10.モクテキのない誘拐

……あのとき、それが事件だとは誰も気づいていなかった。そして、終わってみれば、誰が何の為にしたのか、目的のない誘拐事件ということしか分からなかった。

(星宮那奈「そのとき、現場は」より)



 純白のドレス、ティアラ、ブーケ……。パーティーというよりはウェディング。衣装合わせ、指輪選び、引き出物で悩む……。誕生日というよりも披露宴。

 今夜は結婚式でも披露宴でもなく、調芳夜の誕生会。今はそれなりだけれど、私は昔、本当にちやほやされた。その時に知ったのは、人脈、特に今を輝く時の人には良かれ悪しかれ『知り合い』が増えること。今回のパーティーに招かれた千人もの賓客は実に多方面でありなから、『その時だけの知り合い』では無いようだった。

 最初のドレスを身に着けて、出番を待つ控え室には、カーヤと私の二人きり。時々、翔様や美智瑠が様子を見にやってくるのだけれど、準備で忙しいのか、はたまた放置されているのか、文字通り『顔を出す』だけ。

カーヤの『そっくりさん』とか、パーティーの添え物に過ぎないとしても、土曜日のゴールデンタイムに生中継、社交界への再デビューがこんな形で訪れるなんて思ってもみなかった。

 準備のため会場入りしてから三時間、パーティーが始まるまであと三十分。粗相が無いように座席表を頭に叩き込む。

「よっ」

「翔様」

「『よっ』じゃないわよ、翔。会場の準備は済んだの?」

「うっせーな。済んでなければ来ないよ。うーん……」

「何よ?」

「いや、衣装が同じだと、全く見分けがつかないなー、とか思ってさ」

「やっぱり?」

「その態度と言葉使いにさえ気をつければ、完璧だな」

「そうなのですか?」

「あーいや、御嬢も芳夜もお互いの真似はまず無理だろうとはおもうけど。まあ、二人とも気負わず楽しんでくれたらいいんじゃないかな。じゃ、会場で」

 タキシードの翔様は、そう言い残して控え室を出て行った。再び、二人だけ。

「ねえ、瞳ちゃん。パーティーって退屈だよね」

「カーヤ、思っていても、口にしてはいけないのが、暗黙の了解ですのよ」

「わかった、言わない」

芳夜の顔は嘘をついてはいなかったが、どうも別の事を思い付いたふうな、………そう、悪巧みとか悪戯を計画する時の顔をした。

「ねぇねぇ、瞳ちゃん」

「ダメよ」

「私、何にも言ってないよ」

「顔に書いてあります」

「ねぇ、ねぇ、瞳ちゃん。正直、このパーティーをどう思う?」

「盛大なパーティーですわ」

「うーん、違うかな。瞳ちゃん、本音では主役じゃないし、退屈だよね」

本音はカーヤの言う通りだ。でも、ここは………。

「ほら、図星だ。瞳ちゃん、昔から本音を突かれると、口にチャックをするから、直ぐバレちゃう」

「昔とは違いますわ。念のため、伺っておきますけど、何を思い付いたのかしら?」

カーヤの悪戯には興味があった。

「じゃあ、教えてあげる」

カーヤは、私の耳元で『悪巧み』を披露した。

「まぁ」

思わず、頬に笑みが浮かぶ。退屈しのぎにはちょうどいい。ちょっとだけ、悪戯したくなった。

「どう、やってみる?」

無理とか駄目とか、人に止められたり、タブーを破る痛快さに、その時、二人とも目覚めてしまったのだ。

「面白そうなサプライズですわね」

 カーヤは身に着けていたティアラとネックレス、それに指輪を外して私に差し出した。私も外して鏡の前に置く。

 実はそれらの宝飾品だけは二人の見分けがつくように色が違っていた。ピンクとブルーのダイアモンド。最近クリスティーズで競り落とされた品物の価値は、小さな島国の国家予算をも上回る。

 私が芳夜から差し出された品物に手を出そうとしたとき、カーヤから声がかかる。

「あ、瞳ちゃん、ちょっと待って」

 立ち上がったカーヤはバランスを崩して控え室の隅に置かれた花籠を蹴り倒した。私は慌ててカーヤのとこれに駆け寄る。何秒もしないうちにドアがノックされた。

「日向野です。何か倒れた音がしたので入ります」

 室内の同意を待たず、警備担当の日向野さんが、警備員を従えて文字通り控え室に踏み込んで来た。

「ごめんなさい、日向野さん。立ち上がろうとしてドレスの裾を踏んで転びそうになってしまって。ごめんなさい、綺麗な花でしたのに」

「お怪我はありませんか?瞳さん」

「久し振りにドレスを着けたもので……。ご心配いただいて有り難うございます」

 日向野さんはカーヤと話していた。

 目印を外した私達の見分け方は、翔様が指摘した『態度と言葉使い』しか無い。カーヤはスターダムにのし上がろうとしている売れっ子タレントだ。しかも最近はドラマにも出演している。日向野さんが騙されたのも当然だった。

 日向野さんはインカムで『異常無し』と手短に報告した。

「何かあったら呼んでください。時間になったら迎えに来ます。では」

 扉は閉ざされた。一事が万事で、パーティー会場の警備は厳重を極めていた。千人の賓客、芳夜、そして国家予算級の宝石。

 カーヤは臆せず鏡の前の品物を身に着けて始めた。私もカーヤから差し出された宝飾品に手を伸ばす。

「『ドレスの裾』は?」

「ええ、(『作り話』と口パク)危ないところでしたわ」

 カーヤは答えながら、山と積まれた色紙の一枚に口紅で何かを書いた。『コンセントに盗聴器、花瓶にカメラ』。カーヤは私を見て頷いた。

「『転ばない』ように、気をつけなきゃね、『瞳ちゃん』」

「そうですわね、『カーヤ』」

(星野瞳「カーヤと私」より)



 異変というよりも、何か違和感を感じたのは、スモークの量だった。

 会場のレイアウトは、パリコレを意図した舞台の左側奥にプロダクション関係者席、私を含めプレス関係者は舞台のかぶりつき、それを取り巻くように千人もの賓客の席が配置してあった。

 プレス限定で配布された進行表通りに舞台奥から中央に向かうバージョン1のKAGUYAに扮する星野瞳さんが、舞台中央の奈落からせり上がって登場したバージョン2のKAGUYAと互いに伸ばした手同士が触れ合った瞬間、フォトンステージに模した光の柱に二人が包まれる。そして最新のバージョンアップを経た KAGUYAが再び舞台中央からスモークを伴いせり上がる。

 が、演出にしてはスモークの量が多く、なかなか芳夜が現れない。スモークは会場全体を覆い隠し、視聴者が痺れを切らしそうな間を取ったあと、KAGUYAは予定外の場所……ステージの奥から現れた。スポットライトが入り乱れて、彼女に収束した。

 私はプロダクション関係者席に近いステージ際に位置し、比較的状況を把握し易い場所にいたから、スモークが消え失せたのと前後して、プロダクション関係者の警備と技術の責任者が相次いで席を離れた様子が手に取るようにわかった。

 異常事態を確信したのは、エピソードを織り交ぜた祝電が読み上げられ、舞台の袖から追加で加えられた最後の一通だ。これが演出だったのなら、今までのカーヤのステージでは最高のサプライズだったはずだ。

 曰く『……誘拐犯人(?)様の祝電を紹介いたします。お誕生日おめでとうございます。そして、さようなら。調芳夜の最高のステージはこれで見納め。皆さん、あとは御食事をお楽しみください』

 祝電で誘拐声明文が読み上げられた。『誘拐犯人』という最初のフレーズは、一拍の戸惑いがあったが、殆どの参加者はカーヤのステージにつきもののサプライズと勘違いし、会場は笑いと拍手に包まれた。

 私は撮影をすぐにもう一台のビデオカメラに切り替え、スモーク前後をチェックした。スモークが二回炊かれ、その二回目は煙幕であり、会場に予めセットされた発生装置は煙幕とともに忽然と消えていた。そして、間違い無く舞台中央からカーヤらしき人影が何者かによって袋に詰め込まれ、煙幕の中、会場から運び出されていた。

 異常を認めた瞬間に、私は席を離れ彼らの後を追っていた。無論、私の席には離席した後の状況を記録し続けるカメラを3脚で立てたまま。

 その後、誕生パーティーは以降もつつがなく進められたようだった。誘拐されたはずのカーヤがラストナンバーを歌い上げ、パーティーの終了を告げフィナーレを迎えるまで。

(葉月陽子「その時間の裏側で」より)



 嫌な予感ほど良く当たる。

 KAGUYAの控え室での一件があったとき、監視カメラや盗聴マイクは所詮小手先の小細工ではないかと、ふと感じたのだ。既に会場にはスタッフを含め千人をゆうに超える人間が入っており、今更一人ひとり洗う時間も人もいない。

 そもそもこの状況が想定されたからこそ、機械警備で会場全体を監視し、パーティー会場のみ人員を配置する手段を採ったのだ。

 幹部4人……社長、荒城廉太郎、技術責任者の天地君、それに警備責任者の私。対応策打ち合わせは痛烈な言葉の応酬だった。

「日向野、どうしてこんなことに。芳夜なら遠隔操作で回収が可能なのに、よりによって生身の人間が誘拐されるなんて」

「申し訳ごさいません、社長」

 プロを欺けるのは、プロだけだ。KAGUYAを奪取する手段として、また攻撃する方法として、彼女の特性から効果的で効率的な電子的手段が今まで用いられてきたが、KAGUYAのバージョンアップでそれまでの方法が極めて難しくなり、より直接的な手段で挑んでくる事はある程度予測していた。しかし、これほど早い段階で実行可能なのは、内部の情報が漏れていたとしか考えにくい。犯人、または犯人の一味が、まさに今、この会場にいる可能性は十二分にあった。

「いなくなったのは二人、御嬢と美智瑠だ。携帯は電源を切られていて、連絡も移動軌跡を追跡することもできない。それに誘拐なのに犯人からの要求もない。ターゲットを見誤った犯人が、脚が着くのを怖れて二人を処分することもありえる。ヤツらが動くのを待つ、それと並行してヤツらの足どりがわかるものを探すほかない」

「確か、マニュアルはこうでしたよね?探偵さん」

「ええ。社長、天地君の言うとおり、今の状況では対処療法しか用意できませんが、最善の策です」

「オッサンも翔もいい迷惑だよな。それにマヌケな犯人ときてる。人違いをしておいて祝電で犯行声明とはな。言っちゃーなんだが、それに付き合わされた俺達も同じ穴の狢だ」

「兎に角二人の保護を最優先に。周りはこの通りの状況だから」

 後片付けが全く手付かずのパーティー会場には、警察、マスコミ、スタッフが入り乱れていた。現場保存を優先したい警察とマスコミがあちこちで衝突していた。

「探偵さん、失地は自らの手で回復なさい。それから翔君、下手な情を挟まないで処理することね、一般人が関わってしまったのだから、全く失敗は許されない事を忘れないでね」

「社長……希さんも人が悪いな。俺は今まで通りに片付ければ、いいだけなのに」

「おっと、お話し中に失礼。警視庁の白鳥です。タレントが誘拐されたと聞いて来たのですが、詳しく聴かせてもらいましょうか」

「お前……白鳥、何か用か?今は取り込み中だ」

「あそこの記者さんから、電話があってね。要人や有名人の関わる事件かつ、その分野に詳しい人選てことでお呼びがかかったもので」

 警視庁の白鳥が顎で示したのは、葉月陽子だった。

「またあの三文記者かよ」

「少年、このキザッぽい奴を知っているのか?」

「ネット銀行強盗の取り調べの時に。まぁ、それ以前もちょっとした知り合いでね」

「彼の父親の仕事仲間だったものでして」

「希……いや社長、この前の手打ちが無駄になっちまったな」

「廉太郎、そうでもないわよ。サイレンの音、しなかったでしょ」

「『ここからはプロの仕事』ってことか。少しは話が通じるみたいだな」

「噂をすれば、なんとやら」

 白鳥は部下に命じていたらしく、私服の警官に伴われた葉月陽子がこちらに合流した。

「『倶楽部姫』以来かしら。気を使わせて申し訳なかったわ。通報して下さったそうで、ご親切に有難う」

「いいえ、とんでもありません。お礼を言うのは、こちらのほうよ。またとない事件に立ち会えるなんて。あら、ごめんなさい。事件を歓迎しているのではないのよ。悪しからず」

「で、白鳥。何かわかったのか?まさか、手ぶらで俺たちと茶飲み話をしに来た訳じゃないんだろ?」

「話が早くて助かるよ。昔の友が今は敵でなくて良かった」

「白鳥さん、拐われた二人はどこに?」

「まだ、わかりません。ですが、お二人が連れ去られた時間帯にこの建物付近から走り去った不審車両を片っ端から確認しています。その中で、一台だけ登録のない偽造ナンバーの車があったのです」

白鳥は自信有り気な態度で、一同を見回した。

「……相当な訓練を受けた手練れの犯行だという証拠を我々に提供したのも記者さん……葉月さんでしてね。そのナンバープレートの映像がなければ、お手上げでした。葉月さん、その後のパーティー会場の映像も提供していただけると、ありがたいのですが……、あ、いやダビングさせて貰えれば充分です。御商売の邪魔をするような野暮はしません」

 どうしてどうしてこの白鳥という男は、我々が最も必要としている犯人の足取りについての情報を押さえて、主導権を握る才覚の持ち主とは。とはいえ、関心ばかりしてはいられない。

「犯人のヤツら、二人に何かあったら地獄にいた方がましなくらいに報復してやる」

「カー君を敵にしたら、無期限有効の地獄行き片道切符をもれなく貰えるから。ね、白鳥君」

「ん、異議なし」

「カーヤもコイツを知ってるのか?」

「昔、一緒に仕事をしてたから」

 彼等三人の関係は今まで私の調査では浮かび上がってこなかった事象だ。『仕事』とは一体何なんだ?

「あれ?カー君、スマホ鳴ってる」

「……番号非通知、犯人か?」

「翔、待て。おい録音!」

「心配するな、いつもしている」

 天地君が携帯に出た。

「……もしもし、お前は誰だ?」

「祝電の送り主だ。KAGUYAはこちらで預かった。下手な小細工はしないことだ。サイレンを鳴らさなくてもナンバープレートは誤魔化せないからな。馬鹿なサツに伝えておけ」

「あいにく俺はメッセンジャーじゃなくてね。……伝えたければ自分で伝えろ」

「お前、自分の立場をわかっているんだろうな。KAGUYAがどうなってもいいのか?」

「バカはお前だ」

「何だと!」

「お前、芳夜本人かどうか確かめてないだろ。だからこんな電話をかけられる。全く、お話にならないね。ヤレヤレ」

「写真と同じだ。本人だ」

「なら、俺の隣にいるKAGUYAは誰なんだ?」

「まさか……。だとしたら、ここにいる人質は誰だ?」

「そんな事は自分で調べろ。こっちは誰が誘拐されたかなんて知る方法はないからな。交渉する相手を間違ったんじゃないのか?隣にネゴシエーターがいるから代わってやろうか?」

「そんな手にのるか。人質は本物だ。二人いる。一人はKAGUYAで、もう一人はお前の彼女だ」

「どの女だ?……すまんな、何人もいるもんでね」

「美智瑠だ」

「そうか、それは困ったな」

「やっと立場がわかったのか、馬鹿め」

「これは親切にどうも。やっと人質が誰かわかった。ついでに画像でも確かめたい。KAGUYAのホームページの掲示板にでものせてくれ。そしたら話をしてやる。じゃあな」

「おい、待て、こっちはまだ条件を……」

 天地君は一方的に通話を切った。荒城が慌てて声をかける。

「おい、翔、そんな強がりを言って平気なのか?」

「『事を片付ける』、それだけですよ。条件を話したければ、犯人から連絡してきますよ。……ほら来た」

「……」

「何だよ。画像を載せたのか?」

「まだだ。だが条件は伝えておこう」

「掛け直せ」

 再び翔は切った。留守番電話にしてしまう。

「白鳥、さっさと回線を切り替えろ。逆探できなくなるだろうが」

「言われなくても、今、やってる。……なんでお前の言う事を聞かなければならなくなるんだ?」

「お前がトロイからだ」

 白鳥は決してトロイ男ではなかった。天地君が白鳥よりもデキルだけなのだ。主導権は再びこちらに戻った。

「カーヤ、奴は何を要求してくるかな?」

「誘拐したKAGUYAがカーヤでないと知ったら、私と交換しろとでも言ってくるんじゃない?でもさ、カー君。別に犯人にヒントをあげることなかったんじゃない?」

 黙ってやり取りを聞いていた社長が、何かを思いついたようだった。

「……そうなのね。KAGUYAならどんな状況でも回収できる。それで人質を交換しようというの?」

「そういうこと。それと、奴らには電子戦能力は今のところは無いようだ。仮にあったとしても、せいぜい逆探知を防ぐくらいしか能はなさそうだ。逆探知を恐れる必要がないから、何度でも連絡をしてくる。さてと、板は……載った、これだ」

 天地君は黒い巻物を広げた。目の前に画面とキーボードが浮かび上がる。犯人は折れて、人質の画像を掲載したのだ。

「よし、このログから逆ハックを仕掛ける。まずはそれからだ。カーヤ、いつでもダイブできるように準備をしておいて」

「ダイブ?」

 一同、声を合わせて疑問を呈した。

「KAGUYAにできて、俺にはできない事。KAGUYAの特技みたいなものさ。電気の流れているところなら何処にでも潜り込める。奴らがバッテリーで何かを動かしていても、携帯端末から離れることはできないだろ。な、葉月さん?」

「電気信号、電波、この時代に電気の無いようなところで、電気を全く使わないで犯罪はできない。つまりは、犯人はもう捕まったも同然……」

「だから、俺に歯向かえば、いいやKAGUYAのご機嫌を損ねたら、菜月さんも取材どころの話じゃなくなるってこと」

「なるほど、KAGUYAは電子電送兵器としても用途があるということか。よかった、少年と同じ事務所で」

「KAGUYAと契約した後、防衛省から真っ先に連絡があったわ。芸能プロダクションにイベントや募集広告以外の用件でオファーがあるなんて初めてよ」

 三たび携帯が鳴る。

「奴らだ。……もしもし」

「どうだ、見たか?」

「ああ、載ってた。だが、残念ながら、あれは偽物だ」

「何だと?」

「KAGUYA本人に聞いた。ステージに上がる前に、彼女と身につける物をいたずらで入れ替えたそうだ。ブルーダイアのティアラは本来本物がつける予定だった物だ。だからそいつは偽物だ」

