08.過去からのログオフ

あいつと一緒にするのは、なんていうかな、そう、ビンビンに刺激してくる感じがして、スッゲー気持ちがいいんだよね。俺は女じゃないからわからないけど、オーガズムが続くっていうあの感じに近いと思う。

はあ?

KAGUYAと“何か”あったかって?

あったらどうだっていうんだよ?

あー、期待を持たせちゃったみたいで悪いけど、マジな話で一切ないね。だってさ、……おっとこれからはオフレコだぜ。KAGUYAにはすぐにでも結婚していい男がいるよ。意外とあんたの身近にさ。……だろ?わかったよな?

(荒城廉太郎へのインタビューより)



 こんばんは、カーヤだよ。

眠れない夜を過ごす君も、眠りたくない今宵のために聞いているリスナーの君も、とことん付き合ってちょうだいませませ。

 まずは先週の宿題の添削から、お題は『一日何回キスできますか?』って、彼氏や彼女がいない独り身ちゃんには、飼い犬でも隣りのウチの猫でも、お気に入りのフィギュアやお人形でも何でもいいよ。許す。カーヤは許す。

 おっと早速レスが来てるヨ。何なに、「犬はお姉ちゃんに、猫は弟に取られてしまいました」

 あちゃー。仕方ないから君に私の壁紙を返信したぞ。それと、ちょっとだけサービス……あのぅ、私とキスしたい人は?

 ……うわ!ドバッと来てるヨ。慌てるスタッフ、うなるサーバー、嵐のように怒濤のメールが押し寄せるぅ。だめ、そんなに焦らないで。大丈夫、ちゃんとみんなに返信するから。

 あ、そうそう、カーヤはね……回だよ。ウフフ。好きな人とは毎日したいんだ。私が誰とキスしているかだって?

 そ・れ・は……ヒ・ミ・ツ。じゃあ、長くも短い夜の始まりはこの曲から、……KAGUYAの曲で『君とキスしたい』

(「カグヤの気持ちいいコトやめられない」調 芳夜がMCを務めたラジオ番組より)



 仕事、仕事、仕事……今夜も、仕事。

 翔が私を相当タフに造ってくれたおかげで、私がすごく元気でいられるのには感謝。でも、ここのところは忙し過ぎて、仕事やメンテナンス以外に言葉を交わす暇さえないのには、うんざり。

 いくら“血気盛んな(と希さんが言ってた)”年頃とはいえ、生身の翔には結構こたえるみたい。スタジオの控え室でうたた寝を始めた翔の顔を私が眺めていたら、希さんが咳払いをしながら入って来て、「控え室だからって、まずいよね。それ」と一言。

「これが?カーヤは翔の寝顔を見てただけ」

「うーんとね、カーヤが今してるは、膝枕っていうの。翔から教わらなかった?」

「ううん“これ”は翔の枕で、カーヤの枕は翔の二の腕だって。他の人とは違うみたい」

「カーヤ、そういう事は仕事場では禁止」

「どうして?好きな人にしたらいけないの?あ、わかった。希さんジェラシーを感じてるんだ?」

「どれも違う。とくに最後のは絶対ありえません。……どこに隠しカメラやマイクがあってもおかしくないからよ。カーヤも知っての通り、今まで揉み消してきたけれど監禁されたり、ハッキングされたりしたのは一度や二度でないでしょ。関係者だとしても疑わなければ、身を守れないでしょ。昨日だって色紙にマイクを仕掛けられて、新曲の打ち合わせ内容が流出しそうになるし。日向野から、ガイガーカウンターやら金属探知器やらを『用意したほうがいい』なんて言われる始末だし。カーヤ、あなたは自分が置かれた立場を自覚なさい。注意しすぎていけないことはないのよ。その為に“マンションごと”家を買ったんだから」

 希さんのお小言は、翔の比ではない。

「あのぅ、マンションを買ったのは翔とカーヤですけど。それに希さんが勝手にネーミングしちゃうし。今時、場末のラブホでもつけないよ。『亜望丘(あぼうきゅう)』なんて」

「悪かったわね、場末な感覚で。おっと、危うく肝心な事言い忘れるところだった。そろそろオンエアーよ」

 膝枕の翔が身を捩る。太股がこそばゆい。

「あん」

「ん、カーヤ?」

「翔、起きたの?」

「あれ、希さん。そっか時間か。よく寝た」

「『よく寝た』じゃないわよ。カーヤのメンテナンスをするあなたが、逆にお世話されて。わかった?早く来るのよ」

 大人しく扉が閉まった。と思ったら、希さんが顔を出す。

「わかったら、二人とも返事」

「はーい、社長」

 今度こそ扉が閉まる。膝枕の翔と目が合い、吸い込まれるように近付く私。優しい接吻を私に残して身を起こす翔。

「カーヤ、続きはウチに帰ってからだよ」

(調 芳夜「ワタシがワタシである理由」より)



 はい、ということで今宵も始まりました『カーヤのミッドナイト・チャンネル』。今夜のゲストは、優しくて頼もしいカーヤの『おにいたま』荒城廉太郎アニキです。

「ども、いつも妹が世話になってます。荒城廉太郎『おにいたま』で〜す」

 あの〜廉太郎さんや、イメージがガタガタになってやしませんか?

