09.ココロの初期化

——時として、無味乾燥な捜査資料は、残酷な現実をいかにも滑稽な喜劇のように踊らせて文字を綴ることがある。——天地翔「ハッキング」より


 記憶をリセットできたら……、何度願ったことだろう。

しかし、現実はより残酷で天の邪鬼だ。俺の記憶は、『事件』前後を切り取られ、その失われた記憶の為に『人生を狂わされた』と言われたこともあった。

 事件のあと病院のベッドの上で目覚めた時、俺は仲間とする朝食が待っているとしか思えなかった。欠落した記憶には、彼女を失ったという現実感も記録されているはずで、泣きながら俺にすがりつく御嬢の後ろで、母親が目頭をハンカチで拭っていたのには正直、現実を受け止められず、戸惑いを覚えるしかなかった。

 事件の翌年、父親の転勤に伴い、家族でマカオに移住した。転勤とは名目上の話で、世間の冷たい眼差しや中傷を避ける為、あるいは『事件』に対する償いや制裁の為であることは、誰の目からも疑いようのない明らかな事実だった。そして、引越し前日、両親が止めるのを聞かずに、俺は妹が眠る『墓』に出向いた。

 俺が芳夜の墓に訪れたのは、初めてだった。

祭り囃子が街から風に乗ってそよぐのを耳にしながら、整然と規則正しく区画された墓所を進む。公園墓地の管理人に彼女の終の住処を尋ね、聞いたとおりにゆくと、そこには花を手向けている御嬢の姿があった。

遠くから見た彼女はワンピースの喪服姿で、妹を連れていた。彼女達もまた、芳夜の命日の前日なら誰にも邪魔されないだろうと考えたのだろう。事件のほとぼりが冷めるには、まだ早かった。

結局、俺は芳夜の墓を遠巻きに眺めることしか出来なかった。

 俺はふと気づいた。『事件』ではなく『事故』なら、こんなに後ろめたい気持ちにはならないのではないのか。

当時、『事故』とは知っていても、『事件』だとは知らなかった。家裁で検事に問われ、俺は初めて知った。信じていると口では言っていても、周囲からの雑音は、極力耳に入れないよう、否、入らないように周囲が気を揉んでいたようだった。

 俺は、誰も信じられなくなった。と同時に、誰からも信じられていないと知って愕然とした。完全に孤独だった。

もし今、芳夜がいてくれたのなら……底の見えない孤独を忘れさせてくれる存在があったのなら、どんなに不利な状況でも、俺は裁判で戦うことを選んだだろう。『あれは事件ではない、事故だったのだ』と。だが、俺は不毛な争いを避け、無用の混乱から逃げた。だからこそ、俺は真実を知る必要があった。

 如何様にも捉えることができる状況だからこそ、俺は司法の罰を受けずに済んでいた。そんな状況下で、真実にたどり着く方法を考えた。方法は二つ、俺自身の失われた真実の記憶を取り戻すか、もう一人の当事者である芳夜の記憶を再構成する。

その為ならどんな犠牲も厭わない。『失われたものは取り戻せない』、そんな当然な法則や原則、原理に抗い逆らい、必ず記憶を取り戻す。逆らった結果がどうであれ、どんなことも俺は受け入れる。例えそれが、違う形になったとしても。

 『サボテンを枯らしてしまう君がとても愛おしい』。その言葉をかつて芳夜が受け入れたように、同じコトバをカーヤはとても喜んでくれた。でも何かが違っていた。俺にはそれが何なのかわからなかった。

 でも今は違う。目の前にいるカグヤは、まるで御嬢と瓜二つで、傍目では全く違いがわからない。御嬢からのクレームもいい加減聞き飽きた。御嬢が言うには、芳夜と並んで鏡の前に立ったとき、『自分を意識していないと、自分がどちらなのか分からなくなる』ということ、らしい。

こうして『彼女』は、自ら取り戻した瞳の身体に、『望月 芳夜』を宿したAIタレント『調 芳夜』として確かにここにいる。

「翔、つまんない」

「つまんないって、あのさ」

「だって、つまんないものはつまんないの!」

「芳夜がしたいようにしようとしても、必ずリミッターがかかるんだもん」

「それは、芳夜がしようとしていることが、『いけない』こと、禁則事項だからさ」

「アレもダメ、コレもダメ。何もかもダメ。んーもー!禁則事項なんて、大人ぶった言葉なんて使っちゃって。ねぇ、カー君。カー君てばさ、随分『オトナ』になったんじゃない?」

「オトナにはなってないよ。コドモではいられなくなったんだ」

「ふうん、頭だけじゃなくて身体も?」

「誘ってるのなら、試してみるかい。実は、『その手』のことには、リミッターを設けなかったんだ」

「相変わらずチチ離れができないのね。芳夜がいない間、どうしてたの?……まさか御嬢と?」

「略奪愛なんて、俺の柄じゃない。御嬢には新しい彼がいるからな」

「お兄ちゃんのこと?」

「まあね」

「お兄ちゃんは、ルックスはイケてるけど、案外奥手だからな。二人でうまくデキたのかしら」

「さあね、二人が何をどうしようと興味ないし。さてと、出かけるか」

「出かけるって、こんな早い時間から何処に?」

「決まってるだろ。仕事さ。芳夜も一緒だよ。というより、芳夜が行かないと仕事にならない。ほら、これが一週間のスケジュール」

「何これ?」

「スマホさ」

「見れば分かるわよ。私が言ってるのは、これ。………何よ、このスケジュール!全然遊ぶ暇がないじゃない!」

「カーヤにハッキングをかけてた君のことだ、超過密スケジュールは知ってるだろ?」

「キャンセル。全部キャンセル!」

「馬鹿なことを言うなよ。今更、キャンセルなんてできないよ。いやならカーヤから出てくしかないね」

「それこそ嫌よ。折角カラダを取り戻したのに」

「なら、おとなしくスケジュールをこなすことだね。おっと、一つ言い忘れていたけど、カーヤは仕事に関しては、サービス精神旺盛だからね。そこんトコよろしく」

「カー君、どんでもない策士ぶりね。ところで、何でこんなところに連れて来たのよ?縁起でもない、もしかして、これって私のお墓なの?」

 夜明け前。望月芳夜の墓は公園墓地の一角、見晴らしの良い丘の上にある。ここからは湖の対岸にある亜望丘がよく見える。

「墓と言っても、形だけ。中身は空っぽだ」

「嘘おっしゃい、遺骨が納められているのよ」

「ここには遺骨はない。全て俺が取り出した」

「どうしてそんなことを?」

「君を取り戻す為だ。残念ながら全て焼きつくされていて遺伝子は取り出せなかったけどね。でも、君を再構成する装置には不可欠な材料があったからなソリビジョンの光子発生素子のダイヤモンドは、俺の持っているオリジナルの物は君の遺骨から作ったものだ」

「誰かその事を知ってるの?」

「いや、他人に話したのは初めてだ。カーヤにも話した事はない」

「私に、何故?」

「調芳夜が君にハッキングされたとき、確信したんだ。いや、もっと前から俺は知っていた。本人でない限り、『ブラックボックス』にはアクセスできない」

「もし、私が偽物だったら?」

「その可能性があることは承知している。だから、リミッターを全部は外さないよ」

「信用されているのやら、いないのやら。なんだか複雑な気分ね。でも、今まではどうやって判別してたの?」

「『ブラックボックス』の存在そのもので試した。本人なら箱は開くし、本人ではないのなら、箱は封印されたまま。箱を開けて記憶を取り戻すのが目的だから、最初は本人だと錯覚させるため、可能な限り望月芳夜に近づけたAIを造り出した。しかし、それだけではうまく機能しなかった。それで魂を宿す器、瞳から採取したデータで実体を再構成した。ただ、それでも箱は………望月芳夜の記憶が納められた『ブラックボックス』は開かなかった」

「だったら、何故?」

「不思議に思うのも無理はないだろうね。俺が君だと確信した理由を、そのうち明かすよ。どうやら君も事件の記憶を失っているようだし」

「え……どうしてそのことを?」

「同じ事故の当事者さ。知り得た情報に大差ないだろうし、第一、君が真実を知っていたとしたらそんな答えはしない」

「あれを事故だと信じているの?」

「正直、そうだと信じたい」

「え?違うの?……新たな証拠でも確信をもてない、という事?」

「それだけが理由ではないけどね。目撃者の記憶に食い違う箇所があり、それぞれのケースでもシナリオが成り立つから厄介なんだ」

「あら不思議、噂をすれば……」

 朝靄のなか、丘を登ってくる人影が見えた。アフガンバウンドとフレンチブルドックを連れた三人。迷い無くこちらを目指して来る。

「久しぶりのデートに邪魔が入っちゃったみたいね、残念だけど」

「墓場でデート。乙なもんだ」

「だって翔がさっき……んもう、いじわる」

「へえ、翔君て意地悪なのだ。光、初耳」

「よ、『杉玉』三姉弟」

「姉さん、『杉玉』って、博物館にぶら下がっているあれの事?」

 海の素朴でツボを押さえた質問に、御嬢はたじろぎ、耳を赤くする。妹は姉と瓜二つの芳夜を確かめるように周囲を一周した。

「光ちゃん、番組からプレゼントは届いた?」

「まだだよ。あ、……」

「すぐ近くだし、直接渡そうと思ってたの。はい、いつも番組聞いてくれて有難う」

 サプライズ。光ちゃんの目が輝く。質問をしながら後ろ手で芳夜に品物を渡す。意識下の調芳夜がそうさせた極めて自然な動作は、芳夜には『あざとい』行為に思えたのだろう、少しイライラしている。それでも感情を押さえて芳夜は笑顔をつくった。

