第1話

「そうなんですよ! それが高校野球の大きな魅力であり、醍醐味なんですよ!」

 と、僕の隣に座った男性は、高校野球について力強く語った。

 本当に、力強くというか、熱すぎるというか、うざいというか――

 もちろん、本人に対して、「うざいですよ」とは、直接は言えないのだが……。

 それは何故かというと、この男性は、数十分前に出会ったばかりの、見ず知らずの赤の他人だからである。さすがに、見ず知らずの人に、うざいなどとは言えない(知っている人にも、あまり言いたくはないけれど)。

 申し遅れたけれど、僕の名前は、坂井明宏さかいあきひろ。25歳の探偵助手だ。

 詳しい自己紹介は、後ほどするとして――


 何故、僕が、この見ず知らずの男性と高校野球の話をしているのかというと(まあ、しゃべっているのは、ほとんど男性一人なのだが)。

 ちなみに、僕は今、東北地方のとあるローカル線の電車に乗っていた。

 何故、こんなところにいるのかの説明も、後ほどするとして――

 男性が、野球雑誌を読んでいるのを見て、野球好きの僕としては、ついつい軽い気持ちで、「野球が、お好きなんですか? 僕も好きなんです」と、声を掛けてしまったのだ。

 そう――のである。

 もしも、タイムマシーンのような物があるのならば、数十分前に戻って、僕に言ってやりたい。その男性に、話し掛けるな――と。

 というわけで(どういうわけだ?)、僕たちの座席にやって来た男性の高校野球談義が、かれこれ数十分止まらないのである。

 確かに、僕も野球が好きなのだが、どちらかというと僕が好きなのは、高校野球ではなくプロ野球の方なのだ。

 しかし、僕の方から声を掛けたのに、「もう、結構です」とは、なかなか言えない。もちろん、高校野球も嫌いではないけれど……。

「ねえ、坂本さかもとさんも分かるでしょう!」

「は、はぁ、そうですね……」

 僕の名字は、坂本ではなく坂井なのだが、あえて訂正はしなかった。

 というのも、すでに何度か訂正したのだが、一向に覚える気配がないのである。だから、もう諦めてしまった。

 しかし、僕の聞いたこともない珍しい名字の高校野球の選手名が、すらすらと出てくるのだ。坂井という簡単な名字くらい、覚えてほしいものである。

「ちなみに、坂本さんは、どちらの都道府県の出身ですか?」

「えっ? 僕ですか? 鳥取県ですけど」

「あぁ、鳥取県ですか」

 と、男性は少し困ったような表情を見せた。

 そう、僕は高校野球があまり強くない、鳥取県の出身である。きっと男性は、まずいことを聞いたと思っているのであろう。

 しかし、僕も高校時代に野球をやっていたが、鳥取県があまり強くないのは事実である。そのことを聞かれたからといって、別に何とも思わない。

「ちなみに、お隣のお嬢さんは?」

 しかし、男性は気をつかったのか、僕の隣に座る女性に話を振った。

「…………」

「あれ? おやすみになられてます?」

「そうみたいですね」

 と、僕は明日香あすかさんを見ながら言った。


 僕の隣で眠っているこの女性は、桜井さくらい明日香さん。

 僕の雇い主の、探偵だ。年齢不詳(多分、僕よりも少し上だとは思うけど、僕が聞いても、何故か教えてくれない。30代前半の兄と、21歳の妹がいることは分かっている)だが、とても綺麗な女性だ。

 そして、今は座っているので分かりにくいけど、身長も高い。明日香さん本人は、168センチくらいと言っているけど、どう見ても169センチの僕よりも少し高いのだ。どうして、そんな嘘をつくのか分からないけど、僕は、そんな明日香さんに惚れているのだ。

 なんとか上司と部下の関係から、恋人になれたらなぁ……なんて思っている。

 しかし、明日香さんには、その気はないようだ……。

 僕がどうして、明日香さんの事務所で働いているのかというと、僕はこう見えても、探偵としてとても有能なのだ――というわけではない。

 2年くらい前に、とある事件に巻き込まれた僕を助けてくれたのが、明日香さんだった。

 その後、何故か分からないけど、明日香さんに助手としてスカウトされたのだ。そして、明日香さんに惚れていた僕は、すぐに助手となり、今に至るというわけだ。


 ちなみに、今、隣で眠っている明日香さんだけど、おそらく本当は起きている。この男性のうざさに我慢できずに、寝たふりをしているのだ。

「起こすのは悪いですね」

 と、男性は言った。

 どうやら、これで話も終わりそうだな。僕が、ほっとしたのも一瞬だった。少し声のボリュームを抑えて、再び高校野球談義が始まった。

「そうそう忘れるところだった。いやぁ、思い出してよかった。実は、この電車に、僕が好きだった元高校球児が乗っているんですよ。偶然、見掛けたんですけどね。多分、一番後ろの車両に乗っているんじゃないかな?」

 と、男性は嬉しそうに言った。別に、そんな話は忘れたままで、かまわないのだけど。

 ちなみに、僕たちは一番前の車両に乗っている。

「は、はぁ、そうなんですね。それじゃあ僕なんかよりも、その元高校球児の方とお話しされては?」

「いやいや、プライベートを邪魔するなんて、僕にはできませんよ」

 と、男性は笑った。

 いやいや、元高校球児っていっても、一般人でしょ? プロ野球選手じゃないでしょ?

