11.誘拐犯のユイゴン

「翔様?……お疲れなのですね。メールが……『死神の鎌は生者の魂を狩り、死神の接吻は死者の魂を呼び戻す』……?」

「ん……あ、ごめん。御嬢、どうかしたのか?」

「いいえ、翔様。何かの間違いですわ」

(影武者『芳夜』星野 瞳と天地 翔の車中での会話録音より)


 ……江ノ島の爆発現場の捜索と検証は夜通し行われ、一応の収束をみたのは翌日の昼過ぎだった。懸命の捜索にもかかわらず、主犯格の容疑者と人質となった美智瑠は、行方どころか生死さえ不明とされる程に髪の毛一本さえ残さず爆発で消し飛んでしまっており、限りなく絶望的な状況だった。

 後味の悪い形で事件が幕を下ろした翌日の夕方、警察と芳夜が所属する明星プロダクションによる合同記者会見が開かれた。

「人質は救出されたが意識不明で重体。クルーザーにいた犯人達は自爆して全員死亡」

という要旨のみが警察から伝えられ、

「容疑者が全員死亡したため、動機や目的など不明な点が多いが、事件の全容解明に全力を尽くす」

とのコメントが添えられた。

 警察発表に関係者として同席した希さんは、カーヤの無事だけを話し、その他は、

「捜査中ですのでコメントは差し控えさせて頂きます」

とテンプレの模範回答をした。

 一部マスコミが傍受した無線の録音らしきものを根拠にして事実の隠蔽だとして詰め寄ったが、逆に捜査責任者として会見に対応した白鳥から警察無線傍受の疑いをかけられ、不完全燃焼に終わった。

 情報に飢えた人々がたどり着いたのは……カーヤが出演するワイドショーやカーヤ公式HP、そしてミッドナイト・チャンネル。結局、翔様とカーヤ、そして誘拐された当事者である私・星野瞳にしわ寄せが来たのは言うまでもない。


 事件から数日後、六本木にある芳夜御殿の一角では愚痴とボヤキが飛び交っていた。

「カーヤ、急いで!探偵さんが下に車を回してあるから」

「カー君、何やってるのよ!いつまでもパソコンを弄ってないで、あと10 分で本番始まっちゃうよ」

「白鳥の奴、何が『後始末は任せておけ』だ?最初から最後まで俺達に押し付けやがって!」

「何をバカな事言って。お仕事が向こうからやって来るうちが華よ」

「……希さん」

 いつの間にか社長が翔様の仕事部屋の入り口に立っていた。

「ほらほら、ボヤいている暇があるならお仕事、お仕事」

「そうそう、お前らが活躍しないと俺の大人の魅力が半減するからな」

 どこにどう隠れていたのか、社長の後ろから荒城廉太郎が現れた。

「ゴメンね、瞳ちゃん。影武者なんかをさせちゃて」

 社長は私の見た目を利用することを思いついたのだ。

「どうせ、希さんから『どうせパパラッチやマスコミに追いかけられるのなら、影武者とかどう?』とでも唆されたんだろ?」

「あら、人聞きが悪い事を」

 社長は俺達三人の背中を押して部屋の目の前にあるエレベーターに乗り込む。

「なんで貴方が乗ってるの?荒城廉太郎」

 希さんは怪訝な顔をアニキに向ける。

「決まってるだろ、希……じゃなかった社長、仕事だよ、仕事。カーヤのお目付役でワイドショーに」

 希さん、じゃなくて明星社長は、飛び交うマスコミのヘリやら、芳夜御殿の正面出入り口に殺到している取材陣を見上げ見下ろしながら、咳払いをした。

「失言には気をつけて。警察から了解が出なければ、何を聞かれても……」

「あー、わかってる」

「本当に大丈夫かしら。カーヤ、荒城君をお願いね。それと瞳ちゃん、今回の埋め合わせは必ずするから、……ほら、あなた達からもよく謝るのよ」

「わかってますよ」

 二人の『カーヤ』と翔様の視線が交じる。

「ねえ、カー君てば」

 銀のチョーカーを着けたカーヤが翔様に訊いた。

「俺達が御嬢をサプライズ・ゲストとして誕生日パーティーに呼ばなければ、巻き込まれなかった」

「『私達が原因』で『迷惑』をかけた訳ね」

「私、迷惑だなんて」

 金のチョーカーの芳夜=影武者の私が瞬きをしながら、控え目に答える。

 地上近くになり、再びエレベーターは建物内に入る。壁面のインジケーターが地下駐車場を示し、扉が開いた。

「はいはい、世間話はそれまで。さあ、お仕事、お仕事。しっかり稼いで来るのよ!」


 二台のリムジンはほぼ同時に、それぞれ全く反対側の出入り口から車道に出た。追っ手は右往左往する。どちらが本物なのか、全く見分けがつかないだろう。しかし車内は至って平穏だった。

「どちらまで?」

 珍しく女性ドライバーだった。

「どちらまでって、俺達知らないんだけど」

「フフン、やーね、私よ私」

 翔様より先に『芳夜』が言った。

「葉月さん?」

「ビンゴ!」

 運転席との隔て壁が下がり、助手席にいたヨーコさんが顔を覗かせる。

「週刊誌の対談の連チャンよ。聞いてなかった?」

「聞くも聞かないも、初耳だよ、そんなの」

「……私、対談なんて出来ません」

 車窓の中の影武者という位置付けが、私の役どころの筈だから、当然と言えば当然だ。表情を曇らせた私を見かねて、声をかけてくれたのは、ヨーコさんだった。

「ノー、プロブレム。だって撮影だけだもの」

 翔様が疑問符を付けたタイミングが、シンクロした。

『どうして?』

「元祖カーヤとだけあって、息が合ってるわ、あなた達」

『たまたま、だ(です)』

「ほらね。まあその方が今回は都合がいいし。『時間がないから撮影と、インタビューは別々で』っていう条件で社長が了承したって、……あなた達、これも知らないの?」

 ヨーコさんは抜け目がない人だ。翔様はワザとタイミングを外したつもりだったのに。

『知りません』

 翔様が笑いをこらえている。私と同じように考えていたらしい。

「で、興味本位で聞くけど、あなた達の関係って、どうなの?」

「どうって……幼なじみで友達、カーヤのボディ……データ提供者とテクニカルディレクターだけど」

 翔様の模範回答にヨーコさんは渋い顔をする。

「過去に鞭打つつもりはないけど、あれだけの事があっても?」

 ヨーコさんが言ったのは、中学生偽装心中事件当時の誤認と誤報、捏造と憶測だらけの報道を事実と信じたとしたら、の場合の話。黙って聞いていたけれど話題を変える為に、私は切り出す。

「私は救出されたバラ園で、翔様と約束をしました。『還ったら、私に全てを話す』と。今迄私は私一人で見聞きしたことだけで思い考えてきました。以前、翔様にもう後戻りは出来ないと、聞かされた時はショックでしたが、今は違います。『願えば叶う』。翔様が私に教えてくれた言葉を、ずっと私は信じています」

「そうだったな。カーヤとの約束は守ったけど、御嬢との約束はまだだったよな……今夜、亜望丘に来るか?」

「翔様、私と二人きり?」

「いや、そういう意味じゃなくて」

「翔君、私、お邪魔かしら?」

「ヨーコさんにも参加してもらいます。カーヤの専属カメラマンとしてね。……あれー、聞いてなかったですか?今晩のミッドナイト・チャンネルは亜望丘でやるって。リスナーへのプレゼントにカーヤのサイン入り生写真をするから、ヨーコさんが撮影するって、聞いてたんですけど」

「そうだったっけ?」

「やだなー、ヨーコさん、まだ三十路前なのに健忘症?」

「バカな事を言って、大人をからかわないの。翔君、瞳ちゃんを呼ぶって……二人のカーヤが生出演?」

「ガッツリ数字取れるだろうなあ……」

 翔様とヨーコさんは、私の首にキラリと光る金のチョーカーに目を向けた。

「御嬢との約束は、放送が終わってから話すよ。……今夜は帰さないからね」

「カーヤが聞いたら怒るわよー。いいとこ『シークレット・ゲスト』とでもしといたら?私から社長に言って用意してもらう。今回の件は何か形にしないとスッキリしないって、ボヤいてたし。瞳ちゃん、それでどう?手を打たない?」

「でも、私、ラジオで何を話たらいいかわかりません」

「な、頼むよ。俺とカーヤがシナリオ作っておくからさ」

 勾玉の形をしたゴールドを揺らしながら、私はしばらく考えてから答えを出した。

「……翔様がそこまでおっしゃるのなら……仕方ありませんわね」


 キャストの変更やら、台本の変更手配やら、ヨーコさんの撮影やら、一通りの仕込みが終わり、後部座席が隔絶され二人きりになってから、翔様はだだっ広い車内を徐々に移動して私の隣に腰を下ろした。

「御嬢とゆっくり話をしたかったんだ」

 私は翔様を見上げるようにして、翔様を責めた。

「言い訳はしない……。いや、でも忘れていた訳ではない」

「そうでしたわよね。色々お気遣いいただいて、ありがとうございました」

「なんか、改まって、御嬢から礼を言われるのはこそばゆいな」

「おかしな翔様」

 口元に微笑を浮かべた私に、もっと厳しい詰問を想定していた様子の翔様は、胸を撫で下ろしたようだった。すかさず私は問いかける。

「翔様、今でも私のことを好きですか?」

「……何だよ、唐突に」

「答えてください。直ぐに助けに来なかった罰です」

「罰か……それだったら、いや何でも無い。……答えればいいんだな?」

「はい。答えていただきます」

「俺は好きだよ。今も昔も」

「嘘」

「嘘なもんか」

「そうですか……そうでしたか……そうなんですね」

 膝の上で両手をギュッと握りしめる私。カーヤなら、容赦なく翔様に抱きついていることだろう。私と翔様には、まだ越えられない壁がある事を知った。

「ふ〜良かった、罰がそれだけで」

「翔様、意地が悪い」

「そうか?」

「そうです!」

 あとの話は翔様にはどうでもいい内容だったに違いない。ただ、そんなどうでもいい話に付き合ってくれる翔様は、私にどことなく芳夜の面影を感じて、相槌を打っていたに過ぎない。翔様の瞳はどこか別の世界を眺めているようだったから。翔様は無意識のうちに思索の深遠をさまよっていたせいか、自身では気付いていない独り言を呟いていた。

「……定時同期のversion.1の弊害を排除するために、定時同期を廃したversion.2の筈だが、実際は常時同期、それも心身共に御嬢が芳夜に反映される事実。この未知の現象がアクシデントの原因になった場合、対処不能になりかねない。ラボに篭もって解決したいのは山々が、生憎すぐには、まとまった時間が取れそうにはないか……」

「翔様、いかがなさいました?」

「御嬢に話すタイミングがなくなるかもなんて、思ってさ」

「もう、そんな事をおっしゃって、誤魔化すつもりですか?」

「まあ、その時がくればわかるさ」

「随分、自信がおありなのですね」

「さあ、どうだか。御嬢は、みんなカーヤに興味があると思っているんだろ?意外だろうが、そうでもないさ。犯人と直接接触したのは御嬢だし、迂闊な事は聞けない。差し障りわりが無いのは、俺だけだ。但し俺はガードが固いと思われているから、矛先が向くのは……」

「私ですか」

「心配するな。『奴ら』から御嬢を守るよ、俺がね」……


 瞼に広がる漆黒の視界から解放されると、そこには白い天井と灰色の窓があった。

「夢……だったのね」

 混濁する記憶を辿りつつ辺りを見回し、ここがどうやら病院らしいと理解するのに、さほど時間はかからなかった。

 寝台の脇に冷蔵庫の付いたサイドテーブルがあり、そこに一片の走り書きが置かれていた。翔様の手による、余りにも素っ気ないものだった。

『約束通り、戻った。また来る』

 フッと息を吹きかけてメモを床に落とそうかと一瞬思った。が、ふとあることに思い当って止めた。メモを裏返すと、……あった。 

 『お前の寝顔』と書きかけて、打ち消すように複雑な線でかき消された脇の白紙の部分に、微かに凹凸があった。天井の灯りに透かしてみたり、傾けて陰影を浮かび上がらせたりするうちに或る事に思い当たる。……翔様の伝言だ。

 サイドテーブルの引き出しを開けるとレターセットがあり、その傍らに鉛筆があった。凹凸の部分を鉛筆でなぞって浮かび上がらせると……、『早くここから出た方がいい。あの時と同じだ。テレビを見ればわかる。白鳥は要注意』。

 私と翔様で『あの時』といえば、私達を深く傷付けた『中学生偽装心中事件』に他ならない。背筋に悪寒が走るのをこらえつつ、早速テレビをつけながら疑問符がよぎる。ハクチョウって?