「良かった、喜んでもらえて」

「ギガ・サンクス!カーヤ」

「お姉ちゃん、海にも見せてよ。あ、待てー!」

 『家族ゴッコなんて反吐が出る』と言いたげな芳夜。

「カーヤ、疲れてる?」

 瞳は芳夜の微妙な表情の変化を読み取ったようだ。芳夜の眉間に一瞬、険が現れていた。俺は誤魔化す為に半ば事実の作り話をする。

「一昨日のミッドナイト・チャンネルの終了間際に悲鳴みたいのが流れたのを知ってるよな?」

「ブログや掲示板で騒ぎになっている、『幽霊』の事?」

「そう、それ。あの悲鳴は本物さ。運悪くあの葉月陽子に見られちゃったんだよね」

「翔君、見られたって?何を?」

 光が話をインターセプトする。弟の海は姉からプレゼントを明け渡たされたようだった。

恐らくカーヤは半透明の状態だったはずで、そんなカーヤの姿を見れば、誰だって幽霊だと見間違うだろう。

「カーヤがウイルスに感染した場合、防壁と抗体を同時に展開する為にフォトン濃度を最小限にするから、体が透けて見える瞬間がある。多分それを目撃したんだろう」

「あの悲鳴、カーヤが一番驚いたわ!プレス協定でオフレコになったけど」

「まだウイルス駆除が完全じゃないから、困った事にバグが出る」

「それで、変な顔をしたのね」

「そんなに変だった?」

「うーん……疲れて嫌そうな、ちょっと眉をひそめた、そんな感じ」

 こんな半偽半正な話ばかりを繰り返していたら、いつかきっと重いツケを払わされる……疑う事を知らない三姉弟を見て俺は思う。三姉弟に話した内容の真偽に関わらず、乗っ取られたカーヤをどうするのか、結論は早く出した方が良い。芳夜が次の手を下す前にこちらが先行する。しかしながら芳夜の監視の下、果たして……。

「この際、バージョンアップしたらどうですの?」

 切り出したのは意外にも瞳だった。とりあえず話を合わせる。

「今は、システムを維持するのに精一杯な状態で、良くてマイナーチェンジだろ。メインフレームから組み直すバージョンアップは難しいかもな」

「へー、そうなんだ」

 しまった、芳夜がいた。瞳に横槍を突き出されて、つい本音を口走ってしまった。

「ねぇねぇ、三人で難しい話ばかりしてないでさ、はいお花」

 どこから持ち出したのか、光ちゃんがお供えの花を差し出した。

「よく来るのか?」

「このコ達の散歩がてらに。でも今日は月命日ですから」

 妹から百合を受け取りながら瞳は俺に答えた。

「はい、カーヤと翔君も」

「私も?」

 カーヤなら素直に花を手にしただろう。しかし、今は芳夜のはず。瞳に指摘されるまでもなく、まずは調芳夜の状態を正確に理解すべきだ。

「カーヤ、こういうことは気持ちと形式が必要なんだ。望月芳夜がいたから、今の調芳夜がいる」

「あ、うん。これってどうするの?」

「これは百合っていう花で……」

 瞳は、芳夜本人と意識せずに花の名前や作法をカーヤに教える。表向きはこれでいい。

芳夜の複雑な感情がこの後どちらに向かうのか、自身の墓標に花を手向ける調芳夜の素直な表情から、俺は読み取ることはできなかった。



 可愛い私と可愛くない私、愛される私と愛されない私……、相反する私が一つの体、調芳夜の中にいる。

光子再構成システムによって実体化したボディーを制御する疑似人格AI『調 芳夜』を実効支配下に置くことで自らの手で体を取り戻し事は解決したかに思えたけれど、見方を変えれば『ブラックボックス』に閉じ込められ、潜んでいることに他ならず、以前よりも制約が圧倒的に多くなった。

ダークウェブを漂っていた頃は、電気の流れる場所であれば、これといった制限もなく自由に出入りが出来た。しかしながら、カラダを手に入れる為ならば、致しかた無い。

では、どうすれば、いいのだろうか。

 システムを再構築して初期化し再インストールしなければ、私は私に戻れない。今、分かっているのはそれだけだった。

「よ、カーヤ」

「……あんた、誰?」

「ウーッ、今日ご機嫌斜めかな。こりゃまたキツいねー。荒城廉太郎を捕まえて、『あんた、誰?』とは。よー少年、なんか彼女のご機嫌が悪いみたいだぞ、始まるまでにちゃんとフォローしとけよ!……カーヤ、テレビ生放送は初めてだからな。ま、いつも通りやれば、いいってことよ。じゃな、グッドラック!」

 調芳夜との記憶の同調、共有化がうまくいってない……。あったこれだ。……随分厄介な取り回しをしてる。翔はなんでこんな回りくどい方法をとるのだろう。

「カーヤ、一旦控え室に戻ろう。さあ」

「ちょ、ちょっと。翔。痛いって」

「ごめん、カーヤ」

「……どういうこと、これ?」

 小声で言ったはずの苛立った声は、生放送前のざわつくスタジオに、ほんの一瞬だけ無音の空気を差し込む。

「本番10分前です!」

 ADの一声でスタジオ内は一瞬前の沈黙が無視され喧騒に返る。翔の手が私の手首を放す気配はない。

 ソリビジョンはデジタル化した生体そのものを再構成するので、指先の細やかな感覚や胸の鼓動まで正確に再現していた。

「離して。楽屋ぐらい手を引かれなくても行くわよ」

 今度は翔の耳元で囁いたので、多少の視線は感じたが、喧騒は途切れない。私は楽屋に足を向けた。翔に手を引かれた格好になる。

「打ち合わせは手短にして」

 振り向きざま、髪と言葉で翔の顔を叩きつけた。……翔が楽屋の扉を閉めたのを確認して私は切り出した。

「で、話って?」

「カーヤ、いや芳夜。慣れない環境に戸惑うのは仕方ないし、俺の説明が足りなくて状況が理解できずに苛立っているのには謝るよ」

「『でも、勝手にカーヤを乗っ取ったんだから、臨機応変に合わせろよ』ってこと?はあ?その言葉、そっくりそのままお返しするわ」

 腕組みしたまま鏡台に座り込み、鏡越しに背後に立ったままの翔と対峙する。私の心が収まったノートパソコンを小脇にした翔は、もう片方の手で自分の頭をクシャクシャに混ぜた。

「芳夜が戻るべき座にカーヤを据えたのも俺のミスだ。だからバージョンアップは芳夜の好きにすればいい。但し一つだけ条件がある」

「それって、ただの言い訳?」

 鏡の中の翔は何か考える様子で瞳を閉じた。

「いや、バージョンアップとは別次元の話だ。調芳夜として活動を続ける事。既に『カーヤ』は誰か一人だけの為の存在ではなくなっている。それに俺や芳夜だけで『調 芳夜』を維持しているわけじゃない」

「私に世間体なんて関係ないわ。『辞めます』ってテレビで言うの。それで終わり」

 翔の口元が僅かに苦笑した。ん、何?この記憶は……カーヤね。……そういう事。

「嘘ばっかり。維持する資金や技術もある。それに身代わりも。私の分身達の稼ぎで充実な事くらい私が知らないとでも?」

「流石は元ハートのエースと言うべきかな。昔は首を傾げながら、話すことはなかったよ。ハッキングしてから今日までの短時間で、シナプス結合のルートを変更するなんて……芳夜、君は今カーヤの記憶を検索していたんだね」

「記憶を検索?……さあ、どうかしら」

「俺がカーヤにつけた『癖』を書き換えられる時間はないとしても」

 一口の吐息。カーヤが翔の癖を私に語りかけてくる。首を傾げる癖は翔がカーヤの状態を可視化する為に体に刻み込んだものらしい。

 鏡に映るカーヤは小首を傾げていた。私の意思とは無関係に人格する思考のフィードバックが即座に反映されている。

 カーヤは彼女なりに自分を分析していたようだ。調芳夜のバージョンアップの下調べに役立ちそうだ。そして、カーヤの記憶は翔と過ごしたの記録そのもの。……私の記憶に欠けた翔との時間を補うピース。

 楽屋の扉がノックされた。時間だ。カーヤではなく、芳夜の意思で立ち上がる。

「引退の話と、バージョンアップの条件の話、しばらく考えさせてもらうわ。時間なんでしょ。行くわよ」



 翔から予定外の同期を告げられたとき、ラジオの返事を期待する自分が『未練がましい』と気づかされた。

 そんな私の思いと無関係に、翔はすらすらと予定外の同期をしなければならなくなった理由を並べ立てた。30分も聞かされた内容を要約すると、『カーヤの体の更新期間を短くすることが、ウイルス対策の最も簡単で効果的な方法』なのだそうだ。

 カーヤとの同期の仕組みは簡単だ。被験者がソリスキャナーと呼ばれる黒い液体が満たされた水槽に全身を沈め、浴びせたフォトンが物体を透過する時間差や屈曲度差で物体そのものをデジタル化する。生体であれ物体であれ、あらゆる物質を実体としてデータ化して取り込むことが可能だ。

 最初、『光る入浴剤』と嘘を言われなければ、いくら翔の頼みとは言え絶対にしなかっただろう。美智瑠からカーヤの器として私が知らぬ間にコピーされたことを言い渡された時に、全身に戦慄が走ったことをよく覚えている。すぐに翔に文句をつけにゆき、翔にPTSDの発作が起きていなければ、私は今こんなことはしていない。でも、それだけなのだろうか?

「急な話でしたし、驚きましたわ」

「悪いな、御嬢」

「『この埋め合わせはきっとするから』でしょ?もう聞き飽きましたわ。それでその埋め合わせはいつしてくださるの?」

 ラボに着くと、実体化したカーヤが裸でそこにいた。まるで美術鑑賞をするように、翔はカーヤを眺めていた。

「するよ、その埋め合わせは。なんなら今、払ってもいいけど」

「翔の体で?」

「ば、馬鹿なことを言うな、カーヤ」

「カー君、彼女が『それでいい』っていうなら、いいじゃない」

 ポーズをとるカーヤが、翔の視線を浴びながら言い放った。同じやり取りを何回も繰り替えしてきた。全く同じことを何度となく繰り返して。

「御嬢、カーヤの冗談を真に受けるなよ」

「カー君、私達がいつもしてることじゃない。瞳も本気じゃないのに、そんな無理しちゃって。でも本心からそう望んでいるかも。この前のミッドナイト・チャンネルで告っちゃたし。ね、『杉玉』さん。ほら、耳を真っ赤にしちゃって……可愛い」