「じゃあこいつは、誰だ?」

「お前も知ってるだろ。ワイドショーとかで、そっくりさんとか。そこにいるのはKAGUYAのモデルだ」

「造り酒屋の娘だったよな」

「そうかもしれないな」

「もしもの事を考えて、KAGUYAの影武者は何人も作った。そのうちの一人だ」

「だったら、こちらの要求は一つだ。本物のKAGUYAをよこせ」

「ようやく、らしくなってきたな。こちらも希望を言わせてもらえば、『交換するまで人質の無事を定期的にチェックさせろ』。人質に何かあれば、交渉はしない。影武者の死体を受け取っても仕方ないからな」

「当然の言い分だな。わかった、人質の無事は約束する」

(日向野影「とある探偵業の日常」より)



 パーティー会場は現場検証の後、何事も無かったように撤収された。いつもと違った点、それは事務所に戻る車中の雰囲気だった。

「いいか、少年。ああいう場での対応はな……」

「廉太郎さん、俺、タレントじゃなくて裏方なんで」

「まあ、そうだが……」

「スタッフの一員としてのマスコミ対応は、求められて当然よ。翔君、あなたは名前だけだとしてもNYANKO社のトップでもあるのだから、公人として少しは自覚しなさい」

「……と社長もおっしゃっている。わかったか?」

「了解。だってさ、カーヤ。……ん、どうした?」

 ハマーの車窓を眺める芳夜は手首を押さえていた。少年は彼女の腕を掴んだ。芳夜の両手首に縄で縛られたような跡が痣になって浮かび上がっていた。

「青少年諸君、多少羽目を外すのは、仕方ない。若気の至りってヤツだ。ただなあ、そうした傷が出来るプレイは止めとけ」

「あなた達!」

「希さん、私、カー君とそんなプレイはしてないよ。これは瞳ちゃんの体からのフィードバック」

「常時同期をとっていないはずでしょ?」

「聖痕みたいなものでは?」

「おいおい、オッサン、オカルトじみた話はよそうぜ」

「可能性は無い訳じゃないの」

「カーヤ……」

 少年は巻物の画面と芳夜の腕を交互に見つめながら、彼女に慰めを言おうとしたのかもしれない。

「私はバージョン1を抹消しなかった。だから、どこかで瞳ちゃんの体の変化がフィードバックされているかも……いいえ、きっとしている。カー君、お願い。早く瞳ちゃんを助けてあげて。もし、カーヤがイタズラをしなければ、彼女はこんな目に遭わなかった……」

 大人達は何も言えなかった。俺、荒城廉太郎が少年を肘で小突いてやらなければ、事務所に着くまで沈黙が続いただろう。

「少年、何か言え」

「っるせいな、それにどいつもこいつも、通夜みたいな顔しやがって。……希さん、俺がこれを片付いたら、カーヤにボーナス出してもらってもいいかな?」

「ボーナスねえ。……どんなモノがいい?」

 希は『モノ』と訊いた。金は出さないつもりらしい。

「軽井沢でバカンスを兼ねたツアーを組みたい。『カーヤ軽井沢ジャック』なんてどう?」

「休みを兼ねて金儲け出来る、か。うん、悪くないんじゃない」

「要は金儲けか?」

「悪い?」

「いいや、全然」

「荒城君、君は仕事で出るの。お分かり?」

「ええ、ええ、わかってますとも。……なんだ俺は休み無しかよ」

「タレントが暇でどうするのよ」

「それは残念なこった」

「カーヤ、条件は揃った。二人とも無事に救い出す。後は安心して俺に任せろ」

「ありがと、カー君」

 芳夜は少年に飛びついた。

「カーヤ、お前らはいつもこうなのか?」

「そうだよ。いけないの?」

「いや別に……なぁ、希、何か言ってくれよ」

 俺は素透しのガラスを指で弾いた。

「外から見えないから、大丈夫よ。ね、日向野」

「はい。ところで社長、先程の話だとうちの事務所に現場対策室を設営するとの事でしたが」

「ミーティングルームを開けとくように連絡した。車は裏口から入って地下に停めておくように案内した。案外面倒くさいのね、秘密捜査って」

「仕方ない事です。しかし気になるのは報道管制です。あの葉月陽子が一枚噛んでいます」

「全く、あの女に関わるとロクな事がない」

「少年、『経験者は語る』、か?」

「あら、日常茶飯事だと、慣れてくるものよ。ね、荒城君」

「俺かよ」

「そうですよ、兄貴。アニキがカーヤやカー君みたいなティーンに何て呼ばれてるか知ってます?」

「憧れと尊敬を込めて、『アニキ』だろ?」

「違いますよー。みんな言ってますよー、『歩くオットセイ』って」

 俺以外全員吹き出しやがった。

「よく言ったものね。……確かに。まあ本人の耳に入るような場所では禁句なんでしょうけど」

「取り巻きや追っ掛けのコ達は、『ハーレム』とも言われてる。ブログや掲示板では常識だっつーの」

「知らぬは本人だけって事ですか」

「オッサン、……つーか、『オットセイ』って何だ?」

「後でじっくり話します。男同士、酒を酌み交わしながら」

「いいねー、それ。残念だったな少年、お前は未成年だから、大人の集いには参加できんぞ」

「別にいいですよ。『オットセイ』の話なんか。いつまで潜っていられるのか。今はそっちが問題だ。葉月陽子……あの女さえ絡んでいなければ、いろいろ方法があるものを」

「警察は彼女に『規制はするが、邪魔はしない』と明言した。彼女にはそれで充分です。それに通報者であり、犯人に繋がる映像も所持している。あとは事態の成り行きを眺めつつ、記事や映像が最も高く売れるタイミングで大衆が最も歓迎する筋立てを付け加えて出すだけ。全て私が教え込んだものです」

「なら、先にこっちに都合のいい話にすれば?」

「それができる相手なら、そうするさ。あの女でなければね」

「じゃあ、カー君どうするの?」

「表沙汰になる前にけりをつける」

 会話を遮るように少年の携帯が鳴った。

「またヤツだ。……もしもし」

「俺だ。お前の仲間が掲示板に投稿した内容は本当か?」

「何の話だ?」

「とぼけるなよ。自分の目で確かめてみろ」

 少年は巻物を開いた。あった。葉月陽子のオフィシャルホームページの掲示板。

「何々……『事情通より。テレビ中継された調芳夜の誕生パーティーで、誘拐事件発生!犯人は人違いと成り行きから、芳夜のそっくりさんとその友人を攫って逃走中。本物のカーヤと人質の交換を要求している。所属プロダクションは誘拐の事実を知りながら番組を強行継続し、失態が明るみに出ないよう警察に圧力をかけ報道管制。その間に内々で犯人と交渉若しくは人質救出を図っている。人質とカーヤは如何に?』……。おい少年、これって」

「おや、その声は『オットセイ』廉太郎。『誰がこんな事を?』って思っただろ?……そんなわかりきった事しらばっくれてんじゃねーよ!」

 少年は俺よりも手が早かった。

「ふざけるな!てめえの自作自演を餌に話をしようなんてマヌケな真似をこっちが大人しく聞くとでも考えたのか?」

「何だと、貴様!……交渉決裂だ。条件は改めて連絡する」

(荒城廉太郎「俺がビッグなワケ」より)



 その後、犯人は不定期ながら人質の画像をカーヤ公式HPの掲示板にアップしたものの、それを見て安心した関係者は一人としていなかった。それはライブでの確認がとれなかった為だ。そして翔とカーヤによるログ解析は結果として失敗に終わる。

 『前と似ている』とだけ、彼は記事会見の質疑応答でコメントした。そう、私の掲示板が原因で、公開捜査に切り替えるしかなくなったのだ。

映像のダビングが済むと、白鳥はこう切り出した。

「証拠物件の提供に感謝します。御協力ありがとうございました」

「過去形ですか?」

「それが何か?」

「捜査協力の代わりに……」

「葉月さん、あなたは何か勘違いされているようだ。我々は犯人とは交渉するが、マスコミとは交渉しない」

「……」

「失敬、今のは適切ではないな。我々は犯人ともマスコミとも交渉しない。事件を解決するだけです。あなたにだけ例外を認めるわけにはいかないのです」

 至極ごもっともな話。無論食い下がったが、白鳥も本庁からのお達しとあれば曲げられはしまい。キリの良いところで私も矛を収めた。

 しかし誰が私のHPにあの書き込みをしたのか、皆目見当がつかない。当事者、それもパーティー会場で交わした会話を聞き得た人間でしかない。秘密裏に救出したいプロダクション関係者でもなく、唯一マスコミで立ち会っていた私でもないとしたら、白鳥?

 まさか……犯人逮捕、人質救出をしようとする警察が、私を前面から排除するためにしたというのか?無い話ではない。充分可能性はあるし、前も……あの中学生偽装心中事件の時も、タブロイド紙の社会面記者の日向野と駆け出しのカメラマンだった私は、興味本位に加工されてゆく事件そのものの有り様を疑問視したがために排除された。そんな雰囲気は、今も昔も変わってはいない。

 いや、あの少年……天地翔は記者会見で『それ』を指摘したのではないだろうか。天地翔に会って確かめる必要がある。私はそう感じた。

 警視庁から乗ったタクシーを降り、別の車を拾って明星プロダクションへ急いだ。明星プロダクションが居を構えるビル、通称『KAGUYA御殿』はマスコミやファン、それに野次馬が砂糖に群がる蟻のように十重二十重に囲まれているのをワンセグのライブでチェックした。

 明星プロダクションは新興のプロダクションで、二大看板である調芳夜と荒城廉太郎がブレイクするまでは道端のゴミのような掃いても捨てるほどある零細イベントプロダクションだった。今や引く手数多の一大芸能プロダクションである。荒城廉太郎がブレイクした3年前に自社ビルを埼玉県に建て、そして今年『KAGUYA御殿』を六本木に設け移転した。おかげで芸能記者達は早暁深夜の六本木詣でが日課となった。

 三宅坂、平河町ときて赤坂見附の手前で運転手に声を掛ける。

「グランドウエルホテルに寄せて」

 急な車線変更。大抵の追っ手はこれでバイバイ。

 グランドウエルホテルのコンシェルジュに『KAGUYA御殿』のセキュリティーカードを見せると道路の反対側にある『KAGUYA御殿』への秘密通路に案内される。倶楽部姫での手打ちの際に渡されたカードは、プロダクションが許可した極少数の人間に渡されるセキュリティーカードで、複数の地下通路を介して『KAGUYA御殿』からの最短ルートを確保していた。

 手打ちの最大の切り札を、実はあの少年が周囲の反対を押し切って私に渡すように勧めたのだという事情を、荒城廉太郎から話を聞いた環から聞かされたのは随分後のなってからのことだった。

 環の話が本当だとすれば、あの少年は曲者だ。厄介者の私を遠くから監視警戒するよりも、自分の目の届く範囲に私を置いて、直接またはカードの通過履歴から直接または間接的に監視ないしは管理しようとするのだから。

 地下通路は外部からの出入りを制限された『KAGUYA御殿』地下駐車場のエレベーター前に出る。車のキーレスエントリーと同様に所持した人物に反応してエレベーターの扉は開閉する。そのエレベーターに乗り込んで、一気に芳夜の部屋のあるフロアへ。ガラス張りのエレベーターだが外部から誰が乗っているかは見えない。眼下には黒山の人だかり、上空にはマスコミの中継ヘリの群れ。あっという間に車が胡麻粒になる。

 停止、音も無く扉が開く……と、キスをしているカップルがいた。

「あ、ごめんなさい」

「あれ、姉貴だ。ほら、カー君、葉月さんがいるよ」

 カーヤと天地翔だった。というより、このフロアは彼女達の居場所なので、何の不思議もない。男性恐怖症の私があの場面に鉢合わせて慌てただけだ。

「何だ、誰かと思えば……疫病神か。いろいろと、ややこしくしてくれる」

「あれは、私ではないわ。それに人を疫病神呼ばわりしないでくれる?」

「じゃあ何て呼べばいい?」

 少年は真面目に問いかけた。

 エレベーターホールの壁面は数十ものモニターになっていた。画面が一つになり、切り替わる。

「……駄目だ。やっぱりあんたは疫病神らしい」

『……只今、公式ホームページに犯人のものと思われる書き込みがされました。映像を切り替えます』

 ワイドショーの女性アナウンサーからカーヤ公式ホームページに画面が移った。

『犯人は交渉内容がリークされた為、連絡を断つと一方に交渉を拒絶したもようです。では対策室が設けられた明星プロ六本木ビル、通称『KAGUYA御殿』前から中継です。中継の星宮さん』

『はい、「KAGUYA御殿」前の星宮です。辺りはマスコミやファン、そして野次馬で騒然とした雰囲気になっています。こちらは国会や御所にも近く警備上問題があるとのことから、歩道には約10メートルおき位でしょうか、警官が警戒にあたっており、否が応にも物々しい空気が漂っています』

『事務所側の動きはどうでしょうか?』

『今回、犯人のものと思われる書き込みに対して、今のところ目立った動きはありません』

『はい、ありがとうございます。また何か動きがありましたら途中でも構いません。中継してください。はい、緊張感みなぎる雰囲気でしたが、ここで、元警視庁捜査一課で、誘拐人質事件の捜査指揮を執られた……』

 画面が多チャンネルに切り替わった。

「事務所サイドでも、警察でもない。ましてや犯人が目的を果たさないまま、交渉を一方的に拒絶するのも不自然だ。だとしたら、今回の書き込みは誰がする?」

「違うわ。私じゃない。これは罠よ」

「そう言うと思った。今のは事務所の考えを代弁したまでの話だ。俺の考えとは違う。……ただ真実がどうか知りたかっただけだ。悪く思うなよ。……仕事部屋に案内する。ついてこい、カーヤ専属カメラマンの葉月陽子サン」

 少年の豹変ぶりに私は茫然としてしまった。

「さ、行きましょ。カー君がああ言ってるし。疑っていた訳ではないの。ただ周りの目もあるでしょ?ただのパフォーマンスだから」

 カーヤの視線の先には半球型の防犯カメラがあった。

「私、すっかり騙されてたのね。このカードを私にくれたのは翔君だったのよね」

「そーゆーこと」

 私はカーヤの両手に肩を押されて、『仕事部屋』に案内された。

(葉月陽子「その時間の裏側で」より)



 瞬くフラッシュ。肌寒かった。暗闇に目が慣れないまま、再びフラッシュ。デジカメの撮影音。そして重そうな扉が開き、閉された。

「瞳ちゃん、目を覚ましたのね」

「美智瑠さん……なの?」

「ええ。私達、監禁されてるみたい。さっきまで手を縛られてたから……腕、大丈夫?」

 手首のあたりがヒリヒリする。触ると少し腫れていた。

「跡が残っているみたい。でも、大丈夫……だと思います」

「まずは体に問題なさそうね」

 駄目だ。鳥肌が立っている。それに……。

「でも、駄目なんです。私、暗闇が苦手で、眠るときも少し明かりがないと駄目なんです。だから、ほら」

 手探りで美智瑠の手を捕まえて、腕の鳥肌に触れさせた。

「鳥肌……冷や汗も。全然大丈夫じゃないじゃない。心配しないで、私が何とかするから」

 空気が動いた。美智瑠は立ち上がって、扉のほうに移動したようだ。

「訓練してきたつもりでも、駄目ね。あ、このことは翔様にも話した事がないの。内緒なんです。いつか私から話そうと思って」

 不安がそうさせるのか、私自身口数が多くなっていた。

「秘密は多くて困ることはないわ。私なんか翔には秘密だらけだもの」

「え、でも……」

「『彼と付き合っているのに?』……嫌な聞こえ方かも知れないけれど、『心の友』てことで親友。男女の関係ではないから、誤解しないでね。おかしいな、さっき確かこのあたりの壁をいじってたのに……」

 扉の脇の壁が光り、コンソールパネルのようなボタンが浮かび上がった。

「……ん?誰だお前は?」

「通じた!……あんた達が監禁している、か弱い女子高生よ。あんたこそ誰?」

「……」

「ちょっと待ちなさい。私じゃないもう一人、暗所恐怖症なの。目を覚ましたわよ……このまま暗闇だと発狂して自殺しちゃうかも……」

「なに!ちょっと待ってろ……」

「あ、おい、切るんじゃない、このボケナス!」

 美智瑠はインターホンを切った相手をなじった。私は少しでも暗闇を感じないように消えゆくインターホンの明かりを見た。すると部屋に明かりがついた。インターホンから声。

「これでいいだろ。全く最近の若いヤツは贅沢ばかり……お前らは人質だ。それなりの扱いはしてやる。だがな、ちょっとでも怪しい動きをしたら、覚悟しとけよ」

 再び切られそうになる。

「待って」

「何だ、まだあるのか」

「大切な人質なんだから、ひもじい思いをさせたら、ただじゃおかないから」

「あーもう分かった。三食昼寝付きだな。それと部屋の奥には、トイレもシャワーもある。奥の壁にボタンがあるだろ。押すと扉が開く。食事と一緒にタオルを差し入れる。これで満足か?」

「あと毛布とテレビかラジオ」

「うるさいな……分かった」

「仕方ないわね。これ位で我慢してあげるわ」

 美智瑠はインターホンを一方的に切った。図々しいと思えが、必要最低限の条件折衝をこなした美智瑠の逞しさに感心した。

「ありがとう。美智瑠さん」

「人質の立場を最大限に利用させてもらっただけ。後は運を天に任せるしかないわね」

 結局はここまでなのだ。

「翔様……」

「呼んでも無駄よ。気持ちはわからないではないけど。でも……喧嘩をしていても頼りにはしているんだ」

「期待は持てないですよね。思い願うだけでは。こんな事になるのなら、翔様に私の気持ちを素直にちゃんと伝えておけばよかった……」

 心の底からそう思った。そして私自身、翔様をお慕いする気持ちがこんなにも強いものだったのだと、今更のように気付かされた。とても悲しくて切なくてたまらない。

「翔様、伝わらないかも知れませんが、今度お会い出来たら、カーヤも誰も関係ありません。私自身の気持ちに素直になって、お話しさせて。これ以上、何も要りません。家もプライドも見栄も何もかも……」

 最後は言葉にならなかった。

「希望や願いがあれば、後は叶える為に何かをするだけ。さてと、私もそろそろ始めようかな」

 美智瑠が何をしようとするのか見当がつかない。

「まずはここが何処なのか、私達以外の状況がどうなっているのか知らないと。ほら来たみたい」

 革靴の足音が扉に近づく。床が鉄板なのか、カツカツと明瞭なリズムで。足音は扉の前で止まる。

「差し入れだ。壁の奥に両手を突いていろ。確認出来てから、必要な物を入れる」

 どうやら監視されているらしい。

「あ、落としちゃった」

 壁に手を突こうとした美智瑠のドレスからコンパクトが落ちて、鏡が真っ二つに割れた。美智瑠は残念そうに顔を伏せた。

「あーあ、高かったのに」

「……よし、そのままじっとしてろ」

 インターホン越しの声。てっきり美智瑠は気落ちしているのかと思いきや、じっと鏡を見つめている。私は同情して美智瑠の足元を見る……割れた鏡の一片が壁にもたれかかり、背後の扉の様子が写り込んでいた!