「……で、ここで疑問が湧いてくる。どうして規制線をあそこまで広げる必要があったのか?」

「誘拐事件にしては大袈裟過ぎるよな」

「映画の撮影だったとか?」

 コメンテーターが揃って首を傾げて沈黙すると、満を持して図ったかのように話し始めた人物がいた。

「ちょっと、いいですか?」

「ああ、ご紹介が遅れまして済みません。警視庁 サイバー犯罪対策室の……」

「シラトリです。よろしく。コメンテーターの方々のご意見に出来る限り答えさせて頂ききます。尤も、現在進行中の捜査に支障のない範囲で。情報公開が少ない中での皆さんの疑問や仮説はごもっともだと思いますよ」


——「カー君、『あれ』どう思う?」

「わざわざ矢面に立とうなんて、何か魂胆があるんだろ」

「それはわかるわ。じゃなくて」

「裏をかかれたかもな」

「でしょ?」

 私、葉月陽子が調 芳夜の専属カメラマンを始めてから、この二人は或る意味で私の期待を裏切り続けてくれている。

「ねえ、ヨーコさん。また変な事考えてたでしょ?」

「どうして?」

「だって、カーヤを舐め回すように見てたもの」

「やっぱりな」

「何がやっぱりなの?」

「別に珍しくないし、驚きもしないけどね。な、カーヤ」

「そうね」

「何よ、その意味深な言い方」

 不満気な私を見た二人はコロコロと笑い出す。

「やだなー、ヨーコさん。ヨーコさんの事じゃなくて、白鳥、奴のことだよ」

「あのね、カー君は『奴に人質に捕られた』って言いたいワケ。ヨーコさんの『趣味』のことじゃないよ」

「人の趣味はどうだっていいじゃない。それより人質って誰?」

「入院してる御嬢のことさ」

「白鳥クンは知っているんだよ。御嬢がカーヤと瓜二つって事」

「そんな当たり前のこと……別にどうって事ないでしょ?だって、あのコはあなた達が救出したときに怪我をしたから、大事をとって……」

「かすり傷程度で一週間も入院するかよ」

「ちなみに白鳥クンはね、なぜ瞳ちゃんが私のモデルになったのかって理由も知っているの」

「それに警察病院だしな」

「それって……入院とかマスコミ対策とかいって、実際は軟禁状態じゃない」

「そして、そのオフィシャルな理由を白鳥クン自身がこれから披露するわけ」

「ワイドショーで台本が用意されているなんて、全くお笑い草だな」

 翔クンが放り出した冊子を取り上げて目を通すと、先ほどの白鳥とコメンテーターのやりとりがそっくりそのまま書いてある。

「それで、この内容を社長は認めたの?」

「らしいよ。多分、取引したんだろ」

「瞳ちゃんが人質に……それが条件?」

「ヨーコさん、それはちがうな。御嬢の『入院』に社長は関係ない。むしろ俺達への牽制だ」

「で、何で翔クンが入院先を知ってるのよ?」

「寝顔を見てきたからな」

「え?そうだったの?……今朝、『ちょっと出掛ける』って、その事?」

「まあな。何も知らずに眠ってた」

「で、何事もなく帰った?そんなワケないよね?」

「穿ち過ぎだよ。ヨーコさんが期待したり、カーヤが焼き餅をやくような事は無かったよ。『白鳥に気を付けろ』ってメモを残してきた。それだけさ」

「真偽の程は当人のみぞ知る、か」

「ホント、疑い深いよな」

「職業柄でね。諦めて頂戴」

「始まるわよ白鳥クンのワンマンショーが」

「奴め、ボロを出さなきゃいいが」


——「ところで、何でサイバー犯罪対策室が今回の件に関係があるんだ?」

「クルーザーが江ノ島で爆発炎上した事実からしても、明らかに畑が違いますよね?」

「公安か捜査一課の仕事だろう」

「捜査の関係上、これまで明らかに出来なかった事象の関連を知れば、皆さんは首を縦に振る事になるでしょう。公式な発表にはあと数日必要ですが、これから私の口から出る言葉には違いありませんから、今ここで明らかにしても同じことです。皆さん、ここ数ヶ月の間に起きた事件、オンライン銀行強盗事件や、各国政府や大企業のホームページが次々とハッキングを受けた事件を覚えていますか?」

「勿論、知っていますわ。番組でも放送していますし」

「公式な発表では、ネットバンキングのシステムに問題があった、ホームページの欠陥が指摘されたあの事件だな」

「巷の噂や掲示板では、かつてペンタゴンのシステムをバンキングした有名なハッカーが関わったとか、銀行の防犯カメラに幽霊が映っていたとか、しばらく話題には事欠かなかった」

「そうです。そして、それらの事件の周辺に常におり、かねてより我々の捜査に協力してきた人物がいます」


——「カーヤ、そろそろ出番だな」

「そうね、カー君」

「あなた達、大丈夫なの?」

「まあね。社長が言ってた、『二人分のギャラが貰えた上に、いいプロモーションになるから、しっかり稼いで来てね』だってさ」

 数メートルを隔てた白鳥やコメンテーターと視線での戦いは、スタジオに入った瞬間から始まっていた。

「ほら、来た」

『KAGUYAさん、天地さん。スタジオ入りお願いします!』

「はーい」

 二人の返事がシンクロした。

「はい、そこで本日はスペシャルゲストをお呼びしています。今回の事件の被害者、カーヤことツキノミヤ・カグヤさんと、彼女の産みの親とも言えるテクニカル・ディレクターのアマチ・カケルさんです」


——「え?翔様……」

 私は目を疑った。秘密めいたメモの主がテレビの中にいた。

「早速ですが、カグヤさん。誘拐された時……」

「……その件については、捜査中ですので、コメントは……」

「事件の概要は、私が答えましょう。先ほど申し上げたサイバー銀行強盗と今回の誘拐事件……仮に江ノ島誘拐爆破事件とでもしましょう……との関連からお話ししましょう」

「私はカーヤに訊いている。刑事のあなたには質問していない」

「なあ、刑事さんがそう言っているんだ。俺ら民間人は、その後でいいだろ?それに番組の時間はたっぷりある」

「君……君は事件には直接関係はない」

「忘れちゃ困る。それはお互い様だ」

「何ですって!」

「あー、コメンテーターの皆さん、まずは事件の概要を白鳥さんから伺いましょう。白鳥さん、御願いします」

 翔様は登場早々、コメンテーター各位を敵に回した。ただし、ある意味で正論だった。ジャーナリストなら、正確な現状認識をする必要がある。コメンテーター各位は、ただの井戸端会議の代弁者に過ぎないことを露呈したに等しい。

「では、皆さん、順序を追ってお話しします。先日のサイバー銀行強盗事件の原因を我々警察は『システムエラー』と発表しました。

 しかしながら、その後の追跡調査の結果、そのシステムエラーを引き起こした真の原因……いや犯人を我々は突き止めました。彼らは以前から狙いを定めており、数度の挑戦が撃退された結果、まずは第一の事件『サイバー銀行強盗事件』を引き起こした。犯人達は一応の成功を納めたましたが、それまで水面下であった彼らの活動が、世間の目に触れることとなり、我々警察と協力者の手によりそれ以上の被害を食い止めることができた。

 そのため犯人グループは当初の目的を果たすことができなくなり、より直接的な手段に訴えた。それが第二の事件『江ノ島誘拐爆破事件』です。犯人グループは、調 芳夜さんの誕生会で彼女を誘拐した。しかし、犯人グループが東京湾に待たせてあったクルーザーに連れ去る途中で、我々が被害者を救出した。後は一部報道で中継された通り、江ノ島に着岸したクルーザーを包囲交渉中に彼らは自爆した。これが事件の全体像です」

 世間一般の人々は、白鳥の言うことが真実であると確信したに相違ない。ただ、少なくとも関係者は、彼の発表自体が欺瞞に満ちたものだと確信しただろう。しかし私が第二の事件に関係していたことが全く触れられていなかった。

「白鳥さん、いくつか疑問がありますが、よろしいですか?」

「どうぞ」

「銀行強盗と誘拐、自らのために金品を強盗したわけでもなく、身の代金を要求したわけでもない。『目的の無い誘拐』とまで言われています。一体、犯人の目的は何だったんでしょうか?」

「穿った意見が見受けられますが、我々は芳夜さん自身と考えています。彼女の実体であるソフトウエアは、その汎用性や利用価値の高さから、各国政府や大企業、特に軍需産業から注目をされている。そして、それ以上に犯罪組織からも狙われています」

「お二人にはその辺りの心当たりはあるのですか?」

「妬みとかやっかみだとかは、当たり前だし、ファンの皆さんに心配をかけたくなくて、これまで黙ってたの。勿論、事務所はボディーガードをつけてくれたし、彼がハッキング対策をしていたから、今回の事件が起こるまでは不安とかは感じた事はないわ」

「これまで一部の過激なファンや、ハッカーからの危険なアプローチは少なからずあった。事務所としては、今回は特異なケースと考えている」

「パーティー会場の警備方法に問題があったのでは?」

「今回の事件という結果から考えれば、問題があったという事になる。ただ、手抜きが無かった事実は、ご理解いただけると思いますよ。ここにいる大半の方にはパーティーに参加していただきましたから」

「確かに事前に取材機器の持ち込みを伝えなかったばっかりに、空手で会場に入らされたからな」

「目に付くだけでも相当な数の防犯カメラや、過剰と思える位に警備員の数が多くて、やりすぎじゃないとか思ったわね」

「次に、同一犯の犯行という証拠はいかがですか?江ノ島で犯人全員が自爆してしまったので、真相は藪の中という気がしますが」

「被害者を救出する際、被害者を移送した犯人グループのうち二人を逮捕しました。彼等はパーティー会場での誘拐や銀行強盗の件には直接関わっていませんが、彼等の自白したアジトからは二つの事件に関する証拠を押収しており、その押収したパソコンのログ解析から、ほぼ間違いないと確信しています」