「なあに、そんな事気にするたぁ、ちいせーちいせー。そんな事たぁ朝勃ち前だぜ。俺の息子はいつでもビッグだからな」

 リスナーの諸君、ごめんね、こんなアニキで。でもさっきからすごい事になってるって、カーヤの目の前にあるタブレットの画面が見えないからわからないかもしれないけれど、アニキへのレスの件名が滝の様に画面を流れてますヨ。

 もちろんいつもと同じくカーヤとアニキへの質問、お悩み相談どしどしちょうだいな。

 ええっと、あれ?このメール達さっきのアニキの声を着ボイスにしたいんですって。アニキがダメ出しはないと、思うから……はい、アニキとディレクターからOK出ました。

 ではでは、さっきのを聞きそびれてしまった貴女にどうぞ。

「『なあに、そんな事気にするたぁ、ちいせーちいせー。そんな事たぁ朝勃ち前だぜ。俺の息子はいつでもビッグだからな』」

 じゃ、もう一度

「『なあに、そんな事気にするたぁ、ちいせーちいせー。そんな事たぁ朝勃ち前だぜ。俺の息子はいつでもビッグだからな』」

「おいおい、これじゃ……」

 君のように小さくても、アニキみたいに大きくても……愛されているって、感じることは一緒だよ。同じ悩みの相談が多数、届いたけど、アニキが今言った通りだとカーヤも思うよ。

「ま、そんなとこさ」

 じゃあ次のゲストへの相談コーナーの前に、ニュースと交通情報。報道センターからです。

「こんばんは、この時間は首都高・各高速道路に規制・渋滞は特にありません。さて、頻発するネットバンキング強盗の続報です。特別捜査本部は、事件の手口から一連の犯行が同一の犯人または犯人グループに依るものと断定し、奪われた金の送金ルートから犯人の割出しに全力を傾ける方針を先ほど行われた記者会見で発表しました。強盗の被害にあった銀行の一部の店舗では、預金の解約で通常業務に支障をきたすなど、金融システム不審を引き起こしており、政府も金融庁や警察庁の専門家による特別対策チームを捜査本部に派遣するとともに、国民に向けて冷静な対応をとるよう呼び掛けています。ニュースは以上です」

 はい、ありがとうございました。次の交通情報・ニュースは午前一時半頃の予定です。今宵も素敵なゲストと送る『カーヤのミッドナイト・チャンネル』。今度の相談はお便りです。アニキから紹介するよ。

「東京都小平市にお住まいのペンネーム『イルカの背びれ』さんから。『こんばんは、カーヤ、ゲストのみなさん。毎週楽しみにしてます。……』

(『カーヤのミッドナイト・チャンネル』より)



 水槽の外のLEDが赤から緑に変わる。それは今日の作業の終わりの合図。

 光る液体に満たされた水槽の底を蹴り、水面に出る。そして、酸素が送られて来るチューブを唇からキスの名残りのように離す。

「御嬢、お疲れ様」

 パソコンのキーポードを打つささやかな音だけがするラボでは、私の吐息が彼の耳にはよく聞こえているのだろう。水槽の脇に備え付けられたタラッブを慎重に降り、すぐ隣にあるシャワーを浴びる。

 彼と私を隔てる遮光液晶壁は無機質な灰色。スイッチ一つで透明なガラスに変化させるリモコンは、私と彼それぞれが持っているから、プライバシーは指先の上に危く成り立っている。

 しかし、時として私が悪戯心を催して、身に何も纏わないままにスイッチを押しても、彼が顔を上げて振り向くことはない。

 建物の最上階に位置するラボは全面ガラス張りのサンルームになってはいるが、視向性のある特殊なガラスのようで、マジックミラーのように外部より内部が明るくても、覗かれる心配は無い。だからいつも、寸糸纏わぬ姿のまま裸足でポタポタと足音を立てながら、彼に近付くのだ。

「どうでしたの?」

「んー、特に」

 彼はバスタオルかバスローブの衣擦れがしないかぎり、決して顔をあげない。で、私は古典的な手を使う。

「翔様、私、昨日、髪を切りましたの」

「んー、問題無い。前のデータがあるから」

「こっちには問題あります!」

「何が?」

 いくら『私』に興味が無いからといって、こうまで無関心でいられるのには、腹が立つ。

「翔様、少しくらい気にしてください」

「あー。彼女にはちゃんと教えた。そうそう、そこんとこ、大事だからね」

 彼は相変わらずノートパソコンの画面から目を放さない。もう本当にいいかげんにしろ!