 毛布、バスタオルとタオル、携帯テレビ、飲料水のペットボトルとカロリーメイト。荷物を運ぶ覆面のがっしりした体つきの男と、扉の外の見張りの編み上げの靴。そして気密性の高そうな分厚い扉。必要最小限の動作で作業が終わり、扉が閉まる。

 私達はしばらく動かなかった。小さな鏡から得られるどんなちっぽけな情報でも見逃せなかったから。扉にロックがかかり、インターホンから指示が出た。

「よし、いいぞ」

 そして一人分の足音が遠ざかる。見張りが扉に張り付いている。

「丁度お腹が空いてたところ。貧相だけれど、無いよりましね」

「美智瑠さん、コンパクト……」

「お気に入りだったんだけど、でも……あーあ、こっちも粉々」

 ひび割れたファンデーションをパフで均してから、美智瑠は私に差し出した。ファンデーションの表面に爪で書かれた小さな文字。

 『見張られてる。必要なことは筆談で』

 私も割れたファンデーションの文字をパフで消し、『岸に着いた船の中みたい。揺れないから、かなり大きい』と書いて渡す。

「そうね。今度『調布』で交換してこなきゃ」

「『調布』ね、『諜符』なら私も分かるわ」

 美智瑠は私を見て頷いた。私達の闘いがここから始まった。

(星野瞳「カーヤと私」より)



 芳夜の誕生会パーティーから丸二日、見えない犯人を相手にするマスコミ各社は、更新される情報の少なさに特番を組むのに流石に疲れてきたらしく、『KAGUYA御殿』の張り番がいつもの数に近づいてきた。また警察の捜査で犯人や人質の居場所さえ把握できず、関係者をやきもきさせていた。

 この状態が延々と続き、将に迷宮入りするのではないかと誰しも思い始めていた頃、警察とプロダクションの定時会議の席上ではある決断がされようとしていた。

「ほう、それでは御社に捜査を協力していただけると?」

「はい」

「では社長、どのようなご協力を?」

「我が社には専門家がおります。彼等から説明させます」

「ところで、よろしいのですかな?彼女は部外者でしょう。お引き取りいただいたほうが……」

「いえ、彼女は……葉月さんは調芳夜の専属カメラマンとしてではなく、第三者な立場から記録をとるために必要です」

「我々警察からも、御社からも影響を受けない、という事ですか。……まあ、社長がそこまでおっしゃるのだし、我々に断る理由はない。では、早速専門家の話を伺いましょうか」

「日向野、二人を連れてきて」

 社長の求めに応じ、日向野さんは会議室の扉を開けた。そこには銃器こそないものの、グレーの野戦服に同系色のプロテクターを装備した天地翔と、パーティーの時のドレスを身に着けた調芳夜がいた。

「……なるほど」

「やい、白鳥。お前らに任せておいたらいくら経っても埒があかない。ネットバンキング強盗事件以来封印してきた芳夜の力を開放する。だからお前の責任で、俺と芳夜に捜査救出活動の自由裁量をよこせ」

「確かに、翔、お前が動けば解決はするだろう。ただし、破壊と混沌をも招く。また同じ徹を踏むつもりか?犯人は恐らく訓練を受けた複数犯だろうが、手練れではない証拠に最初の交渉からから手詰まりだ。そして時間が経てば経つほど犯人は不利になる。後は犯人達が自壊するのを待てばいい」

「バカ野郎!……カーヤ」

「仕方ないわね」

 カーヤの声。聞こえたのに、まばたきの前まで翔の隣にいた芳夜がいない。白鳥の姿も……いた。

 出入り口とは真逆の位置にいた白鳥は床で芳夜に組み敷かれていた。ゆうに5mは離れていよう。それを一瞬で彼女は移動していた。

「ちょっとは加減を知らんのか?」

「白鳥君、だから君は駄目なのよ。自暴自棄になった犯人達が人質を処分する前に私達が『けり』をつけるの。多少強引な手段を使ってでもね」

「分かった、ならば君らの自由にすればいい。但し我々警察が同行するのが条件だ」

「よしよし。昔より多少は話がわかるようになったな、白鳥。カーヤ、もう充分だ。現場に出てないのに怪我をしたら不自然だろ?」

「デモンストレーションなのにちょっとだけ、力を入れ過ぎちゃった。ゴメンね、カー君」

「翔君、日向野から話には聞いてたけれど、あなた達は一体?」

 社長の疑問はその場にいた誰もが思う事だった。それに答えたのは、白鳥だった。白鳥はスーツの埃を払いながら、立ち上がって話し始めた。

「元ファイブカードの『ハートのエース』または『ペンタゴンの悪夢』。そして最強のハッカーで諜報活動や破壊工作をもこなす『ジョーカー』または『ワイルドカード』。敵にまわしたら最も厄介な奴らだ」

 白鳥の説明が終わるや否や、警察関係者はざわめいた。そして、ここにももう一人。

「天地君達が?まさか……あり得ない」

「日向野さん」

「葉月君、君は知らんのかね?……しかし、もし知らないのなら、知らないままのほうがいい」

「ただのハッカーにどうして?」

「相手が悪すぎる。彼等には敵は存在しない。……目標あるいは敵と認識されたら、彼らは文字通り跡形も無く、全てを消し去ってしまうからだ」

「……じゃあ、あの噂、『ジョーカー』に悪戯したハッカーが翌朝目覚めたら、世の中に存在していた自分に関する情報が全て抹消されたとかって……」

「事実だ。そして、その日のうちにその人物は『行方不明』になった」

「この噂自体、何年も前のものでしょ?小学生か中学生の彼にそんな事が……、信憑性に乏しいわ」

 少年は長方形の形に囲まれた机をフワリと飛び越えて、白鳥の側に立った。

「社長の御指名なので説明する。簡単な事だ。俺と芳夜が人質と犯人の居場所を突き止め、制圧し、人質を救出する。あらかたの目星はつけてある。一四○○に出発、作戦開始だ。遅れたヤツは犯人と一緒に処理してやるから覚悟しろ。白鳥、陸はSITを主力として現場を包囲。海保と水上警察の用意も。形式上、俺達は裏方だ。表向きは警察が解決したというシナリオを前提に、プレス対策をしておけ。現場で中に入るのは二人でいい。白鳥、お前は同行するか?」

「邪魔にならんように包囲してるよ。念のためだが、SATを配置させてもらう」

「好きにしろ。奴らは船に隠れている。自分達で背水の陣を敷いたという事だ。現場に到着次第、時計合わせをして、突入する。解散」

 会議室に現場の緊張感と闘志が漲る。事が決まりさえすれば、あとは早い。少年が私の姿を見つけた。芳夜とともに、机上に散らばる警察のレポートを踏みつけながら、机の上を歩いて近づく。

「社長、専属カメラマンを同行させますよ。白鳥、防弾スーツを葉月さんに。カーヤの活躍ぶりをきっちり撮ってくれよ、葉月さん」

 机上で芳夜を抱き上げた少年は、私の目の前で音も無く着地した。

「臨むところよ。カメラ写りのいい、ド派手なアクションだとありがたいけど」

「その点は折り紙付きよね、カー君」

「ったく、しゃーねーな。依頼人……社長のオーダーに、葉月さんのオプション、本来なら倍の報酬を請求するところだが、今回は特別だ。仕事はきっちりこなす……それがプロってもんだ。まかせておけ」

 少年の目つきが変わっていた。まるで抜き身の日本刀のように、重く凛とした美しい瞳が輝く。少年は今まで獣の獰猛さを瞳の奥に隠していたのだ。

「今回は特別?」

 少年は答えなかった。代わりに芳夜が答えた。

「二人の為だから……」

「二人って……瞳さんと、美智瑠さんの?」

「元許嫁と、元カノだもんね」

「うっせーな」

「ふうん、それはかっこいいところ見せないといけないわね」

「別にそんなんじゃない。とにかく、俺は許せないだけだ。俺がいるとわかっていて、楯突こうという馬鹿が。今更、地獄直行便のチケットを欲しがる奴がいるなんてな!」

 少年の口が獲物を前にして喉を鳴らす肉食獣を思わせる。背中に悪寒が走る。

「で、でも、『殺し』はしないんでしょ?」

「あ?」

「いえ、誘拐監禁事件の捜査協力だから」

「まあ、中には二人だけしか入らないし、『緊急避難』や『正当防衛』なら仕方ないけどね、カー君」

「ま、そういうことだ」

「あなた達……」

「俺達は丸腰だ。民間で用意できるのは、この通り警備会社レベルの品物だけだ」

「相手が銃器や刃物を持っていたら、どうするの?」

「ね、カー君」

「だから、警察も俺達なら手を貸さなくてもいい、という訳さ」

「見た目や年齢では推し量れない……だからファイブカードは、解散した後も畏れ敬われるのさ。おっと、これ以上は特別国家公務員の守秘義務違反だ。残念だが、これ以上聞きたいのなら……俺の『寝言』でも聞くしかないな」

「カー君!」

「年増は趣味じゃないから。安心しろよ、カーヤ」

「三十路前のオネーサンをつかまえて、年増呼ばわり?」

「あれ?おかしいな、今のは独り言だったんだけど」

「……独り言ね。あ、そうだ。現場ではこれを身につけてくれる?」

「これを?」

「ウエアラブルカメラ。これ単体で電源は3時間持つわ。バッテリーの予備もあるわよ」

「なら、3時間で片付ければいいんだろ?」

「ちょっと、カー君。相手の人数もわからないのに」

「カーヤ、だからSATやSITが俺達に仕事を依頼するんだろ?」

「まあ、そうだけど……」

「オッサン。この『お姉さん』に何とか言ってやってくれよ」

「葉月君、彼らに心配は要らないよ」

 少年の肩に手を置いた日向野が言った。

「未解決事件の処理を、警察は彼らに依頼する。ちなみに、依頼した案件で未解決事件は皆無だ」

「……」

「そーゆーこと」

(日向野影「とある探偵業の日常」より)



 出発の30分前、会議室で打ち合わせが終わり、いつもの仕事部屋に戻った。これといった緊張感はない。但し不安材料はあった。

「カーヤ、お嬢の体だと不安かい?」

「ちょっとはね。さっきのデモンストレーションでは動けたけれど……」

 翔は防弾防刃耐火防護服を脱ぎ始めた。

「実は俺もだ」

「……カー君」

「あの事件以来、『アルバイト』で幾つかのオペレーションには参加している。だが、今回のような……昔みたいな無茶をするのは、久しぶりだ。ほら違うだろ?」

 翔は布切れ一つ纏わぬ全身を見せた。確かにファイブカード現役時代と比較すれば筋肉は落ちている。

「この通り柔軟性はあるけどね」

 翔はバレリーナのように片足で立ったまま、もう片足をピンと伸ばして額につけた。

「まあ、よく言えば、オールラウンダーのサイクリストの体型かな。格闘にはあまり向かないわね」

「だな」

 翔はそのまま全裸で床に置かれたジュラルミンケースを開ける。

「しかし、背に腹は代えられない」

「ねえ、この場限りの話として……実際のところ、瞳ちゃんとはどうなの?」

「カーヤが知っている通りさ。元婚約者に裏切られた幼馴染みで、同じ高校に通う友達。相変わらずギクシャクしてる」

「それだけ?」

「それだけさ」

「こら、カー君、全部白状しちゃいなさい。ステージからは丸見えだったんだから。瞳ちゃんが見えなくなって、カー君の顔色が変わったのが」

「……。ところで俺達がどうなれば模範回答になるのかな、カーヤ?」

「そうね、ドラマならこうかしら……この誘拐事件をきっかけに瞳ちゃんの気持ちに火が附いて、三角関係になるとか」

「カーヤにはそういう願望があるのか?」

「別に望んではいないよ。でもね、今も複雑な気持ちではあるの。だって……」 

 私はドレスを脱いで、翔に背中を向けた。

「心は自分だけど、カー君が見たり触れたり出来る『カーヤ』は、瞳ちゃんの体そのものだもの。私自身、『本当は自分が瞳ちゃんじゃないか?』って想うときがあるもの。カー君、取って。ね、しようよ」

「すぐ時間なのに?」

 カー君はそう言いつつも、ブラのホックを外している。

「……したいの!」

 振り向いて、カー君の顔を胸に埋めるように抱き締める。カー君はスルリと下に抜け出して、口でくわえたショーツに両手を添えて一気に下ろす。

「ドレスが染みになる。……着替えたら、出掛けるぞ」

「焦らさないでよ。ズルイ」

「このミッションが終わったら、カーヤが満足するまでトコトン付き合うよ。白鳥からの差し入れは、と……刃物と銃器を除いたSATの装備品か。カーヤ、俺の全身に市街戦用の赤外線迷彩塗装をするから手伝って」

「ん、もう、いけず。絶対の絶対の絶対だからね!私を満足させられなかったら、出来るまで一晩中だよ」

「いつもの事だ。何回でもヨくしてあげるよ。カーヤが満足するまで」

 私はカー君の手から塗料の瓶を取り上げ、タップリ指に絡める。全身暗灰色に塗りたくるのだ。

「うッ!バカ、そこは自分でやる。背中だよ。せ・な・か」

「カー君、『脚の付け根』って案外難しいのよ。……黙ってされるがままでいなさい。終わったら背中」

 カー君は渋々私の言う通りにした。

「カーヤ、体の事は心配するな。いつもちゃんと機能してるだろ?……着替えが必要なくらい濡れてたし」

「……もう、カー君に悪戯して気を紛らわしてたのに。私、シャワーを浴びて来る!」

「待てよ。今はこれで我慢しろ」

 立ち上がってシャワーを浴びに行こうとする私を、カー君は腰に腕をまわして引き寄せ、キスをする。

「カー君、塗料が付いちゃう」

「どうせシャワーに入るんだろ?」

「じゃあ、もっと」

 甘えてみせたが通用しない。カー君も我慢している。私のお腹にカチコチになった『カー君』が当たっていた。

「メインディッシュは前菜を片付けてからだ。カーヤがシャワーから出たら、ダイブして居場所の最終確認をとる。犯人達の足取りを掴めない間抜けな白鳥達に知らせてやらないとな」

(著者不詳「実録KAGUYA」より)



 ドレスの裏にルージュでつけた印は、今日で三つ目。携帯テレビの差し入れがあってから2日、私達が捕らわれてから3日、状況に変わりはなかった。

 『諦めたらいけない』と思っていても、次第に流されそうになる。美智瑠と二人励まし合ってきたけれど、犯人達と交渉を続けてきた美智瑠でさえ、疲れを隠せなくなっていた。

「そろそろ限界かなぁ」

「美智瑠さん」

「テレビもそうだし、犯人達もそう。それに私達。行き詰まってるよね」

「きっと、翔様達が……」

「翔達が犯人の交渉相手でしょ。私達に変化がないのは、進展がないからだと思わない?」

「でも……、いいえ。必ず翔様達が何とかしてくれます。翔様は今までも……今までずっと、いつでも私を助けてくれましたから」

「貴女には優しいんだ、彼」

「え?美智瑠さんには違うの?」

「ぜーんぜん違うわよ。初めからガードを固めてたからかもしれないけど。あちこちで他のコと遊んでいるのかなぁ。翔って意外と経験豊富そうだし」

 美智瑠は探りを入れるつもりなのか、私の目を見た。

「私は遊ばれてなんかいません。真剣にお付き合いしていましたから」

「それって、昔話でしょ?翔から聞いてるもの。許婚だったんですって。彼があなたを裏切ったからとか、従姉妹とできちゃったとか」

「あの頃はそう信じていました。でも、今は……」

 言いかけた時、扉のインターホンから声がした。

「……人質諸君、一度しか言わないから良く聴け。ここから移動する。5分後に迎えが行く。アイマスクとヘッドホンを着けるように。今朝の差し入れに入っている。以上だ」

 今朝は目的が分からす受け取ったが、監禁場所を移動することは予定されていたようだった。

「私、てっきり安眠の為と思っていました」

「私なんか、音楽を聞いてリラックスさせようと考えた犯人は珍しいなぁって思ってた。まさか、移動する為に使うだなんて」

「これは、翔様達の動きがあったからなのでしょうか?」

「わからないわ。情報が少なすぎて。もしかしたら、このままどこかに消えてしまうのかも……って冗談よ。どこに行くのかちょっと聞いてみる」

「美智瑠さん、止めた方が……」

「大丈夫だって。ちょっと訊いてみるだけよ」

 美智瑠はインターホンに遠慮なくズシズシ近づくと、ボタンを押した。

「誰かいないの?」

「……なんだ。準備が出来次第、移動する。そちらはどうだ?……なるほど、ジョーカーとペンタゴンが突入するのか。……ああ、手筈通りに。こちらもプロだ。奴らは実戦から離れて久しい。ん……、待て。誰だ、内線と切り替えたのは」

「ねえ、こちら人質。さっきから勝手に話してたのはそっちだからね。間抜けな犯人さん」

「美智瑠さん、あまり挑発的な事は……」

「ゴメン、もう言っちゃった」

「まあ!」

「貴様等こちらが下手に出ているから、バカにしているのか?いいだろう。今の女……美智瑠とか言ったな。お前には人質として価値はない。お前から処分してやる。わかったら、さっさと移動の準備をしろ!」