「アジトはどこにあったんですか?」

「残念ながら、アジトは現在も捜査中ですので、お答えできませんが、いずれ御伝えできると思います」

「危険なアプローチがあるとの事でしたが、具体的にはどんなことですか?芳夜さん」

「そうした事実があるとはマネージャーやボディーガードから聞いてます。でも、具体的な内容はよく知りません」

「彼女の活動の障害は我々の事務所が排除している。直接彼女に危険が及ぶような事柄であれば伝えるが、解決済みの些細な内容まで伝える必要はないし、いちいち聞いていられる程暇ではない」

「芳夜さんのデビュー前に、事務所から盗難届が出され、数日後に取り消されたという噂が、ネット上で再び取り沙汰されているけど、一連の事件との関連は?」

「盗難届は荒城廉太郎のステージ衣装の件です。補修と洗濯に出したのですが、手違いで紛失した事が数日後はっきりしたので、取り下げたまでです。今回の事件とは関係ありませんよ」

「白鳥さん、先程、捜査に協力した人物がいたと言われましたが?」

「勿体ぶっても仕方ないですよ……いや、失敬。薄々感じてらっしゃるとは思いますが、我々警察で把握している『数度の挑戦』を撃退したのも、捜査に協力したのも彼、アマチ・カケルさんです」

「アマチ・カケル……って、あの……あの『天地 翔』なのか?」

「『あの事件』の?!」

「そうですが、それが何か?」

「あ、いや」

「ワイドショーでは、未だにタブーですしね。あれはあれで色々勉強になりましたよ。いえ、別に気になさらないでください。で、次のセリフ……いや、質問は?」

「数度の挑戦を撃退したという事でしたが、どんな挑戦でしたか?」

「彼女に対するハッキングです。具体的な方法は……手の内をあかしたくは無いのですが、『目には目を』とだけお答えします。断っておきますが、彼女をその気にさせない方が身のためです」

「そうだったのね、彼女自身にハッキング対策を施した。彼女に手を出せば、彼女自身が報復する……という事?」

「かなり痛い竹篦返しですけど。犯人のパソコンのデータが破壊されずに現存していたのが不思議なくらいですね。しかし、彼女自身がそれを意図したり意識したりすることはありませんし、できません。彼女を構成するシステムが攻撃を受けない限り、防壁システムは作動しません」

「では、一旦CMが入ります」……

 私の記憶と目の前で展開された事実が一致しない。

 私は芳夜と入れ替わったが為に、芳夜と間違われ美智瑠も一緒に誘拐された。数日、船室に監禁され抵抗をした美智瑠と引き離され、車で移動中に翔様と芳夜に助け出された。

 現実は欺瞞と疑惑に満ちている。かつて、より先鋭で容赦のない槍襖のような壁に、翔様は一人で立ち向かったというの?

 サイドボードの上にあるケイタイが鳴った。が、直ぐ鳴り止む。画面を開くと、行方が知れない美智瑠のケイタイからのメール。


件名:『遺言』。

 まさかと思う。

本文:『死神の鎌は生者の魂を狩り、死神の接吻は死者の魂を呼び戻す』


 何かの暗号だろうか。……さっぱりわからない。彼女が無事かどうか、そればかりが気懸かりだった。

件名:『Re:遺言』

本文:『私は無事。遺言なんてやめてよ。今、何処にいるの?無事なの?』

と返信する。

 CMが終わった。と、同時にメール着信。


件名:あの事件と同じ

本文:あの事件と同じく、事実は捏造され、真相は葬られた。テレビを見たけど、警察も翔も嘘ばかり。あなたも翔に騙されている。


 嘘とは断言できなかった。

 テレビの中で繰り広げられている白鳥と翔様のコメンテーターへの応対は、私の体験が夢だったとさえ思える内容なのだから。しかし、訳あっての事に違いない。例えば、私に類が及ばないようにする為かも知れない。

 そして着信。


『私をかばっているかも、なんて甘い幻想を抱いてない?何か特別な理由があるから、とか考えてない?彼にそう思い込まされてるだけよ』


 私の思いを見透かした美智瑠のメールは、どこか意図的に思えたが、反論の材料が思いあたらない。ならば、美智瑠にはそれがあるのだろうか。

 『私は翔様を信じています。今のあなたにはそれがないだけ』と返すと、すぐに返信があった。


『あなたも隠蔽された事実を知れば、今迄の偶然が必然だったとわかる。昔の事件も、今度の事件も全て彼に仕組まれている』


 昔の事件……翔様は状況証拠から偽造心中殺人の犯人と疑われたが、その状況証拠を細かく洗い出すと翔様には不可能な事実が明らかになるだけだった。まるで用意周到なシナリオが準備されていたからこそ、翔様は自信があったのではないのか。また今回は、私と美智瑠が誘拐された事も、翔様と芳夜が私を助け出した事も、翔様に隠さなければならない特別な事情が存在していたとしたら、美智瑠の指摘はあながち的外れではないようにも思えた。

 再び、美智瑠からメール。


件名:遺言

本文:遺言なら翔に直接伝えればいいと思っているよね。でも彼が私にした事を知れば、私と対局にいたあなたにしか言えない理由や、あなた達とはもう会えない理由をわかってもらえると思う。

 実はね、今回の事件は翔が計画して私が実行したの。彼の手際の良さや、事件の当事者でなければわからない違和感から、瞳ちゃんも薄々感づいていたと思う。翔にどんな目的があったのか、私にはわからない。ただ、少なくとも彼が芳夜の最期に相応しい演出をする為に事件を計画した経緯から推測すれば、彼は再生した芳夜の記憶から事件の真相を知った彼が、真実を闇に葬ろうとしたのだと思う。

 私は、あなた達が関わった中学生偽装心中事件の真実を知りたかっただけで、それ以上何もないわ。事件の本当の姿を知る為には、彼に近づく必要があったし、彼に利用されているだけと分かっていても協力する事で真相を知る機会が訪れると信じていたの。

 私が事件にこだわるのは、かつて事件が書かれたタブロイド紙に掲載された或る言葉がきっかけだった。或る事件で私は既にその言葉に遭遇していたから。あなたには訊かなかったけれど、『死神の鎌は生者の魂を狩り、死神の接吻は死者の魂を呼び戻す』。あの事件もこの言葉で始まり、残されのもこの言葉だけだった。あなたが初めてこの言葉を知ったのなら、彼はあなたに真実を伝えていないだけ。彼にこの言葉を突きつけてみたらいいわ。彼、きっと冷静ではいられなくなる筈だから。

 それから私が彼と遭遇したのは偶然ではなくて、私が働いている店の常連客に葉月陽子がいたからなの。でも葉月陽子があの記事を書いた本人だったとはね。「そこそこいいところ」まで調べたけど、「彼が殺した」という事件の核心には様々な事情があって辿り着けなかったって、彼女は言ってた。「そんなに彼に興味があるなら」って、彼の居場所、翔がよく来る公園を彼女は私に教えてくれたわ。

 私が翔に出逢った頃、彼と過ごす時間はとても充実してた。のろけ抜きで、今にして思えば、芳夜の再生で試行錯誤して忙しかっただけなのかもね。けど、芳夜が復活してから、色々な意味で彼は変わってしまった。気付ばよかったんだろうけど、彼は真実を知ってしまったのね。彼はスイッチ一つで芳夜を消せたけど、私達周囲の人間や、世間に受け入れられ周知の事実となった彼女を消すことに躊躇したのかも知れないわね。もしくは自我に目覚めた芳夜に、純粋にテクノロジーとして関心があって、手の届く範囲に置いてあれば、偽装心中事件の真相が暴かれることはないと践んでいたのかもね。

 私が彼を疑い始めたのは、手首の傷跡が発端だった。眠っていた彼のリストバンドを外して見ちゃったの。心中事件で翔と芳夜はお互い左手首を切って自殺を図ったはずなのに、彼の左手首には、全くその痕跡が無かった。彼は心中なんかしていないもの。その証拠を見られない為に彼はリストバンドをしていた訳ね。

 それともう一つ、彼は事件の記憶があるみたい。それも偶然に気づいたけれど、彼が芳夜再構成を進める中で、彼女を構成する様々な記録や記憶を収集しているときのことだった。彼女に関わる全ての物から、彼女を再構成するために、ムルルを使おうと言い出したの。そして、そのときには全く思い当たらなかったけれど、ムルルって猫、この子が『事件現場にいた』なんて、事件前後の記憶のない人間に分かる分けないじゃない。

 確信を得たのは、彼がかつて所属していた組織について知ってしまったから。彼のご両親、事故で亡くなったのはあなたも知っているでしょ。でも、彼のご両親の仕事の内容までは、知らないわよね。彼の両親は外務省の外郭団体、体よくいえばそういうことだけど、実際はファイブカードというコードネームで呼ばれた諜報機関に所属していた。海外への転勤や出張が多いのはそのせいね。彼もそれに加わっていた。

 まさか、中学生が世界で指折りのサイバーテロリストで、その腕で世界各地のコンピューターというコンピューターに自在にアクセスして、情報を盗み出していたなんて、誰も思いつかないでしょ?最後の確信は彼と私の賭けが無ければ知り得ないことだけどね。

 だから、彼にとって私は彼女の秘密を知りすぎた邪魔な存在だったのね。彼は私に賭をしようと言い出したの。賭は、芳夜を翔から奪う事。ただそれだけじゃつまらないから、彼は自分にハンデを付けた。かつて所属していた組織の人間を私が自由にでき、どんな方法を使ってもいい。私がその賭に勝ったら、彼女の秘密や事件の真相を包み隠さず明らかにする。彼が勝ったら、潮美智瑠の存在を世間から抹消する。勿論、私は賭に乗った。で、結果は彼が勝った。

 きっと近いうちに私がいなくなった表向きの理由を、彼はあなたに告げるわ。でも彼の言葉を信じたら、次はあなたが痛い目に遭う。彼が私にしたようにね。昔の事件も今回の事件も、彼にとってあなたが最大の障害だから、二つの事件を経た唯一の証人に疑がわれる事を彼は最も怖れている。彼とは今まで通りでありながら、適当な距離を保つべきね。



 数日と考えていた入院は、もっともらしい理由で引き延ばされていた。最初は事件後のメンタルケアが必要との理由で、次はマスコミ対策で。

 一度目は予想だにしなかったが、二度目はある程度予期していた。

 なぜなら、警察或いは明星プロダクションが箝口令を出したとしても、事件現場に居合わせた約千人の招待客の口を完全に塞ぐのは不可能と思われたし、そうしてリークされた情報を元に事件現場を辿れば、幾つかの可能性を見いだすのは決して難しい事ではないと思えたからだ。

 パーティー会場の演出、竹芝桟橋での銃撃戦の弾痕、救出劇のあった公園周辺住民の証言、江ノ島が広範囲で封鎖された不可思議な理由、爆発したクルーザーと犯人の遺体の配置、そういった状況から事実は別にあることは明白なのに、マスコミは公式発表を鵜呑みにしていた。