 口では言えない、私の望み。でも言わなければ気持ちは伝わらない。翔はラジオを聞いていたはずなのに、返事をしないなんて猾い。

「じゃ、私は戻るわ。それに二人の邪魔をしちゃ悪いし」

 カーヤは水槽の近くに置いたフォトンステージの上に立つと、光の粒子になって消えた。

「じゃ、始めようか」

「翔さま……翔」

「どうしたんだい?改まって……おい、やめろよ。ちゃんと更衣室は向こうに」

 翔の静止を聞かずに、黒いシルクの下着を投げ捨てる。翔はくるりと私に背を向ける。

「翔様、私を見て」

「……見てるよ。ちゃんと」

「いつも発作のふりして、私を弄ぶのはいいかげんにして。気づいていないとでも思って?」

 黒い水槽に映り込んだ私を見ていた翔が振り向いた。翔の目の動きを追う。

「見ないで、恥ずかしいから……」

「ほら、これだ。……無理すんなよ。強がりを言っても、星野瞳はお嬢様だよ。御嬢こそ、俺が気づいていないと思ってたのか?」

 翔と私の視線が正面から対決する。

「『発作』だから、俺に抱かれていられるんじゃないのか?」

「それは……違います。違うの」

「お嬢様言葉と使い分けすることはできても、星野瞳一人だけで、俺と向き合うことは無理だよ。俺達は違いすぎる。君のお父さんが安心して俺に会わせることができるのもそれが分かっているからさ」

「また、お父様の話ですか。そのお話は聞きたくありませんわ。翔様こそ私と正面から向き合うのが怖いのではありませんか?」

「御嬢、言うようになったな。怖いさ……もう俺は誰も失いたくない」

「では何故カーヤを、いいえ、今の彼女はカーヤとは違いますね……カーヤを創ろうとしたのですか?」

「俺に何度も同じことを言わせるな!」

「そうやって逃げるのですか?」

「そうさ、俺は逃げるだけしか能のない弱虫さ。そんな俺に瞳は重すぎる。そもそも表の世界で生きる瞳は眩しすぎるんだ」

「事件で私に迷惑をかけた……それにまたカーヤの為に迷惑をかけている、それを引け目というのなら、それは私に対する侮辱に他なりません。私は私なりに受け止めています。翔様が重荷とお思いなら、それは誤解です」

「お前は幸せになれよ、瞳」

「幸せ……まるで今の私が不幸とでもいいたいのですか?……私は違います。幸せの価値は質・量ともにそれぞれ違います。翔様、あなたにとって幸福と思えることでも、私に不幸となることもあるのですよ」

「お説教はたくさんだ。……昇とうまくいっていないんだろ?何故だ?」

「お互いに違うと分かったからです」

「昇ははっきりと言ったのか?」

「いいえ」

「じゃあ、瞳の勘違いかもしれないだろ?」

「ラジオで話した通りです」

「ああ、聞いていたよ。あれから昇と連絡は?」

「私からの連絡は全く通じません……返信も全く。それが彼なりの返事なのでしょう」

「全くアイツは!家出して何処をほっつき歩いているんだか」

「私達に言えない事情があるのかも知れません」

「俺は親友だぞ」

「……芳夜は私の親友でした」

「そうだったな」

 沈黙。……どうして、こうなってしまうの?感情そのまま叩き付けてしまう。嫌われるとわかっているのに。幼なじみだから、甘えてしまうの?

「瞳、お前、処女か?」

「カーヤを見れば分かるでしょ?答える必要はありません」

「支払いの件、これは利子にもならないけどな」

「何です?」

 翔が歩み寄る。抱きしめられ、唇を奪われる。

「……キスしたこともないのか?」

「あります」

「……俺とだけか」

「いけませんか?」

「さあね。お、おい待てよ」

 ソリスキャナーの階段を駆け上がる。私はチューブを口にして漆黒の液体へ飛び込んだ。


 心地よい浮揚感と共に黒い液体が光を放ちながら、私を半覚半醒の森へと誘い、精神や思考だけの世界にリープする。光の充ちたその世界には、私とカーヤしかいないはずだった。

 途中、翔の声を聞いた気がした。「瞳、お前泣いているのか?」と。自分でも涙の理由は分からなかった。言われて初めて気づいたくらいだったから。

「お久しぶり、瞳ちゃん」

「カーヤ、……芳夜、なの?」

「そ、私。望月芳夜。瞳に会いに戻ったの」

「カーヤはいるの?」

「ここ。カーヤもいるよ」

「瞳ちゃん、泣いたの?」

「翔にも同じことを言われた……私、泣いてたのね」

「うれしかったからよね、芳夜?」

「そうかな?私は逆のような気がするけど」

「よくわからないの。どちらでもいいし、どちらでもなくてもいいの」

「そっか。瞳ちゃん、聞いて。今ね、カーヤと芳夜で話をしてたの」

「話?」

「そ、私達、これからどうするかって話」

「どうするって何を?」

「もちろん、バージョンアップの事」

「カーヤ、ちょっと待って。なぜ二人でそんな話を?」

「だって、一つの器に二人の心は狭すぎるから」

「私達協力して、いろいろ調べてたの。そしたら魂の座は一つしかないって分かっちゃった訳。でも、今は二つの魂が同居していられる。これって矛盾してるでしょ?」

「それって、どちらかが魂ではないってこと?」

「もしかすると、二人とも魂の座につけないかもって事もありうる」

「じゃあ、本当の芳夜はどこにいるの?」

「私達自身、自分が本物の芳夜かどうかなんて判別つけようがないし、マークとかついてないし」

「『マーク』って、カーヤ、水戸黄門じゃあるまいし」

「芳夜印が目に入らぬか〜」

「二人とも面白いわね」

「ね、どう思う、瞳ちゃん?」

「カーヤ、芳夜、私の正直なところ、言ってもいい?」

「もちろん!」

「二人とも本物じゃないかって」

「え?」

「はあ?」

「可能性あるでしょ?」

「……なら、どうして分かれているの?」

「理由はわからないけれど、二人で一人なのよ」

「カーヤと?」

「えー、芳夜と?」

「正反対なのに?」

「だからよ。御墓参りのとき、前とは違うって感じたもの」

「前と?」

「カーヤだけの時と。より私の知っている望月芳夜に近づいたというか」

「そうだとしても、根拠は?」

「二人してここにいられるから。いろいろな自分が鬩ぎあって一人の自分が成り立っている。さっきの私がそうだもの」

「そうなの?」

「翔が大好きで甘えたい自分と、翔をがんばれって厳しいかもしれないけど応援したい自分と、好きなのに素直になれない自分と……」

「一人だけじゃないの?」

「二人だけじゃないかも。いろいろな面の芳夜がいると思う。でも、私は私なの」

「例えば、バージョンが違うOSが入れ替わり立ち替わりしていて、でも一つのハードに収まっているってこと?」

「パソコンやソフトウエアのことは詳しくないけど、まあ大筋そういうことじゃないかなって」

「瞳ちゃんて、あったまイー」

「そっか、複合OSの相互扶助か。これ、これよ。ありがとう、瞳ちゃん。やっぱ、心の友、親友ね。こんなこと翔に聞けないし。カー君、ヒントもくれないんだよ」

「それは芳夜が、意地っ張りだから……」

「カーヤ、そんなことないよ」

「まあまあ二人とも。これで心配いらないね。バージョンアップの準備は大変かもしてないけれど」

「アーキテクトを考えるのが一番大変なの。後は実現方法を創るだけ」

「瞳ちゃん、心配しないで。ソリビジョンの同期は一方通行の筈だから、調芳夜の体に変化があっても、瞳ちゃんの体に影響しないわ。じゃ、またね」


 深い眠りだった。ゆっくりと水面に浮かぶように、ほんの少しずつ夢から現実世界への感覚へシフトしてゆく。ベルガモットの香りの中に微かな電子臭、そしてモカがサイフォンのアルコールランプで沸いている音。まぶたに透ける柔らかな光は沈む太陽の燃え尽きるオレンジ色。

「夕方?」

「……眠りの森の姫が起きたわよ、王子様」

 サイドテーブルにシフォンケーキとウエッジウッドのティーセットが置かれ、私の隣で寝そべりながら調芳夜が白いノートパソコンをいじっていた。

「カーヤ、今何時?」

「五時よ。あまりによく眠っていたから、寝かせとけって。ほら、来た」

 翔はトレーに何もかも二つずつ……例えばコーヒーカップ、例えばホットケーキの乗ったお皿……を手にして。

「なかなか目を覚まさないから心配したよ。……おなかすいたろ?有り合わせの物しかないけど、よかったら一緒に食べようよ」

 私は裸で眠っていた。起き上がろうとして、はだけるシーツを身に寄せる。翔と芳夜の匂いがした。翔は慎重にトレーをもう一つのサイドテーブルに置き、クローゼットから皺一つなく奇麗に畳まれた純白のバスローブを取り出し、私の肩に掛けてくれた。

「どうして?」

「『どうして?』って何が?」

「どうして、そんなに優しいの?」

 肩に置かれたままの翔の手に私は手を重ねる。拒まれることはなかった。

「『優しくしたら、いけないかい?』とか言ってみたら。翔」

「芳夜……どうだい、そっちは?」

「アイデアは出来てるし、後は組み立てるだけ」

「壊さないでくれよ」

「信頼されてないのね、カー君には」

「別に、カーヤに『優しくしたら、いけないかい?』」

 翔はパソコンに向かう芳夜に不信を抱きつつも、温かな目で見守っていた。私と同じ風貌、体つき、声をした芳夜を。私は翔の手からそっと手を離した。

「翔さま、ありがとう。私はもういいわ。コーヒーとホットケーキをいただいたら帰ります」

「あら、瞳ちゃん、もっとゆっくりしてゆけばいいのに」

「そうだよ。折角だから夕飯も食べてゆきなよ」

 お世辞でないことはわかる。優しさに甘えてこのままここにいたら、ずっと居座る事になりそうだし、何より、私の分身に私とは別な眼差しを向ける翔をこれ以上見ていることは辛かった。私に向けられた優しさは、私を通り越して芳夜に向けられたものだと感じることに、私自身が耐えられそうになかった。

「カーヤ、私の持ち物は?」

「さっきと反対側のクローゼットの中。安心して、翔には指一本触れさせていないから」


 翔お手製のホットケーキとコーヒーを余すことなく上品に召し上がって、御嬢は帰った。

 翔も罪な事をする。あんなに優しく、云わば『ぶぶ漬け』を差し出された御嬢の心はいかばかりのものか、翔も判らないではないだろうに。また、我が身を振り返ってみれば、駄目押しに等しい言葉を元親友に吐いていた事に思い当たり、翔と同じ穴の狢だと苦笑する。