 まるで、芸能人や有名人のプライベートにでも、出くわしたような感じだ。

「そ、そうですか」

 きっと、この男性にとっては、元高校球児というのは、そういう対象なのだろう。

「それで、その選手なんですが、左投げ左打ちのいい選手だったんですよね。そして、その選手の名前が珍しくて――」

 と、男性が言い掛けたとき、電車がゆっくりとスピードを落とした。

「あっ! すみません。僕、ここで降りるんで」

 と、男性は、まだ電車が完全に止まる前に立ち上がった。

「申し訳ない、もう少し話していたかったでんすが」

 と、男性は謝った。

 いえいえ、もう充分ですよ。と、僕は心の中で言った。

「そうだ。僕は、こういう者です」

 と、男性は言うと、カバンから何かを取り出して、僕に渡した。

「名刺ですか?」

「ええ。特注の、ホームベースの形をした名刺です。出版社の人に頼んで、特別に作ってもらったんです」

「出版社?」

「はい。僕、こう見えまして、漫画家なんです」

「漫画家? 漫画家って、名刺なんて持っているんですね」

「ホームベースの形と野球ボールの形で、迷ったんですけどね。出版社の人には、面倒だから普通の形にしてくれなんて言われたんですけど」

 と、男性は笑った。

「もし、高校野球のことで聞きたいことがあれば、連絡ください。高校野球のことなら、そこらの詳しいと言っている芸能人なんかよりも、僕の方が詳しいですよ。それじゃあ」

 と、男性は言うと、電車から降りていった。

 まあ、連絡をすることなんて、ないだろうけど。そう思いながら、僕は名刺をしまった。


「うーん……。明宏君、おはよう。あら? あの男性は、もう降りたのね」

 電車が再び走り出すと、明日香さんが目を開けた。

「はい――っていうか、明日香さん起きていましたよね?」

「寝ていたわよ」

 と、明日香さんは否定した。

「ねえ。さっきの名刺、ちょっと見せて」

「えっ? 名刺ですか? これです」

 と、僕は、さっきもらった名刺を取り出した。

「って、明日香さん、やっぱり起きているじゃないですか」

 どうしてさっきまで寝ていた人が、名刺をもらったことを知っているんだ?

「ふーん……。漫画家ね。槙野政夫まきのまさお――知らないわね。有名な人ではないのかしら?」

 と、明日香さんは言うと、名刺を僕に返した。

「まあ、漫画家といっても、たくさんいるでしょうからね」

 実は、僕も知らない。結構、マイナーな雑誌だったり、インターネットに掲載されているような漫画もあるしな。

 僕は、携帯電話を取り出すと、槙野政夫さんを検索してみた。

「えーと……。槙野政夫さんは40歳で、高校野球漫画をたくさん書いているみたいですね」

「そう。明宏君、自分が野球が好きだからといって、知らない人にむやみに話し掛けないでよ」

 と、明日香さんは、少し不機嫌そうに言った。

「すみません、つい……。まさか、あんなに話が止まらないとは思わなかったので」

 と、僕は謝った。

「おかげで、景色を見ることができなかったわ」

 と、明日香さんは、窓の外を見ながら言った。

 窓の外は、少し暗くなっていた。まだ時間は昼過ぎだが、今日は夕方頃から雨が降ると天気予報で言っていた。もしかしたら、かなり強い雨になるかもしれないと――

 僕たちの乗った電車は、いつの間にか山の中に差し掛かっていた。

「明日香さん、景色に興味があるんですか? 今日、出発する前は、あまり乗り気じゃないみたいでしたけど」

 っていうか、東北行きが決まったときから、あまり乗り気ではなかったみたいだけど。

「どうせ行くからには、少しでも楽しもうと悟ったのよ」

 と、明日香さんは、目を閉じて言った。

 なんか、格好いいな――しかし、悟るなんて、そんな大げさな。

 ちなみに僕は、明日香さんとこうやって二人で、東北旅行のようなことができて、とても嬉しいのだ。

「そういえば、明日菜あすなはどうしたの?」

 と、明日香さんが、目を開けた。

「明日菜ちゃんですか? 明日菜ちゃんなら、電車の中を探検してくると言って、後ろの車両の方へ行きましたけど」

 そうだ、すっかり忘れていた。僕は、明日香さんと二人きりではなかった。

 明日香さんの妹の、明日菜ちゃんも一緒だったのだ。

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