 美智瑠さんの言葉をそっくりそのまま使うなら、『事件から私達が消え去ってしまったのには、何か理由がある』筈で、その『黒幕は翔』様だという。だから私が『隠蔽された事実をリークすれば、事実を隠そうとしている人物が、口止めの為の接触を図ろうとする』し、もし翔様が私を『事件に巻き込まないようにしているだけなら、何らかの事態打開策を展開する』だろう。

 秘密のメモ以来、翔様と言葉を交わしたのは、ケイタイでほんの二言三言だけで、美智瑠さんの言う『黒幕』らしい動きをする様子は微塵もなかった。

 流出した情報のソースが私らしいとマスコミに判断され、贋情報の元を質そうと私を標的に定めて病院に大挙した際は、リークした私が警察病院に匿われている以上、取材攻勢の矛先は記者会見以外対応しない警察ではなく、芳夜と翔様に向かった。状況は極めて流動的なもので、とても何者かの筋書きで仕組まれているとは思えなかった。

 そして私が拉致監禁された事件と、芳夜誘拐事件は無関係という警察の発表がされた日、翔様と芳夜が私の病室に訪れた。

「よ、御嬢、迎えに来たぞ。遅れて悪かったな」

「部屋が変わったのね。知らなくて迷っちゃった」

「テレビを見ていましたわ。二人とも、私の為に色々有り難う」

「勘違いするなよ、結果としてだな」

「あれー?『御嬢のいる病院から記者どもを退かせる為に、白鳥の借りをチャラにしよう』て昨日言ってたのは、誰でしたっけ?」

 暴露するカーヤに、翔様は口笛を吹いて誤魔化した。

「さあな、カーヤの空耳だろ?にしても、ここは全然病室らしくないな」

 翔様が『らしくない』とおっしゃるのは当然だ。

「怪我自体は掠り傷程度で、入院したのは身柄の保護が目的のようなものだと、医師から聞かされていました。でもね翔様、病室って退屈でしょ?ですから、匿名の投稿をしてみたら、マスコミがあんなに押し掛けるの。あまりにも五月蝿いので仕方なく、この別館に移していただきましたわ」

「あのな、御嬢」

「まあ、いいじゃない。私だって退屈しそうだもの。それにいくら忙しいからって、夜中に寝顔だけ見てる人もいるようだし」

「カーヤ、まるで俺が怪しい人みたいじゃないか」

「あら、そういう話に聞こえた?」

「カーヤ、もうその辺にしてあげて。翔様が困っているわ」

「残念ね、これからが面白いのに」

「あー俺、喉が渇いた。なんかジュースでも買ってこよ」

 翔様は足早に病室を抜け出した。

「翔様、飲み物ならそこの冷蔵庫に……」

「逃げたな、アイツ。ま、すぐに戻るだろうけど。……ホント、凄いわ、この部屋。ソファーなんて、ほら」

 ベッドのように大きなソファーにカーヤはダイビングする。

「まるでホテルのスイートルームね。カー君、ここがヒトミちゃんの為に確保してた部屋なのね」

「翔様が?」

「そうよ。ま、知らないのも無理はないよね。私だって今朝ここに来る途中で初めて聞いたし。あ、そうそう。カー君がさっき『迎えに来た』って言ったでしょ?手続きはもう済ませてきたから、ヒトミちゃん、今すぐに退院よ。いつまでもここに居させるのは良くないから……あ、別に気にしないで、こっちの話だから」

「カーヤ、でも、今すぐに退院だなんて」

「だから二人で来たの。早速、準備を始めるわよ」

 ただ、元々この部屋に移ってきたばかりだったので、片付けはほとんど終わっていた。

「実は部屋を変えてもらったのは昨日で、荷物をほどく暇もなかったの」

「なんだ、瞳ちゃんのランジェリーをチェックしようと思ったのに」

「カーヤ!」

「冗談よ、冗談。相変わらずね、瞳ちゃんは」

「カーヤも。ところで、美智瑠さんは?」

「……ああ、美智瑠の事ね……それは、カー君に直接聞いて。私がとやかく言う資格はないから」

「カーヤ?」

「ほら、戻ってきた」

 翔様は両手でジュースと花束を抱えて部屋の入り口にいた。

「二人とも、これをどうにかしてくれ」

「花束?」

「自販機を探そうとしてナースステーションに行ったら、『退院のお祝いに』だってさ。……御嬢、お前、病院内で相当な有名人だぞ。中には勘違いしている奴もいる」

「そうでしたの?」

「知らぬは本人だけ、か。カーヤ、なんとか言ってくれよ」

「噂によると、瞳ちゃんは『犯人が芳夜と勘違いして誘拐されて、数日間監禁された後、私とカー君によって救出された』ということになっているけど、マスコミでは、『過激なファンによって、私と瓜二つの瞳ちゃんが拉致され、SITに救出された』ってことになってる。どのみち、私とソックリな人間がいる事が公然になっちゃったからね。これからが大変よ」

「迎えに来たのは、その対策を考えてのことだが……。どうした、御嬢?」

「一つ、ひとつだけ、伺ってもいいですか?」

「何だよ、急に改まって……バラ園で約束したろ?隠し立てしないさ。どんな事でも訊いてくれ」

「私は美智瑠さんと一緒に誘拐されて……。翔様、美智瑠さんはどうなったの?」

「俺がこの手でクルーザーから助け出した」

「それで、その後は?」

「カー君、それは……」

「別れた。俺みたいに『危険を危険とも思わない奴と付き合いきれない』とさ」

「じゃあ、その後、美智瑠さんとは……」

「さあな、どっかで元気にやってるんじゃないか?」

「……カー君」

「そうだったの。じゃあ、今は……」

「今はそれどころじゃないからな。ただでさえ、計画していたKAGUYAのツアーの準備があるのに、今回の事件のゴタゴタで……ん?御嬢?」

「で、美智瑠と連絡は?」

「するわけないだろ。なんでアイツと……ってカーヤ、なんでお前が訊く?」

「いいじゃない。私だって興味あるもの。ね、瞳ちゃん」

「いえ、私はそういう意味じゃなくて……」

「じゃあどういう意味?」

「……美智瑠さんからメールを」

「メールだって?!」

「大声を出して、どうしたなさったんですか、翔様?」

「いや、なんか俺の事とか書いてあったとかさ」

「カー君、気になるんだ、別れたのに」

「俺は振られたようなもんだからな。で、どんなメールだ?」

「それが、これ……」


『死に神の鎌は生者の魂を狩り、死に神の接吻は死者の魂を呼び戻す』


「カー君、これって……」

「……御嬢、本当に美智瑠からだよな?」

「ええ、翔様、間違いなく美智瑠さんからよ」

「カー君、確かにアドレスは美智瑠のよ」

「……何故だ?」

「翔様、どうかなさいましたか?」

「いや。……そろそろ時間だな、カーヤ」

「そうね、カー君」

「時間、ですか?」

「退院と……リハビリの」

「リハビリ?」

「まあ、そんなところだな」


 私達は荷物を纏めて、翔様がハンドルを握るオープンカーに乗り込み、病院を後にした。私は行き先を問い質そうとは思わなかったし、車が走り出すまで翔様も芳夜も行き先を告げようとはしなかった。

「芳夜御殿に行く」

「六本木に?」

「そうだ。少し仕事を手伝ってもらいたいんだ」

「私に出来る事なのかしら?」

「希さん……そう言えば、社長は御嬢を指名してたな」

「カーヤは『簡単なアルバイト』って聞いたけど」

「俺も詳しいことは訊いてない」

「翔様も?」

「そうだ。まあ、御嬢も病室に閉じ込められているよりは、退屈凌ぎにはなるだろ?」

「そうですね。翔様がそうおっしゃるのでしたら」

「瞳ちゃんにそう言ってもらえるなんて、カー君は幸せね」」

「カーヤ、私、翔様を信じていますから」

「そりゃどうも。それから、御嬢には伝えておかなきゃいけない事があるんだ」

「そんなに改まって、変ですよ、翔様」

「昇の奴、置き手紙を残して姿を消しやがった」

「いつもの、家出ではありませんか?」

「それがいつものとは違うの」

 交差点で車が止まる。

「考えたくはないけど、『遺書』みたいなの」

「嘘でしょ?」

「これよ。私のバスローブのポケットに入っていたの」

 助手席に座る私に、後部座席から芳夜が油引きの茶色い封筒が差し出した。シグナルが変わり、車は走り出す。

「俺はアイツの甘えだと思う。引き止めて欲しいだけじゃないかってね。それに書いてある内容は、俄には信じ難い事だらけだからな」

「カー君はそう言うけど、確かな事は何も言えないでしょ?」

「カーヤ、読んでいい?」

「もちろん。瞳ちゃんにも読んで欲しいの。それに、お兄ちゃんの事で何か心当たりがあるのなら、教えて」

「ええ」


 KAGUYAか翔がこの手紙を読んでいるという事は、僕はもうこの世の中には存在していないだろうし、君達に多大な迷惑と悲しみを与えていることだろう。謝っただけでは、許して貰えないことはわかっている。しかし僕は許して欲しいと思っていない。僕が何故こんな事をしなければならなかったのか、否、しなければならなかったのかを君達に伝えておきたい。そしてこの手紙が君達にかけられる疑いを少しでも和らげることになるだろう。これは僕の遺言だと思って欲しい。

 僕は誕生日パーティーでKAGUKAを誘拐する。もし事件より前にこの手紙が見つかったとしても、君達にはそれを防ぐ手立てが無いと言っておこう。KAGUYA、君のいたずら心が事件を引き起こすのだから。僕はKAGUKAを本来在るべき姿に戻す。また、そうすることで妹・望月芳夜を喪ったあの事件の真相に少しでも近づけると考えたからだ。それにはまず僕が知るあの事件を君達に伝えておく必要がある。しかし、皮肉だな、お互い事件の記憶に触れる事は再会した僕らの間ではタブーだったのに、僕が事件について触れるのはこれが最初で最後になるとはね。

 当時、僕は芳夜と翔が退っ引きならない関係になってしまった事も、翔と瞳ちゃんの関係がギクシャクしていた事も知っていたし、事件の直前に翔と瞳ちゃんの間で何かがあった様子も薄々感じていた。僕自身も妹を巡って翔といろいろとあった。僕らは四人とも、誰もが疑わしい立場だった。捜査の結果、消去法であぶり出された容疑者が翔だと知って、正直赦せはしなかったけれど、経緯や事情は自分なりに理解していたつもりだった。

 けれど、僕が自分の無知を思い知らされ、ある事に気づいたのは火葬場だった。灰になった妹の温もりが、骨壺や桐の箱を透過して僕の身体に染み渡った時、妹の魂が僕の身体に宿るように思えた。と同時に妹はその温もりを通じて真実の存在を訴えかけていた。

 事件のあった夜、家中血まみれの芳夜の部屋で『一糸とまとわない姿の芳夜』を発見した僕は、『背後から誰かに殴られ』て気を失った。僕が意識を回復した10分か15分後に、『誰も呼んでいない救急隊』が芳夜の部屋で『芳夜と翔』を保護し、父は僕が送信していない『僕からのメール』を受信して帰宅した。芳夜は『失血死』し、翔は瞳ちゃんからの輸血で一命を取り留めた。

