があろうか。
諦観した市民達は発狂し、肉に向かっていく者、近くの親しかった人間を肉の前に放り投げる者、共に逃げてきた隣人の女を怪物の前で犯そうとする者、皆すべからく狂気に呑まれた。
そうして他人を害し、犠牲にし生き延びようとする者までいる。ここには醜い狂気が確かにあった。
肉が迫っている中で徐々に周囲の人間が肉塊に変えられていく。
救いは無く、救われるべきでも無い。
彼らはもう人間では無いのだ。
彼らは狂気に呑まれ、獣へと堕ちた。
人としての理性を捨て、本能のみで動いている。生存本能に駆られ他人を犠牲に、生殖行為を行い、無謀にも凝視する肉に飛びかかる。
どれもが醜い、醜さで溢れかえっている。
ならば救いは何とするか。
それは直ぐにやってくる。何者にも平等で単純な、死という名の救済が。
それを齎すのは彼らの前に在る《凝視する肉》である。
「どこを見ている──化け物」
肉の背後で起き上がる影が一つ。
潰れた右腕から血液を垂れ流し、左手には鉄槌を握る男。
既に死に体でありながら未だその闘志は燃え尽きてなどおらず、彼が流した血はその闘志を表すかの様に異常な熱気を放っている。
オディオは生きていた。
肉はオディオの声に対し反応を示さず、視界に捉えた人間を肉塊に変えることをやめはしない。
そう、化け物はいつも人を殺す。
その行動原理に理由があろうと、人が殺されるという結果を齎すならば、人には理解出来ない、理解するつもりもない。
理解出来ない相手と対峙した時、始まりにあるのは力である。力を顕示し、意思の疎通の取っ掛かりにするのだ。
だが、意思の疎通が出来ないならば、人間はいつも相手を滅するだけだ。
オディオは再び、鉄槌を振り上げ肉に襲い掛かる。
彼の力は容易くこの肉を砕くだろう、力を示すのだ。
──人間の意志を、誇りを、魂を!。
振り下ろされる鉄槌には先程よりも強い力が宿っている、それはオディオの不退の意志である。ここでオディオが退けば彼自身は助かる。
しかし石塊通りにいる他の人間はみな化け物に殺されるであろう。なればこそ彼は退く訳には行かなかった。
彼の故郷は化け物によって滅ぼされている。
そこは辺境であったという事もあり、助けにやってくる者も戦える力を持った者もいなかった。彼が厄狩りとなった理由はそこにある。
ならば、ならばと。自らが救済者でなければ。自らが力無き者の救いたらんとする意志、それが彼の持つ力であった。
熱を持った血はオディオの感情の昂りに伴いその性質が炎へと変質する。流れ出た血が炎に変わった事で周囲が熱気に包まれる。
その業火の中で、血を纏った鉄槌はその血が炎へと変わり炎の槌になり、凝視する肉へと至ろうとする。
肉は未だにオディオを見ず、その視線は狂った市民達に向けられている。
「所詮は殺すだけの能しか無い化け物が──!」
オディオの炎の槌が肉に至る。
槌が肉と触れると肉は千切れ、抉り潰していく。オディオは叫び共に鉄槌を再度振り上げ、肉を潰していく。
「醜い化け物が……」
動かなくなった肉を前に彼は立っている。
砕け散った肉片が周囲には転がっており、不自然な血溜まりがいくつも作られていた。
惨憺たる有様だが、彼は人を守れたという事に満足していた。これで自身が怪物と畏れられる事となろうとも、何かを守れたのならば彼はそれで良かった。それが彼の力、魂の性質、それは正義と悪とも違う、無償の善。
その能力は血を炎に変える力であった。
彼は己が生すらも燃やし尽くし、代償に化け物を討った。
「ハ……ハハッ」
最後に満足そうに笑った。
尽きようとするオディオは自身に歪な剣の影が迫っているのには気付いていなかった。
どこからともなく現れた剣は、音もなくオディオを貫いた。
オディオ自身ですら貫かれた事に気付かず、ましてや自らが既に死に体である事にすら気付いていなかった。
凝視する肉を斃し、油断していたという訳でもない。
ただ、その剣は彼の世界には映っていなかったのだ。歪みを携えた刃はオディオが視ている幻想を終わらせる為に現れたのだ。
その持ち主は彼の背後に立っていた。焦げ茶の外套を纏い青白い眼をした男。
それがサインであった。
「眠れ。出来れば安らかに」
