第1話
「そうなんですよ! それが高校野球の大きな魅力であり、醍醐味なんですよ!」
と、僕の隣に座った男性は、高校野球について力強く語った。
本当に、力強くというか、熱すぎるというか、うざいというか――
もちろん、本人に対して、「うざいですよ」とは、直接は言えないのだが……。
それは何故かというと、この男性は、数十分前に出会ったばかりの、見ず知らずの赤の他人だからである。さすがに、見ず知らずの人に、うざいなどとは言えない(知っている人にも、あまり言いたくはないけれど)。
申し遅れたけれど、僕の名前は、
詳しい自己紹介は、後ほどするとして――
何故、僕が、この見ず知らずの男性と高校野球の話をしているのかというと(まあ、しゃべっているのは、ほとんど男性一人なのだが)。
ちなみに、僕は今、東北地方のとあるローカル線の電車に乗っていた。
何故、こんなところにいるのかの説明も、後ほどするとして――
男性が、野球雑誌を読んでいるのを見て、野球好きの僕としては、ついつい軽い気持ちで、「野球が、お好きなんですか? 僕も好きなんです」と、声を掛けてしまったのだ。
そう――しまったのである。
もしも、タイムマシーンのような物があるのならば、数十分前に戻って、僕に言ってやりたい。その男性に、話し掛けるな――と。
というわけで(どういうわけだ?)、僕たちの座席にやって来た男性の高校野球談義が、かれこれ数十分止まらないのである。
確かに、僕も野球が好きなのだが、どちらかというと僕が好きなのは、高校野球ではなくプロ野球の方なのだ。
しかし、僕の方から声を掛けたのに、「もう、結構です」とは、なかなか言えない。もちろん、高校野球も嫌いではないけれど……。
「ねえ、
「は、はぁ、そうですね……」
僕の名字は、坂本ではなく坂井なのだが、あえて訂正はしなかった。
というのも、すでに何度か訂正したのだが、一向に覚える気配がないのである。だから、もう諦めてしまった。
しかし、僕の聞いたこともない珍しい名字の高校野球の選手名が、すらすらと出てくるのだ。坂井という簡単な名字くらい、覚えてほしいものである。
「ちなみに、坂本さんは、どちらの都道府県の出身ですか?」
「えっ? 僕ですか? 鳥取県ですけど」
「あぁ、鳥取県ですか」
と、男性は少し困ったような表情を見せた。
そう、僕は高校野球があまり強くない、鳥取県の出身である。きっと男性は、まずいことを聞いたと思っているのであろう。
しかし、僕も高校時代に野球をやっていたが、鳥取県があまり強くないのは事実である。そのことを聞かれたからといって、別に何とも思わない。
「ちなみに、お隣のお嬢さんは?」
しかし、男性は気をつかったのか、僕の隣に座る女性に話を振った。
「…………」
「あれ? おやすみになられてます?」
「そうみたいですね」
と、僕は
僕の隣で眠っているこの女性は、
僕の雇い主の、探偵だ。年齢不詳(多分、僕よりも少し上だとは思うけど、僕が聞いても、何故か教えてくれない。30代前半の兄と、21歳の妹がいることは分かっている)だが、とても綺麗な女性だ。
そして、今は座っているので分かりにくいけど、身長も高い。明日香さん本人は、168センチくらいと言っているけど、どう見ても169センチの僕よりも少し高いのだ。どうして、そんな嘘をつくのか分からないけど、僕は、そんな明日香さんに惚れているのだ。
なんとか上司と部下の関係から、恋人になれたらなぁ……なんて思っている。
しかし、明日香さんには、その気はないようだ……。
僕がどうして、明日香さんの事務所で働いているのかというと、僕はこう見えても、探偵としてとても有能なのだ――というわけではない。
2年くらい前に、とある事件に巻き込まれた僕を助けてくれたのが、明日香さんだった。
その後、何故か分からないけど、明日香さんに助手としてスカウトされたのだ。そして、明日香さんに惚れていた僕は、すぐに助手となり、今に至るというわけだ。
ちなみに、今、隣で眠っている明日香さんだけど、おそらく本当は起きている。この男性のうざさに我慢できずに、寝たふりをしているのだ。
「起こすのは悪いですね」
と、男性は言った。
どうやら、これで話も終わりそうだな。僕が、ほっとしたのも一瞬だった。少し声のボリュームを抑えて、再び高校野球談義が始まった。
「そうそう忘れるところだった。いやぁ、思い出してよかった。実は、この電車に、僕が好きだった元高校球児が乗っているんですよ。偶然、見掛けたんですけどね。多分、一番後ろの車両に乗っているんじゃないかな?」
と、男性は嬉しそうに言った。別に、そんな話は忘れたままで、かまわないのだけど。
ちなみに、僕たちは一番前の車両に乗っている。
「は、はぁ、そうなんですね。それじゃあ僕なんかよりも、その元高校球児の方とお話しされては?」
「いやいや、プライベートを邪魔するなんて、僕にはできませんよ」
と、男性は笑った。
いやいや、元高校球児っていっても、一般人でしょ? プロ野球選手じゃないでしょ?