 こうした不可思議な事象を、僕自身の記憶の混濁や誤解が原因だと僕は思い込んでいただけだった。それを確信させるように事件後の状況は推移した。

 中学生偽装心中事件の犯人とされていた翔は、その後の審判で推定無罪。風評被害で瞳ちゃんちの家業はダメになり、僕と父は被害者であるにもかかわらず保険金や家庭環境についてあらぬ疑いをかけられた。

 そんな中、翔は戻ってきた。両親を飛行機事故で亡くした状況には同情した。しかし、翔だけは生きている。僕は理不尽だと思った。そして以前に増して、事件の真相を知りたいと願うようになった。

 ただ実際に事件を再び洗い出すことは容易ではなかった。出所が分からない噂や、マスコミが捏造した情報は腐る程あったが、真相に結び付く事実は想像や憶測を呼び起こすだけで、真実は見いだせそうになかった。そんなとき僕か思い当たったのが、マスコミの中で唯一捏造や扇動に因らず真実を追求しようとしたが為に、大多数のマスコミから敵視され潰されたタブロイド紙の記者の事だった。

 彼の行方を僕は追ったが、事件に対する取材方針の違いから彼は新聞社を解雇され、その後の行方は誰一人として知らないという。だだし、彼のアシスタントをしていた葉月陽子であれば、取材した情報を知り得る立場にあったので、何らかの手懸かりを掴んでいた可能性があった。

 葉月陽子は知っての通り、あの事件のおかげでメジャーになった。おかげで葉月陽子との接触は、案外難しかった。彼女のHPに例の事件の秘密を教えたいとか、そんな書き込みくらいでは彼女は僕を信用しなかった。そこで僕は彼女に近づく為に、彼女の古くからの友人がいる倶楽部姫に入った。倶楽部姫は、いわゆるニューハーフ倶楽部だ。僕はそこで、源氏名であるカグヤと、潮美智瑠というもう顔を手に入れた。

 余計な話だとは思うが、このバイトがばれたことが、父親ともめた一番の原因だ。今更、どうこうするつもりは無いけどな。それに翔をだましていた事は悪いと思ってる。

 しかし、僕は実のところほっとしていたんだ。僕の中では僕というよりも、彼女・妹芳夜の存在が僕を支配していたといっていい。だから、僕がとして君たちの前いるときよりも、美智瑠としている時の方が自然に振る舞えた。そして本当は、僕は翔に一番理解して欲しかったんだ。

 さて、美智瑠として葉月陽子に接触して分かった事は、僕以上に彼女は事件の事を知らなかったってことだ。そりゃ事件捜査の経過や、裁判の記録、世の中の反応や評価については詳しかったけどな。これは結局原点に帰るしかないと思い知らされた。

 僕以外に事件の記憶を持つ人物に、それはこの世の中には当事者である翔と瞳ちゃん以外には存在しない。特に翔の記憶の重要性は言うまでもないが、翔は僕に不用意に事件のことを口にはしなかった。もちろん、瞳ちゃんにもだ。それは事件がトラウマになっているからだろうと、僕は思っていた。だが実際には違っていた。

 あれは偶然、いや僕にとっては事故に等しい出来事だった。美智瑠として、僕は翔と出会ってしまった。ただ結果として、美智瑠と翔の出会いが無ければ、今の芳夜は存在しなかったといっていい。翔は、どうやら本当に記憶を失っていて、その記憶を取り戻すあらゆる努力をしていた。月一度の通院、それともう一つ。翔は自らの手で芳夜の再構成を試みていた。

 僕は美智瑠として、彼に協力を申し出た。翔の知る事件を多く引き出す事が、彼に記憶を取り戻して事件の真相を知る事がその時点では最前策に思えたからだ。問題や疑問はいろいろあった。彼女を再生させる手段や素材の調達、人には言えないことにも協力をした。それが周囲の人を傷つけることが分かっていても、事件の真実が明らかになれば、それでいいと思っていた。僕は美智瑠という仮面を被っていたことで責任逃れをしていたのかもしれない。

 そして彼女は再構成、いや誕生した。実際できるとは思っていなかったから、驚いたよ。生まれたばかりのKAGUYAに、僕は奇跡を期待していた訳ではなかったが、希望を捨ててはいなかった。しかし翔が芳夜だと引き合わせたそれは、予想をし覚悟はしていたけれど、やはり僕の妹ではなかった。

 ただ僕は完全に失望していたのではなかった。KAGUYAの存在価値は、別にあると考えたからだ。本当にわずか、ほんの少しずつではあったが、翔がKAGUYAと過ごす事で、彼の記憶が少しずつ回復していることも明らかだった。

 幾度かの事件や障害を乗り越えるたびに、翔の記憶は回復してゆくなか、僕にはある疑問が湧いてくるようになった。それは今後の僕らの在り方についてだ。翔が事件の記憶を取り戻した時、僕達はこのままでいられるのだろうか。KAGUYAはその存在自体が僕たちにとって危険な存在になるのではないだろうか。僕は、美智瑠として翔や瞳ちゃんに受け入れてもらえるのだろうか。そんな迷いの中にいた時、僕を救ってくれた人がいた。

 その人は店の常連客の一人でトノと呼ばれていた。仕事はコンサルタント業をしていて、いろいろな事を知っていた。ソフトウェアのことも、あの事件の事も。店にとって重要な収入源でもあり、ホステスにとっては金銭面でのパトロンというのが、彼の位置づけだった。無論、僕もそうだった。ニューハーフを金銭面で援助するのは様々な意味を持つが、彼のそれは下心の無い純粋な援助であるというのが、もっぱらの噂だった。

 僕は店の先輩から彼を紹介され、彼は僕の状況を理解するようになると、性転換手術を望んでいた僕に資金援助を申し出た。ただし、条件が一つだけあった。彼の計画している仕事を手伝う、というものだ。彼の計画自体、僕の為に考えたものであることを理解するのにそれほど時間は必要ではなかった。それは、KAGUYAを元の姿に、僕らを元の姿に戻す為に、KAGUYAを回収しその記憶の中にある真実を知ろうとしていた僕の考えに沿ったもので、僕が実行をためらっていた内容だったからだ。

 彼は僕に計画を実行するのに必要充分な人員と機材を用意してくれた。そして僕はこの事件を起こした。僕は後悔をしていない。この事件を起こして、それが成功しても失敗しても、もう後戻りができないだろうと僕は思っている。

 ただ、これだけは覚えていて欲しい。僕は望月昇で、芳夜の兄で、瞳ちゃんの友達で、翔の親友だってこと。遺言って書いておいて変だけど、じゃあね。みんな、また会おう。

望月 昇あるいは潮 美智瑠、またはジャック


「……嘘」

「瞳ちゃん?」

「こんなの嘘ですわ」

「おい、御嬢。『嘘』ってなあ。……これは正真正銘、昇の字だぞ」

「違います。嘘をついたのは、翔様です」

「俺がか。……まあ、御嬢に一つも嘘をついていないというのは嘘になるけどな」

「では、翔様は……」

「おっと、そこから先は今日の仕事が終わってからだ。今夜、全てを話す。これは約束だからな」

「カー君、瞳ちゃんにバラしちゃうなんて、本当にいいの?」

「昇、いや美智瑠がこうなっちまったからな。仕方ないさ。それにカーヤ、次に狙われるのは、俺か御嬢だ」

「どうして?カー君。カーヤが狙いじゃないってこと?」

「この遺言が偽物でも、昇の筆跡通り本物でも、最終目的はカーヤだよ。けれどもカーヤを手に入れる為には、余計な邪魔者がいるのさ」

「それが翔様と私、ということですの?」

「そういうこと」

「でも翔様、私なんて何の障害にもならないのではありませんか?」

「瞳ちゃん、それは違う。今回の事件で瞳ちゃんが誘拐されたことで、それが証明されてしまったわ」

「全く、御嬢を人質にとるなんて」

「私が人質ですの?」

「あそこまで用意周到な誘拐犯……いや、事件の黒幕が美智瑠に、御嬢をカーヤと取り違えて誘拐するなんてヘボはさせない」

「じゃあ、どうして私を?」

「御嬢を誘拐したのは、こちらの反応を見るためと、俺とカーヤへの牽制のつもりだろうな」

「試そうなんて、私達、随分なめられたものね。で、その黒幕の目星はついているんでしょ?」

「恐らくな。確信はあるが、確証は無い」

「では、翔様ではないの?」

「俺がどうかしたって?御嬢」

「翔様が、今回の事件を引き起こしたって……」

「悪い夢でも見たんじゃないか?」

「……そうかも知れませんわね。そうよ。そうですよね」

(星野瞳の盗聴記録・カグヤのアクセス記録より著者が再構成)


帰宅、というよりは仕事の用意があったので、ワイドショーを幾つかハシゴした後、私はカー君よりも先に亜望丘に着いた。

私はカー君が携帯している『鵺』にリンクして私宛ての複数のメールアドレスに着信した内容に目を通す。カー君が立ち会っている週刊誌やら月刊誌やらの撮影に付随する対談の、殆どは質問に対する回答でメールを作成し送信する。と同時に、公式ホームページのブログの更新やらファンレターならぬメールに返事を出す。思考を文字が追い掛けるようにして、次々とメールを送信する。だから、シャワーを浴びていようが、他の仕事をしていようが、お茶の子さいさい。

 兄の遺書を発見したのは、事件後初めて亜望丘に戻った一昨日の夕方のことだった。最初の3日は赤坂の芳夜御殿、次の1日は江ノ島、警察の事情聴取で2日、マスコミ対応で昨日と今日。で、仕事を兼ねて8日ぶりの帰宅。時間の感覚や記憶も曖昧になっていた。

……まずはシャワー、途中からジャグジーにして、お風呂上がりは、お気に入りのバスローブで身を包む。ふと、バスローブのポケットに違和感。見慣れない油引きの茶封筒が顔を覗かせていた。そのままバスローブを脱ぎ捨てる。誘拐事件があったばかりでもあるし、用心するに越したことはない。そのバスローブごとラボのソリスキャナーに放り込んで、内容物を解析する。

まず封筒には宛名や差出人の記載はない。封筒の薄さと軽さから中身は手紙。中身に剃刀や爆発物の反応は無い。と、ここまで分かったところでソリスキャナーから取り出して開封した。

中から現れたのは、兄・昇の手で書かれた数枚の便箋で、事に至った経緯と心情が書かれていた。宛名は『望月芳夜』と『天地翔』、差出人は『望月昇、潮美智瑠、ジャック』と連名にしてあった。昇が美智瑠だという事実は、version.2へのバージョンアップ以前から気付いていたが、最後の『ジャック』は初めて見聞きするもので、潜索しても手掛かりになりそうな情報はなかった……

(KAGUYAのアクセスレコーダーより)



 撮影、撮影、撮影、撮影、撮影。

『写真を撮ってもらうだけだから、気楽にやれよ』とは翔様から言われていたものの、カメラマンからは表情や仕草といった細かな部分まで要求され、気を使わなければならなかった。嘘でもいいからインタビューに答えていた方がまだ気楽だった。