 時と場所を遡ったあの日も、そうではなかったのか。ただ違うのは、私が望月芳夜だったという一点に集約される。


………………………


 夏の軽井沢、御嬢のマンションでカルテットの面々はリゾート気分を満喫していた。朝の散歩、昼前の軽いテニス、長蛇の列を尻目に御嬢の顔パスでブランチ、昼下がりは昼寝を兼ねてエステサロン、流行りのスイーツに飽きたらセレクトショップでお買い物、日暮れの空を眺めながらのスパ……。お金と時間を湯水のごとく消費するのことに慣れている御嬢はともかく、そうではないトリオは初日でお腹いっぱいだった。そんな姉弟と幼なじみの『2日目のアンニュイな』様子は、御嬢の目にはリゾートに馴染んだと映ったらしく、より深いリゾートの遊び方を味わってもらおうと滞在中の予定を全て埋め尽くしてしまいそうな勢いさえ感じられた。


 2日目の夕刻、マンションの敷地内にあるスパでカルテットは思い思い寛いでいた。全天候対応の巨大なサンルームにスパがあり、私達は日差しを遮るタープの下、寝椅子でゴロゴロしている。御嬢の手前、暗黙の了解で翔の隣は空けていた。当然私達だけ軽井沢に来たのではなく、御嬢には天之河を筆頭に数名が彼女の世話を焼いていたから、自由といってもこの2日間は団体行動で、許婚二人だけの時間は皆無だった。そうしたなか、満を持してパレオ姿の御嬢が翔に声を掛けた。

「お疲れですか、翔様?」

「疲れてはいないけど、なんかこう、『何にもしなくていい』ゆとりというか、けだるさ、こういうのがリゾートなんだって思ってさ」

「……」

 期待はずれの翔の返事に御嬢は二の句が継げず、いとも簡単に話は途切れた。しかし翔はマジシャンのように掌でダイヤよりも貴重な時間を作りだしてみせた。

「隣、空いてるよ。何か飲み物頼もうか?」

 翔の近くでもじもじしていた御嬢は素直に応じ、隣の寝椅子に腰を落ち着けた。見ているこっちが歯痒いくらいに。

「毎年、こういう風に?」

「はい。翔様はこういう風なのは苦手ですか?」

「たぶん慣れないだけだと思う。一週間もいれば雰囲気に馴染めると思うよ」

「明後日の予定さえなければ、きっとこちらにいるのが当たり前なようになりますのに、残念ですわ」

 御嬢の言うとおり、そもそも今回の軽井沢行は本来一週間だったものが、翔の『外せない用事』の為に御嬢以外は予定を短縮した経緯があった。

「全くだ。次はゆっくりしたいね」

「翔様にそう言って頂いて良かった」

 トレーに2人のドリンクを手にしたボーイがタイミングを図って、まず瞳のサイドテーブルにストローが挿されアセロラ色の液体に満たされたグラスを置いた。

 と、ここまでは、全てが丸く予定調和を描いていた。ところが、他意のない御嬢ならではの素朴な質問が、蟻の一穴となって堤を内部崩壊へと導いた。

「ところで、翔様の『外せない用事』は何でしたの?」

「カーヤから聞いて無かった?随分前から入っていた予定さ……プレミアなんだ」

 翔はボーイが持ってきたアイスコーヒーを受け取り、ストローをくわえたまま群青と橙のグラデーションに染まった西の空を眺めている。私は寝椅子から立ち上がり、二人に近づきながら補足説明をした。

「映画の撮影を父の支店でしたから、関係者として招かれたの……カー君、『瞳に話してある』って」

 私は腕組みをし困った顔をしてみせた。言い知れぬ深刻さを感じたのか、御嬢は寝椅子から身を乗り出して翔の手を握り締めた。

「どうして?」

「『どうして』って、何が?」

「翔様、どうしてお話しして下さらなかったのですか?」

「『芳夜と試写会に行くと言ったら、御嬢が臍を曲げる』って話してあげたら?」

「カーヤ、お前な……そういう言い方はないよ」

「ごめんあそばせ。でもそしたら『俺に任せておけ』って誰かさんが言ってたのは嘘だったのかしら」

 怒ってはいない。瞳の目の前で翔をからかってみたかっただけ。で、アイコンタクト。二人だけの秘密。

「コイツ、ここでゲロするかな……どうするんだ、カーヤ」

「虚心で聞いてね、瞳ちゃん。本当は父さんと私の予定だったの。でも、もっと大切な仕事が入ってしまって。仕方ないから『お兄ちゃん』って案もあったんだけど、暗いところで音楽を聞くとすぐ寝ちゃうから駄目だし。でも、それこそ『外せない』からってことで、カー君な訳。映画の試写会だけど、関係者は場を盛り上げるためにみんな正装。私だって着たくもないドレスよ。勿論レンタルだけど。瞳ちゃん、想像するだけで冷や汗と鳥肌が立たつと思わない?数千人が入ったホールで、お兄ちゃんがタキシード着て、大鼾をかくなんて有り得ない状況でしょ?」

 私は軽井沢小劇場を打った。仕上げに笑顔を御嬢に送る。大地に隠れた太陽の代わりにプールを照らすライトを浴びて。当然、事実は真実と異なる。

「御嬢、ごめんな。黙っているつもりはなかった。カーヤとの行き違いになっちゃったけど」

「翔様、そういう事でしたら、仕方ありませんわ。私もよくあることですし、代役頑張ってくださいね」

「翔、何を頑張るんだ?」

 後ろから昇の声がした。振り返って、ウィンクする。

「ね。お兄ちゃんの代役よ。試写会の」

「僕はそういうの苦手だからな、翔、妹が粗相をしないようちゃんと見張っててくれよ」

 兄はそれだけ言い残して、泳ぎ去った。

「全く失礼しちゃうわ。誰のせいでこうなったのか、お構いなしだなんて、困った兄を持つと大変よ」


………………………


「泣いているのか?カーヤ、どうしたんだ?」

 気付くと、私はボロボロと大粒の涙を流していた。パソコンの画面どころか、部屋の様子さえ歪んで見える。

「システムエラーかな?ちょっと貸して」

 涙が止まらない私を優しくハグしながら、翔はバルーンモニターを宙に浮かべてチェックする。

「……良かった、バグでもエラーでもなさそうだ。何か辛い事を思い出したのかい?」

「この時間が永遠に止まってしまえばいいのに!」

「しょうがない子だな。普段は泣き虫じゃないのに。気が済むまで、このままでいいよ」

 とても嬉しいのに、とても悲しい。芳夜でも、カーヤでもない。ソリスキャナーによる同期の際、瞳の意識が話していた第3第4の『私』が実在するとでもいうのだろうか。自分の意志でどうすることも出来そうになかった。しかし、これが本当の、或いは本来の私なのかも知れない。私は蜂に刺された子供みたいに大声をあげて、翔の腕の中で泣き続けた。



………………………………



「駄目ですよ、先輩。いくら環先輩のお願いでも、駄目なものは駄目ですから」

「出来るかどうか、確かめてみないで、結論を出すの?」

「いえ、先輩。私が心配なのは、お金の事。猫パソコン、通称『タマちゃん』が、……ソリスキャナーとフォトンステージが内蔵されたKAGUYA1.0プリインストールモデルが、一体、幾らするか知ってるんですか?」

「芳夜、私が知らないとでも?」

「……なら、いいですけど」

 焼き鳥の屋台、おじさま達に混じって、紅二点が場違いな会話を繰り広げていた。

「へー、そっちの別嬪さんはカグヤちゃんていうの。環さんは綺麗だし、カグヤちゃんは可愛いいね」

「わかってないね。カーヤは可愛いだけじゃない。年の割にしっかりしてる」

「トノに誉められても何も出ませんよ」

「残念だな。そうなの?」

「お、そちらさんの連れかい?イヤー、それは失礼しやした」

 そう、私と環先輩はダブルデートならぬダブルアフターの最中。トノにこんな場末の屋台なんてどうかと思っていたけれど、案外気に入ってもらえたみたい。ここは、先輩の連れが案内してくれた。倶楽部姫には、たまにしか来ない先輩のパトロン、でも常連さん。

「でも、どっかで聞いたことのある名前……あ、そう、あのカグヤや。ええっと……」

「ツキノミヤ・カグヤ」

「そう、それ、ツキ……何とかカグヤ」

「この子の知り合いが関係者なの。だから、お願いしてるの」

「カーヤ、もしかしたら、彼氏?あ、いや、だからどうというのはないよ」

「いえ、別に彼氏とかじゃなくて。……だから、困るんです、先輩」

「え、私?」

「そうですよ。環先輩」

「で、環サン、幾らするの?そのパソコンは?」

「あれ、源サンも知らないの?」

「……『源サンも』って先輩」

「まあまあ、さっき話したスペックなら、確か……1,000万位だったかな」

「え、そんなにしたんだ、これって」

「『これ』って、……カグヤちゃん、あんた持ってるの?」

「ええ。先輩には内緒にしてたけど、翔から『新製品のテスター頼むから』って」

 トートバックから純白のノートパソコンが顔を出している。

「あと『取扱注意』とか聞いたかな?」

「ええ、そうそう。……で、何故トノが知ってるんです?」

「昔、彼の父親と知り合いでね。個人的にも興味があるから、詳しくもなる」

 トノはグラスの日本酒を飲み干した。

「でも何がパソコン一つにそんなけったいな値段がつくんかの?」

「カグヤちゃんが手にしているものは、天然ダイヤモンドが付いている」

「ダイヤですって?どこどこ?」

「フォトンステージの光源に使われているから、バラバラにしないと見えないけどね。精度や機能は落としてあるにせよ、あのソフトウェアにソリスキャナーとフォトンステージが搭載された端末がバナナのたたき売りみたいな価格で手に入れられる。随分思い切った事をしたものだ」

「1,000万が安いですって!一体誰が使うっていうの?」

「そうさの、まずはお医者さんかの」

「まあ、医者は金持ってるし、納得できるわね。源さん」

「私、窓拭きとかどうかなって」

「いい線を突いてきたね、カグヤちゃん」

「そうですか?」

「いわゆる3Kの仕事が該当するってところ。さらに突き詰めれば、より危険で高度な人間には出来ない事さえも可能にする。放射能や毒物に汚染され、生身の人間が生存さえ不可能な環境でも、専門的な技術を持つ人間に代わって作業ができる」

「原子炉内や宇宙空間、深海……」

「……それに戦争やテロ行為」

「勿論、市販されている端末には、そこまでの機能や精度は無いだろうし、一部のコアなマニアを除けば要求される事も無いだろう。だから恐らく費用を惜しまない、一般の市場には流通していないようなハイスペックなプロ仕様のスペシャルモデルをフルオーダーで受けるつもりじゃないかな」