 怒鳴り散らして、インターホンは切れた。残ったのは沈黙。

「美智瑠さん……」

「どうも私はゲームオーバーみたいね。最期まで付き合ってられなくてごめんね」

「そんな……まだ、決まった訳ではないでしょ?」

「残念だけど、そうじゃないみたい。目隠しが要らないってことね」

 足音が近づく。移動の時間にはまだ早い。美智瑠は覚悟を決めたのか、私に微笑みかける。そして足音が扉の前で止まる。扉が開いた。

「美智瑠とかいったな、この船から降りてもらおうか」

「やっぱり、時間みたい。じゃあね、バイバイ」

「美智瑠さん!」

「おら、大人しく来い。……もう一人、お前、……お前は早く支度をしろ」

 重い響きを残して、扉は閉ざされた。

(星野瞳「カーヤと私」より)



 『ダイブ』あるいは『潜索』は、適当な単語が無いために翔が付けた造語だ。潜入や工作活動の為に、現実世界とダークウェブを自由に出入りできる特性を現在の私(KAGUYA2.0)に反映させた能力を指す言葉なのだが、今回の状況には人質と誘拐犯の居所を探す手段として使う。

 体を取り戻すまでの私は一団の電気信号で、お陰で通電している場所ならどこにでも侵入出来たし、どこにいても末端の端末で入出力された内容を把握していた。仕組みは至って簡単だが、難易度は高いこの技術を実用化できたのは、飽くなき探究心と不幸な奇跡の賜物だった。

 より危険なオペレーションやミッションを要求するクライアントに対して、特殊な訓練を受けたスペシャリストであるファイブカードがその能力に限界を感じ始めた時、ダークウェブを介した移動手段を偶然発見したことによって、あの不幸な事件への秒読みが開始されたのだろう。

「始めようか、カーヤ」

「うん、ちょっと様子を見てくるね」

 シャワーから上がったばかりの生まれたままの姿で、『鵺』が光子を放射して実体化したフォトンステージの上に私は立った。

「カー君、タイミングを私に頂戴。……確認した。いざ電脳の海へ」

 私は光の塵を残して、ステージから消える。

「……カー君の携帯にかかってきた回線は……あった。これね。やっぱり架空名義の携帯か。それと、ここ数日守秘回線で外部と連絡を取り、かつ内線を利用していた形跡のあるのは……これらね。この中で急に通信量が増加したのは……これ。カー君の携帯への通話記録はない……ただ、犯人の携帯がカー君に発信した位置は……重なった。内線通話に潜って」

 潜索している時は、まるで自分の体が透明になった気がする。分かり易いかどうか疑問はあるが、一言で表せば、幽体離脱状態みたいなもの。精神的な鋭いほどの現実感と、肉体の非現実感が入り混じる。

「無線から有線への守秘回線。受けている場所はブリッジ。無線は船室からデッキに向かって移動してる。傍受開始……え?これって」

『……ボスからの指示です』

『了解した。さっきの話だと、二人か。随分ナメられものだな』

『しかし、ウマいこと考えたもんですね。まさか人質が犯人だとは誰も考えもしない』

『パーティーの参加者に我々のエージェントが潜り込んでいれば、会場での行動は思いのままだ。それに事件や事故には偶然が付き物だろ?』

 人質が犯人。声は……美智瑠?。いや兄が何者かの指示で誘拐事件を起こしているなんて。そんなバカなことって……。

『御嬢は?』

『大人しくしてます。マネキンを船に残して既に移動させました。いつ奴らが来ても問題ないありません』

『爆破の準備もか?』

『回線のチェックはまだですが、恐らく起爆はします』

『誘い込む手筈は?』

『ボスは種を蒔いたと言ってました』

『よし。タイムテーブル通り動いてくれ。追って指示する』

 港の各所に備えつけられたカメラの画像をデジタル処理しすると、クルーザーのデッキで携帯を手にした美智瑠がいた。ぬけぬけと自分の携帯で連絡をとるようだ。

『私だ。施設についたか?』

『いえ、首都高で渋滞に捕まってます。関越で行こうにも、そちらは事故で止まってまして』

『時間との闘いだ。下の道にしろ。研究所には私から連絡しておく。彼女は?』

『薬で眠っています』

『急げよ』

『了解しました』

 着信した携帯の位置情報から、移動する別働隊を捉えた。首都高のカメラでナンバーを確認する。偽造ナンバー……に盗難車。かなり大掛かりな組織なのだろう。準備が整っている。美智瑠は再び携帯をかけた。そうだ。こいつは兄・昇ではない。そうとでも思い込まなけば、救出ミッションに悪影響がでる。

『私だ。所長につないでくれ』

 研究所の直通電話だ。場所は……。

『もしもし』

『ああ、センセイ。大したトラブルではないのですが、彼女の到着が遅れます』

『わかった。……いいのかね?』

『誘拐監禁時のストレスによる記憶障害……筋書きはそれで構いません』

『いや、儂が訊いたのは、君自身の事だよ』

『私の、ですか?』

『そうだ。彼女から君自身の記憶を消す事が条件で、君は今回の件に同意したと聞いている。君自身は終わった後、どうするのかね?』

『成功すれば、今まで通り、翔の監視……彼の側に居られる』

『失敗したら?』

『……失敗はない!』

『だろうね。ボスから完璧な計画を準備されたのだろう。ただ、相手があっての話だ。あの二人だぞ。荷が勝ちすぎていないか?』

『まさか、センセイからそんな弱気な言葉を聞くとは思わなかったな。彼等二人が凄腕のエージェントだったのは過去の話。かつてはどうだったかなんて知りませんが、それに二人とも今はミーハーなタレント稼業をしていて、昔の面影さえない』

『奴らを見くびってはいけない。そういうところが彼等の凄さなのだから』

『センセイ、講義は仕事が終わってから伺いましょう。ご忠告ありがとう』

 場所は軽井沢。到着まではかなりの時間がある。必要な情報は入手できた。現実世界へと浮上する……。

「ただいま」

「お帰り、カーヤ。こちらでもモニターしてはいたが、事実なのか?」

 フォトンステージから降りた私に、カー君はバスローブを掛けてくれた。

「これが現実よ。でも、どうして?お兄ちゃんが犯人だなんて……」

 カー君はバスローブの帯を蝶々結びにする。

「蛇の道は蛇ってことさ。昇……つまりは美智瑠は俺の監視役か。一体、誰の差し金なんだ?」

 カー君の問いに答えは見つからなかった。私は覚悟を決めた。カー君の目は、かつてのワイルドカード……ジョーカーに戻っていた。

「昨日の兄は、今日は敵かぁ」

「因果な商売だな。じゃあ、始めようか」

 それは、まるで『これからお茶でもしませんか』的なノリだった。

(著者不詳「実録KAGUYA」より)



「那奈ちゃん、準備はいい?」

「はーい。OKでーす」

 局アナはバラエティー専門と思っていたつもりが、蓋を開ければ報道局勤務。先輩からは『それも悪く無いじゃない』と、励ましとも皮肉とも取れる言葉をかけられて早三年。最近、ちょっぴり楽しめるようになってきた。

 今回、本来ならば先輩の独壇場のはずなのに、つまらない疑いの為に第一線を張れないなんて、悔しくてたまらないだろうと思って、メールを送った。するとすぐにレスがあった。

 『震源地に潜入成功。そっちは外から取材して』だって。転んでもタダでは起きない人だとは知ってたけれど、さすが先輩、誘拐事件真っ只中の明星プロダクションに転がり込むなんて、ただものではい。

 私達の局は、警察が人質の監禁場所に突入するという事情通の情報を得て、その瞬間をとらえようと動いた。他局は警察車両……特にSATの動きを上空からヘリで追っていたが、目的地が分からす地上班を投入するタイミングが遅れていた。

 数字を取る為には、特に事件中継の特番なら、いかに頭を押さえてしまうかに尽きる。どうやら、今回は他を出し抜けそうだった。

「はい、それじゃあカメラ回すよー。スタジオからのスイッチは耳で確認して」

「はーい、了解」

「はい、スタジオから現場に来ます。3、2、1、キュー」

「はい、こちら人質が監禁されている現場です。警察は海と陸に包囲網を敷き、突入のタイミングを図っている。そんな状況です」

『星宮さーん。犯人或いは人質の姿は確認できますでしょうか?』

「はい、クルーザーには窓があり内部で人影が動いている様子を見ることが出来ますが、果たしてそれが犯人なのか人質なのかは不明です。デッキには人影はありません」

『……今スタジオに情報が入りました。犯人がKAGUYA公式ホームページの掲示板にメッセージを載せました。読み上げます。「我々は関係者との交渉を継続してきたが、警察が我々との交渉を拒否したともとれる行動を将に今行おうとしている。交渉という平和的な手段によって問題解決の糸口を探ろうとする我々の意図に反するが、元々人質とKAGUYAを交換するという条件提示をした我々に対する回答に交渉を持ち出した責任は警察と関係者にあり、好ましくない状況を作り出した警察と関係者が非難されるべきである。交渉を一方的に拒否された以上かくなる上は、我々は我々の思うところに従うのみである。警察諸君、我々には諸君の屍の山を築く用意が出来ている。それでも尚我々とあいまみえるというのなら、それなりの覚悟と準備をして来るがいい。パーティーのチケットは命と引き換えに差し上げよう」とのことです。現場ではこれに関して何らかの変化はあるのでしょうか。あ、はい、一旦CMが入ります』

「はい、CM30秒入ります。そのあと、スタジオから現場へ振ります」

 掲示板の書き込みが新たにされる前から、現場は既に臨戦態勢だった。海上保安庁の巡視艇が遠巻きに海上を封鎖。犯人達が人質と共に立て籠もるクルーザーを直接押さえる位置には海上警察の船が、碇泊している岸壁には機動隊の盾が半円を描いて包囲網を敷く。機動隊のバスや装甲車の陰には突入準備が整った完全装備のSATが待機し、上空にも降下鎮圧の隊員を載せた大型ヘリと、ライフルを脇に抱えた狙撃隊員のヘリ、さらには逃走を監視追跡用の数機が旋回していた。

「まるで戦争でも始まるみたい。先輩、こういうのをやってみたいんだろうな」

 午後3時を回った。CM開け、スタジオで視聴者にことわりを入れた。

『本来この時間からは、「昼メロ」ですが、本日は特別番組をこのまま続けます。また本日放送予定だった「昼メロ」は来週以降の放送となります。お詫びと放送時間の訂正をさせていただきます。さて、現場には星宮さんが既に到着していますが、状況の変化はありましたでしょうか?現場の星宮さん』

「こちら、現場より星宮です。辺りはかなり緊迫した空気が漂っています。先ほど現場に到着した警視庁特殊急襲部隊SATが到着し配置に着いています。あ、警察関係者でしょうか。こちらに向かって歩いてきます」

「すいませーん、お宅等、テレビの人?」

「ええ」

「駄目なんだよね。そういう格好でそこに居られると。流れ弾に当たっても知らないよ。あとカメラ。すぐに止めて。犯人に情報提供してどうするの?大体どこの局?」

「カメラさん、映を振って。……JTVの星宮那奈です」

「ああ、あの……音声も全部、すぐに切って。取材、止めないと公務執行妨害で逮捕するよ」

「警察の方の指示ですのでスタジオに戻します。移動後、再び現場よりお伝えします」

『はい、どうやら現場では銃撃の危険性も高まってきたようです。人質の安否が気になります。……』

どうりで、他局がいない訳だ。紛争地域に派遣される特派員は現地スタッフが用意するか或いは出発前に準備をして出掛ける。リアリズムは必要だが、こちらが命を落としてしまうのは御免だ。だからヘリからのリポートになる。

「あのー、カメラが駄目なんですよね?」

「そうだ。それに現場から100メートルは規制線だ」

「那奈ちゃん、出直すか?」

 カメラ兼ADのケンさんは私に同意を求めた。他局の地上班はいない。でも下手をすれば、命の危険がある。

「スタジオは、現場の判断に任せるって」

 チャンスだ!

「ケンさん、望遠レンズは?」

「そりゃあ、車には積んでるけど。まさか、やろうっていうんじゃ」

「そう、やるわ」

「いや、だって、あのさ」

「安心して、ケンさん。ウチのお天気カメラが設置してあるビルって、あれでしょ?」

 私は倉庫街に建つ一つのビルを指した。

「あそこからなら、規制線にいる私やクルーザーの映には問題ないわよね?」

「まあ、上から撮るし、遮る建物もないからね」

「私、規制線に残って続けます。マイクの音が駄目なら携帯で。有線のイヤホンマイクも持ってるし」

「那奈ちゃん、流れ弾が」

「ヘルメットはこの前の災害中継の時のが車にあったでしょ?それに私の運勢、今日は最高なの」

「わかった。そこまで言うなら付き合うよ。機材を取りに一旦車に戻ろう」

「お宅等、まだやるの?」

「ええ、これが私達のお仕事ですから」

 呆れ顔の機動隊員とはそこで別れた。ケンさんは歯を見せてにっこりしてみせた。

「那奈ちゃん、防弾チョッキあるって」

「え?だってさっきは無いって。バイク便?」

「そんな来来軒じゃあるまいし」

「そうよね」

 来来軒は社食が終わった深夜に局で出前を頼む中華料理店だ。どう考えても有り得ない速さで配達をする。

「ケンさん、茶化さないで」

「いや、あの車さ、僕らが乗る前に現場に出てて、それが交番銃撃事件」

「銃撃した後、警官を人質に立て籠もったていう」

「それ。ほら、そこ」

 私達は車に着いた。ケンさんが指差す先、車の引き戸に小指の太さの穴が空いている。

「スタッフは車から離れていたから怪我しなかったらしいけど、この中継が終わったら証拠物件として検証するんだって。車内で跳弾しなかったのは………」

「これのお陰ね」

 私は後部座席に転がっていた防弾チョッキを取り上げた。胸の辺りに鉛の弾体がめり込んでいる。

「大丈夫なの、これ?」

「お、なんか新品らしいぞ。取説がある。なになに『同じ箇所への複数回の着弾した場合、性能は保証できません』、だって」

「まあ、その時は諦めましょ。あった、インカムと無線機、それにバッテリー」

「こっちも。じゃあインカムをテストしたら、早速始めようか」

(星宮那奈「そのとき、現場は」より)



「カー君、あれで良かったの?」

「いいのさ。理由はどうであれ、これで白鳥の面目も立つだろう。カーヤ、そろそろ始まる時間だな」

 私達は軽井沢に向かった車を追っていた。中には瞳ちゃんが人質として捕らわれている。軽井沢の研究所に着く前に助け出さなけばならない。

「カーヤ、奴らの足止めをする。警視庁のホストをハッキングして緊急広域手配をかけて」

「分かった」

 私は目を閉じて、潜索をする。程なくして警察無線で情報が流れた。犯人の携帯の位置情報がダイレクトに反応する。

「犯人達、急に迷走し始めたわ。多分警察無線を聞いているのね」

「だとしたら好都合だ。地の利があるウチのそばにおびき寄せられる」

「かなり手間よ」

「こちらも時間稼ぎがしたい。クルーザーの始末をどうつけるのか、決着を見てからでも遅くない」

「じゃあ、しばらく適当に逃がしとくわ。それでいい?」

「OK」

 その場で袋のネズミを逃さないよう、追い詰めないよう、パトカーと検問の配置をシミュレーションするソフトを作成し、警察無線に指令を出す。一度ソフトが走り出せば、後はタイミングをみて袋の口を閉めるだけ。

「やったよ。どれぐらい待つのかな?」

「人質の状況がこうだ。そう時間はかからないはずだが、問題が一つだけある」

「白鳥君ね」

「ヤツが下手な指示を出さずに現場に任せれば、短くて済む」

 バイクは駅前に出た。駅ビルの大画面にクルーザーが映っている。中継のようだ。

「お誂え向きだな」

「ねえ、一休みしない?」

「仕方ないなぁ」

 駅前なのにドライブスルーがあるマックの駐車場にバイクを停める。先に私が中継を見るのに都合がよい席を確保した。

『犯人グループと警察の睨み合いが続いている現場です。双方の間では拡声器を使った交渉、というよりは言い合いが断続的に行われています』

『星宮さん、話の内容は聞き取れますか?』

『内容は、警察側からは投降を呼び掛けるもので、犯人側からは人質とKAGUYAの交換、そして逃走用にヘリコプターを要求しています』

 カー君がトレイにハンバーガーとポテト、それにコーラのセットを運んでテーブルにたどり着いた。

「どう?まだ始まってない?」

「飛び交っているのは子供の喧嘩のほうがまだましな言葉ばっかり」

『「犯人に告ぐ。君達は完全に包囲されている。無駄な抵抗は止めて、大人しく出て来なさい。自首と逮捕では随分扱いが違うぞ」

「うるさい。そう言って、のこのこ出た所で逮捕するつもりだろうが、そうは問屋が卸すもんか。だったらお前一人で捕まえに来てみろ。どうせいつもデスクワークで現場を見たのが初めてだろうから、出てこれやしないだろ。違うか?」』

 巨大な画面から流れる映像に、駅前には人だかりが出来ていた。脚を止める人は多かった。車も例外ではない。駅前は常にそうだったが、特に今日は渋滞していた。

「白鳥のヤツ、頭に来て余計な事をしなきゃいいが」

「ポテトを食べる時間くらいは欲しいな」

 私達の会話が聞こえたのか、白鳥は犯人に対して中指を立てて挑発した。そしてクルーザーの丸い船窓からヌッと細長い物体が出て轟音と共に火を放った。

『あ、今、クルーザーから拳銃、いえライフルらしき物から発砲がありました。交渉と説得にあたっていた警察側の交渉人に対して、発砲しました。心配されていた銃器の所持がたった今確認されました』

『現場の星宮さん、何が起きたんですか?』

『はい、犯人にバカにされた交渉人が犯人を挑発する行為をしたようです。犯人は激高したのでしょうか。いきなり発砲しました。警察側の応戦はありません。機動隊もSATにも動きはありません。あ、いえ、機動隊の装甲車が交渉人の盾となるような形でクルーザーとの間に移動しました。移動しながら先ほどの窓に向けて放水を始めました』

「ほら、言わんこっちゃない」

 カー君は口をモゴモゴさせながら話した。

「カー君、放水で射撃を封じ込めるつもりらしいよ」

「反撃されるだけさ」

 カー君から私への返しがあるかないかのうちに、中継映像のクルーザーからの発砲。

『犯人は再び発砲しました。クルーザーの窓数ヶ所から包囲する機動隊に向けて銃撃を続けています。機動隊員は盾に身を潜めています。どうやら陸上だけでなく、海上で包囲する海上警察にも銃撃した模様です。海上警察の船がクルーザーから離れました』