 そんなこんなで、昼間いっぱいかかった雑誌の取材が終わって、翔様と陽子さんと共に亜望丘に着いたのは、充分、日が傾いてからだった。

 亜望丘の地下ガレージには既に芳夜のリムジンが収まっていて、私達のはその隣に停められた。

 翔様は車に乗り込んだ途端、私の膝枕で眠りこんでしまった。

「翔様……お疲れなのですね。またメールが……『死に神の鎌は生者の魂を狩り、死に神の接吻は死者の魂を呼び戻す』……?」

「ん……あ、ごめん。御嬢、どうかしたのか?」

「いいえ、翔様。何かの間違いですわ」

「ん……ならいいや。俺、寝る」

「……翔様ったら」

「なんてな。お仕事、お仕事っと」


 車が亜望丘の地下ガレージに到着し、私と陽子さんが降りても翔様はなかなか車から出てこなかった。

「変ね……あなた達、後ろで『何か』してた?」

「『何か』って、何も……」

「まあ、あなたの顔を見れば、『何も無かった』ってわかるけど……居眠りでもしていたの?」

「私が隣にいるのに、翔様はずっとパソコンと『にらめっこ』でしたわ。仕方ありませんわ。私が呼んできます」

 しかし私が車のドアを開けても、翔様は鵺に向かったままだった。

「翔様、亜望丘に着きましたわ」

「ああ」

 翔様は、それだけ答えて、面倒くさそうに車を降りた。エレベーターで移動する僅かな間も、翔様は鵺のモニターから目を離さなかった。

「翔様、何をご覧になって?」

「メール」

 翔様の携帯から着信音。

「多分同じ内容のメール。……今夜の『カーヤのミッドナイト・チャンネル』の準備ができたって」

 陽子さんが疑問を投げかける。

「大丈夫なの?カーヤを一人きりにして」

「亜望丘なら問題ない。ここなら安全だ」

「瞳ちゃんは入院していたから知らないだろうけど、事務所にもすごいんだから。誘拐事件にかこつけて便乗した不幸の手紙とか、剃刀入りの手紙とか」

「翔様、そうなのですか?」

「まあな。その程度の可愛いものならいいけどね。一応、探偵のオッサンに家中調べてもらったけどな。もしかしたら爆弾とかがまだ隠されていて……昇の置き土産とか。開けた途端に『ドカン!』なんてな」

「昇君はそんな事しませんわ!」

「御嬢が知っている昇ならね。俺やカーヤが現場で対峙した美智瑠なら考えられる。無論、疑いたくはないけどな」

「『先週の今日』のことだったし、警戒は怠らない事ね」

 エレベーターの壁面の表示がラボにある最上階に近づく。

「二人とも開いた扉の陰になるように隠れていろ。……念のためだ。俺が先に様子を見る」

 翔様は天井に蜘蛛のように飛び付く。エレベーターがラボのあるペントハウスに着き、扉が開く。と同時に天井の翔様がエレベーターの外に飛び降りた。

 ……。

 数秒後、翔様が私達を呼んだ。

「……大丈夫、出ていいよ」

 翔様に促された私達はエレベーターから降りた。ソリスキャナーの近くにいたカーヤが、翔様に近づいた。……一糸纏わぬ姿で。

「カーヤ、なんて格好をしているの!……翔様はあっちを向いて下さい」

 カーヤは平然として答えた。

「瞳ちゃん、別にいつもの事だし、平気だよ。あ、でもヨーコさんに撮られたら困るな」

 陽子さんは肩を竦めた。

「撮りたくても、マズいわよ、モザイクか修正しなきゃ駄目だろうし。それより、あなた達、普段は一体どういう生活をしてるの?」

 陽子さんの疑問に素直過ぎるくらい素直にカーヤは答えた。

「マッパの時が多いかも」

 陽子さんは呆れ果てた。まさかと思って確認しようとしたのだと思う。

「……『マッパ』ねえ……。二人して生まれたままの姿にって事?」

「ヨーコさん、違うよ。マッパなのは、カーヤだけだよ。カー君が『メンテナンスの為にそうした方が、都合がいい』って言うし、私もマッパの方が開放感あって気持ちいいから。でも、人が来る時はちゃんと着てるよ」

 カーヤはおくびもなく平然と話す。

「翔様!」

「御嬢、本人がいいって言うなら、仕方ないよ」

「カーヤと翔様が良くても、私は駄目です。だって……」

 カーヤは私の体をそのままコピーしている。カーヤが翔様の目の前を裸でいれば、私の裸を翔様に見られているのと何ら変わらない。

「……だってさ。カーヤ、バスローブくらい羽織れよ」

 私はソリスキャナーの中にあったバスローブを掴むと、カーヤに駆け寄り肩に掛けた。

「あ……ありがと、瞳ちゃん。どうしたの?顔、真っ赤だよ」

「だって……」

 陽子さんは『わかる、わかる』と私に同情の眼差し。

「……だよね。まー、そっちの二人に常識を求めちゃいけないって事ね。ミッドナイト・チャンネルが始まるまで、まだ少し時間があるわね。オフィシャルでは写真もビデオも撮らないから、ね、プライベートでちょっとだけ……」

「……(駄目です)」

「え?」

「ほら。ヨーコさん、御嬢が駄目だって」

「あれ〜、今日はいつもと違って、やけに彼女の肩を持つわね」

「今日は特別だ。御嬢の退院祝いだからな」

「ああ、やっぱりそうだったんだ。カー君」

「やっぱり、ですの?」

「だって、ラジオの生放送に、ほら、ここまではしないでしょ」

 バスローブ姿の芳夜が指し示した先は、屋台のような物が立ち並び、さながら祭りの出店の様相を呈していた。

(星野 瞳の供述調書より)


 ……「あの子達、ほっといていいの?」

 ヨーコさんの問い掛けに希さんは手首を返し、時計をちら見してから口を開いた。

「いいの、いいの。放送は無事終わったし、明日は取材の申し込みが殺到するのは目に見えてるし。明日……というより後数時間もすれば、些細な事を忘れてしまうか、気にしてられないくらい忙しくなるわ。さっさと帰るわよ」

「っー事だ。若いもんは若いもん同士で何とかしてもらわないとな。俺達がとやかく言っても無駄なだけさ」

 そう言い放った荒城廉太郎は、たった今俺に気づいた風に装った。

「あとは頼んだぞ、少年」

 世間の関心やマスコミの熱狂とは裏腹に、俺達にとって今夜のミッドナイト・チャンネルは、かさぶたさえ出来ていない傷をより深くするだけで全くいいところがなかった。

 裏の事情を知る俺やカーヤには大した事ではないが、普通ではいられないのが当然というもの。リスナーのキツい質問に涙を浮かべ、いたたまれなくなって放送中に席を立った御嬢の反応は、番組的にはNGであったとしても非難されるべきものではない。聞き流してしまえば、如何にも気遣いをしたような大人の言葉の裏には、ちゃんと棘が隠されていて、それを御嬢がまともに受け止めていやしないか気懸かりだった。

「どうせ年寄りだから体に無理が利かないだけだろ?」

「少年、大人には大人のやらなきゃならん事があるからな。今夜もヒーヒー言うんでしょ?社長」

「バカ!行くわよ」

 社長は荒城廉太郎の耳を摘まんで引っ張ってゆく。あとにはヨーコさんが残った。

「翔君、社長からの伝言。『もしもの事があるといけないから、探偵さんには彼女のガードも頼んであるから』って。じゃ、私も明日早いからこれで。何の秘密を話し合うのか知らないけれど、ちゃんと御嬢様をカーヤと二人で面倒みるのよ。わかった?」

「分かってますよ、ヨーコさん。言われるまでもない」

 入れ替わりに芳夜が御嬢を連れて来た。

「今のは何?カー君だけ大人の会話?」

「別にそんなんじゃない。今夜も女王様が奴隷をヒーヒーいわせるらしい」

 機材の撤収を指図しながらでも、社長は奴隷の耳を摘み続ける。

「女王様?奴隷?」

「どっちが?」

 目の前では同じ姿形をした二人が俺に異なる質問を投げかけてくる。

「俺にはよく分かんねーや」

 すると内容の異なる視線が俺に向けられた。

(天地 翔『ハッカー』より)


 浴槽の底のライトで湯の色が変わるジャグジーに浸かりながら、手が届くか届かないかの微妙な距離にいる御嬢の横顔を俺は眺めた。

 薄い乳白色の湯はうっすらと御嬢の首から下のラインを浮かびあがらせる。風呂の熱気だけが理由ではないやや上気した御嬢は視線のやり場が無く、夜空を見上げるか俺の横顔にチラリと目を流す。

 そもそもこんなシュチュエーションで話すことになったのは、カーヤの一言がきっかけだった。

「私達、いろいろあったし、話さなければならない事もあるけど、お風呂でリラックスしながらっていうのはどう?」

 俺はてっきり御嬢が断るものと思っていた。だが意外にも御嬢は二つ返事で承諾したのだ……。

「はいどうぞ。二人とも好きなのを取って」

 いつも通り裸とはゆかず、バスロープを纏ったカーヤが何やら飲み物を持ってきた。

「綺麗な色……」

 俺と御嬢はそれぞれカーヤの手から受け取り、瓶に口をつける。

「……カーヤ、これはカクテルじゃないか」

「カー君、堅い事言わないの。瞳ちゃん、気に入ったみたいよ」

「翔様、美味しいですわ」

 御嬢はクックッと喉を鳴らして飲んでいる。あることに思い当たった。

「俺が心配する必要はなかったな。蔵元だったんだし、小学生の頃も利き酒してたしな」

 カーヤは俺の正面から湯船に入り、御嬢とは俺を挟んで逆側に落ち着いた。 

 かつてのカーヤはどちらかと言えば、酒には強くはなかったが、器である御嬢の体質のお陰か今はいける口になっていた。だから自らの感覚として言葉が出る。

「そうよね……結構強いんじゃない?」

「人並みですわ」

「そうなのか?俺はてっきり……まあいい。それより御嬢との約束だ。俺が素面の内に肝心な事を言っておくよ。俺と芳夜はある特務機関の工作員だった。今回、御嬢に……いや瞳に危険が及んだのは、恐らくその特務機関と関わりによるものだろう。全て俺に責任がある。どんなに詫びても赦されないだろうが……ごめんな、瞳」

(葉月 陽子「彼女が消えた理由」より)


 翔様は普段使わない私の名を言って私に謝った。家族以外の私の代名詞、「御嬢」は他でもない翔様が使い広めた。私と翔様の凍りついた時間を溶かした言葉は、長い時を越えて翔様の口に蘇った私の名前だった。しかし……。

「翔様、瞳は翔様からそんな言葉を聞きたくて、今こうしているのではありません。それに翔様を赦すとか赦さないとか、私にはそんな資格はありません」

「瞳ちゃん、そんな言い方……」

「カーヤ、俺達はどう言われても仕方無い立場だろ?」

「カー君……、でも、だって……」

 カーヤの口から何かが出そうになったのを、翔様が手で遮る。指先から飛んだ滴がカーヤの頬に取り付く。

「真実は御嬢に酷かも知れない。けど、彼女が望んだ事でもあるし、俺は約束した。恨まれたとしても、俺はそれで本望だ」

「わかった。カー君が決めたなら、私はそれでいい。覚悟はできているから」

(星野 瞳『二人のカーヤ』より)


 光の演舞が照らした翔の横顔は、瞳ちゃんがいる世界とは別の世界を見ていた。

「御嬢、君のお父さんや天之河が君に話していた事は正しい。でも御嬢が考えているより、現実はもっと厳しいものさ。そもそも御嬢と俺の最初の再会……それらは全て仕組まれたものだ」