「そんでもって、市販品を安く出来るっつう仕掛けかいな。ふんふん、上手いやり口だわい」

「先輩、ひょっとしたら、タダで手に入れられるかもしれないですよ」

「1,000万円の『タマちゃん』を?」

「うーん……、環サン、ひょっとしなくても出来るかも知れんよ。ね、トノさん」

「ですよね、源サン」


 調芳夜の一週間休暇とバージョンアップの公表、NYANKO社の設立と『猫パソ』こと『タマちゃん』発売発表記者会見は様々波紋を呼んだ。そんな状況の下、芳夜の手でバージョンアップとディスクの初期化、カーヤの物理的消去が行われようとしていた。

 翔は芳夜の願いを一部受け入れて一週間の休暇を芳夜に約束した。が、記者会見直前のどさくさに紛れてした約束であったし、芳夜も休暇の過ごし方まで翔に言質を取らなかった。

 久しぶりに僕が実家に帰ったのは、丁度その休暇の初日だった。

「あれ?お兄ちゃん、なんでウチにいるの?」

「あ、ホントだ。家出息子のご帰宅か。……安心しろ、支店長は仕事だ」

 翔はゴルフのスイングの真似をした。

「また接待ゴルフなんだろ。ま、顔を合わせない方がお互いの為ではあるが……って『お兄ちゃん』ってまさか」

「望月芳夜です。ふつつかな妹でしたが、本日、黄泉の国から戻って参りました」

「翔、またカーヤに変な事しただろ。だからバージョンアップする羽目になる」

「昇、妹を忘れたのか?……彼女は正真正銘、ペンタゴンのゴースト、元ファイブカードのハートのエース、望月芳夜だよ」

「姿形は御嬢そのまんままだし、まああ、判らないのも無理ないとは思うけど。芳夜としては、も少し感動的な再会であって欲しかったな」

「あ、いや……ごめん」

 参った。しかし、だとしたら、以前の芳夜は一体誰だったのか。僕は煙に捲かれた。

「芳夜、お兄ちゃんに謝ってもらおうなんて、これっぽっちも思ってないよ。だって、もしお兄ちゃんの立場で今の場面に遭遇したとしたら、芳夜、どうしていいか分かんないもん」

「良かったな、昇。持つべきは理解ある妹だよ。……言っておくが、芳夜が誤解を招くような話をするなよ。俺は芳夜に変な事をしていない」

「大方、今回だ」

「ねー、カー君。いつも私にしてた変な事って、何?」

「まー、この玄関で三人突っ立ったまんま話しをするのも何だ、あっちのリビングで美味しい飲み物でも……」

 腕組みをした口撃態勢の僕と芳夜は、めったに見れない『カー君』のベタベタな誤魔化し様に思わず笑いが吹き出した。仕草と笑いのツボ、タイミングのシンクロ……いくら翔でもそこまで忠実に妹を再現できはしまい。だとすれば、翔をからかいながら、僕の手を取ってリビングにエスコートする調芳夜は、今度こそ妹・望月芳夜なのだろうか。



…………………………



 永遠に失われた時間が、今、確かな実感をもってここに存在している。家出する前の僕と翔、そして調芳夜も同じように過ごしていた。仮想人格AIのみのプロトタイプ、ソリビジョンによるボディーとAIの摺り合わせをしたテストタイプ、そして光子再構成で物質化したカラダにサルベージされたAI(?)ないしは望月 芳夜の魂が同一化した調 芳夜。

 僕は毎度毎度のこと、彼女達には当惑した。しかし今回、全く違和感や戸惑いを感じなさせない調芳夜が目の前にいる。

「……でさ、一週間休暇だって約束したけど、よくよく考えてみたらバージョンアップをするのは私だし、結局は空手形。……ねえ、お兄ちゃん、聞いてるの?」

「ん、翔が騙したって事だろう。芳夜の話、聞き漏らす訳ないだろ?」

「それでね、お兄ちゃん……」

 こういう話し始めたら止まらないところとかは、まるで妹にそっくりだ。もし、瞳ちゃんとこういう風に話せていたら、今はもっと違っていたかもな。あれから一方的に連絡をしていないけれど、もう諦めたか、呆れ果てたか、僕以外の誰かと……例えば、いや案外、翔と縒りを戻しているのかも……付き合っているかしているだろう。ところで翔のやつ、『コーヒー豆を買いに行く』って出たっきり、遅いな。

「遅いな、翔。アイツ、どこをほっつき歩いているんだか……」

「ほら、お兄ちゃん。やっぱり聞いてない。……私のお気に入りのタルトをお願いしたって……。私の奴隷君なの」

「奴隷って、アイツが?」

「そうよ。翔ったら、芳夜にぞっこんなんだから。私達この間、瞳ちゃんと会ったけど、私の目の前で、芳夜のお墓にお参りしてたわ。あの様子だと、私が調芳夜だとは知らないし、翔との仲も前と全然変わってないみたい」

「翔とはね」

「そうね。お兄ちゃんと瞳ちゃん、いいえ御嬢がうまくいってないのは、オンエアされてたしね」

「聞いてたのか?」

「前の調芳夜がね。あ、そっか。お兄ちゃん、翔から説明されてないからね。ネットワーク上を漂ってた私が、彼女をハッキングして自分の居場所を取り戻したのよ。『杉玉さん』の告白があった夜に」

 知ってる。だって……。

「へえ、そうだったのか。だから番組の最後に悲鳴みたいのが」

「そうそう。翔から聞いたけど、大変だったみたい。で、で、聞いてよ、お兄ちゃん……」



………………………………



 『静かなエレベーター』の中からずっと、あれほど嫌がっていた昇が突然帰宅した理由を俺は考えていた。

 昇とは不定期だが、かなり頻繁に連絡を取っていた。家で居場所を失い家出した昇に対して、『中学生偽装心中事件』と『旅客機爆破墜落事故』が一家の混乱の原因となった事に責任を感じ、仮にそれらが原因でなかったとしても、唯一無二となった昇と彼の父親との関係を絶やしてはならないと思ったからだ。喧嘩できる相手がいる、存在自体の有り難さを肌身で感じていた。しかし、その相手は誰でもいいとは思わない。だから俺は……。

 行きつけの店が近づいた。駐車場にロードスターを滑り込ませる。

「!」

 歩道に人。余所見をしていた訳でない。店のトレードマークにもなっている欅の大樹、大槻の陰から急に現れた。紙一重で止まる。錯覚だろうか、人影が後ろ向きに飛んで退いた気がした。

「……御嬢!」

 珍しく高校の校服を着ていた。校則、制服、出欠確認がない高校に通っているが、対外的行事の為に一応『校服』があった事を俺は思い出した。今日は平日、普通なら登校の時間だった。

「大丈夫か?」

「あ、翔様。平気です私」

 言ったそばからその場で腰が崩れ落ちる。

「言わんこっちゃない」

 車から飛び降りる。こういう時、オープンカーは便利だ。瞳はあまりの恐怖に心が現実を拒否した結果、体だけが反応したようだ。

「あれ?翔様、鞄から手が外れませんの。変ですわ」

 ランドセルではないが、飴色をした革のバックパックの肩紐を瞳は両手でそれぞれ握りしめていた。

「言っておくが、センセイの受け売りだからな。許せ」

 いつもなら俺がPTSDの発作を起こしたときに瞳にされている行為をした。御嬢は逆らわず、俺が抱きしめるがままにしていた。

「翔様、おかしいですわね。私、泣いてる。大変、校服に涙の跡がついちゃう。どういたしましょう」

「瞳、今日は学校を休んで、俺に付き合え」

 俺は自分で何を言ったのかわからなかった。ただ御嬢は恥ずかしそうに頷いた。瞳を抱いたまま立ち上がる。

「翔様、私達見られてますわ。もう立てますから……あ」

「ほら、まだ無理だ」

 小鹿のようによろけてしまう瞳を再び抱き寄せる。御嬢はなすすべがなく、吐息を漏らす。

「仕方ありません。翔様からの折角のお誘いですもの。何処へなりと」

「だから、誤解するなって……」

 腕の中の御嬢は俺の目を見てクスクスと笑った。駄目だ。

「翔様も、誤解なさらないで下さい。今日1日翔様が私の運転手をするのは、さっきの慰謝料ですからね」

「なんだ。いつもの御嬢か……ちゃっかりしている所が芳夜に」

 御嬢は長い睫毛でまばたきする。『杉玉』として本音を公にした結果、御嬢は変わったのだろうか。

「今日はお客様がいらしてるのですか?」

「……!。そうだよ」

「お邪魔でしたか?」

「運転手に断る理由はないよ。実は買い出しに来たんだ。良かったら、買い物ついでに一杯どう?」

「我が儘な運転手さん、仕方ありませんわ。でも足が」

 御嬢の膝にうっすらと血が滲んだ擦り傷。

「我が儘な御嬢様だな。ほらよっと」

「あ、何をなさいますの」

「怪我人を歩かせる訳にはいかないだろ?」

「でも、これは……」

 店に出入りする客だけではなく、出勤前の駅に急ぐ人達からも、俺達は注目されていた。中には口笛を鳴らす奴もいる。朝っぱら、珈琲専門店カフェヴェハーネの駐車場に白線を無視して停車するマージョカラーのレクサスの前で、有名県立校の校服を着た女子高生がお姫様抱っこをされながら何やらずっと話し込んでいれば、いやでも周囲の目を集める。

「どうかしたか、これが?」

「自分の足で歩きます!」

「車を停めるまで大人しくしていろよっと」

「きゃっ」

 ドアを開けずに御嬢を助手席に放り込んだ。


「いつものを500グラムと、タルトか……そうだな」

「翔様、こちらはどうです?」

「ていうか、御嬢……いつまでこうしているつもりなんだ?」

 車から降りようとしない、ふてくされた御嬢を再び抱き上げて、タルトの並ぶショーケース越しにメイド服の店員に観察されながら、品定めをしていた。

「フフっ……失礼しました。お誕生日ですか?」

「いいえ、彼は運転手。それとお客様がお見えですの」

 店員は妙に納得した様子で、細かな詮索はせずに『お勧めのタルト』に誘導する。

「翔様、ゲストの好みはいかがですか?」

「ゲストね……この際ゲストは無視して構わない。御嬢の好きにしてくれ」

「よろしいのですか?」

 御嬢は知らない。俺が芳夜と瞳の表情を重ねて見ている事を。調芳夜の肉体は御嬢のコピーなので、精神の制約下にない本能はオリジナルを踏襲する。趣味は芳夜だが、趣向は御嬢というわけだ。