──そうしてオディオは息絶えた。
サインは告げて剣を抜いた。オディオの肉体は活動を止めており、支えを失うとその場に倒れ伏した。
彼は槌を振るう為に血を流し尽くしたのか、流れる血すら今は無く、ただ彼の死体だけがそこに在った。
今、サインの目の前にあるのはオディオの死体と……彼が斃した筈の凝視する肉だった。
肉はオディオの槌で砕かれた筈だったが、受けた筈の傷も無かった。そして再生した訳でも無い。
──元よりオディオの攻撃は一撃も当たっていなかった。
「視覚、いや幻覚を見せる類の怪物か。確かに、人間に対しては有効だろうな」
サインは先の様子を見てそう判断した。彼が見ていたのは凝視する肉が光を放ったその後の様子である。
あの光の後、オディオの様子が変貌した。
先程まで凝視する肉と対峙していた彼が、突如として市民の方へ向かい、叫び声と共に殺戮を始めたのだ。
つまりは、オディオは凝視する肉に人間を殺す道具として利用されたのだ。この化け物がそうした愉悦を持っているのかは分からない。オディオが殺した市民の中には女や子どももいた。そうした彼らも鉄槌で圧し潰され死んだ。オディオは自らが守ろうとした者達を自らの手で殺す事になってしまった。サインは以前の世界での自身を思い出し、彼の抱いていた貴さを理解出来てしまう。
それ故にサインはこの化け物に対し憤っていた。
「不快だ」
懐から拳銃を取り出し化け物に向ける。単発式の拳銃には既に銃弾が一つ装填されており、引鉄を引くと銃弾が化け物に向かって飛び出していった。
鉄の弾丸が回転し加速していく、音を裂き、弾丸が凝視する肉に届くところで、弾丸は静止した。
不自然な挙動をした弾丸を前にサインは唖然とするまでも無く、次の手を打っていた。
「あの目玉、かなり厄介だ」
今の一瞬で凝視する肉の能力を看破し、距離を取る。肉はサインを視界に捉えようと目玉を忙しなく動かすが既に凝視する肉の能力圏内に彼はいない。
──凝視する肉は状況判断を開始する。
──あの人間は先程までの人間とは違う、まずそれを定める。
そして、あの人間はこちらに敵意を持っている、こちらの能力を警戒している、こちらを殺す手段を思索している、こちらの動向を伺っている……
凝視する肉の状況判断が終了し、導かれた結果は『危険』だった。
これまで敵対してきた人間の中でも特に危険な存在であること、その事実が凝視する肉を動かした。
先程までのただ歩く肉塊では無い、生存を優先とした戦闘態勢、相手を殺さなければ自らが殺されるという死合。凝視する肉は次の行動を変えた。
二つの目が忙しなく動くと周囲の瓦礫が跡形も無く〈消去〉された。次に、倒壊した建造物の一つが消える。
目玉の化け物はサインを“探し始めた”のである。脅威となる者に対し、自らが不意を突かれる事を恐れた為の行動。
凝視する肉はあの人間が自らを害そうというのであれば、能力圏内でその隙を伺っていると思考した。
だが、能力を看破されたところで、優位は揺るがないものであるとも思考していた。目玉の化け
「もう遅いんだよ、遅過ぎた。お前は初めから俺を警戒すべきだったんだ」
声と共に彼は背中の鉄剣を引き抜く、それ自体は単なる鉄で出来た剣と呼べる代物。
しかし、サインという人間が扱えばそれは醜悪な化け物を殺すのに十分過ぎる凶器へと変貌する。
目玉の化け物はサインの声に反応し、その姿を探した。だが、見えぬ。どこにも彼の姿を見つけられない。化け物の周囲は既に隠れられる様な場所は無かった。複数の目玉が彼の姿を捉えようとこれまでに無い程忙しなく動く。そこで気付く。
──空。
全ての目玉が一斉に上を凝視する。化け物の視界に一面の暗黒が広がる。星の灯りが点々としているが、その中に彼の姿は見えない。
上にはいなかったのか? それとも見えないだけなのか。化け物にはそれ以上の思考が出来なかった。
「殄きろ」
彼は凝視する肉の背後に現れた。
空になど逃げていない。初めからすぐ側にいたのだ。化け物の死角、地中に。
隠れてから直ぐに剣で地面を掘り、息を潜めその隙を伺っていた。
能力圏内であっても肉の能力は見えなければ意味が無い。