「翔様が何をおっしゃりたいのかわかりません……」

 瞳ちゃんの反応は、私とカー君が予想していた範囲内のものだった。

「瞳ちゃん、言葉通りの意味よ」

「翔様はなぜ、父や天之河の話をご存知なのですか?」

「そりゃ、俺は相当警戒されているみたいだから、光ちゃんに聞いたのさ。案の定だったな、カーヤ」

「そうね。優しい嘘のオブラートに包まれていたけどね」

瞳ちゃん……御嬢にしてみれば、ある程度周囲から聞かされていた事実だとしても、カー君の口から聞くまでは信じたくはなかったのだろう。カー君の告白が進むにつれ、瞳ちゃんの動揺は増すばかりに見えた。

(KAGUYA『ファイブカード』)


「翔様、あの言葉を聞いて驚かれてましたね」

「御嬢が知っている訳が無いと思っていたからさ。いつ、どこで知ったんだ?」

「事件から大分経って、昇君から聞きました。二人を発見したとき、芳夜のパソコンの画面に一瞬だけ映っていたって」

「死神の鎌は生者の魂を狩り、死神の接吻は死者の魂を呼び戻す。ファイブカードにいた頃、俺と芳夜が作った犯行声明文みたいなものさ」

「犯行声明文、ですか?」

「スパイや工作員は仕事の痕跡を残さないのが常識だから、利害関係からどのルートの仕事か判別するしかない。ただ、そうした仕事の要請やその原因は、表の世界には存在しない水面下の事情だからルートを辿るのはほぼ不可能だ。勿論、俺達が仕事をするには都合がいいが、時としてありもしない組織がテロと称して犯行声明を上書きしたりする。バカな奴らだ。余計な真似をしなければ、助かっただろうに、わざわざ自滅の道を選ぶのだからな。だだし、それが度重なれば、俺達の仕事の成果自体が疑わしいともなる。あまり気は進まなかったが、相手を畏怖させる言葉を用意しろと言われて、二人で考えた。それがあの言葉だ」

「でも、どうして芳夜のパソコンの画面に?」

「さあな。俺は今の今迄、知らなかった。そうか、そんな事があったのか。案外、身近かにあの事件の真相があるのかも知れないな」

「では、画面に表示させた人物が、何が起きたのかを知っているかもしれませんね」

「そしてそれは、俺か芳夜だ」

「御嬢、もし俺だったらどうする?」

「それは……」

「ごめん、今のは失言だった。忘れてくれ」

「カー君、今のは何?」

「例の合い言葉の事」

「なーんだ。カーヤはてっきり、カー君が瞳ちゃんに迫っていたのかと思った」

「カーヤ、それは無い。今は昔じゃない。な、御嬢」

「あ……、いえ」

「ホント、バカね。瞳ちゃんを困らせてどうするのよ。ごめんね、こんな奴で」

「いいの。カーヤが謝ることはないわ。私、それでも翔様のことを好きですから」

(星野 瞳『二人のカーヤ』より)


「わからない事も、知りたい事も山ほどありましたわ。何が真実で、何が嘘なのか」

「それで君は彼にそれを確かめようとした」

「ええ、全てを」

「で、どうだったんだい?」

「もし、彼の答えを信じられていたら、彼女こんな事をしなかった……いいえ今ここには居なかったでしょうね」

「で、一体君は何を彼に問い質したんだい?」

「美智瑠さんや昇君や翔様の事、それにムルルと芳夜と心中事件のこと」

「ほう、なかなか興味深いね」

「興味ですか?」

「いいや、個人的な興味とかそんなんじゃない。つまらない事でも関係があるかも知れない。特に今回の場合は」

「意外性のない答えですね。全くドラマみたいなことはないのかしら」

「カツ丼、食うか?」

「本当に?」

「言っておくが、自腹だぞ」

「実態がこんなことだったなんて、つまらないわ……でも、心配なさらなくてもいいの。そんな事で私は貝にはなりませんから」

「当然だ」

「ええと、亜望丘でラジオの生放送をした時のことでしたよね?」

「そうだ」

「あの事件で一緒に誘拐された美智瑠さんが、事件が解決した後も行方がわからなくなっていたの。ニュースでは誘拐されたのは芳夜だけといっていたし、私達の存在は始めから無かったわ」

「それが不満だった?」

「不満だったかもしれません。でもそれ以上に不安でした。誘拐されたパーティー会場でも、救出された住宅地のただ中の公園でも、周辺には目撃者が何人もいたはずなのに、誰一人として疑問には思わなかったなんて」

「何か陰謀めいたものを感じた。そこで君は彼に秘密を告白させる約束を取り付けた」

「いいえ、約束は誘拐事件以前にしたものです。それまでも私達には色々な事がありすぎて、お互い古傷に触れられたくて避けていました。私と彼には、いいえ私達には禁忌でした」

「そして約束の話し合いがきっかけになった?」

「誘導尋問ですか?あなた方はどういう筋書きが望みなのかしら?」

「筋書きは我々が作るのではない。既に書かれたシナリオを読み解き、事件を解決するのが我々の仕事だ。事件について、あらゆる可能性を検証しなければならない」

「ふうん。元々は彼の過去と心中事件について、彼しか知らない事実があるから、彼がそれを話そうというのものでした。でも、誘拐事件のおかげで話の方向がすっかり変わってしまったわ」

「それ以外の話題は偶然だったということ?」

「そういうことになるなしら。ただ、実際の話の中心は誘拐事件でした。芳夜は、美智瑠さんの行方を彼女と翔が別れたからわからないって、それだけ」

「確かに事件直後のマスコミは、さっき君が言っていた通りだが、事実は違っていたということか?」

「そうよ、翔と芳夜に救出されてから暫く入院していた頃に、美智瑠さんとはメールをしていたわ。彼女は私が彼に嘘をつかれているって指摘をしました」

「君は彼ではなく、彼女を信じた。君にとっては、それまで美智瑠には警戒することはあっても、信用することはできない人物だったのだろう?よほど信じるに値する理由があったのか?」

「私が知り得た状況から考えて、彼女のメールには真実味が感じられたし、何よりも或る言葉があったから」

「これの事だな?『死神の鎌は生者の魂を狩り、死神の接吻は死者の魂を呼び戻す』」

「事件の始まりと終わりには必ずあったから」

「誘拐事件も心中事件にも?」

「ええ」

「前の調書で明らかにされている誘拐事件はともかく、心中事件は君では知り得ないのではないのかい?」

「あの事件の第一発見者から聞きました」

「望月昇が、現場で見たというのか?」

「はい。パソコンの画面に表示されていたそうです」

「それは『終わり』だな。始まりも?」

「心中事件のずっと以前、芳夜が転校して来た頃、学校で彼女の下駄箱に手紙が置かれていました。彼女がラブレターと思って読んでみたら、変な文章が書いてあったからって相談を受けました」

「君はどういう意味か分かっているのかい?」

「いいえ」

「他の誰かその事を話したりしたのか?」

「いいえ。美智瑠さんからのメールには、彼女もその言葉を目撃し、それを彼に確認したらどうかと書かれていました。そうしたこともあって、私が体験した整合性のない事実から、彼が全ての事件に関係があることを疑うようになりました」

「それで約束の話し合いで、心中事件以外についても彼を問い詰めた」

「はい。彼との話し合いで、疑いが徐々に確信に変わりました」

「例えば?」

「矛盾した遺書の存在。美智瑠さんのメールと、昇君の手書きの遺書です。彼の告白は昇君の遺書に沿った内容でしたが、既に美智瑠さんのメールで事実と符合する事件の全容を私は知っていましたから、彼の言葉は偽物の遺書を証明するものとしか思えませんでした」

「潮美智瑠の正体と望月昇の行方の事だな?」

「はい。昇君が彼女だったなんて、私は信じたくなかった」

「だがな、残念なことに二人が同一人物である事は調べがついている。ところで望月昇が失踪する前まで、君らは付き合っていたそうだな。しかし君達は急に別れたそうじゃないか。天地翔がそのきっかけを作ったとの証言もある。望月昇の遺書通りであるなら、誘拐事件は彼が引き起こしたことになる。だからこそ、じゃないかね?」

「それは違います。彼女が……いえ、何でもありません」

「彼女?」

「彼女……芳夜がそうさせたのかも知れません。でも、そんな事は彼女にはできる筈……」

「さあ、どうかな?可能性があるかどうか、その一つの要素としては君の話にもよるな。それから潮美智瑠に関してだが、天地翔の彼女だったそうだな。美智瑠のメールや遺書が正しいとすれば、天地翔は美智瑠と昇が同一人物だと知っていて、自作自演である疑いが濃厚となるが、これがどういう訳か成立しない。美智瑠と昇が別人でなければいけなくなる。かつての中学生偽装心中事件でも同じだったようだな。ある状況下で彼に記憶があれば有罪となり、無ければ無罪だったはずだが、ある状況というのが問題で、その状況が成立するには記憶の有無が矛盾するというパラドックスに陥る。それでも奴が犯人だとしたら、大したもんさ」

「やはり翔様が……」

「無理なのさ。しかし成り立てば完全犯罪。さて、今問題なのはそこじゃない。君がどうだったがだ」

「そうでしたわね」

「次に、君は天地翔から心中事件とそれに関連する彼の告白を受けたその夜、彼と芳夜さんと三人で亜望丘の屋上にあるジャグジーに入ったそうだね」

「ええ」

「先日の調書には、確認をするためとあるが、何を確認したかったのかい?」

「証拠を確認したかったからです」

「何の証拠かな?」

「手首の傷、芳夜と心中した時につけた傷です。心中事件以来、翔様はいつも左手にリストバンドをしていましたから。でも、全く跡形が無かった」

「無かっただって、そんなはずは無い」

「本当です。左手首には傷は無かった。信じてください」

「信じるも信じないも……ほら、こいつが奴の左手首の写真だ」

「この写真は嘘よ。どうせ作り物に決まっているわ」

「いや、先日の君の証言を確認するために昨日撮ったものだ。それにこれだけの傷だ、君が左右の手首を見間違えでもしたのだろう?」

「そんな……」

「それとも他に、彼が裸にならなければ確認出来ない事があったのかい?」

「いいえ」

「他に彼に尋ねた事は?」

「芳夜の正体は誰なのか、を。芳夜を亡くしたのは、自分の責任だと思い続けていた翔様は、芳夜を再生させました。再生された彼女は姿形こそ私そのままでしたから、彼女と会ったばかりの頃は、私は彼女の存在自体疑っていましたし、翔様が私の存在を蔑ろにしているとさえ思っていました。しかし翔様の知らない事柄で、私と彼女しか知り得ない事を彼女が記憶していた事を知って、彼女は亡くなった望月芳夜だと私は確信しました」

「ちょっと待て。君、大丈夫かい?」

「私が変な事を話しているとでもおっしゃりたいのですか?」

「それ以外に……いや、続けて」

「彼女が芳夜なら、私は翔様のことは諦めがついたでしょう。でも、彼の側にいたのは、私の姿をした芳夜だった。彼女の魂、心と呼べるものは、器である寄り代を必要としたし、私の躰をコピーした器は、生身の躰をデジタル化し再構成したものだから、常に更新しなければならなかったそうです。彼女を維持するためには、私の意思に関わりなく、私の躰が必要だった」

