第二章:このまま

 眠い。ものすごく眠い。

 数学の授業、ほんっとに、眠くなる。

 カクンっと落ちそうな首を必死で上に向ける。けど眠い……無理……。


樫木かしぎさんっ」


 あんまり聞き覚えのない声に呼ばれる。一気に意識が戻った。


「えっ……あ、はい!」


 顔を上げると、そこにいたのはクラスメートの女の子だった。それはわかるんだけど……名前、まだ覚えてない。

 とにかく、活発そうなボブヘアがかわいい。


「眠そうだね〜。大丈夫?」


「大丈夫! どうしたの?」


「あ、えっとね……大したことじゃないんだけど」


 彼女は、髪を軽くかきあげながらはにかむ。


「お昼、一緒に食べない?」


 ……お昼……あ、そっか、もうそんな時間だ。

 眠すぎて時間感覚が麻痺してた。こうしちゃいられない、璃桜が待ってる!


「ごめん……! 友達と約束してるんだ。行かないと……」


 鞄からお弁当を取り出しながら謝ると、ボブの彼女は両手を振った。


「あーっ、全然! 大丈夫だよ!」


 よかった、気の良い子で……。


「友達、他のクラスの子?」


「ん? ああ、うん、そうなの。璃桜って子なんだ」


「璃桜、ちゃん……?」


「そうそう! じゃあ、私、行くね。よかったら、今度一緒に食べよう!」


「あ……うん!」


 お弁当を持って、駆け足で教室を出る。

 ドアをくぐったところで、ボブのあの子を振り返る。彼女は、近くの机に座っている別の女の子と話していた。ざわめきにかき消されて、何を話しているかは全く聞き取れない。けど……表情だけ見ると、だいぶ真面目な話みたい。

 何だろう?

 ……まあ、いっか。今は、璃桜が待ってる。


  *


 誰もいない美術室。

 他の生徒からしたら『美術の授業くらいでしかいかない、あんまり存在感のない教室』だろうけど、美術部の私たちからすれば、教室よりも馴染みのある空間。

 そんな部屋の端っこにある机に、ふわふわおさげが突っ伏していた。


「お待たせー」


 声をかけると、ゆっくりと璃桜が顔を上げる。……おでこに、袖のシワと同じ形の痕がついてる。


「……璃桜、眠いの?」


「眠い……。日本史、眠い……」


「あー、わかる……あの先生、お経みたいな喋り方するよね」


「そうなの……ねむい……」


 さっきまでの私みたいに、璃桜の頭がかくかくしている。今の彼女は、食欲より眠気のほうが強そうだ。


「どうする? お弁当食べるより、いっそ寝ちゃう?」


 尋ねてみると、璃桜はゆるゆると首を横に降った。


「おべんと〜……たべる」


「いや、めっちゃ眠そうですけど。赤ちゃんみたく、食べながら寝そうな勢い」


「それはない……」


 かくかくが、ゆっくり止まった。椅子に座った私の隣で、璃桜はお弁当を開け始める。私もお弁当の蓋を外して、いただきます、と両手を合わせた。

 いつも、前の夜にお母さんが作っておいてくれているおかずを、お兄ちゃんが詰めてくれるお弁当。お兄ちゃんは几帳面だから、今日のお弁当も綺麗。


「……あ、そうだ、璃桜」


 煮物を飲み込んでから、タコウインナーを頬張っている璃桜に顔を向ける。


「ん〜?」


「さっき、うちのクラスの子がね。お昼、誘ってくれたんだよ」


「おお〜。いいじゃん」


「その子とー……あと、その子の友達もか。みんなで食べる、ってなっても、璃桜は大丈夫?」


 水筒からお茶を一口飲んだ彼女が、にっこりする。


「うん、私はそれでもいいよ」


 ……ほんとかあ?

 思わず疑心の込もった眼差しを向けると、璃桜がたじろぐ。


「え、何、どしたの」


「……無理してない? 璃桜、結構人見知りするでしょ」


「あはは……まあ、そうですけども」


 照れるように、言い訳を考えるように、彼女の視線が泳いでいる。


「でも、ほら〜……学生のうちにさ、ある程度慣れておいたほうがよくない?」


「それはそうかもだけど。でも、無理はしなくていいの!」


「だって……沙羅ちゃんにとっても、新しい友達ができるチャンスじゃん?」


 そう言う璃桜の顔が、少し心配そうに見えた。

 きっと璃桜は、私が新しいクラスで孤立してないか、心配してくれているんだと思う。璃桜だけじゃなくて、実は私もわりと人見知りだから、知り合いのいないクラスは苦労する。

 ……けど。


「そうだけどー……別にそこまで執着しないよ」


 眉を下げる璃桜に、明るく笑ってみせる。


「私は、璃桜がいればいいかなー、って思ってるし」


 言い終えてから、卵焼きを頬張る。

 ……不意に、璃桜の指が片頬にそっと刺さった。


「も〜……口が上手いな〜、沙羅ちゃんは」


「いやあ、それほどでも」


「褒めてるわけではないからね〜。他の友達もつくらなきゃだめだぞ〜」


 ついついとつつかれながら、卵焼きを飲み込む。

 馴染んだ部屋。おいしいお弁当。隣には、親友がいる。

 新しい知り合いをつくらなくっても、私にとっては、今の状況がとっても幸せ。

 だから……このままがいい。

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