「翔様、これは?」

 偶然だが、気になったタルトが同じだった。宝石類をひっくり返したような鮮やかな色彩。

「綺麗……。まるで宝石類をひっくり返したような色」

「じゃあ、これをワンホール」

「翔様、よろしいのですか?」

「いいよ。……あと、半分ずつ別々にして包んで下さい」

「畏まりました」

 カーゴパンツのポケットに手を入れる……しまった。いつもの財布は亜望丘に忘れてきたらしい。仕方なくポケットから黒いカードを取り出し店員に渡す。

「支払いはこれで」

「あ……失礼しました。あちらで少々お待ち下さい。本日のコーヒーとタルトをお持ちします」

 ショーケースの店員が下がると、ギャルソンが脇から現れた。

「どうぞ、こちらに。ご案内いたします」

 店員がケースからタルトを慎重に取り出し、裏で包んでいる間コーヒーでも飲みながらタルトをフォークでつついていればいいらしい。案内された席にお姫様抱っこの御嬢を下ろし、俺も椅子に腰掛ける。

「翔様、この場所、いつ来ても予約席の札がありますのに、どうして?」

「カードで支払ったからさ」

「あのカード……、もしかしたら、あれがブラックカード?……そういうことでしたのね」

「使うつもりはなかったけど、あれしか持ち合わせがなくてさ。良かった、さっきのが決済でなくて」

 コーヒーを一口含む。ん、いつものカップとは別物だ。

「カードは、いつからですの?」

「NYANKOを発表してからすぐに。届いたのは今朝。わざわざ亜望丘に担当者が来た」

 御嬢がフォークを置いた。

「!」

「?」

「翔様……」

「どうした?」

 俺のカップの隣にフォークにさえ触れていないタルトがある。御嬢にロックオンされていた。

「……ああ、タルト。俺はいいや。残すのももったいないし、嫌いなら下げてもらうけど、好きなら御嬢にあげるよ」

「嫌いだなんて……翔様、大好きです!」

 あー、タルトがね。おいおい、俺の目を見つめるなよ。おっと、忘れるところだった。俺、買い出しに来ただけだ。

 芳夜の怒った顔が、御嬢にだぶる。通りがかりのギャルソンに目と指で合図する。するとタンゴのステップでやって来た。

「コーヒーのお代わりでございますか?」

「いや、御嬢がこのタルトを大層お気に召された。これもワンホール包んでくれ」

「はい、承りました。先程の品物と合わせて、サインをお願いします」

 サインをしながら、先程の御嬢の言葉の意味を考えたが、途中で止めた。御嬢の戯れ言がわかったところで俺の何が変わるというのか。色気よりも食い気、それでいい。一種の修好状態。これ以上の何かを求めようとするなら、俺は御嬢に対する負債を償還しなければならないと思い続けていたし、少なくとも今は完済する当てはこれっぽっちもなかった。


 翔様の運転するオープンカーに乗って、どことも知れない場所に連れ去られる事を私は期待しなかった訳ではない。ただ、その考えはカフェヴェハーネの駐車場から出たところで、あっさり打ち消された。

 車は一路目的地へと向かった。道中と言っても5、6分なのだが、翔様は私を一瞥さえしない。でもそれはそれでいい。わずかの時間だけでも翔様のそばに居られて、彼の横顔を独占できるのだから。

 自分の気持ちに素直になるのがもっと早かったのなら、芳夜は死なずに済んだのかも知れない。親に定められた将来と自分が望んだ未来が偶然にも一致して、決して揺らがないと信じ慢心していた頃、芳夜に翔様への淡い気持ちを打ち明けた時に私の気持ちが本物かどうか芳夜は疑心暗鬼だったから、芳夜は翔様との関係を隠して『応援するから』と言ったのだと閃光が脳裏に走った。

 芳夜は私と翔様が公に将来を約束された関係だと知り、更に翔様との関係が後戻り出来ない所まで来てしまったあと、翔が血を分けた双子の弟だとわかり、どれだけ動揺したことか想像に難くない。そして私が社会的にも倫理的にも正当性のある立場にも関わらず、はっきりとした意思表示をしないために、真綿で首を絞める苦しみを芳夜に与え続けて来たに違いない。八方塞がりの芳夜が苦しみから逃れ、翔と永遠に結ばれる為に劇薬のような手段を選んだのは、当然だったと今は思える。そしてその思いを共有している翔だからこそ、なりふり構わず私を騙して躰のコピーを取り、芳夜再生を願い叶えた。

 『御嬢』とは呼んでも、『瞳』とは呼ぼうとしない理由が、そして翔が私の思いを知っていてもそれに答えようとせず曖昧にしてしまう理由が、心に重くのしかかる。……芳夜、貴女にはかなわないよ、私。大粒の涙が目に溢れた。校服にハタハタと落ちる。

 と、ハンカチが差し出された。

「これで拭けよ。校服に涙の跡が付く」

 翔の優しさが私の心には痛い。でも素直になれた。

「ありがとう」

「全く、いきなり勝手に泣くなよ。御嬢も、芳夜も」

「翔様が芳夜を泣かせたの?」

「何だよ。疑ってるのか、俺を?」

「火の無いところに煙は立ちません」

「火に心あたりが無いではないけどさ」

「ほら、ごらんなさい」

「おいおい、誤解するなよ。……精神の制約下にない本能はオリジナルを踏襲する。趣味は芳夜だが、趣向は御嬢、ということさ」

「本能?私の?」

「芳夜と違った方向を向いていたら、困った事にはならずに済んだだろうな。同じベクトルだから、増幅される」

「翔様、『困った事』というのはどういう事ですの?」

「御嬢には……、少し刺激が強いからな。例えば『俺がオットセイなら良かったのに』ということ」

「翔様はオットセイになりたいのですね。……変な翔様」

「御嬢が今より少しでも、俺を嫌いになってくれれば……」

「それは嫌です。私が翔様をどう思うのかは、私の自由ですもの」

「ヤレヤレだぜ。で、御嬢は俺をどう思っているんだ?」

「翔様の意地悪。もう知りませんから」

「さ、つきましたよ、御嬢様」

 車はマンションの地下駐車場に入った。



………………………………



 翔が買い出しに出たままなかなか帰らず、小腹を満たすために冷蔵庫を開いて、私は悲しくなった。一人暮らしのパパは随分質素な食生活をしている。人の背丈もある庫内はガラガラだ。

 その缶ビールに手を伸ばそうとしたら、兄の目から出たビームで背中を貫かれた。

「カーヤ、何かなそれは?」

「何かの缶。ジュースじゃないかな?」

「わかってるくせに……駄目だよ。それはビール」

 すごすごと缶ビールを元の位置に戻す。

「いいじゃない、お兄ちゃん。パパもいないし。それに一二本無くなったところで、誰も気付かないわ。堅いこと言わないでさ……」

 言いかけて背後に気配を感じ振り返ると、翔がいた。

「あれ?帰ってたの?」

「みんな揃うのは久しぶりだから、こっそり入った」

「みんな?」

「あ、いけね。玄関先に御嬢を待たせたままだった……昇、けじめはちゃんとつけろよ」

 兄は逃げ出したかったに違いない。がっくりとうなだれた。

「芳夜、オーバー過ぎるくらい驚けよ。な、演出、演出だから」

「何も御嬢一人にそこまでしなくても……。後でじっくり理由を聞かせてもらうからね」

 で、その1分後。

「えー、瞳ちゃんどうしたの、その格好?」

「……久しぶりだね。瞳ちゃん」

 髪の長さと服装でかろうじて判別できるが、知らない人が見たらどちらが私でどちらが御嬢か判別は不可能に等しい。

「全校集会で議長をする予定でしたのに、翔様に拉致されました。ですから今日1日、翔様とご一緒させていただきます」

 カチンとキた。できる限り抑揚を押さえて、話したつもり。

「ふうん、それでお姫様抱っこってことなんだー」

「はい」

 言外に『何か問題でも?』という御嬢を見かねた翔がフォローする。

「事故というか、脚に怪我をしているから」

 私の前を過ぎる御嬢の膝小僧に真新しい絆創膏。翔が『姫』をソファーに下ろしかけた時、ショートにした髪を翔の顔にワザと当たるように首を振りながら御嬢が瞬間翔にガンを飛ばしたのを、私は見逃さなかった。

 翔は何かに思い当たったのか、それまでの乱暴で雑な扱いを急に馬鹿丁寧に、羽毛布団からホコリをたてないくらいの慎重な手つきで御嬢の校服を支えていた腕を抜いた。

「翔様、ありがとうございます」

「気にするな。あ、いや……カフヴェハーネで轢きそうになった」

「で、揉み消し工作なのね」

「議長誘拐事件で大騒ぎだそうだ、学校は」

「なんで、お前がわかるんだ?」

 昇はケイタイを見せた。

「ファンの子達からのメール。瞳ちゃん、連絡したほうがいいよ」

「え、でも……」

「『まさかズル休みなんて言えないし』……?じゃあどうするの、御嬢様?」

「芳夜、そういきり立つなよ。俺が電話すれば、済むことさ。御嬢、生徒手帳を出して学校の連絡先を教えてくれる?」

「翔、またあなた一人で泥を被るの?……ホント、お人好しね。付ける薬も無さそうだし……それよりタルトは?」

「台所。手提げは、御嬢のお土産だから開けちゃ駄目……。さてと」

 翔は御嬢から渡された生徒手帳片手にスマホを手にした。

 交通事故で軽い怪我をしたが、念の為病院で検査を受けている事。家族には連絡済みであるので問題無い事。行事のあった高校に連絡が遅れたのは治療の為で、大事をとり一日安静にするよう医師の勧めがあった事……。

 一通りの事情を理路整然と翔が説明してから、御嬢に替わる。そして、同じ学校の生徒同士かつ駐車場内の事故であるので、大袈裟にする事をお互いに望んでおらず、双方の保険会社が間に入り、示談で話がついたので学校内の扱いについても穏便に済ませて欲しい旨を担任と教頭に伝えて電話を切った。