「なのに君はどうして彼に協力した?」

「再生した彼女に会うまで、私自身そんな事をしていたなんて知りませんでした。しかし私は彼女と話したい事がありましたし、二人にとって私は必要な存在でいたかった」

「君は二人に必要ないと思われていたの?」

「心中事件の直前に、私は二人に裏切られた事を知りました。二人には私が邪魔な存在だったから、私を必要としない世界に行こうとしたのだろうと誘拐事件がの前までは思っていました。でも、それは間違いだった」

「どうして?」

「彼はとうの昔に私の気持ちに気付いていたから。好きだって言った気持ちに嘘はないけど、妹みたいに思っていたって。だから、芳夜に対する好きとは違うって。私が二人の邪魔になっていたんじゃなくて、私が二人を邪魔していただけだと、彼に言われて気付きました」

「だから、君はあんなことを?」

「いいえ、でも、わかりません」

「彼が犯人だから?」

「違います。彼を、翔様を好きになることは出来ても、嫌いになることは出来ないから。彼が一連の事件の犯人だという、明確な証拠はありません。でも、様々な状況と彼の言葉には矛盾や隔たりがあって、私にはそれを埋めることは出来ませんでした」

「では、誰が彼を……おっと、これはこちらが調べているところだったな。天地翔本人にも聞いたが、一つ訊いていいかな?」

「翔様にも?」

「ああ、そうだ。問題があるのかい?」

「いいえ」

「天地翔は猫を飼っている。勿論、君も知っていると思うが、ムルルという名だ。その猫は……」

「今のムルルは、複製です。美智瑠のメールで知りました。翔は彼女を再生させる前の最終段階で、ムルルで実証実験をしたんです。今のムルルは、元のムルルではありません。元のムルルは脳を取り出されて、芳夜の記憶媒体として、亜望丘にあるはずです」

「……大体のことはわかった。改めて聞くが、君は彼への質問で何を確かめようとしたんだい?」

「事件の真犯人です。美智瑠さんは犯人の指示を断れない状況で、いえ、そう思い込まされて誘拐事件をしたとしか思えない。先ほども話した通り、彼女は翔様が全ての事件の黒幕だから気を付けるよう、教えてくれました」

「で、彼への質問の結果、君は決めたのかい?」

「ある人に相談する事にしました」

「それは誰?」

「白鳥さんです」

「うちの白鳥か?」

「はい」

「何故、白鳥に?」

「誘拐事件の後、入院中に訪問されました。その時に困った事があったらいつでも相談にのるからと言われました」

「君は白鳥に何の相談をしたんだい?」

「翔様が誘拐事件と偽装心中事件の犯人かも知れないことです」

「で、白鳥はどう答えた?」

「君の力になれるかもしれないから、詳しい事情を教えて欲しいと」

「なるほど。白鳥は君に何か協力したのか?」

「警察では真犯人を処罰するどころか捕まえる事さえ不可能だから、私に力を貸して欲しいと説得されました」

「彼の申し出を君は受けた」

「多分……。ええ、そうです」

「多分?それで、君は白鳥が警察の人間だと思っていたのかい?」

「はいそうですが。……何か違いますか?」

「違わない。確かに誘拐事件では彼の経験から働いてもらったが、サイバー犯罪対策室に外務省からの出向で来ていた。そもそも彼に誘拐事件の捜査権限はない。白鳥と君は何をしようとしていた?」

「私は知りません。いいえ、分からないんです」

(星野 瞳の供述調書より)


「カー君、彼女をそのまま行かせちゃってもいいの?」

「今は御嬢がしたいようにさせればいいさ」

 「しばらくの間、アルバイトを休ませていただけないでしょうか」という御嬢の申し出があったのが、一昨日。俺は御嬢の唐突な申し出の理由を彼女に問い質そうとは思わなかった。

 それは亜望丘からのミッドナイトチャンネルの生放送があった夜、俺が御嬢に告げた事が原因だと思っていたからだ。俺がカーヤの記憶を探ったり、カーヤが俺の記憶や様々なデータベースを潜索したりして把握した事実や、俺がこれまで隠してきた裏の事情は、何も知らない御嬢にとってあまりにも衝撃的なものであったし、彼女が受け入れるには実感が湧かないものだと分かっていた。

 けれども、それを御嬢に打ち明けようと俺が決めたのには、カーヤと御嬢の同期を繰り返す中で、同期が肉体だけに限定できない事実が判明し、カーヤの記憶が御嬢のそれと互いに影響し合っていることを誘拐事件の前にしたカーヤのバージョンアップ後の検査で知ったからだ。

「カーヤね、カー君も瞳ちゃんと一緒に旅をすればいいかもって、思ったんだけど」

「どうして?」

「だって、ここのところ忙しかったし、カー君にはいつもと違う環境で、リフレッシュしたほうがいいかなって」

 俺が社長から預かった封筒を御嬢に渡したとき、御嬢はバイト代を受け取れないと一端は断った。あらかじめ予想していた反応だった。社長から事後処理の相談を受けた俺は、口止め料や慰謝料をバイト代として渡す事を提案した。但し、そのまま渡したとしても、御嬢は受け取らない事は彼女のプライドが許さないだろう。だから形式上、相応の仕事を御嬢にさせる必要があった。白鳥と御嬢の接触を避ける為の強引な退院、その後のカーヤの取材の影武者やラジオへの出演というアルバイトをさせることで、口実はできる。その後に御嬢に手渡せば、世事には疎くても、頭の良い御嬢はすぐに理解できると俺は予想していたし、事実、予想通りになった。

「それはカーヤが思った事?」

「カー君、変な事を言うのね。カーヤが思う意外に誰が思うの?」

「そりゃ……そうだな」

「これでもちゃんと気を使っているんだから」

「カーヤ、ありがとな」

「どういたしまして。え?あれ?……カー君、あ、あれって、瞳ちゃんよね?」

「どう見ても、そうだな。しかし……」

「向こうも気づいたみたい。手を振ってる。ほら、カー君も答えてあげなさいよ」

「わかってるよ」

 昇=美智瑠が行方不明となった誘拐事件を忘れてしまったかのような日常のなかで、カーヤの影武者のような仕事をするようになった御嬢は、亜望丘のジャグジーで俺が御嬢との約束を果たして以来、現実を受け入れようと努力しているように見えた。

 最初の「アルバイト代」を俺が御嬢に渡したとき、俺が強引に退院をさせた挙げ句、カーヤの影武者をさせる「だまし討ち」にした事に対して御嬢は恨み言を口にはしなかったが、彼女の手は明確な拒絶を表明した。だから俺は御嬢に耳打ちをした。

「仕事をさせておいて、ボランティアだなんて言えないだろ?あくまで、アルバイト代としてだからな」

 すると、側にいたカーヤが俺達から目を離した隙に御嬢は、俺にキスをした。

「……何も言わないでください。私はこれで充分です。でも、翔様が困る姿を見るのはつらいから……だから、何も言わないで」

 瞳はそう言うと、再びキスをした。御嬢が舌を入れてくるなんて、瞳がそんなキスを知っているなんて、俺は知らなかった。舌を絡み付かせてくる御嬢は、うぶな昔の御嬢ではなかった……。

「翔様、それに芳夜。忙しいのに、ありがとうございます。……来ていただけるなんて思ってもみませんでしたから」

「瞳ちゃん。本当はね、カー君、瞳ちゃんと一緒に行きたかったんだって」

「バーカ、余計な事を……」

「バカとは何よ、バカとは」

「一言多いんだよ、カーヤは。なあ、瞳……余計な心配はするな、楽しんでこい」

「はい、翔様」

「あれ?あれれれ」

「今度は何だ」

「カー君、今さ、瞳ちゃんの事を『瞳』って呼び捨てにしなかった?」

「それがどうかしたか?」

「今までずっと御嬢って呼んでいたのに……。瞳ちゃん、カー君と何かあったでしょ?」

「何かと言われましても」

「亜望丘の告白。それだけだ」

「本当にそれだけ?」

 カーヤが疑うのには訳がある。あの夜、俺と御嬢は何度か二人だけになる場面があった。それもジャグジーの中で。結局、そこでは何も起こらなかったのだが、その後色々とあった事をカーヤは薄々感づいているらしい。

「……何だよ」

「何でも。まあいいわ。あの告白をどうこう言っても仕方無いし。瞳ちゃんが旅行で楽しんでいる間、カーヤはカー君と楽しい事しちゃうからいいもん」

「また、余計なことを」

「私、翔様やカーヤが知らない事を沢山知っていますわ」

「瞳ちゃんて、見かけに寄らず大胆ね」

「いえ、そんな事ありませんわ」

「考えてみたら今更だよな。俺達がいない間、昇と付き合ってたんだし」

「やることはヤッているわよね。だからあんなに感度がいいのよ」

「あのな、カーヤ」

「二人共、何の話ですか?」

「やーね、瞳ちゃんたら、とぼけちゃって」

 俺が渡した誘拐事件の迷惑料はバイト代とは言えない結構な額だった。御嬢は渡された封筒の中身を見て当惑し、その後使い道を色々と考えていたらしい。マスコミや巷の噂話から誘拐事件の見出しが消え、俺達に普段が戻ってきた今になって、ようやく御嬢は使い道を決めた。カーヤに言わせれば、御嬢の傷心旅行なのだそうだが、それにしても滞在期間が長い。

「向こうに1ヶ月いるんだってな」

「いいえ、翔様。3ヵ月です」

「随分ごゆっくりだこと。カー君、大丈夫なの?」

「お仕事ですか?でしたら、今からでもキャンセルします」

「影武者のことなら、心配しなくていい。ボディの更新も解決済みだ。何ら問題はない。折角の旅行なんだから思う存分楽しんでこいよ」

「ありがとうございます。翔様にそうおっしゃっていただけるのなら安心です。それに3ヶ月というのはバイト代で滞在できる最長期間ですから、それより前に帰るつもりです」

「何か困った事があったら、いつでも相談にのるからな」

「カー君、カーヤには言ってくれた事ないのに、瞳ちゃんには優しいのね」

「カーヤは瞳と違って強いからな。それとも焼き餅か。それは?」

「えーえー、そうですとも」

「翔様、頼りにしてますわ」

「そういえば、見送りは俺達だけか?」

「はい。家族はみんな、それぞれ今日はお出掛けですの」

「ふうん。ところで瞳ちゃん、荷物は?」

 御嬢は歩いて数分のコンビニに出掛けるような身軽さだった。とても海外に長期滞在するようには思えない。

「大抵のものは、向こうで調達できるみたいですし、必要なものは先に送ってしまいました」

「随分手回しがいいのね」

「詳しい人に色々手伝ってもらいましたから」

「旅行会社の人?」

「ええ、そんなところです。あら、そろそろ搭乗手続きが始まりますわ」

「じゃあ、瞳ちゃん、気をつけて」

「土産はいらないからな。瞳が帰ってくればそれでいい」

「ありがとう、二人とも。では行ってきます」

 行き先も、目的も、仕草や振る舞いも、何もかも些かの不自然ささえ無かった。ただ今にして思えば、あまりにも自然なことが奇妙だった。漠然と感じていた不自然さの正体を理解するために荒療治が必要になる事も、そして荒療治を決意するためには痛みを伴う事も、その時の俺には思いも寄らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る