書架に眠る

十一

小説にできること

 ぼくは待っている。ただ手に取られるのを待ち続けている。

 最後に貸し出されたのはいつだったか思い出せない。ハードカバーの硬い裏表紙の裏には紙製のポケットが糊付けれていた。しかし、それはかつて貸出カードが使用されていた時代の名残でしかない。現在は、背に貼られたタグによって貸出記録はコンピュータ管理されている。データを参照しない限り読者の手に渡った日付を把握する術はない。それはぼくには到底知り得ない情報だった。図書室の奥の棚に追いやられ半ば置物と化したぼくには、気まぐれにやってきた誰かが手をのばしてくれるのを待つことしかできない。


 室内はいつも静寂に包まれている。利用者がいないわけではない。レファレンスカウンター横の新刊棚に面陳されていた時分には、放課後になると、部屋の中央に並んだテーブルの島が勉強をする生徒で埋まるのを幾度となく目にした。公立の進学校のこの学校では、図書室は読書をするための場所というより、自習室としての側面が強かった。それは今でも変わっていないものらしく、ひっそりとした空気のなかわずかに響いてくるのは、ペンの走る音や、紙のこすれる音くらいだった。話し声は愚か、足音さえもほとんど聞こえてこない。生徒は皆、机に向かい勉学に勤しんでいるのだろう。


 この書架がある区画に人が立ち入ることはほとんどない。隣や、上下別の段、あるいは向かいの棚の書籍もまた、ぼくと同じく隅へと追いやられた仲間たちだ。誰もが現状を認識しながらも、愚痴や嘆きの言葉をこぼし合ってお互いを慰めたりはしなかった。ぼくたちは読まれるために存在しているのだ。言葉は発するためにあるのではない。この身体の一頁一頁にびっしりと刻まれた細かな文字こそがぼくの言葉だ。誰もがそれを理解し、諦観とも悟りともつかぬ境地で、ただ一言もなくじっとその時に備えている。


 ぼくたちの日常はただ静かに過ぎていく。

 その日は、珍しく入り口のほうで人の話し声がしていたが、会話はすぐに途切れてしまった。耳になじんだ沈黙が横たわり普段通りの空気が戻って来た。そう思っていた。


 しかし、足音がしていた。それも、音はこちらへと近づいて来る。

 棚の切れ目から一人の女生徒が顔を出す。メモ用紙だろうか、冬服の制服姿の彼女は手に持った紙切れと棚を往復させるようにしなが周囲を見回している。天井まである棚の中段よりやや上に居るぼくよりも頭の位置が低い。。短く切りそろえられた髪に加え、この季節にも関わらず日に焼けた褐色の肌は溌剌とした印象があった。運動部で活躍していそうな雰囲気で、図書室、それも薄暗い奥にいるのがそぐわないように思えた。


 視線を彷徨わせながら狭い通路を進み、やがて一つの棚の前で足を止めた。彼女が見上げる目線の先にはぼくがいた。

 つま先立ちになってのばした彼女の指は、ぎりぎりの所でぼくにかからない。


「まゆき、あったー?」

 どこからともなく現れた生徒が声をかけつつ近づいてくる。まゆきと呼ばれた生徒とは対象的に背が高かった。髪もロングで、肌は透き通るような白。

「うん」

 けど届かないと言うまゆきの隣に並んで、ロングの少女は少し身を折るようにして紙切れをのぞきこんだ。

「どれ?」

 まゆきはぼくを指さしていた。しかし、ロングの少女はメモでタイトルを確認して納得したように頷き、背伸びをするまでもなく楽々とぼくを棚から抜き出した。そのまま、まゆきの伸ばした手にぼくは渡される。

「ありがとう、かなた」


「けどさ、こんな本うちの高校に置いてあったんだね」

 まゆきに両手で支えられたぼくの表紙を見下ろしながらかなたがつぶやく。

「この本、有名なん?」

「どうなんだろう。昔流行ったらしいけど、著名ってほどではないんじゃないかなー」

 そうだ。生徒からのリクエストが多数あって入荷され、予約の順番待ちが出るほどの本だった。しかし、数冊あったうちの他の本は複本として廃棄され、残っているのはぼくだけとなってしまった。


「へぇ、じゃあ面白いん?」

「どうなんだろう」

 かなたはまた曖昧な言葉を返した。

「流行ったんなら面白いんじゃないん?」

「そうなのかもしれないけど」


 それから、かなたはぼくを知ったきっかけについて語った。

 彼女にはデビューから追いかけている作家がいた。大きな賞こそ取っていないものの、新進気鋭の若手作家として出版社に推されているらしく、最近出た新刊を記念し雑誌では大々的な特集が組まれたという。