『星宮さん、怪我人が出ている様子はどうですか?』

『こちらからでは、確認できません。現場は騒然としています。犯人は依然として包囲網に向けて銃撃をしています。拳銃のように単発ではなく、マシンガンのような連続した発砲音が聞こえますでしょうか?あ!』

『どうしました?星宮さん』

『……』

『星宮さん、星宮那奈さん!』

 映像はヘリコプターと近くの建物からと視点が変わり、規制線の外の建物の陰でうずくまるレポーターを映し出した。一気に緊張が高まる。

『レポーターの星宮那奈さん。大丈夫ですか?』

 駅前の人だかりの中から悲鳴が聞こえ出す。

『はい、星宮です。犯人がこちらに向けて銃撃をしました。私に怪我はありません。建物に隠れて無事でした。規制線は現場から100メートルほど離れています。カメラさん地面のアップが撮れますか?』

 画面は星宮那奈の足元のアスファルトを映し出した。アスファルトに白く何かが当たった跡がある。

「着弾痕ね。いよいよ姉貴のお株を揺るがす人が現れたわね」

「だが漏らしてるな……気丈に振る舞ってはいるが肩が震えてるぞ」

「どうして?」

「上半身しか映していない」

「姉貴ならカメラだけでも回し続けるかもね」

「そうだな。しかし大した演出だ」

 カー君は私が差し出したハンバーガーに手を付けた。

「演出?」

「変だとは思わないか?あれだけ撃たれているのに、盾には傷一つない。なのにカメラで映る場所には着弾痕がある」

「たまたまじゃないの?」

「サブマシンガンや突撃銃で連射してるのに、あり得ないだろ」

「単なる脅しとか」

「奴らはテレビ映りを気にしている。それに警察もそれに応じている。それって変じゃないか?」

『銃撃が止みました。また警察側も放水を止めています。互いに様子を窺う、そういった状況です。あ、クルーザーの窓から拡声器が出ました』

『警察諸君、我々の実力を過小評価しないほうが身のためだ。我々は我々と人質の安全を確保するため、これより江ノ島に移動する。また移動を妨害するものは実力で排除する。必要とあれば人質の生命は保証しない。以上』

『クルーザーの錨が巻き上げられています。デッキに人の姿はありません。警察側は状況を見守るしかない様子です』

 私はポテトの最後の一本を口に運んだ。カー君もハンバーガーを食べ終えた。無線が入った。

「ジョーカーとハート、聞いてるか?」

「見てたし聞いてる。まあ、第一ラウンドはこんなもんさ。怪我人は出ていないよな」

「掠り傷程度の話だ。重傷者はいない」

「それは何より。素直に逃げ道を空けてやれよ。いつでも捕捉出来るよう、追っ手を絶やすな。江ノ島で迎え討つ支度をしろ。偵察カメラの画像を加工して、対地対空兵器があると発表して江ノ島の半径3キロ圏から、民間人を全て退避させろ。マスコミのヘリコプターもだ」

「ジョーカー、お前ら、何をするつもりだ?」

「予定通り、俺達がクルーザーに突入する。無論、表向きはSATが片付けた事にすればいい」

「人質は?」

「今から保護しに行く。それが完了したら、江ノ島に向かう。そうだ、白鳥、川越警察署にヘリを待機させておいてくれないか?」

「分かった、用意する。しかし、後でいろいろ聞かせてもらうからな」

「そうだな。今は忙しい」

 駅前の大画面は悠然と包囲網から離脱するクルーザーを捉えていた。

「『人質を盾にとられていた』なら仕方ないと誰しも考える。警察に文句を言う奴はいない。そっちは予行演習になっただろ?」

「演習?冗談は止してくれ。血の気が多い奴ばかりならいいが、俺を含めた大半はそうではないよ。江ノ島に連れて行ける数がどれだけ揃うか」

「だから言ったろ、『周囲3キロに民間人を入れるな』って。中にはお前んとこのSATと俺達、それに葉月陽子だけだ。白鳥、葉月さんと移動中のヘリで喧嘩をするなよ。葉月さんに後で何されるか分からないからな」

「俺達が連れて行くのか?勘弁してくれよ」

「仕方ない奴だな。なら、コッチに廻すヘリに乗せとけばいいさ。人質救出の方が画になるとか言ったら、必ず俺達の方に来たがるから。上手くやれよ、じゃあな、人質を救出したら連絡する」

「了解」

 カー君は白鳥との無線を終えた。私とカー君二人して、氷の間に残ったコーラを啜り、ズズッと音を立てる。

「さてと、始めよっか、カーヤ」

「カー君、本当は『待ってました』って言いたいくせに」

 悪戯っぽく私が言うと、カー君は私の思惑をあっさり裏切った。

「まあね、お嬢様のお出迎えには段取りが必要だからな。御嬢は昔っから、俺の手を煩わすのが趣味らしい」

「私でなく、本人に言ったら?」

「バカ言え、それが言えたら苦労はないの。ヤレヤレだぜ」

(著者不詳「実録KAGUYA」より)



 目隠しをされたままだったが、窓越しに差し込む光の暖かさや影の涼しさを肌で感じる事が出来たので、目をつぶっているだけと思って私は我慢をしていた。

 車内は時折、無線でのやり取りがあるくらいで至って静かだった。車は走ったり止まったり曲がったりの繰り返し。自分が今何処にいて、これから何処に連れて行かれるのかは皆目見当がつかない。

 視覚以外の五感が少しずつ研ぎ澄まされてゆき、言葉の綾かもしれないが全身で空気を感じられるようになる。そうなると普段は気にも留めていなかった事が、意外にも重要だったりする。

 カーブを二回繰り返し、その間に日差し・日影・日差し、左手の大木の小枝が風に揺さぶられざわめく音、そして雉鳩が喉を鳴らす声。ああ、そうだ。ここは蔵の脇の道。

 まだ暗闇が今ほど怖くなかった頃、私と翔様はよく酒蔵でかくれんぼをして遊んでいた。小さな妹はまだ母の手から離すことができず、私は天之河を面倒見のよい姉くらいにしか思っていなかったから、彼女にかまって欲しくて困らせることばかりしていた。酒蔵でのかくれんぼはその方法の一つで、悪い子はいつでも翔様の役だった。翔様が酒蔵に隠れてしまい、それを探しに私も蔵に入ってしまう。子供ながらに考えた稚拙な言い訳。無論、天之河は知っていたに違いない。だが、叱るときは真剣だった。

 ある日、いつもと同じように翔様は酒蔵に向かって歩き、私は翔様に手を引かれていた。足元からか細い鳴き声。翔様は足を止めた。目をつぶっていた私は気付かず、翔様にぶつかる。

「痛い!翔様、何です?急に立ち止まったりして」

 私は自分がしていた事を棚に置いて、翔様を責めた。翔様は振り返って、『シーッ』と私の口の前に指を立てた。唇に当たる翔様の指、新しい感覚。

「足元、ハトのヒナだよ」

 私は翔様の足元を覗き込む。そこには巣から落ちたのだろうか、一羽のヒナがいた。

「ほら、あそこに親鳥がいる」

 蔵の屋根にかかりそうな高さの枝に、雉鳩がこちらを向いている。

「多分あれが巣だ」

 次に翔様が指差したのは、大人なら手が届きそうなケヤキの大木にポッカリ開いた穴で、もう一羽の鳩が心配そうに私達の足元を見詰めていた。

「かわいそう」

「でも、もうダメかも知れない」

 確かにヒナは見るからに弱っていた。かすかな鳴き声を翔様が聞き取れた事が嘘みたいに思える。

「きっと親鳥が心配していますわ」

「登るのは無理だよ」

 ケヤキの大木の幹に足場となるような枝はない。

「翔様、私の言う事が間違っていますか?」

「瞳ちゃん」

 そう、私と翔様が許婚になる前までは、私は翔様にそう呼ばれていた。

「瞳ちゃん、瞳ちゃんの言う事は間違ってはいないよ。でもね、仕方ない事だってあるよ。天之河さんにお願いしてみようよ」

 翔様が話した内容は、確かだった。『蔵の近くで遊んだらいけない』という言い付けに背いたが為に聞かされる天之河の小言を除けば。そしていつも小言を言われるのは翔様だった。それに翔様の正しさが分かっていただけに悔しい気持ちもあった。

「翔様は瞳の言う事が間違っているとおっしゃりたいのですね」

「瞳ちゃん、それは違うよ。天之河さんに訳を話したら、きっと分かってくれる。そうしたほうが」

「なら、私がヒナを助けます」

 私はしゃがんでヒナを手のひらに載せようとした。と、その時だった。蔵の枝にいた一羽が急降下して私の手をつつこうとした。

「危ない!」

 翔様の声に私は咄嗟に手を引いた。幸いにも私は難を逃れた。しかし目の前には私達を威嚇するように羽を膨らませ、いつでも飛びかかってきそうな親鳥がヒナを守ろうとしている。

「まだ、大丈夫かも知れない」

 翔様が怒る親鳥を見て言った。私は正直わからなくなった。ついさっきまでダメと断言していたのに、どうしてこうもあっさり意見を変えたのか。

「どうしてですの?」

「だって親鳥が守ろうとしているから」

 翔様の答えは簡潔だった。

「このヒナはほら、親鳥と大きさはそんなに変わらない。多分飛ぶ練習をしていて巣から落ちたんだ。ちょっと休憩しているだけかも。それにもし本当にダメなら親鳥は見捨てているよ」

 翔様が最初に『ダメ』と言ったのは、助ければ私達に危険が及ぶ恐れがあった為で、二度目に真逆の結論を出したのは、私達よりもヒナを良く知る親鳥の判断を優先したからだった。変化する状況に応じた判断は、時には残酷な仕打ちに思えても、結果は極めて妥当な線に落ち着く事が往々にしてある。その時の私には理解できない事柄だった。

「瞳ちゃん、このヒナが飛べるように、あっちで見てようよ」

 翔様は私に手を差し伸べた。翔様が差し出した手は私にその時、親鳥の襲撃に驚いて尻餅をついていたことに気付かさせた。

「翔様がそうおっしゃるのでしたら仕方ありませんわね」

 私は変に意固地になっていて、自分の過ちを認めなかった。翔様の我が儘として転嫁した。

「ヤレヤレだぜ」

 どこで覚えたのか、それは翔様の口癖で、私のプライドを傷付けない許しの言葉だった。私達は肩を並べて酒蔵の壁に寄りかかり、ヒナの様子を観察し始めた。

 ……あ、鳴いていたのは私なんだ。

 アイマスクの隙間からホロホロと涙が零れ落ちていた。泣いていたのは私だった。

 車は止まっていた。横断歩道の音は聞こえない。外で人の話す声がする。どこか駐車場に入ったようだ。

『昨日が休館日だって、忘れててさ、二日間連続通い詰めだよ』

『ウソー、テスト前だからって勉強した事もないくせに』

『ウソじゃないって。ほら、この本、一昨日の日曜日までが期限だろ』

『あ、本当だ。日曜日の野暮用って、この事だったの?』

 話し声は車から離れて行った。どうやら図書館の駐車場らしい。車内では無線が交わされていた。

『そちらの状況は?』

『周り中検問だらけです。話しが違うじゃないですか』

『私はアマチュアを雇ったつもりはない。プロならプロらしく働いて欲しいものだよ』

『あんたはさっき、江ノ島に移動するからこちらの警備は薄くなるって言った。だが、実際はどうだ傍受した無線は、行き当たりばったりにこちらを追い詰めては逃がしての連続だぞ。そっちで何とかしてくれ』

『君達の仕事は事前に伝えた通りだ。軽井沢の研究所に人質を移送する。これ以外に何かあるかね?』

『俺達はただ、人質の移送だけと聞いたから、この仕事を受けた。それ以外のことは何も聞いていない』

『いずれにしても、逃げ切れなければ、ムショに戻るだけだ。ムショに戻ったのなら、せいぜい不慮の事故に気をつけることだ』

『分かったよ。やりゃあいいんだろ。やりゃあ』

『始めに伝えた通りだ。報酬を携えて軽井沢で待っている』

「クソっ、なんだって俺達かこんな目に」

「兄貴、どうします?」

「どうするって決まってだろ。こんなやばい橋はさっさと渡って金を貰ったらずらかるだけだ。警察がこの車を追っているのなら、変えればいいだけだ。ここにはいくらでもある。小回りの効く速い奴がいい」

「わかったよ兄貴。適当なのを見繕ってくる」

 扉の開閉。外気が入る。匂い、空気の肌触り、雰囲気、間違いない。ここは川越だ。

 でも、これは偶然なのだろうか。いや、違う。犯人達の計画にはない不確定な要素が影響した結果、招かれた事態なのだろう。翔様だ。警察ではなく、翔様に思い当たる。

 そう、翔様はいつも私にあの言葉を言っていた。だから私はあの時、芳夜と翔様に何かがあった事件の時も、私は心の底では翔様を信じて疑わなかった。

………か細い声で鳴いていた雉鳩のヒナ。ありったけの勇気を振り絞って、まだ生え揃わない翼を広げる。地に舞い降りた親鳥は誘うように、ケヤキの枝に戻ってしまう。あとは空に舞い上がるだけだ。

「翔様」

「あのヒナは自分の力を信じていない。だから、まだだよ」

「自分を信じれば、飛べるのですか?」

「それだけではないけれど」

 ヒナは親鳥がとまる枝を見上げた。そして、急にバタバタむやみやたらと羽ばたいた。

「なかなか難しいようですわね」

「いや、違う。来る!」

 翔様が言い終えるより早く、私達の目の前を黒い影が横切った。

「カラスだ」

 幸いカラスの最初の一撃は、ヒナが予想外の動きをしたので辛くもかわされていた。

「次も来る!」

 カラスはひらりと空中で身を翻し再びヒナを襲った。はずだった。が……。

「あ、飛んだ」

「やった!」

 あろうことか、雉鳩のヒナはカラスの頭を蹴って、飛び立った。ぐんぐん高さを増し、親鳥の隣りに着き、ちょこんと枝を揺らす。箒の先っぽのような細かい枝の間なので、カラスは迂闊には入れない。カラスは暫く上空をウロウロしていたが、ついに諦め、その姿を見せなくなった。

「ヒナは自分を信じるしかなかった。でも、自分を信じる事が出来た。願えば叶う。その思いが強ければ強いほど」

「翔様、誰でも『願えば叶う』のですか?」

「父ちゃんが言ってた。俺もそう思う」

 小学生が言う言葉にしてみれば、生意気だったと今は思う。

「それとさ」

 それまで流暢に話していた翔様が口ごもった。

「翔様?」

「俺が瞳のこと守ってやるからな」

「翔様が私を?」

「瞳を見てると、さっきのヒナ鳥を見ているみたいでヒヤヒヤする」

「翔様は私を心配して下さるのですね。翔様、翔様にとって瞳は……」

 言いかけた私を遮って、翔様は慌てて否定した。

「勘違いするなよ。別に俺は好きだからどうのとか、関係ないからな。……な、何だよ、瞳。俺の顔に何かついてるのか?」

「はい」

「何が、何処に?」

「翔様、さっき翔様がおっしゃった言葉に偽りはありませんか?」

「ああ、男に二言はない。それに瞳ちゃんに嘘をついて、俺にいい事は無いよ。……誓うよ、俺はどんな時でも瞳を守る」

「それに、『願えば叶う』ですね」

「そうだ」

「でも、思うだけでは叶いませんわね。強く思い願い、挑戦して初めて結果が生まれるのですよね?」

「そうだな。何事もやってみないとわからないな」

「翔様、私、今は出来そうにありませんが、願い続けて叶えてみせます。翔

様、だから、それまで私を必ず守って下さいますか?」

「わかった。で、瞳の『願い』って何だ?」

「それは秘密ですわ」

「何だよ。ケチケチせずに話せよ」

「嫌ですわ。でも『どうしても』とおっしゃるのでしたら、瞳を捕まえになって。できたら教えて差し上げますわ」

 私は立ち上がり、翔様から逃げる。追いかけてくる翔様は……。それから10年以上、翔様は『私の願い』を知らないまま。

 そして、今。現実の私は何を願う?

『翔様、助けて』

 ………急ブレーキ!追憶から一気に現実に引き戻される。そして私にかけられた懐かしい響きの声。

「瞳!」

「しまった。奴らだ」

 扉が開け放たれ、腕を引かれる。

「おい、グズグズするな。早く降りろ!」

 指示に従う。何かの拍子でアイマスクが取れた。

「兄貴、こいつアイマスクを」

「私、何もしてません」

 犯人達の顔、慌てていて引きつっていた。シリウスやベガと散歩に来るいつもの公園?

 並木道の背後を振り返る。車止めに衝突し煙を上げている車。

「ほら、さっさとしろ!ヤス、細かい事を気にする隙はねえぞ。ヤツらが来る」

 ヤツら?追っ手?