まるで、芸能人や有名人のプライベートにでも、出くわしたような感じだ。
「そ、そうですか」
きっと、この男性にとっては、元高校球児というのは、そういう対象なのだろう。
「それで、その選手なんですが、左投げ左打ちのいい選手だったんですよね。そして、その選手の名前が珍しくて――」
と、男性が言い掛けたとき、電車がゆっくりとスピードを落とした。
「あっ! すみません。僕、ここで降りるんで」
と、男性は、まだ電車が完全に止まる前に立ち上がった。
「申し訳ない、もう少し話していたかったでんすが」
と、男性は謝った。
いえいえ、もう充分ですよ。と、僕は心の中で言った。
「そうだ。僕は、こういう者です」
と、男性は言うと、カバンから何かを取り出して、僕に渡した。
「名刺ですか?」
「ええ。特注の、ホームベースの形をした名刺です。出版社の人に頼んで、特別に作ってもらったんです」
「出版社?」
「はい。僕、こう見えまして、漫画家なんです」
「漫画家? 漫画家って、名刺なんて持っているんですね」
「ホームベースの形と野球ボールの形で、迷ったんですけどね。出版社の人には、面倒だから普通の形にしてくれなんて言われたんですけど」
と、男性は笑った。
「もし、高校野球のことで聞きたいことがあれば、連絡ください。高校野球のことなら、そこらの詳しいと言っている芸能人なんかよりも、僕の方が詳しいですよ。それじゃあ」
と、男性は言うと、電車から降りていった。
まあ、連絡をすることなんて、ないだろうけど。そう思いながら、僕は名刺をしまった。
「うーん……。明宏君、おはよう。あら? あの男性は、もう降りたのね」
電車が再び走り出すと、明日香さんが目を開けた。
「はい――っていうか、明日香さん起きていましたよね?」
「寝ていたわよ」
と、明日香さんは否定した。
「ねえ。さっきの名刺、ちょっと見せて」
「えっ? 名刺ですか? これです」
と、僕は、さっきもらった名刺を取り出した。
「って、明日香さん、やっぱり起きているじゃないですか」
どうしてさっきまで寝ていた人が、名刺をもらったことを知っているんだ?
「ふーん……。漫画家ね。
と、明日香さんは言うと、名刺を僕に返した。
「まあ、漫画家といっても、たくさんいるでしょうからね」
実は、僕も知らない。結構、マイナーな雑誌だったり、インターネットに掲載されているような漫画もあるしな。
僕は、携帯電話を取り出すと、槙野政夫さんを検索してみた。
「えーと……。槙野政夫さんは40歳で、高校野球漫画をたくさん書いているみたいですね」
「そう。明宏君、自分が野球が好きだからといって、知らない人にむやみに話し掛けないでよ」
と、明日香さんは、少し不機嫌そうに言った。
「すみません、つい……。まさか、あんなに話が止まらないとは思わなかったので」
と、僕は謝った。
「おかげで、景色を見ることができなかったわ」
と、明日香さんは、窓の外を見ながら言った。
窓の外は、少し暗くなっていた。まだ時間は昼過ぎだが、今日は夕方頃から雨が降ると天気予報で言っていた。もしかしたら、かなり強い雨になるかもしれないと――
僕たちの乗った電車は、いつの間にか山の中に差し掛かっていた。
「明日香さん、景色に興味があるんですか? 今日、出発する前は、あまり乗り気じゃないみたいでしたけど」
っていうか、東北行きが決まったときから、あまり乗り気ではなかったみたいだけど。
「どうせ行くからには、少しでも楽しもうと悟ったのよ」
と、明日香さんは、目を閉じて言った。
なんか、格好いいな――しかし、悟るなんて、そんな大げさな。
ちなみに僕は、明日香さんとこうやって二人で、東北旅行のようなことができて、とても嬉しいのだ。
「そういえば、
と、明日香さんが、目を開けた。
「明日菜ちゃんですか? 明日菜ちゃんなら、電車の中を探検してくると言って、後ろの車両の方へ行きましたけど」
そうだ、すっかり忘れていた。僕は、明日香さんと二人きりではなかった。
明日香さんの妹の、明日菜ちゃんも一緒だったのだ。
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