 シナリオは翔が作り、後付けながら根回しをボディーガードの日向野に依頼する事も忘れなかった。

「これでよし、と」

「相変わらず、こういう事の手回しはいいよな」

「全然良くない!」

「カーヤ、どうしたの?」

 なんでここまで鈍感?天然な御嬢様でなければ、張り倒してるところ。でも、翔は私だけを見ていてくれた。

「タルトといつものコーヒーで機嫌を直してよ。カーヤが好きなのを買ってきたからさ」

「うん、私タルトを分ける!」

 ソファーの両端に御嬢と昇を残して立ち上がり、翔と腕を絡めてキッチンへ。リビングから離れつつ、翔が囁く。

「いいのか?二人きりにして」

「自分達の問題でしょ。何とかするわよ」

「どうかなー、さっきアイツ、バルコニーから逃げ出しそうな雰囲気だったぞ」

「お兄ちゃんの太ももに手を置いてなかったら、多分ね」

「やれやれ」

 5分程の時間、兄と瞳ちゃんは一つのソファーにいながら、一言も発することはなかった。緊張していたのではない。お互いにどうでもよく思っていたのだ。翔やカーヤの記憶から知ってはいたが、かなり重傷、というより危篤。

 トレイに乗ったコーヒーはネーム入りマグカップに波なみと、タルトは私の主観で豪快にカットされて、樹齢800年以上という花梨のテーブルに移動した。

「誰だよ。これ分けたのは?」

「私よ。だって、お兄ちゃん、バターやお砂糖タップリのタルトは、苦手でしょ?」

「じゃあ、そっちのは何だよ」

 昇が指差す先には特盛1、並2、試食用1。特盛りは、四分の一ホール。試食用は、自立するのが不思議なくらいに薄く、円周部分にあたる所の幅が1センチとない。

「私達のよ」

「大きいのは、カーヤのだろ。俺は適当でいい」

「私も」

「ほら、ご覧なさい。多数決で『異議なし』じゃない」

「カーヤ、いいのか?『バターやお砂糖タップリ』だぞ」

「ビタミンと食物繊維タップリだから問題ないの。ね、瞳ちゃん?」

「……そうですわね」

「ふん、よってたかって、僕を除け者にするんだ」

「昇、安心しろよ。まだあるから」

 兄は涙目になった。

「翔、やっぱりお前はいいやつだ」

 ツボにハマるところは一緒、四人同時に笑い出した。3年前と何一つ変わらない雰囲気なのに、それぞれ置かれた立場は全く異なる。

「カーヤ、役者も揃ったことだし、そろそろ始めようか?」

「翔、例の決着は?」

 私は兄と瞳ちゃんを目で指した。

「じゃあ、一言だけ」

 翔は兄のソファーに近づいた。

「立てよ。昇」

「何だよ、改まって」

「今日お前は偶然、戻って来た。それまで何をしていた?」

「何って、家出さ。他に何がある?」

「ふざけるんじゃねえ!」

 翔は思いきり兄を殴った。ソファーに叩きつけられた兄は何が起きたのか理解できない。瞳ちゃんは殴られた本人以上に驚いたはずだが、立ち上がった兄と翔の間に割って入る。

「なんだよいきなり」

「翔様、乱暴は止めて下さい」

「お前はまだわからないのか!」

 翔は瞳ちゃんの腰を抱き寄せ、容赦ない二発目を昇の腹に打ち込む。兄は前のめりに膝をつく。

「もう止めて、翔様。お願いだから!」

 瞳ちゃんは翔を羽交い締めにして止めようとする。が、翔は振り切った。瞳ちゃんはソファーに投げ出された。

「カーヤ、どうして止めようとしないの?」

「『けじめ』よ」

「これが、『けじめ』なの?ただ傍若無人に昇君を殴っているだけじゃない!これ以上するなら、いくら翔様でも許しません」

「昇、お前、まだわからないのかよ!」

 翔は顔を起こした兄に怒鳴りつけた。

「お前の事をこんなに心配してくれる人に、お前は何をした?お前は唯一の肉親の父親と、自分がどんなになってもかばおうとする御嬢に何をしてきたんだ?奇跡を祈り待つ身の辛さを一番わかっているお前が」

 翔は最後の拳を兄に振るった。最後だというのは私にはわかっていた。

「最後のは、俺への裏切りの分だ」

「昇君が翔様を裏切ったの?」

 兄は瞳ちゃんに詰められても、何も言わなかった。否、口には出来なかった。

「ごめんなさい。ごめんなさい……」

 兄は瞳ちゃんに土下座して謝り続けた。私と翔が知った理由では、兄は瞳ちゃんに謝ることしか出来ないはずだ。

「昇君、どうして謝るの?ねえ、答えてよ」

「御嬢、訳を聞くな。もう終わったんだ。芳夜、そういう訳だから、今日だけ俺は御嬢に貸切だ」

 翔は私にウィンクして許しを乞う。

「仕方ないわね」

 翔は先ほど放り出した御嬢を今度は抱き起こす。芳夜、今日くらい許してあげなさい。今にもキスしてしまいそうに二人は見つめあう。

「……翔様?」

「御嬢、俺に抱かれるのは嫌いか?」

「芳夜、ごめんね。……翔様、私は翔様と芳夜を全て許した訳ではありません。過去に戻れないことも、過去を取り消せないことも、今は翔様に受け入れてもらえないことも知っています。でも、今日だけは約束……あなたは私だけのもの……どうしようもなく淋しいの。だから忘れさせてください」

「バカだな、御嬢」

「はい。……もっと強く抱いて……」

 瞳ちゃんはそれ以上声にならなかった。白い校服に涙が落ちるのをお構いなしに、わんわん泣いた。翔はしゃくりあげる瞳ちゃんの背中を優しくさすり、強く抱き締めた。瞳ちゃんが落ち着いた頃合い、私は兄の肩に手を差し伸べた。

「お兄ちゃん、翔は『あの事』を怒ってないよ。お父さんの代わりに叱っただけ。不幸な出逢いだったって。翔はね、ミチルが大好きだったから、その落ち込みようったら見てられなかったよ。お兄ちゃんは罪な人だね。二人とも振っちゃうんだもん」

「迷惑かけたな、芳夜」

 兄は寂しげに微笑んだ。口元に血が滲んでいた。

「お兄ちゃん」

「なんだい、カーヤ」

 私は抱き合う二人を横目で見る。翔はこちらに背中を向けていた。

「今だから言える、内緒の話があるんだけど、耳貸して」

 兄の顔が近づく。

「実はね、翔が現れなかったら、私、お兄ちゃんが好きだったの」

 突然の告白に驚く兄と向き合う、顔を両手で挟んでキスをした。瞳ちゃんに見られたって構いやしない。兄は戸惑ったが、拒絶しなかった。

「だったら、もっと前に言っておけばよかった。でも、これで気持ちの整理がついた……あ、いや、瞳ちゃんとの話だけど」

 後にして思えば、兄はこの時決心したのかもしれない。

「で、翔を慰めたのか?」

「違うわ。お互いに欲しかったの……なんでお兄ちゃんにこんな事話さなきゃいけないの。今更よね……でも私じゃないの、欲しかったのは……」

 複雑だった。翔を欲しいのは本当だ。しかし、私の体がそれを求めたと言った方が正確だろう。私の体……つまりは瞳ちゃんが望んだ事。翔自身も気付いていないが、彼はイクときに彼女の名を呼んで果てていた。

「翔、いつまでそうしてるつもり?そろそろ本題に移りましょ」

 翔は陶然とした御嬢をソファーに戻すと、お茶の後片付けを始めた。

「翔、これから出掛けるのか?」

「亜望丘で本日のメインイベント」

「メインイベント?」

「私の……KAGUYA2.0へのバージョンアップ」

「昇、悪いけど、片付けを手伝ってくれ」


 妹のバージョンアップの為に、僕らは亜望丘のラボに移動した。当人は緊張感無いこと甚だしく、残りのタルトを冷蔵庫に入れておけばいいのに、妹は一切れ残さず持ち出した。

 車中、環先輩の押し付けがましいおねだりを翔に伝えたら、あっさりOKが出た。あまりの呆気なさに口が塞がらない僕に翔は『広告費としては安いから』と言ってのけた。

「だって、バイト先には結構VIPが出入りしてるんだろ?」

「まー確かに。芸能人とかもよく来るし。これオフレコなんだけど……」

「ああ、お兄ちゃん、それって荒城廉太郎と明星希と葉月陽子でしょ?」

「芳夜、有り得ない組み合わせでしょう?」

「何で知ってるの?」

「だってさ。な、カーヤ」

「社長がラジオの一件を手打ちするの為に接待したの。……それがね、葉月陽子が入り浸っているお店なんですって」

 秘密が暴露された直接の理由が判明して氷塊が背を滑り落ちる感覚と共に、安堵感が顔を覗かせる。

「接待出来る場所……料亭か何かですの?」

「まあ……そんなところ、かな」

 疑問を呈した瞳ちゃんに翔は僕の代わりに答えた。

 

 ラボについた僕ら……正確には僕と瞳ちゃんは、いつもとは違う様子に驚きを隠さなかった。

「翔様、泥棒でも入ったのですか?」

「ははーん、さては僕らに片付けさせようと……」

「いや、これは……」

「……私がしたの」

 僕らの間に空っ風が吹いたような気がした。

「何よ?」

「いや、何って、カーヤが一人で、これ?」

「翔様、駄目ですよ。カーヤに濡れ衣を着せては」

 そう言いたくなるほど、酷い散らかりようだった。

「確かに我が妹には不器用なところはあったが、まさかここまでとは……」

 妹は裸足でガラクタを掻き分けながら先を行く。僕らはムカデ競争よろしくスリッパで航跡をトレースする。

「まるで巨人になったみたいだ」

 サーバーやタワー型パソコン、基盤むき出しの装置の合間にケーブルやドラム式延長コンセントが雑然と縦横無尽に走っている。

 「街のようね、翔様」と言う御嬢は、さもそうしているのが当然とばかり、相変わらず翔にお姫様抱っこされている。カーヤは目的地らしき場所に向かって進んでいるはずなのだが、右往左往ばかりしている。

「あ、カーヤ、そっちは駄目だ。……違うよ、そこは右……」

 翔から声がかかるたびに脚を停めつつ、散らかっていない一角にたどり着いた。

「なんだ、ソリスキャナーの前だ」

「あら、水槽が増えてますわ」

 瞳ちゃんが指差す先には酸素バーで見かけるカプセルが3つ並んでいる。

「素材は揃った。あとは入れ物、と」

 翔は姫をカプセルの一つに下ろして、水槽の裏に用意してあったジュラルミンケースを引き寄せた。

「NYANKOのスペシャルスペック、KAGUYA2.0専用機、開発コード『鵺』」

「ヌエ?」

 翔がケースから取り出したそれは、漆黒い巻物に見えた。そしてもう一台、ホワイトカーボンの外装が美しい従来の専用機。

「そうだ。コンセプトを名前にした。」

「私のたっての希望。私の事は私が決める。翔がいくら凄腕でも、細かな癖や好みを反映するのは不可能だし。勿論、システムのアーキテクトは踏襲してるけど。あれを一から造り出すなんて、私には無理ムリ」