「そこの二人、お待ちなさい!」

 カーヤの声。

「カーヤ!この人達」

「間抜けな雇われ誘拐犯ね」

 駆け出そうとしていた犯人達の足が止まる。

「何だコイツ?」

「バカっ!ボスが攫い損ねたKAGUYAだ。構うな逃げろ!」

 だが弟分らしいヤスは逃げなかった。

「兄貴、コイツらそっくりだ。顔も着ている服も。これじゃあ間違う」

「バカっ!モタモタしてると捕まるぞ。奴に……ジョーカーに捕まったら最後だ、確実に消される。……置いてくぞ!」

「あんた達、ワタシを忘れちゃったの?」

「うるせえ。お前はスキャンダル芸能人だろうが。俺達には関係ねえ!」

 腕が再び強く引かれる。つられて私は小走りになる。犯人達と私はカーヤと対峙しながら、公園の中央、噴水のある広場に移動する。いつもは人出がある所、昼下がりの広場なのに人っ子一人いない。

「あ、兄貴、これは」

 公園の中央にある噴水には幾つかの道があった。その全てにパトカーと警官が待ち構えている。

「クソっ!はめられたか。……いや、待て」

 私も気付いた。兄貴分が見た方向、カーヤが追い掛けて来た通路の隣、バラ園に抜ける小径は誰もいない。

「ちょっと、二人とも待ちなさい!」

 カーヤが広場にたどり着く。パーティーのドレス。歩くのでさえ気を付けなければならないのに、カーヤはそれで走って来た。

 犯人達は迷わず小径の入口、茨のトンネルに飛び込む。その時だった。

「瞳、耳と目を塞いで息を止めろ!」

 翔様の声。咄嗟に言われるままにする。次の瞬間、閉じた瞼と塞いだ耳を透かして、光と音の爆発と洪水が襲いかかった。甲高い音が頭に響き、瞼に焼き付く光で視界を失う。身動きが全くとれない。ただ、光の爆発の後、気づけば犯人の手が腕から離れていた。

 すぐ側で荒々しい息遣いと素手と刃物での格闘をする空気がある。腕に何かが触れた。そこから血が流れ出す。私は傷口をもう一方の手で押さえてうずくまる。息が苦しい。思わず少しだけ呼吸をした途端、猛烈にむせた。

「ごほっ、翔様?!」

 しゃがみこんだ私が抱き上げられ、運ばれる。

「御嬢、待たせて悪かった。煙は催涙ガスだ。これをつければ、多少は楽になる」

 翔様と再会。願いは叶った。ほろほろと涙が出る。煙のせいだけではない。

 すぐガスマスクをかけられた。翔様の顔は煤だらけで、見慣れない格好をしている。マスク越し、くもぐった声で私は翔様に話す。

「翔様、約束を守って下さったのですね」

「約束?……まあな。それより怪我はないか?」

「手首に縛られた痕と、腕に切り傷が」

 私の背後に気配!ナイフの刃が煌めく。

「危ない」

「ぐあっ……なんてね。野郎、てめえか?瞳に怪我させやがったのは」

 翔様の腰にナイフが刺さる……いや、刺さった筈のナイフは服に食い込まない。

 翔様は私を抱いたまま、ナイフを蹴り飛ばし、相手が怯んだ隙に私を地面にそっと降ろすと、煙の中に消えた。数秒経たずに辺りは静かになる。遠くからヘリコプターの音。

『こちらジョーカー、人質は無事救出』

『ハートよりスペード。犯人2人を制圧し人質は確保した』

 空から気流と爆音。

『スペード了解。そちらに直接ヘリを送ったがどうか?』

『今来た。犯人達は?』

『悪いが所轄が到着するまで待て。ヘリは予定通りのポイントで合流だ』

『了解』

 ヘリコプターが起こす気流は台風並みで辺りの空気を吹き飛ばした。霧が晴れるように煙が消えてゆき、周りの様子が見えてくる。私達は滅茶苦茶に荒らされたバラ園にいた。そこに立っているのは二人だけ。

「翔様。カーヤなの?」

 カーヤは、私と同じ左腕に怪我をしていた。左腕の袖が血で染まっている。

「カーヤ、怪我をしている!」

「あ、これね。瞳ちゃんと一緒」

 カーヤは微笑みながら私に答え、右手でドレスの肩口から袖を引きちぎった。左腕からスルリと抜けた純白のシルクの布切れを口と右手で左腕の傷口を縛り止血する。

「カー君、瞳ちゃんの傷口の手当てを」

 私は翔様に再び抱き上げられる。

「カーヤ、救急車を呼んで」

「アイアイサー」

 カーヤが片目を閉じて、耳に手を当てた。

 上空から声がした。

『ハーイ、お二人ともお疲れ様。煙がちょっと多いけど、いい画が撮れたわ。もうワンショット欲しいんだけど、いい?』

 カメラを片手にした葉月陽子さんが開放されたヘリコプターの側面から手を振っている。

「カー君、専属カメラマンが『ああ』言ってるけど、どうする?」

「カーヤ、クルーザーは?」

「えっとねー、現在横須賀沖を江ノ島方面に向かって航行中」

 翔様は迷わず答えた。

「仕方無い、専属カメラマンのオーダーに応えよう」

「お仕事、お仕事、ね」

 ヘリコプターは上空に舞い上がった煙を避けて、公園上空を旋回している。カーヤは独り言のように話した。

『葉月さん』

 ヘリコプターからの応答は翔様の耳元から漏れてくる。

『カーヤ、陽子でいいわ』

『わかった。ヨーコ、怪我人がいるから、長くは駄目みたい。それで何を撮るの?』

『救出した人質とカーヤのショット。ん〜でも、この距離だと二人の見分けがつかないなー』

 確かに画にはなるだろう。救出した人質を抱えた翔様、犯人達を足で押さえるカーヤ、公園の通路いたる所に配置されたパトカーと警官。

『やっぱり、そのままでいいわ。そのままで』

『了解』

「だってさ」

 翔様は私を抱いたまま、カーヤに歩み寄る。カーヤは近づいた私達に右手を差し出す。私も自然と右手が出た。堅い握手で結ばれる。

「二人ともありがとう。翔様、カーヤ、あなた達は一体?」

「カー君?」

「カーヤ、御嬢には俺から話す。でも、今は怪我の手当てが先だ。いいね」

 翔様は私に同意を求めた。私が躊躇すると、今度は私の耳元で囁いた。

「美智瑠がまだ人質になっている。だから俺達が行かなけばならない」

 翔様は『わかってくれ』と目で私に訴えた。

「この件が片付いたら話すよ。御嬢には他にも話しておきたいことがある」

 私と翔様の間に秘密は無いと信じたいし、あっても信じたくはなかった。今この瞬間、私は翔様に抱かれているのに、私は翔様に海より深く山より高い無限大の距離を感じてしまう。『願えば叶う』、しかし何かが足りないから、思いは届かない。

「瞳ちゃん、左腕を出して。応急処置するから」

 カーヤは左手で自分の右腕の袖を引きちぎった。

「左腕痛かったら言ってね」

 左腕の袖が手首まで真紅に染まる程出血していた。痛みは締め付けが原因ではなかった。

「ウッ。……大丈夫だから、カーヤ」

 遠いサイレンが近くなり、赤色灯が見えて音が消えた。救急車と隊員が負傷者を探してやってきた。

「御嬢、後の事は心配するな。傷は深くないし、手首の痣は消える。還ったら約束だ、俺達の事を御嬢に話す。幼なじみの御嬢にまで秘密を隠す事に疲れたよ。だから今は聞き分けてくれるかい?」

 私が頷くと、翔様は私のおでこにキスをした。

「翔様、必ず帰って来て下さいね。瞳の願いは翔様しか叶えられないのですから」

 カーヤが救急隊員に手を振って合図した。すぐに駆けつける。

「刃物での怪我人はこちらですか?」

「この子です。3日間監禁されていたから衰弱もしている。何かあったらここに連絡をください」

 翔様は事務的な口調で名刺を出す。カーヤは隊員から搬送先の病院を聞き出し、何カ所かに連絡したようだ。

「じゃあ、宜しくお願いします。瞳ちゃん、頑張ってね」

 私は翔様から救急隊員に引き継がれた。付き添われて歩いて行く背後で、翔様がカーヤを気遣っているのが悔しい程わかる。ふと振り返る。

 犯人達を引き渡した二人はパトカーに乗り込む振りをしてさり気なくキスをしていた。……『願い』は叶わなかった。

(星野瞳「カーヤと私」より)



 御嬢を救急隊員に引き渡すと、カーヤは緊張の糸が切れたのか、膝がガクリと落ちた。

「カーヤ、犯人の見張りは俺がする。パトカーで少し休め」

「『この位の怪我で』と云いたいところだけど、カー君に甘えさせてもらうわ」

 カーヤが倒れ込みそうになるのを抱き抱える。足元から声がした。

「兄貴、こいつら、さっきジョーカーとハートって」

「だから言ったろ、こいつらにだけは捕まりたくないから、逃げろって。ちくしょー、もうお仕舞いだ」

 カーヤが捕縛したときに気絶させていたのが目覚めたらしい。

「お前達は運がいい。生憎、今回は『delete』は無しだ」

「へ?」

「お前ら、そんなに俺に『消して』欲しいのか?」

「あ、いえ、滅相もない」

「なら、おとなしく『いい子』にしていろ」

 警官の包囲網から、数人がこちらに来る。

「一つだけ訊かせてくれ。ハートは魔女だっていう噂は本当なのか?」

「さぁな。まあ、普段なら生死を問わない身柄の確保だが、警察になるべく無傷で引き渡さないといけなかったからな」

「兄貴、やっぱり魔女だ。人の魂を抜き取って、躰を乗っ取るっていう」

 歩み寄る警官の中から一人、俺の前に出た。

「川越署の七夕だ。警視庁のSATが来ると聞いていたが、……天地、お前がか?」

「詳しい話は聞くな。必要な物や情報があれば、本庁の白鳥に聞け」

「随分偉くなったものだな、殺人犯が」

「何とでも言え。迎えの車はどこだ?」

「あそこだ。犯人はこちらで逮捕するぞ」

「どうぞ御随に」

 俺はカーヤを抱き上げる。カーヤの足で踏みつけられていた犯人は所轄の手で現行犯逮捕された。

「天地、その子は大丈夫なのか?」

 七夕はグッタリしたカーヤを見た。

「ああ、カーヤの事か?」

「カーヤって、お前まさか」

「望月芳夜だ。見たことあるだろ?今はタレントをしている」

 七夕の表情が一変する。

「あの調芳夜なのか?」

「それがどうかしたのか?」

「いや、何でもない。だが、どうして生き返る?」

「死んじゃいない。生きてたのさ」

「馬鹿な!」

「世の中、色々あるさ。気にするな」

 不毛な会話を断ち切って、迎えのパトカーに足を向けた。何歩か歩くとカーヤが薄く瞼を開く。

「ああでも言わないと、理解出来ないからな。もう起きてもいいよ」

「じゃあ、わざとらしくないようにするね」

 パトカーのところに着く。片手でカーヤを抱いたまま、ドアを開く。

「ん、ん、カー君?」

「気が付いたかい、カーヤ?」

「大丈夫、もう一人で立てるから」

 カーヤは右手を俺の左掌に重ねた。演技ではなかった。カーヤはバランスを崩して俺にしなだれかかる。弾みでキスをする形になった。

「ごめん、今のはアクシデント。次のミッションの前にカー君に診てもらわないと駄目かもね」

「そうだな。ヘリで六本木に寄ってから江ノ島だ」

 救急隊員に付き添われたお嬢が丁度救急車に乗り込むのが、カーヤの肩越しに見えた。遠いところを見る何か物悲しい顔。俺と目線が合ったが、お嬢は厳しい表情で俺とカーヤを見据え、救急車の中に姿を消した。

 美智瑠の事が無ければ、カーヤと瞳を病院に送り届けてやりたい。だが、それは叶わない。還ったら、今迄の事を全て御嬢、瞳には打ち明けよう。そして許しを乞うしかない。俺自身の偽りの無い気持ち、もう昔には戻れないという事を瞳に伝える。殴られても構わない。俺が瞳を裏切った事には変わり無いのだから。

 約束を果たす為に無事還ってくる。まずは目の前の難題だけを考える事にした。もしも美智瑠……いや昇から、今度の事件を引き起こした納得できる理由若しくは謝罪の言葉が聞けるのなら、叔父さんのところに戻して再び元の暮らしをさせてやりたい。もう俺が原因で周囲の人間を傷つけたくない。

「最優先で、署に着けて下さい。江ノ島のクルーザーにいるもう一人の人質の命がかかっていますから」

 パトカーは赤色灯とサイレンをつけて発車した。

(著者不詳「実録KAGUYA」より)



 川越署の屋上にあるヘリポートに着くと、ヘリは既にタキシング状態で俺達を待っていた。誘導員から渡されたヘッドセットを着けながら、小走りでヘリに乗り込む。

『お待たせしました』

『!……カーヤ?翔君、彼女を休ませたほうが』

 ヨーコさんに指摘されるまでもない。

『ええ。ですが出発してください』

 ヘリの足がふわりとポートを離れる。

『ヨーコさん、クルーザーは?』

『城ヶ島沖だけど』

『なら、間に合う。すみません、これって白鳥にも繋がります?』

 パイロットは計器を二三いじると頷いた。

『繋がりました。どうぞ』

『白鳥、聞こえるか?ジョーカーだ』

『なんだ?しっかり聞いているよ。こっちは漸く関係者の了解を取りつけたところだ。今更、立入禁止エリアを広げるとか言わないでくれよ』

『カーヤの調子が悪い。寄り道してから江ノ島に向かう。30分遅れるから、なんとか持ちこたえてくれ』

『どうするんだよ?』

『ヘリで追走して再度交渉してみるとか、牽制で発煙筒をぶち込むとか、警察で出来る手段があるだろ?』

『ああ、そうだな。わかった。やってみる』

 苦笑しているパイロットに指示を出す。

『そういう事なので、六本木の芳夜御殿のヘリポートに』

『了解』

 カーヤの調子は思った以上に悪い。手首の痣、左腕の傷、いずれも御嬢が受けたものだ。同期を必要としない完全自律躰の筈なのに、タイムラグなしでフィードバックしている。いずれ詳しく調べる必要があるが、カーヤのサポート無しでクルーザーに単身飛び込むのは自殺行為に等しい。カーヤが直接参加しないまでも、潜索可能な状態にまで回復させる必要があった。

「鵺があれば」

「ヌエ?」

「ヨーコさんには話してないよね。カーヤ専用のパソコンさ。メンテに使う」

「持ってないの?」

「格闘を前提にしたミッションに精密機器を持ち込めないでしょうが。今後の課題だな」

 それまで押し黙って目を閉じていたカーヤが、俺の肩を枕にして虚ろな目で答えた。

「カー君、多分原因はセットアップだよ」

「カーヤ、どうして、そう思う?」

「あの時、記憶を集める為に精神の同期をかけたでしょ?多分それよ」

 カメラの映像をチェックしながらヨーコさんが問いかけた。

「精神の同期……仮に出来たとしても、それが体の不調とどう関係するの?」

「それは……。ねえ、カー君」

「『病は気から』ってやつじゃないの?」

 二人は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。

「もし、カーヤが言うように精神の同期が原因なら、取り敢えずそれを止めておけばいい。それでも駄目なら考えるよ」

「何たるいい加減、何たるアバウト。カーヤ、良くこれであのプログラムが出来たわね」

「ヨーコさん、カー君の、この『いい加減さ』や『適当さ』が無ければ、私はここに存在し得ないわ」

 カーヤは俺を弁護したつもりらしい。

「まあ、その辺りも含めて、今後の取材方針の参考にさせてもらうわ」

『あと3分で到着します。駐機はどれくらいの間ですか?』

 パイロットからの問いかけに簡潔に答える。

『30分』

『了解』

 池袋のサンシャインの先に、新宿のビル群、その向こうの六本木の手前に赤坂御所、そして芳夜御殿を見下ろす。速度を落としアプローチに入った。カーヤが呟いた。

「お兄ちゃん、どうして?」

「カーヤの?」

「ええ、まあ。家出なんだ」

「あなた達の家族は複雑だものね」

 ヨーコさんは、『美智瑠=昇が誘拐監禁事件の実行犯らしい』という事実を知らない。あくまで今迄の取材や彼女自身の感想を述べたまでに過ぎない。

 但し、判明している事実から論理的推測を進めてゆけば、自ずと構図が浮かび上がる。誰かがその構図に思い当たるのは、時間の問題だった。だからこそ、クルーザー内で『人質救出』にあたるのは他人任せには出来ない。

 かつてのジョーカーがそうしたように、ターゲットの過去、それも今回は事件に関わる事柄のみを抹消する。事件に昇が関わっていると知った時から、俺はそうしたシナリオで動いていた。

(著者不詳「実録KAGUYA」より)



『ジャック、分かっているな?』

『はい、予定通り、クルーザーに誘い出します』

『後は私が奴を始末する。奴は手練れだ。最後の最後でしくじるような真似をしないよう、手抜かりするなよ。今のところ、奴は己の思惑で事を処理しているつもりになっている。このまま、このままの状態で運べばお前の願いは成し遂げられるのだよ、ジャック』

『はい。しかし先程センセイに連絡をしたら……』

『センセイ?あー、あの老人か。死に体の言う事をいちいち気にするな。あれが老人一流の誑かし方だからな。奴との会話はこちらでも確認する。必要に応じて、サポートする。ジャック、お前にはその必要は無いかも知れないがな』

『人の扱い方、特に翔の扱いには慣れています。任せて下さい』

『吉報を待ってるよ』

 フィルムが貼られたブリッジのガラスを指で弾いた。城ヶ島沖から以降、足留めのつもりか、発煙筒が投げつけられたが、このガラスに傷一つつけられなかった。ライフル程度では貫通しない対爆防弾ガラス『ヘラクレスⅧ』が使われていた。

「もう少し陸寄りを走れ」

「アイ、サー」

 僕は携帯を出した。翔の携帯にリダイヤルする。3コールで繋がる。

「翔君?美智瑠です」

「美智瑠、無事なのか?」

「今のところは。犯人から指図されてかけたの。用件を伝えるから聞いて」

「分かった。美智瑠、今、どこにいる?」

「船の中。翔は?」

「ガソリンスタンドの休憩室。カーヤもいる。バイクでそっちに向かってる。もう少しで江ノ島に着くよ」

「そうなんだ。じゃあ、伝えるね。『最後の交渉のチャンスを用意した。芳夜一人で来い。警察は半径500メートル以内には近づくな。芳夜以外に近づく者を見つけ次第人質を殺す。これ以外の条件での交渉には一切応じない。最後のチャンスだ賢明な返事を期待する』。翔、私、死にたくない。お願い。犯人の言う事を聞いて」

「返事は決まっているが、警察にも事務所にも話を通しておかなければならないんだ。だが、いずれにしてもカーヤは必ず行かせる。約束する。必ず美智瑠を助ける」

「ありがとう、翔。でも、カーヤはいいの?」

「カーヤには本当の事は話さない」

「駄目だよ、そんなのは」

「美智瑠、犯人達はこの会話を聞いているのか?」

「私の話している事を聞いてる」

「なら、『はい』か『いいえ』で答えろ。いいな?」

「はい」

「犯人は5人以上か?」

「はい」

「銃を持っているか?」

「はい」

「陸は見えるか?」

「はい」

「外の音は聞こえるか?」

「いいえ」

「大体の状況はわかった。犯人達には『芳夜が一人で行く』と伝えてくれ。やはり芳夜も美智瑠も危ない目には遭わせられない。俺がお前を助け出す。……昇、それまで待ってろ」