化け物の左側が斬り落とされた。四本ある内の二本の足が機能を失い、十三ある目玉の五つが潰された。禍々しい歪な形をした剣に血を滴らせ、サインは嗤っている。
「貴様らにも痛みはあるのか? 」
続け様にサインは右側も斬り落とす。
化け物は足を失い、残った目玉の一つだけが力なく、動くだけである。
ここまでいいようにされている化け物の視界には未だ暗黒しか映っていない。今なお自らの命の行く末を握るサインという存在がどこからどの様に襲ってきたのか、分かっていない。
その姿を探し、残った目玉は動き続けている。なのに見えない、見つからない。痛い。身体はもう、無い。痛い。見えない──
「この目玉を潰せば、貴様もただの肉の塊か。どうだろう、最期に一つ教えちゃくれないか? 」
化け物の眼前に回り込みサインは口角を吊り上げる。
サインは歪んだ剣を持ち上げ、化け物の目玉に切っ先を向けた。
化け物の目玉はそれから目を離すことが出来ないでいた。
何故だろう。こんなにも恐ろしい事なのに何故、自らの目はそれを見てしまうのか。あの剣を突き刺されれば自らは痛みの後に絶命するというのに。
知り得たばかりの痛みが化け物を恐怖させる。やめてくれと精神は訴えている。だが、それを伝える言葉は無い。伝えた所で目の前の人間が止まるとは思えない。
ああ、嫌だ。あんなものが刺されば、どれ程の痛みを味わなければならないんだろうか。嫌だ。嫌だ。
それでも化け物の目は向けられた剣先から目が離せなかった。
「貴様らにも恐怖はあるのか」
悪意に満ちた姿で目の前の恐怖がそう言った。
何とも恐ろしい姿だった。
それが向かってくる。恐怖と痛みが向かってくる。自らに終わりを告げにやって来る。
怖い。なんともし難い恐怖。何故こんな目に合わねばならぬのだ。
剣先が届く直前、目玉が少しだけ動いた。
視界には暗黒に染まった天上が広がっていた。
それを見ると、化け物は少し安心した。
──そうだ、自らはあそこに還るのだ。
──どこまでも広く、深く。大いなる太古の海。宇宙へと。
剣が届くと、それきり目玉の化け物は動かなくなった。
「興醒めだ。最期に鳴き声の一つでも上げたらどうだったんだ? それくらい出来ただろう」
活動を止めた肉塊を蹴り飛ばすと、肉が潰れる音がするだけで彼の心を愉しませはしなかった。それが余計に不快だった彼は剣で突き刺すと、それを叩きつけ、その血を浴び、肉片の一つを喰らった。
「味がしない……何の肉かも分からんな」
その姿の方が余程、化け物に相応しいと呼べる様な行いである。だが、これには意味がある。サインはそれを本能で理解していた。自らの身体の変質した部分の事、青白い眼だけでは無い、新たに与えられた呪の事を。
それは身体の奥に疼いていた。
化け物を殺せ、その肉を喰らえ、とサインの内に眠る何かを揺り起こそうとしているのだ。
それが良くないものだとサイン自身も理解している、しかし抑えられない。
そうしなければならないと、彼の身体は
これは呪いだ。
この世界に引きずり込まれた時、植えつけられた得体の知れぬ衝動。それは破壊であったり殺戮だったり、時に酷い飢餓感を与える。
飢餓感を癒すには異形の血や肉を喰らわねばならなかったが、サインはそれに対し特に嫌悪感を抱かなかった。味のある無しの文句を除けばであるが。
◇
誰もいなくなった石塊通りの広場にもう生存者はいない。
その事を確認したサインは、オディオの亡骸に近づいた。
「オディオは、死んじまったか……」
そう声を上げたのはエルガであった。
サインが現れてからの始終を見守っていたが、それが終わると否や、惨劇の場へ現れたのである。
サインは突然現れた老人に対し特に反応を示さなかったが、これだけは言っておこうと思い言葉を吐いた。
「言っておくが、そいつはもう助けられなかった。好き好んで殺した訳じゃない」
「いいさ、分かっておる」
「ならいい。だが埋葬だけは手厚くやってやるべきだ。そいつは弱かったが、善人だった」
「そうじゃな、見晴らしのいい場所なんてありゃしないが、人間として埋葬してやるのが、儂らの出来る事じゃろう」
エルガはそう言い、オディオの亡骸を抱えた。
「む。ついでだお前も来るといい」