「インタビューで読書遍歴が語られててさ-、そこでこのタイトルを知ったんだよね」

「思い出の一冊みたいな?」

「そうそう、まさにそんな感じで紹介されてたんだよね」

「じゃあ、やっぱり面白いんでしょ」

「それが単純にそうとも言えなさそうなんだよね」


 その作家はインタビューに先駆けて再読をしたという。読書経験も積み、プロの作家となった彼は当時のように純粋に物語を楽しめなかった。小説で食べている身から見ると、粗の目立つ小説で、書き直したいと感じる部分が山ほどあった。キャラクターの掘り下げの浅さや、物語としての構造の歪さもあった。具体例をあげながら彼はそのような内容を語った。この本の作者が以来ヒット作を出せず燻っているのは、そうした欠点を埋められず書き手として成長しなかったからではないかとも。


「うっわ、その人感じわる!」

 まゆきは自分の声の大きさに驚き、それからここが図書室であったとようやく思い出したのかトーンを落として言葉を継ぐ。

「この本の作者って、その人からしたら先輩なわけじゃん。それを普通そんなこという?」

「まあ、言い過ぎかもしれないけど、そのあとがあって――」


 たしかに、欠点の多い小説でした。けれど、そうして瑕疵を認めながらも、不思議なことに文章を追っていると当時の思い出がまざまざとよみがえり、子供のころの素朴で瑞々しい感情が思い起こされるのです。けして完璧な小説ではありません。もっと優れた物語はほかにもあるでしょう。しかしそれでも、あのころの私にとって寝る間も惜しんで文章に溺れたその時間は至福のひとときでした。ただただ読書を楽しんでしました。そして、その記憶はいまなお色あせていないのだと、再読によって思い知らされました。だからこそこの本は私にとって特別な、人生の一冊なのです。そんな言葉で閉じられていたという。


「やっぱり面白いんじゃん」

「でもダメなところもあるって」

 かなたが言い終わらないうちに、まゆきはぼくの表紙を撫でながら「あたし、これ読んでみよっかな」と漏らす。

「あんた、本なんて読まないでしょ」

「そんなことないけど? かなたはこの本読まないん?」

「読まないよ」

「えっ。でも好きな作家が人生の一冊だって言ってるんだよ。気にならない?」

「あのさ、考えてもみなよ。毎日のように新しい本が出版されってるんだよ。ほんの一時期流行っただけの本をいまさら読んでなんになるっていうのよ。こんな古くさいの読むくらいだったら本屋で適当に新刊買って読む方がよっぽどいいよ」


「かなたがその作家好きな理由がいまちょっとわかった気がする」

「どういう意味それ」

「別に。あたしこれ読むから。先生とこ行って来る」

 まゆきはぼくを小脇に抱えて、逃げるようにして棚の間の小道を抜けていく。

「あ。こら、走るな」

 後ろから飛んでくるかなたの声にも頓着せず、カウンターまで駆ける。


「先生! あたし、これ読みたい。どうしたらいいですか」

 久しぶりに見た司書教諭は、少し老けたようにも見えたし、全然変わっていないようにも見えた。前回彼女の顔を拝んだのはいつだったか曖昧なせいもあるが、なにより人間の時間の尺度はぼくたちと違いすぎる。形状がずっと一定のぼくたちからすると、成長し、老いていく人の変化を捉えるのは困難だった。

「いま処理するから待っててね」


 司書教諭が判を押す。そこには除籍と記されていた。

 除籍印。つまり、ぼくは破棄される。晴天の霹靂だった。予兆がなかった。たしか、図書室の籍を抹消されるとなる本はあらかじめ現物をあたりチェックが入るのではなかったか。そう考えたところで気づく。それは図書カードがあった時代の方法だ。現在では貸出記録や目録はコンピュータによって管理されている。


 いつか訪れるとは理解していた。時代を経てなお読み継がれる名作や話題となっている新作でもない。ぼくは、かつては人気を博したもののいまでは時代遅れとなり誰にも借りられなくなった本だ。限りある棚のスペースをそんなもので占有してなどいられない。新しい本が入ってくれば追い出されるのは当然だ。


「これでもういいの?」

 まゆきの質問に答えて司書教諭が除籍について説明を加える。押印された本は段ボールに入れられて職員室前に置かれる。生徒はそこから好きな本を自由に持って帰れるというシステムらしい。市の図書館と相互貸出が可能なものは寄贈という形になるようだが、除籍になったのだからぼくは重複していたのだろう。


「図書委員なのにそんなことも知らなかったの。あきれるわ」追いついて来たかなたが嘆息する。「ほら、まだ仕事残ってるんだから」

「待って。これ仕舞っておく」

 まゆきによってぼくは、机に置いてあったスクールバッグに入れられる。教科書をかき分けて強引に底へと押しこむその扱いで、ぼくは悟ってしまう。


 きっとぼくは読まれない。彼女はいまでこそ興味を覚えているかもしれないが、いずれ感情は薄らいでいってぼくを鞄に入れたことさえ忘れてしまうだろう。

 鞄から出されたぼくは学習机に放り出されそのまま放置される。あるいは押し入れ深くで眠ることになる。もっとひどければ、本としてではなく、間に合わせの鍋敷きとして最後を迎えたりするかもしれない。


 しかし、それでも良かった。ぼくのこの身体に刻まれた言葉はしっかりと届いていた。誰かの思い出になっていると知れた。それで十分だ。

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