「何を言っているの、翔?私は美智瑠だよ」

「今更、水くさい事を言うなよ。『奴』から聞いているだろ?俺を誘い出すよう仕向けろとか」

「違う。私、そんな事は言われてない」

「わかった。俺は美智瑠を消して、昇を助け出す。ジョーカーとしての俺がお前に出来る唯一の罪滅ぼしだ。美智瑠、犯人達への伝言、忘れんなよ」

「わかったわ。ちゃんと伝える。翔、犯人の要求を守って。これは、私からの忠告。お願いよ。ごめんなさい、時間みたい。切るわね……さよなら」

「美智瑠!待て……」

 携帯を切った。もっと話していたかった。

 残された私の仕事は、翔を確実にクルーザー内に誘い込む事。しかしそれは……。

「無線を開け。ボスに報告する」

 ブリッジの船員が通信機のスイッチを入れた。

『ジャックです』

『聞いていたよ。少々気掛かりな点もあるが、上出来だな』

『彼は来ます。私に約束をしました』

『奴はこちらに手口を隠すつもりで、陸路を示したが、あれは嘘だよ。どのような方法で来るのか、……恐らく空だろうと私は思うのだがね。先入観を持つな、既に奴は侵入しているかもしれないと思って事にあたるべきだろう。じきに私も行く。それまで制圧されないよう持ちこたえろ』

『了解、ボス』

 僕は無線を切った。ブリッジから正面に江ノ島の遠景が見えた。

 彼は必ず僕を助けに来る。翔は約束を破った試しがない。僕が知る範囲で一度。瞳ちゃんに対してだけだ。

 翔は瞳ちゃんを信じていたし、だからこそ嘘をつけた。しかし神様は意地悪だ。瞳ちゃんは翔を信頼するが故に、翔の口から出た嘘を真実だと信じた。そして嘘が真になってしまったのが、中学生偽装心中殺人事件だったのではないかと最近になって思い始めた。

 翔には先程の電話で身に危険が及ぶ事を伝えた。それでも翔は僕を救出しに来る。翔にとって、兄弟と呼べるのは僕しかいないから、僕が彼を必要とするように彼も僕を失いたくないのだろうか。

 僕と芳夜が川越に引っ越して来てから、同い年の翔と僕と芳夜は、三つ子のような時間を過ごした。三人でいられた時間は一年程だったが、僕らは本物の兄弟のようだった。芳夜がああいう形で僕らの前から姿を消してしまってからしばらく、僕も翔も自分の半身を失ったように感じていたし、俄に事実を事実として受け入れられずにいた。だから、翔は今のカーヤを造り出そうとし、僕は僕自身の中に芳夜を見い出そうとした。

 しかし翔が、妹・芳夜らしき人物の魂と呼べる何かを自ら造り出した人形に定着させた時から、僕の中で壊れていったものがあった。僕は僕自身が何者なのか、その存在意義を見失っていた。僕は僕自身である為に、誰かに必要とされる事に存在意義を求めた。

 美智瑠は初め僕の中に残された芳夜の欠片だった。僕はもしも芳夜が妹でなければ、いや妹であったとしても、彼女を愛していた。妹が翔を愛してさえいなければ、僕は妹と一線を越えていたかも知れない。僕ら3人の出生の秘密を知った今となっては、妹・芳夜と翔は、実の双子でありながら、その事実を知ってからも二人は関係を続けていた事に、僕が畏れながらも憧れていたし、嫉妬もした。僕は彼女の遺骨から伝わる温かさが僕自身に染み渡っていった時から、僕自身が芳夜なのだと思ったし、そう信じた。

 だから、カーヤが彼女自身の考えと手によってバージョンアップされると知ったとき、僕は決意した。妹・芳夜ではない調芳夜を兄である僕が始末しなければならない。全てが芳夜になりすました調芳夜によって引き起こされ、彼女さえいなければ、僕も翔もこうはならなかった。

 ボスは翔の説得を介して、調芳夜という存在をこの世から無くすと約束した。そして僕自身が心も体も芳夜になれるように協力してくれている。翔が僕を助け出すのではない。僕が翔を調芳夜の呪縛から解き放してあげるのだ。

(葉月陽子「衝撃インタビュー/江ノ島事変」より)



 人気の無い片瀬江ノ島海岸上空に一機のヘリコプターが現れたのは、日暮れ直前の夕刻だった。

 ヘリコプターにはパイロットと整備士以外に3人が搭乗していた。ビリオンセラー連続記録を更新し続けるバーチャルアイドル調芳夜、かつて中学生偽装心中殺人事件の容疑者だった伝説的ハッカーのジョーカー・別名ワイルドカードこと天地翔、そしてピーボディー賞受賞経験のあるフリービデオジャーナリストで調芳夜専属カメラマンの私・葉月陽子の三人。誘拐事件の本来のターゲットである調芳夜が人質救出の為、警視庁SATの影武者として協力する事になったジョーカーと共に、誘拐犯の要求通りに江ノ島に向かっていた。

『あなた達、本当に大丈夫なの?』

 機材を確認しながら翔君が答えた。

『ヨーコさん、大丈夫って何が?』

『あなた達だけで平気かってこと。こっちは撮ってるだけだからいいけど、何かあったら、取り返しがつかなくなるのよ。わかってるの?』

『案外、心配性なんですね。ヨーコさんて』

 ノースリーブになったドレスを着た芳夜はメイクを直している。

『逆ですよ、それ。SATがやって何かあったら困るから、俺達がやる。それより、音声気をつけて下さいよ。俺、今は一応SATなんですからね』

『丸腰のSATよね。武器を持たないで制圧するなんて』

『あくまでカーヤが主役。俺は黒子。まあ中に入ってしまえば、このカメラ以外誰が何をしたのか捕らえられないからな』

『あなた達、故意に映像を切らないでね』

『信用されてないな、俺達って』

『仕方ないわよ。さっきもカメラ壊しちゃったし』

 人質の一人を救出する際、バラ園の格闘で二人が身につけていたカメラは壊れてしまった。芳夜御殿に立ち寄って予備を用意できたからいいものの、ストックはこれ以上無かった。

『あなた達はプロなんだから、特に翔君、あなたはNYANKOの社長なのよ。経費には人一倍気を使わないと』

『無事に戻れたら、余生はお金に気を付けることにするよ。カーヤ、そろそろ本番だ』

 クルーザーが桟橋に近づく。ヘリコプターは高度を下げた。桟橋付近の海面が乱れ、細かな飛沫を上げる。両舷の扉を開放すると、ヘリコプター内部にも強烈な風が流れ込んだ。桟橋自体はヘリコプターの着陸には適さない。瞬間、十数センチの高さでホバリングして、すぐさま飛び立つ。二人の姿はヘリコプター内から消えていた。

 カーヤは桟橋で舞い上がるスカートを両手で押さえているが、翔君の姿は直下の桟橋付近にも、近くの海面にも見当たらない。彼は消え失せていた。

 ヘリコプターは江ノ島の沖、西側に離れた。カーヤに付けたピンマイクが音を拾い始める。

「要求通り、私一人で来たわよ。早く人質を開放しなさい!」

 間を置いてクルーザーからの返事。

「確かに一人だな?人質の開放は芳夜本人を確認してからだ」

 クルーザーのスピーカーの音はかなり大きい。カーヤは耳元に手を当てた。すると、それまで減速して桟橋に寄せていたクルーザーが急に速度を上げた。桟橋を離れ砂浜に向かって、一直線。あっという間にクルーザーは海岸に乗り上げ座礁した。

 カーヤが叫ぶ。

「どうしたの?何が起きたの?」

 カーヤは桟橋を走り、砂浜のクルーザーに向かう。私は望遠レンズでカーヤを捕らえていた。クルーザーの後部から黒煙が立ち上り始める。曇り空の夕方、風は海から陸へと吹く。クルーザー全体が黒煙に包まれたようになる。しかし一分もしないうちに、煙は消えた。

 ようやくカーヤがクルーザーにたどり着いた。

「おーい、誰かいませんかー?」

「何だ」

「皆さん怪我ありませんか?」

「うるさい!平気だ。それより人質とお前の交換だ。船尾にハシゴがある。そこから船に乗れ」

「船って言ったって……これじゃ、氷川丸よ」

「ごちゃごちゃ言わずサッサとしろ」

「わかりました。言われた通りにすりゃいいんでしょ?もう、せっかちなんだから!」

 芳夜は膝まで海に浸しながら船尾にゆき、犯人の指示通り梯子を登ってデッキに上がった。予告なしにブリッジの下の扉が開く。

「そこから入れ」

 芳夜が船内に入ると扉は閉ざされた。

(著者不詳「実録KAGUYA」より)



 白鳥ら警視庁とした打ち合わせとは全く異なるシナリオで俺達は動いていた。警視庁のシナリオではクルーザーは暴走しないし、黒煙を吐く事もない。接岸、包囲、交渉、制圧。

 しかし制圧するために用意されたのは、音響閃光弾と煙幕、そして催涙ガスとガスマスクだけ。但し犯人達は銃器などの使用が予想されたので、防弾防刃耐火防護服を身に着け、赤外線迷彩塗料を塗りたくって、事に臨んだ。それでフロッグマンをする羽目になったから、カーヤがクルーザーを陸に近づける必要があった。

 幸いにも犯人達の殆どは、抵抗する間を与えずに拘束出来た。船内はナイトスコープが必要なくらい一様に暗く、それがかえって彼等には仇となった。ナイトスコープの目の前で閃光弾を使われたら、大抵の人間は暫く視界を失う。一人、また一人、犯人達を制圧・拘束しては船外に放り出す。散発的な抵抗はあるが、組織的な反抗はみられなかった。

 船内に潜入して以来カーヤとは連絡をとっていないが、多分カーヤはブリッジに向かっているはずだ。船内放送がかかった。その直後、カーヤから無線。

『カー君、ブリッジは制圧したわ。今のは私。こっちに人質はいなかったわ。放り出した犯人達を纏めに一旦外に出るわ』

 カーヤがブリッジを制圧した事を宣言したのは、船内に残り頑強な抵抗を続ける犯人達に精神的なダメージを与える為だ。

 実はブリッジの計器はクルーザーが暴走した時点で、既にカーヤの制御下にあった。俺は海中にいて発生させた煙幕で姿を隠し、カーヤが砂浜に座礁させたクルーザーの動きを完全に封じる為スクリューを破壊していた。

 クルーザーという逃走手段を失えば、残った犯人達は泳いで海から逃げるか、陸に上がって隠れるかだけだが、いずれにせよ周囲に遮蔽物がないのでかえって目立つ。陸は警察の包囲網と遠隔監視が、海には海保の巡視船と警察のヘリが睨みを利かせている。犯人達に逃げ場は無い。

『カー君』

 カーヤからの無線。

『カー君、確保した犯人達の中に、「最後の手段」とか「起爆リモコン」とかがあるから早く船から離して欲しいって言う人がいるんだけど、どう思う?』

『ヒィフティ・ヒィフティだな。白鳥に連絡して、犯人達のうちでその話をした奴だけ残して、他を護送車で回収してもらうか?』

『そうね。彼等の反応を見て判断材料の一つにする。私も潜索してみるわ』

『白鳥にはカーヤから連絡を。俺は船内を探索する』

『了解』

 厄介な事になった。爆発物が存在する可能性がある。起爆方法も規模も不明。ただ存在するとすれば、恐らく未だ確保されていない犯人が所持しているのだろう。

 船倉に続くであろう階段を警戒しながら、一歩一歩降りる。トラップやセンサーの数が増えてくる。避けたり解除したりしながら、背後からの襲撃を撃退してようやく船倉に到着。外では白鳥が護送車を連れて現れたらしく、時折、外部から音や声がしていた。

 船底には3つの扉があった。船内を潜索しているカーヤからの連絡を待ちながら、内部や扉を探るのに集音マイクや爆発物探知機を当てる。反応からは爆発物やトラップの有無は確認出来なかった。

『カー君、爆発物を見つけたわ。燃料タンク付近とブリッジに。起爆は有線と無線の二系統みたい。有線はブリッジと船倉に牽かれてる。通路の一番奥の扉の向こうよ』

 閑とした船倉からの返答はマイクを叩いてモールス信号で。

『わかった。お兄ちゃんの事はカー君に任せた。こっちもなる早で離れるけど、カー君も気を付けて』

 爆発物の存在と無線による起爆ができる切迫した状況下にあった。扉の向こうにいるはずの美智瑠を説得あるいは起爆装置を奪取して船外に脱出しないと、ミイラ取りがミイラになりかねない。美智瑠・昇にも芳夜にも、そして御嬢・瞳にもそれぞれ約束がある。冗談ではない。カーヤに再びモールスを送る。そしてカーヤが返してきた。

『ブリッジの床下と、燃料タンク付近に仕掛けられてる。丁度カー君の見ている壁の向こう側に』

 天井から監視カメラがぶら下がっている。カーヤはその映像で俺を確認している。カメラの向こうにいるカーヤにウインクした。

『もう、カー君たら、ふざけて。その壁、ちょっと右。うん、そこ』

 俺は壁を指差した。僅かだが、パネルの継ぎ目に隙間がある。階段の手すりの一部を外した物を利用して船倉の壁を破壊し、燃料タンクにたどり着く。爆発物、運がいい事にC4……プラスチック爆弾だった……を少しだけ拝借した。それからコンバットブーツのポケットから起爆装置を取り出して一番奥の扉に仕掛けた。リード線を伸ばして階段の陰に隠れ、破壊した壁のボルトやらナットを扉に二度投げつけノックしてから、扉を破壊する。

 爆破!

 船倉の通路とそれに続く階段に白煙と埃が立ち込める。破壊された扉の奥、部屋の中から咳き込むのが聞こえた。どうやら一人のようだ。

「美智瑠か?俺だ、翔だ!」

 暫くの沈黙、撃鉄を引く金属音がした。

「ジョーカーか?よくここに辿り着いたな。これで全てを清算してやる」

 拳銃の発射音と火花。

「下手な鉄砲なら跳弾で怪我するだけだぞ。止めておけ」

 爆煙を掻き分けるように美智瑠が部屋から銃を斜に構えて現れた。しかし、通路には誰もいないので周囲をキョロキョロ見回す。美智瑠が爆破された扉と正対したとき、俺は天井から美智瑠の背後に着地した。自動式拳銃から弾倉を引き抜いた。美智瑠は振り向きざまに発砲した。至近距離からの狙いは確かだった。

「翔!……防弾服?」

「……残念だったな。俺が相手じゃ歩が悪すぎる。少しはお前らのボスから聞いてるだろ?」

 美智瑠は吠えた。

「うるさい!」

「素手でやろうっていうのか?この期に及んで、格闘で俺にかなうわけ無いだろ」

 美智瑠の拳や蹴りをかわしながら、間合いをとり、部屋に追い詰める。

「約束した筈だ。俺は美智瑠を消して、昇を助けに来るってな」

「なんで助けに来たのよ!」

 俺は美智瑠を壁に押し付けた。肘が美智瑠の喉に食い込む。

「カーヤがいない一時期、俺に光を与えてくれた奴がいてね。初めて彼女の名前を聞いたとき、芳夜に会ったのと同じように衝撃を受けたよ。優しいだけじゃなくてさ、厳しく突き放す事もある。男女の親友っていう関係があるんだって気付かされたよ。だけど、だけどさ、俺は……」

 美智瑠の首から肘を外して、両肩を掴んだ。

「俺は好きだったんだ、美智瑠のことが」

 俺は俺のしている事が信じられなかった。美智瑠の唇を俺は奪っていた。

「馬鹿。バカよ、翔は。私は翔なんて何とも思ってないんだから。ここに来ちゃ駄目なのに」

 美智瑠は涙目だった。薄いルージュが口元に光る。オニキスの首輪が目に付いた。

「だから敢えて来てんだろ?」

「ホント、バカよ。バカなんだから……」

 熱い抱擁、そう言葉通りの。美智瑠の首輪の中心にガラス玉とピンホールがある。超小型のカメラとマイクだ。俺は抱きしめながら、マイクに拾われないように美智瑠の耳元で囁いた。

「なるほど、珍しい首輪だ。美智瑠、お前、起爆装置は持ってないだろ?いや、あったとしても偽物だ」

 美智瑠は両手を使って、俺から離れようと突っ張ろうとする。船室の丸窓に美智瑠を押し付ける。

「今更かよ。俺に抱かれて嬉しいくせに。暴れるなよ、これはヤバいんだから……あ!」

 美智瑠が暴れた拍子に、音響閃光弾が床に落ち炸裂した。美智瑠は身動きが取れなくなった。

「それにしても珍しい首輪だな」

 美智瑠の首から留め金を外して、オニキスを奪い床に叩きつけた。

「駄目よ!それは……」

「やはりな。多分来るぞ」

 そう言った刹那、俺達は白光に包まれた。

(著者不詳「実録KAGUYA」より)



 白鳥君が機動隊のバスで乗り付け、犯人達を将にこれから移動させようとした矢先、クルーザーが突然爆発した。

 偶々私は機動隊の装甲バスの陰にいて、窓を開けた白鳥君に話しかけたところだった。すぐさま、クルーザーを確認しにバスの陰から飛び出した。クルーザーはキャビンや船倉はまだ多少の原型は留めていたが、特に燃料タンク付近が木っ端微塵に吹き飛んでいた。

 船の近くにいた犯人達の殆どが爆発に巻き込まれ、辺りは血肉飛び散る凄惨な修羅場と化していた。

「カー君!お兄ちゃん!」

 確保した犯人達から聞いた事と私が知り得た情報から、船内にいるのは二人だけだ。装甲バスから数名のSAT隊員が犯人達の肉片に駆け寄ったが、そこには人の形をした物は何一つない。あまりの惨状に吐いている隊員もいた。

「怪我は?大丈夫か?」

 白鳥君が私に声を掛けながら駆け寄る。

「この爆発じゃ……多分」

「そんな事ない!カー君は私と約束したもの。帰ったら私が満足するまで一晩中付き合ってくれるって!」

「気持ちは分かるが、だがな……。あとは警察の仕事だ。任せろ……って、ちょっと待て!」

 私はクルーザーに駆けようとした。が、白鳥君に肩を掴まれ制止される。しかし白鳥君の指から力が抜ける。私は顔を上げた。炎の向こうから、人影が現れた。

「……カー君?」

『いやー脱出に手間取ってさ。カーヤ、安心してくれ。人質は無事保護した』

 カー君の無線だ!生きていた!カー君もお兄ちゃんも!二人は手をつないで、ゆっくりと渚をこちらに向かって来る。

 お兄ちゃんが私達を見た。顔を青ざめた兄が何かを言って、腰に手をやる。しかし急にクルーザーに向かって走り出した。カー君が叫ぶ。

「待て!戻れ、昇!」

 兄が砂浜に落ちていた何かを拾った。そしてそのまま振り向く。兄が手にしたのは拳銃!ためらいなく兄は銃口を私に向けて引き金を引いた。

「白鳥!手前え!」

 カー君が射線に割って入る。私の背後から銃声。私の目に入ったのは、白鳥君の手に硝煙を吐く黒いリボルバー。私は白鳥君の手を叩いて銃を砂浜に落とす。

「カー君!」

 カー君が兄と共に倒れる。兄はすぐに立ち上がってクルーザーに戻り、あっと云う間にブリッジの扉を閉じた。次の瞬間、クルーザーは再び爆発、四散した。

「お兄ちゃん?イヤー!」

(著者不詳「実録KAGUYA」より)