──サインについて来いと促し、サインもまたそれに従い、石塊通りの奥へと付いて行った。
オディオを通りの外れにある墓地に埋葬した後、エルガはサインの持っている〈歪んだ剣〉に興味を示した。
「お前が作ったのか、剣にしては歪すぎるのう」
「俺は鍛治師じゃない。この剣はそこらに廃棄されていた鉄屑を寄せ集めて繋ぎ合わせただけだ」
「繋ぎ合わせただけじゃと? それにしては──」
何かが気にかかるのか、エルガは歪んだ剣に対し疑問を浮かべていた。
「ところで、お前は鍛治職人なんだろう? だったらそいつをもっと使える様にしてくれ」
「こいつをか? 出来んことはないが……鉄屑だろう、こいつは──」
言いかけた所で止まり、腰に携えた槌を取り出した。
そして、槌を振り上げると歪んだ剣にその槌を振り下ろした。
打ち合った剣と槌からは奇妙な甲高い音が一つ響き、少し遅れて砕ける音が一つ鳴った。
「──驚いた」
エルガはそれだけ述べると、降ろしていた腰を上げ、サインに目もくれず歩き出した。
砕けた音は、槌の音だった。
◇
石塊通りの奥には旧い鉄道の残骸があり、そこがエルガの工房となっていた。エルガは瓦礫を積み重ねた椅子とも呼べぬ石塊に座すと、黒檀色の金槌を握った。
「さぁ、そいつを渡せ」
そいつ、とはサインの持つ歪んだ剣の事を指している。
開かれた掌を見て、サインに石を想起させた。岩石の様な掌や手指だが、それらが流水に研かれたかの様に滑らかだった。この手が幾千と鉄を鍛ってきたのだと理解せざるを得なかった。
「あんたは、俺の事を知っているのか」
「ああ? そんな訳なかろう。お前を見つけたのは儂だがな……お前が何者かなど知りはしない。あまりにも不審過ぎたしな、新しい化け物かと思っとったくらいじゃ。だが、お前はあの化け物を斃したろう? それで儂はお前に力を貸そうと思った訳じゃ」
「俺がお前達を守るとは限らんぞ。俺には、やらねばならぬ事がある」
「構わんよ、儂はただ鉄が鍛ちたいのだ。それだけが儂の生きがいじゃ。お前は化け物と渡り合う武器が欲しい。ならばそれで良いじゃないか」
言ってエルガはサインから歪んだ鉄剣を受け取る。
「化け物どもを殺せる武器、ああ確かに必要だな……俺は──」
言いかけてサインは自らの目的がなんだったのか、秘密とは何なのか。己が何一つとして克明な目的を持っていない事を改めて理解し、言葉に詰まった。
「どうせお前自身何も分かっておらんのだろう。経験じゃろうか。お前からはどうやらそんな雰囲気がある」
鉄を見据えたまま、鍛治師はそう言った。
歪んだ剣が赤い鉄塊に変わり、熱気が周囲に奔る。
熱された鉄は槌で打たれたのち、水に触れ蒸気を上げ吠える。
新たな命が生まれるかのように力強い産声をあげる。
これは形を持った力様だった。
「ほほう、お前の剣。こいつはどこの鉄だ? 妙な因果が纏わり付いておるわい。こんな鉄は見たことがない」
鉄は生まれ変わる。形を変え、新たな装いになろうと、その根本は変わりはしない。
再び蒸気を上げる。
今度は産声ではない、獲物を欲する獣の咆哮だ。
エルガもこの鉄を撃つ度に高揚した。目の前の男が取り回す姿を夢想し、怪物を狩る姿が目に浮かぶ様だった。
サインはただ、炎を見つめ沈黙しているだけだが、その瞳は映した炎で燃えている。
「ははぁ! よい……よい鉄だ。獲物を求めているぞ、この鉄は! 儂は見定めねばならんな。お前が真に狩人なのかそれとも、殺戮を欲す獣であるかを!!」
鉄は生まれた。剣となり、人の手に収まるに相応しい姿へと。
──しかし、それが真に剣足り得るかはサインにも、エルガにも未知であった。
──これが獣の牙となるか、理性の剣となるか。
──それは未だ、分かっていない。
エルガは、この男の戦いが終わる事はあるのだろうか。
何がこの男を突き動かすのか。
その終わりを見届けたいと思った。
何故だか、この男の進む先に全てがあると思えたのだ。
だから今もこの男の
あらゆる化け物を殺戮する力の
これが、エルガとサインの出会いであった。
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