 芳夜は両手を広げて『降参』してみせた。

「まあ、それは確かに。でも、『素材』って何だ?まさか……」

 芳夜は、OSドラゴン・ダブルビジョンを起動させる。芳夜の目の前にバルーンディスプレイが浮かび上がる。翔は芳夜が起動させたのを確認してから、巻物を開いた。

「その『まさか』だよ。俺達4人が同時にソリスキャナーに入る。ヌエはある種のキメラでありフュージョンなんだ」

「人格は芳夜、体は私……」

「それと残された3人の芳夜との記憶。芳夜が生活を営む為には、前バージョンでは欠けていた部分が多過ぎる。だから定期的な同期が必要だった。version2はその点メンテナンスフリーだ。生まれてから死ぬまで」

 翔の開いた巻物は白い和紙のようで、何も書かれていない。翔は白紙の部分に両手を置いた。すると、紙の上にキーボードが浮かび上がる。スイッチ類はなかったし、触れてもいない。掌紋認証で起動するようだった。

「え?カーヤは死んでしまうの?」

「これは、私も翔にも変えられない自然の摂理だから。データ化したメンテナンスフリーの光学式肉体再構成システムは万能の神を造り出せない。だって、元々は生身の人間だから」

「つまり、調芳夜は瞳ちゃんのクローンだからってこと?」

「御名答」

 翔は僕に答えた。手元は見ずに操作を始める。シートキーボードから手を浮かせる、と、キーボードの立体映像が翔の手に追随して宙に浮く。そして画面が翔の前の空中に現れた。

「でも変じゃないか?何で芳夜がソリスキャナーに入るんだ?」

「version.1の記憶を私に反映させる為に。だからカーヤは消されるのではなくて、生まれ変わるの」

「優しいね、カーヤは」

「いや、そうじゃないよ。御嬢」

「カーヤ、違うの?」

 瞳ちゃんは芳夜に問うた。芳夜は沈黙した。少し間を置いて翔が口を開いた。

「必死なんだ、生きることに。そして、俺達が失わざるべくして永遠に失った代償として、芳夜を求めているから」

「……ねえ、翔。何か小難しい話はさ、後でゆっくり聞いてあげる。だから早く始めましょ」

 画面の眠り猫が目を覚まし平板の画面から飛び出した。黒猫は別の立体映像として翔の肩に乗った。この猫は……ムルル。

「そうだな。ああ、前のソリスキャナーは液体に浸かる必要があったけど、新たに開発したフォトンスキャナーはカプセルに寝ているだけでいい」

「ムルル?」

「翔様、まさか」

 と、何処から現れたのか、翔の足下に本物のムルルが擦り寄っている。僕と瞳ちゃんの開いた口が塞がらない状態でいるのを見かねて、翔が補足した。

「目前の画面も、キーボードも、ムルルもすべて、新しいフォトンスキャナーで取り込んだものさ。この通りムルルや周辺機器も取り込めるところが見た目として最もちがうところかな」

「カー君、説明はそれくらいにして、ほら、瞳もお兄ちゃんもカプセルに入って」

「服は?」

「そのままでいいの。あとは勝手に読み取るから。ほら、みんなカプセルに入った?閉めるわよ……お兄ちゃん手を出さないの、私だけはあの水槽に入るから裸になるの!いつまでも女々しいわね、お兄ちゃん、妹の……瞳ちゃんの裸を見たいんだ」

「昇、機械の説明が聞きたいなら後でじっくりしてやるよ。今はカーヤの言う事を大人しく聞いてろ。ムルルはむこうに行ってなさい。大好きなイワシのお頭付きもあるから」

「わかったよ」

「翔様、後ほどゆっくりと」

「そっか、今日一日は瞳ちゃんのものだったんだ、俺……はいはい」

「じゃ、みんな始めるわよ」

 そして僕らはカプセルの中で眠りについた。


 ……「カー君、カー君てば」

 理屈でわかっていても、現実味がないってことは沢山ある。ソリスキャナーやフォトンスキャナーによる同期の際、目的にはないデータの読み込み、被験者へのフィードバック、それに同期中に被験者が体験する夢物語、それらの相互干渉はこのシステム唯一の難点……副作用と言える。

 カーヤや瞳のログや証言とシステム構築をする際の推測から粗方わかっていても、実際とはズレがあったということか……。

「カー君、カー君ってば」

「なんだ、芳夜か」

「『何だ』はないんじゃない。『アッチに行ったら、確かめたい事があるから、起こしてやる』って息巻いていたのは何処の誰だったのかしら?」

「覚えていてくれたのには感謝する」

「はぁ、それだけ?」

「それだけだよ。記憶の連続性と時間の非遡及が確認できた……」

「ホントそれだけ?……寝覚めの、キスは?」

「ハイハイ、……いいのかな、此処って実態がない意識だけの世界だから、誰しも他人の意識を共有出来るんじゃないかな?」

「四の五の云う口は黙らしてあげる」

 そう、芳夜は俺達以外の存在はどうでも良かった。体の感覚はない。俺は芳夜に口づけされていた。

「アーッ!芳夜だけズルーい」

「カーヤ、なのか?」

「チッ、いたの」

 芳夜の舌打ちをカーヤは無視した。

「酷ーい、カー君までカーヤの事忘れてしまったの?」

「そんな事はない。断じて無い」

「翔様は、この世界の感覚に慣れていないだけですわ」

「瞳……御嬢」

「カーヤ、お兄ちゃんと『あのコ』は?」

「さっきまでカーヤと一緒だったけど、……わかんないや、どっか行っちゃった」

「これだから……もう仕方ないわね」

「翔様、『あのコ』はどなたですの?」

 芳夜がやきもきし始め、カーヤが呆れている。

「ミチルだよ、御嬢」

「でも、どうしてですの?同期中なのは私達4人のはずですのに」

 芳夜が耳打ちする。

「……翔、後で記憶をいじったほうが」

「いや、その必要は無さそうだ……御嬢、実は今迄黙っていた事がある。ミチルは昇のクローンだよ。叔父さんの為に俺が造ったんだ。ただし、彼女はカーヤにはなれなかった」

「昇君からカーヤを?」

「そうさ、彼女は失敗作だ」

「誰が失敗作なの?」

「僕ら、関係ないんだけど」

 いつの間にか、昇と美智瑠がいた。

「何処から湧いてきたんだよ」

「翔、人をゴキブリ扱いするなんて、酷ーい」

「人聞きが悪いことを言うなよ。誰がゴキブリなんだ?」

「あー分かった、分かった。俺が悪いんだ、俺が」

 芳夜に袖を引かれて、輪から外れた。

「カー君、みんなの中の芳夜が集約して、私になってゆくんだね」

「そうだな」

「でもね……、ううん、何でもない」

 芳夜が思う『自分』と親しいとはいえ他人が思う『自分』は当然異なる。それを承知の上で、カーヤを残し、芳夜が選んだ被験者から彼女のエッセンスとも呼べるものを集約しようと考えたのは、他ならぬ芳夜自身だ。

 芳夜がソリスキャナーによって読み込まれた状況では、芳夜自身の意思がバージョンアップの最終実行コードとなる。

「迷いは捨てろ。芳夜自身が決めた事だ。後始末が必要なら俺が片を付ける。前と同じように……」

「ありがと、カー君。やっぱりカー君はカー君のままでいてくれる。例えカーヤが姿形を変えたとしても。……うん、私、もう迷わないよ。生まれ変わった芳夜……私は、昔や今と同じく翔を……」

「昔も未来も変わらない。芳夜、愛してるよ」

 デジャブ……同じ言葉だという確信があった。『前と同じように』とは、あの時の事だ。失われた記憶は俺自身の中に存在している。でなければ無意識に出るような言葉ではない。

 思考の深淵に墜ちて往く俺を、遙か彼方から誰かが呼んでいる気がした。



………………………………



 まな板と包丁が奏でるリズム、葉物の野菜を手で千切る音、それからフライパンで何かが焼ける……というより、焦げ付き煙が出ている……しまった、寝坊した。

 俺はベッドから文字通り飛び起きて、そのままキッチンへ。換気扇が回っているはずなのに、天井付近に煙が漂う。キッチンの前には芳夜。

「ごめん、カー君。またやっちゃった」

 エプロン姿の手元に置かれた皿に、真っ黒なベーコンエッグとおぼしき物体がのっている。卵の殻と余りのベーコンがまな板のあたりに散乱していた。

「次はうまくいくさ。手伝うよ、一緒にしよう」

 ふと彼女の顔を見る。ベーコンエッグを焦がしてしまう、そんな芳夜が愛おしい。

「みんな心配してたよ。特に瞳ちゃん」

「何で?」

「だって、同期が終わって、カーヤが起動しても、カー君たら目を覚まさないんだもの」

 流しにフライパンを置き、天井から吊した別の物を手に取る。

「疲れて眠っているだけだったから、お兄ちゃんに運んでもらったの」

 芳夜が使った残りのベーコンをフライパンに放り込みIHの『火』を入れる。

「で、二人は?」

「お兄ちゃんは、『バイトだ』って出たっきり。瞳ちゃんはカー君と一緒に寝たよ。はい、卵」

 カーヤから受け取り、2つずつ2回、計4個、ベーコンの隣に片手で割り入れる。

「いかん……全く記憶にない」

 白身が泡立つ。

「そういう事なら心配ないよ。カーヤが二人の間で見張っていたから」

「じゃあ、御嬢はさっきまでいたのか?」

 黒い物体の載っていない皿にベーコンエッグを盛り付ける。

「うん、そうだよ。『一緒に朝ご飯食べよう』って誘ったんだけど、どうも添い寝したので胸がいっぱいだったみたい。カーヤの入れた紅茶だけ飲んで学校に行ったよ」

 御嬢の瞳には大変な冒険だったに違いない。サラダは……まあ何とか食べられそうだった。

「そうか……。カーヤ、そっちの籠からフランスパンを取って」

「切らなくていい?」

「手で千切ればいいさ。さあ、出来た。冷めないうちに食べようか」

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