 ヘリから捕らえたクルーザーの映像、それだけでは状況を理解するのは実際困難だった。

 カーヤが突入してから数分後、最初の犯人がデッキから砂浜に落とされた。続けざまに三人、ブリッジから引きずり出され、砂浜に落とされる。クルーザーのスピーカーから大音量でカーヤの声がした。

『誘拐犯達、よーく聞きなさい!私は調芳夜、私に人質になれですって?チャリティーならまだしも、私の誕生日パーティーを滅茶苦茶にしたうえに、誘拐事件に巻き込んでおいて、出演料なし?ハッ、冗談は休み休み言えってーの。この素敵な船は出演料代わりに頂くわ。そうそう、ブリッジにいた犯人達はぜーんぶ簀巻きにして浜に落としてやったわ。痛い目に遭いたくなかったら、大人しく船から降りなさい!』

 カーヤからの無線が飛んだ。

『カー君、ブリッジは制圧したわ。今のは私。こっちに人質はいない。放り出した犯人達を纏めに一旦外に出るわ』

 カーヤはブリッジの扉から出てきた。怪我をしているか細い腕のどこにそんな力があるのかと思うくらい強引に、犯人を引きずっている。デッキで犯人の両手首と両足首をそれぞれ手際良く拘束したカーヤはカメラ目線をする。

『ヨーコさーん、ポーズとかとったほうがいい?』

『カーヤ、そんなのいらないから。ドキュメンタリーなの、ドキュメンタリー。ヤラセは一切なし』

『なーんだ。つまんない』

「全く……キャンプにでも来ているつもりなのかしら、あのコ達」

 パイロットが肩を揺らして笑いを堪えている。

「アングルが悪い!ヘリを浜辺に回して!」

「了解」

 後部ハッチからも六人が続けて砂浜へ落とされた。

『ヨーコさん』

『はいはい、今度は何かな〜、翔君?』

『カーヤの怪我は?』

『あれを見たら?』

 翔君は後部デッキから身を乗り出してカーヤを見た。呻き声をあげる犯人達を両手に一人ずつ引きずって砂浜を歩いている。

『問題なさそうだな。じゃあ、俺は中に戻るから。……そうだ、一つ言い忘れてた』

『何?』

『あんまり怒らないほうがいいと思うよ。さっきから眉間に縦皺が寄ってるし』

『……御忠告ありがと。私の美容のためにも、ちゃっちゃと片付けてきてね。わかった?翔君』

『リョーカーイ!』

「ホント、最近のコ達って……」

 しかしレンズの向こうにいるカーヤと翔君はいつもの彼等とは別人だ。ファイブ・カードのハートのエースとワイルドカード。姿だけでなく、身のこなしがまるで普段と違う。カーヤは無駄の無い動きでクルーザーの周囲に散らばった犯人達を一カ所に集めた。

『二、四、六、八……11人、これで全員?』

『「ほ、本物なのか?あんた?」』

『じゃなきゃ誰だって云うの?大体、簀巻きにされた立場で尋問に答えないなんて、痛い目をみたいの?ひょっとしてマゾ?』

『「弁護士を呼んでくれ」』

『あんた達、あったま悪いんじゃない?警察じゃなくて、ファイブ・カードに捕縛されてんのよ。この場で消されたって文句一つ言えないのよ!』

 カーヤがファイブ・カードの名前を出した途端に犯人達は顔を集めて何やら相談し、素直に答え始めた。

『「あ、あの」「バカ、話すな。ボスに消されるぞ」「いや、でも」』

『あーあ、話しちゃった。「ボスに消される」って、どっちみち同じことよ。まだ刑務所の方がまともだとは思わない?それに今日の私達なら命くらいは多目にみてあげてもいいわよ。これから警察も呼ぶし』

『「おい、どうする?」「ええい、わかった。中に居るのはあと一人だけだ。あと……」「船には最後の手段が」「俺はリモコンを見たぞ。携帯にしては小さかった」』

『リモコン?最後の手段?あなた達、正直に話したほうが身のためよ。何なの、それ?』

『「早く離れたほうがいい。爆弾かもな」「憶測で云うな。俺達は詳しい事は何も……ただこの事を知っているのは」「アイツだけだ。なあ」「そうだ、アイツだけだ」「アイツ……船に残った奴の事です。ミチルとか言ってたな」』

 カーヤの目つきに厳しさが加わったが、犯人達にかけた言葉は優しい。

『ありがとう。大人しくしてたら、悪いようにはしないわ』

 何もなければ、後は人質を探索するだけなのだろうが、誘拐犯達の『最期の手段』が状況を不透明にさせている。安堵感からか笑顔さえ混じる容疑者達とは対照的に、カーヤは判断を迷っていた。しかし白鳥とバーター取引をした以上、二人で片付けるより他はない。

『カー君』

『……』

 カーヤのコールに翔君の応答がない。船内で何かが起きたのかも知れない。

『・・ ー・ ・・・ ・・ ・ー・・ ・ ー・ ー』

マイクを指先で叩く音がした。

『In silentてことね。……カー君、確保した犯人達の中に、「最期の手段」とか「リモコン」とかがあるから早く船から離して欲しいって言う人がいるんだけど、どう思う?』

『話しても大丈夫になった。ヒィフティ・ヒィフティだな。白鳥に連絡して、その話をした奴だけ残して、他を護送車で回収してもらうか?』

『そうね。彼等の反応を見て判断材料の一つにする。私も船内を潜索してみるわ』

『白鳥にはカーヤから連絡を。俺は船内を探索する』

『了解』

 西の空が茜色に染まり始めた。海に沈もうとする太陽がフレームに入り、アングルから外れてゆく。ヘリコプターはクルーザーからの狙撃を避ける為か、常に不規則な移動を続けていた。

『「早く呼んでくれ」』

『言われなくてもしてるわよ』

 カーヤは片手を耳に当てた。

『白鳥君』

 カーヤは口を開かず無線をしていた。

『もう解決したのか?』

『まあ、大体。今、船内に閉じ込められている人質をジョーカーが探索してる』

『状況は理解した。で、何かあるんだろ?お前達のことだ。タダで連絡してくる事はないからな』

『そう、それ。少しは気が利くようになったじゃない。バスを一台よこして欲しいの。出来れば、SATの装甲車を』

『装甲車?』

『あのクルーザー、爆発する恐れがあるの』

『確実なのか?誰から訊いた?』

『不確かな情報よ。犯人達の何人かが、ありそうだと話してる。昔なら彼等がどうなろうと良かったけど、今回はそういかないし』

『容疑者達の安全確保は必須だ。わかった、用意する。バスには私も乗って行く……お偉方へのパフォーマンスも仕事なんでね。非常線の外からだから、少し時間がかかるが、なる早で向かうよ』

『了解』

 カーヤは無線を切るとー彼女にしてみれば耳から手を離すだけのことだがー、誘拐犯達に明るく声をかけた。

『……非常線の外からバスが来るから、ちょっとかかるかも知れないって。まあ長く待たされることは無さそうね』

 カーヤは再び耳に手を当てる。船内の潜索をする為らしい。数秒も待たずに結果が出たようだった。

『カー君、爆発物を見つけたわ。燃料タンク付近とブリッジに。起爆は有線と無線の二系統みたい。有線はブリッジと船倉に牽かれてる。通路の一番奥の扉の向こうよ』

 カーヤの最後の言葉が何を指しているのか理解出来なかった。だがカーヤは何かを見て話をしていた。

『ー・ ーー・ー・ ・・ ・ー・・ ・・ー・・ ・ー・・・ ・・ ・ー・ーー ー・ー ・・ ・ー・・ ・・ー ーーーー ー ・ー・ー・ー ー・ーー・ ・・ー・ ・・ー・ー ・ー・ー・ー ・ー・ー・ ・・ ーー・・ ー・』

 再びマイクをつつく音。

「何なのよ、これ?」

「モールスなのはわかりますが、ヘンテコリンな言葉ですよ」

 しかしカーヤは理解したようだった。

『わかった。お兄ちゃんの事はカー君に任せた。こっちも早めに離れるけど、カー君も気を付けて』

「だから、何て言ったの?」

「そのままでいいですか?」

「いいから早く!」

「ダルチミ、ンブタ、タシガトオデワガウコム、マイ」

 私は急いでメモを取る。

「何かの暗号かしら?……あ!回文。イマ、ムコウ……『今、向こう側で音がした、多分、ミチルだ』」

「なるほど」

 私が回文を解いてパイロットが関心している間にも、カーヤはクルーザーを注意深く見て、耳に手を当てていた。

『カー君、見つけたわ。ブリッジの床下と、燃料タンク付近に仕掛けられてる。丁度カー君の見ている壁の向こう側に。……もう、カー君たら、ふざけて。その壁、ちょっと右。うん、そこ』

 翔君が何かをしたようだ。しばらくして爆発音とともに後部デッキの扉が千切れ飛び、白煙が噴き出した。その爆発の衝撃か何かで無線が音を拾い始めた。

『「ゴホッ、ゴホッ」』

『美智瑠か?俺だ、翔だ!』

 暫くの沈黙、カチャリという金属音。

『「ジョーカーか?よくここに辿り着いたな。これで全てを清算してやる」』

 空気で膨らませた袋を破裂させたような乾いた音がした。

『下手な鉄砲なら跳弾で怪我するだけだぞ。止めておけ』

 再び発砲?

『「翔!……防弾服?」』

『……残念だったな。俺が相手じゃ歩が悪すぎる。少しはお前らのボスから聞いてるだろ?』

『「うるさい!」』

 どうやら翔君は人質(?)のところにたどり着いたようだ。犯人もいるのだろう。彼等の音声は警察無線に流れていた。映像が無いために状況が掴めない。

『素手でやろうっていうのか?この期に及んで、格闘で俺にかなうわけ無いだろ』

 息遣いと靴音、それに時々空気が唸る。恐らく、乱闘。

『約束した筈だ。俺は美智瑠を消して、昇を助けに来るってな』

『「なんで助けに来たのよ!」』

 固い壁に生身の体がぶつる鈍い音。決着がついた?

『カーヤがいない一時期、俺に光を与えてくれた奴がいてね。初めて彼女の名前を聞いたとき、芳夜に会ったのと同じように衝撃を受けたよ。優しいだこじゃなくてさ、厳しく突き放す事もある。男女の親友っていう関係があるんだって気付かされたよ。だけど、だけどさ、俺は……』

『「ウグググ」』

『俺は好きだったんだ、美智瑠のことが』

 私は思わずカーヤに問い掛けた。

『カーヤ、何を言っているの、この子達は?』

『カー君は、お兄ちゃんと話しているの』

『カーヤの?……昇君?だって、じゃあ、美智瑠さんは?』

『……私のお兄ちゃん』

 現場に続いていた長い沈黙が破られた。

『「馬鹿。バカよ、翔は。私は翔なんて何とも思ってないんだから。ここに来ちゃ駄目なのに」』

『だから敢えて来てんだろ?』

『「ホント、バカよ。バカなんだから……」』

 マイクが衣擦れを拾う。砂浜には機動隊のバスが到着した。カーヤが犯人達から離れ、バスに向かう。

『なるほど、珍しい首輪だ。美智瑠、お前、起爆装置は持ってないだろ?いやあったとしても偽物だろうな』

 マイクに何かが触れたようだ。再び鈍い音と衣擦れ。

『今更かよ。俺に抱かれて嬉しいくせに。暴れるなよ、これはヤバいんだから……あ!』

 マイクにノイズが入り、音声が途絶えた。

『何が起きたの!翔君?』

『ヨーコさん、大丈夫。閃光音響弾の誤爆だと思う。これで決着がついたわ』

 カーヤが無線を切る直前、マイクが一瞬だけ翔君の声を拾った。

『やはりな。多分来るぞ』

 刹那、クルーザーが大音響とともに爆炎に包まれた。ヘリの機体が動揺し、急旋回して現場から離脱する。私はパイロットを怒鳴りつけた。

「離れたら撮れないじゃないの!もっぺん寄って」

「無理です。こっちが爆発に巻きまれる」

「ちくしょー!」

 口論しながらも、カメラはクルーザーを画面中心に収めていた。

 爆発の瞬間、カーヤは機動隊の装甲バスの陰にいたため、とりあえずは無事のようだ。すぐさま、カーヤはバスの陰から飛び出した。

 クルーザーはキャビンや船倉そして燃料タンク付近が完全に吹き飛んでいた。またクルーザーの近くにいた犯人達の殆どが爆発に巻き込まれ、辺りは……。

「これは映像では流せないわ」

 地上からカーヤの叫び声。

「カー君!お兄ちゃん!」

 無線の情報からすると、クルーザー内には人質と翔君だけが残ったはずで、しかし外にいた犯人達がこの有り様ならば、二人の安否は絶望的だ。

 血肉で赤黒く染まる砂浜に立ち尽くしたカーヤの脇を、装甲バスから降りた三人のSAT隊員が走り、飛び散った犯人達の肉片に駆け寄ったが、そこには人の形をした物は何一つない。あまりの惨状に吐いている隊員もいた。

 一人SAT隊員がカーヤに声を掛けながら駆け寄る。カーヤの声は無線を通じて、ダイレクトに聞こえた。

「そんな事ない!カー君は私と約束したもの。帰ったら私が満足するまで一晩中付き合ってくれるって!」

 クルーザーに駆けようとしたカーヤをSAT隊員が制止する。しかし、そのSAT隊員の腕はカーヤの肩から力無く滑り落ちた。

「……カー君?」

 カメラをパーンさせる。海の中から人が現れた。暗灰色の上下、迷彩塗装を施した顔、そして肩を組むようにしてもう一人。無線に元気な声が飛び込んだ。

『いやー脱出に手間取ってさ。カーヤ、安心してくれ。人質は無事保護した』

 ズームアップ、確かに翔君と肩まで伸びた銀髪の少年……昇君だろう。浜に上がった二人は手をつないで、ゆっくりとカーヤに向かって歩き始めた。

 ところが、銀髪の少年がカーヤの隣にいるSAT隊員を見つけた時、事態は急変した。銀髪の少年……昇君の顔が青ざめ、何かを叫びながら慌てて腰の後ろのホルスターらしきものに手を回す。探る手に触れる物が無いとわかった途端、今歩いて来た足跡に走らせた視線が焦点を結んだ地点に向かって走り出した。

 翔君が昇君に叫ぶ。

「待て!戻れ、昇!」

 昇君は浜辺に落ちていた黒い物体を拾い上げ、SAT隊員とカーヤの方に振り返る。拳銃!

 昇君は躊躇う事なく引き金を引いた。カーヤの背後にいたSAT隊員は既に拳銃を構えており、二人が引き金を引いたのと、翔君がSAT隊員に向かって叫びながら昇君の前に飛び込んだのと、ほぼ同時だった。

「白鳥!てめえ!」

 SAT隊員のリボルバーが続けざまに火を噴き、翔君と昇君が砂浜に倒れ込む。カーヤはSAT隊員の手から硝煙を吐く黒いリボルバーを叩いて砂浜に落とす。

「カー君!」

 しかし昇君はすぐに立ち上がってクルーザーに戻り、あっと云う間にブリッジの扉を閉じた。次の瞬間、クルーザーは再び爆発、四散した。

「お兄ちゃん?!イヤー!」

 カーヤの悲痛な叫びが、夕陽の沈む人気のない江ノ島海岸に響き渡った。

『こんな事って……。こんなの無しよ』

 翔君から無線が入った。

『ヨーコさん、撮り続けてくれ』

『翔君?』

 私の疑問符が終わる前に、撃たれたはずの翔君は、まるで足の無い幽霊みたいに銃撃したSAT隊員に駆け寄り、殴られたSAT隊員は数メートル先に吹っ飛んだ。カーヤが飛びかかろうとした翔君に飛び付いて止めなければ、次の一撃で確実に仕留めていた事だろう。

『カー君、やめて。もう充分よ』

『白鳥、てめえ、わかっていて撃っただろ?アイツが構えた銃には弾倉が装填されていなのが見えてただろうが!』

 ヘリは海岸沿いの道路に着地した。砂浜まで指呼の距離。私はカメラを回したまま、三人のところに駆けつける。尚もSAT隊員に馬乗りになろうとする翔君に私は言った。

「結果がどうであれ、翔君、あなたの仕事は終わったわ。これ以上すれば公務執行妨害になるから止めなさい」

 原型を留めないクルーザーが無惨な姿をさらけ出していた。翔君はSAT隊員、よく見れば白鳥を砂浜に放り出して、クルーザーの残骸を掻き分けようとした。

「待ちなさい、あなた達がいじっては駄目……理由はわかるわね?」

「物分かりのいい、記者さんだな。……ジョーカー、御苦労だった。後は此方の仕事だ。容疑者の捜索は我々がする。気持ちは痛いほど分かるが、捜索を見守るだけなら仕方あるまい。まあ、実際船内に入ったのは君らしかいない訳だし、捜索には協力してもらう事になる」

 白鳥が国道をちらと見た。サイレンと赤色灯の群れが近づいていた。

「カーヤ、向こうで待とう」

 泣き崩れるカーヤを子供のように抱き上げて、翔君は国道脇のテトラポットに歩き出す。

「あ!」

 すれ違い様、翔君の体を見る。銃撃を受けた鉛の弾体がめり込み、焼け焦げ、ナイフの零れ刃が食い込んだままのグレーの防護服には返り血や彼自身の流血があちこちにこびり付いていた。かける言葉が見つからないまま、心身ともに傷付いた二人に黙ってカメラを回し続けるしかなかった。

(葉月陽子「衝撃インタビュー/江ノ島事変」より)

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