「もっと、ちゃんと『私』を見てください!」

 怒りと、それと別の何かが、瞬間、私の体をほてらせる。でも、ようやく動いた彼の視線は、澱みなく上下しただけ。何事もなかったように、画面へと戻る。で一言。

「何だ、ボブか」

「もう、いいですわよ。翔様なんて!」

「なーに、また喧嘩?」

「早かったね、美智留」

 声の主は、ラボの出入り口に佇んでいた。

「呼び付けておいて『早かったね』じゃないわよ。ま、ちょうど暇してたからいいけど。……もしかしたら、早過ぎた?お嬢様と『仲良く』するには」

 慌てる必要など全くないのに、あたふたとバスローブを羽織る私。

「別に、翔様とは何もありませんわ」

「本人は『ああ』言ってるから平気だよ、ミチル」

 翔は美智留に顔を向けて話す。

「彼女を仕向けた私が言うのも変だけど、何も無くて、彼女がここまで協力してくれるのかしら?」

 美智留に指摘されて、改めて思う。私、なんでこんな事してるの?

「真実を知りたいのは、俺だけとは限らないさ。御嬢も一緒ってことだ」

「それもそうよね。本当に翔が芳夜を手に掛けたのかどうか、私にも興味はあるもの。ましてや『元許嫁』さんなら特にそうよね」

 私の反応を確かめるような美智留の視線を、頭からスッポリ被ったバスローブ越しに感じながら、私は翔の様子を伺う。

 しかし彼は相変わらずパソコンを相手にしている。

「美智留、これが終わったら、出掛けよう」

「瞳と芳夜の同期なら、もう済んだんでしょ?」

「いや、別件。資材の決済さ。先方の希望で、どうしても立ち会いが必要という事らしいから。で、食事、どこに行く?」

「私、中華が食べたい」

「中華街にするか……乗ってきたバイクはどうした?」

「地下のガレージに入れたよ。ねえ、翔、横浜なら車にしよーよ。……あれ、翔は?」

 ……こうして背後から抱きすくめられ、私は翔のことが判らなくなる。しかし翔が抱きしめているのは、私ではなく、芳夜の人形(ひとがた)である私だと知っている。でも、私も私で、先ほどまでつれなくされていたのに、翔にされるがままを赦している。こんなに身勝手な扱いをされても、私はまだ、翔が好きなのだ。

「……大丈夫、芳夜はもうどこにも行かないから。ね」

 電源を落とされ輝きを失った黒い液体に満たされた水槽に映る私は、私以外の目には「KAGUYAを翔が抱きしめている」としか、映らないだろう。

「……本当だね?芳夜」

「ええ、本当よ」

 翔は少なくとも表面上、PTSDは完治したかのように見えるがキーワード……禁忌の言葉を聞いた途端に五感が麻痺してしまう。

 光のない宇宙空間に放り出された時のような例えようも無い孤独感、自ら芳夜を殺めた取り戻す事の出来ない喪失感に襲われる。

 ……翔と再会したあの日、昇から翔の症状を聞いた時には愕然としたし、と同時に対処療法(自己存在の絶対的肯定、嘘でもいいから芳夜は大丈夫だと言いながら抱き締める)に当惑もした。

 裸けるバスローブに構わず私は体を入れ替えて、額に脂汗を浮かべ呼吸が不規則な翔を抱き締める。翔の体を支えきれず、私は腰がくずれ膝をつく。翔の体温と息遣いをこんなにも近くに感じられるのに、翔の心は遠い別の宇宙にいる事が哀しい。

「翔も瞳もどこにいっちゃったのよー。もー」

 美智留が私達を探す声がサンルームに響く。彼女の足音は灰色の液晶壁の向こう側をウロウロしている。

「まあ、瞳は着替えの最中だし、先にガレージに行こうっと」

 遠のく美智留の気配を視線で追うと、床に芳夜専用のノートパソコンがあり、何かのカウンターらしき表示が凄まじい勢いで増加している。

「何かしら?……やだ、翔様ったら、くすぐったい」

 胸に顔をうずめていた翔を私は突き飛ばす。水槽にぶかった鈍い音。頭を抱える翔に反射的に駆け寄る。

「翔様、ごめんなさい。大丈夫?」

「あ痛たた……大丈夫な訳ないだろ。ちっ、もうちょっとだけ……」

「『もうちょっとだけ』?」

「あ、いやあの……当たり所のことに決まってるだろ!当たり所が悪かったら危ないだろ。まあ、正気に戻ったからいいけどさ。なんかよく分からんが、突き飛ばされるだけの何かがあったんだろ?」

 左腕で胸を隠した私は、床に無造作に置かれたノートパソコンを右手で指差す。

「床に落としたかもしれないわ。変な表示ですし」

「変な表示だって?」

「数字が、桁が急に増えてるの」

 パソコンの位置を変えず、逆に翔がパソコンに合せて移動する。二三操作をした翔は怪訝な顔つきで私に尋ねた。

「なんか、いじった?」

 私は顔を横に振る。だって私と翔はずっと……。

「……あなたに弄ばれていたのは、むしろ私です」

「意識がなかったけど、俺が悪かった。それよりさ、まあいつも芳夜ので見慣れているとはいえ、その格好どうにかしろよ」

「今更……見飽きるほど観たんでしょ?『私のコピー』を」

 翔の視線は泳いでいたが、最後に私のアソコに目が止まる。

「夜な夜な芳夜と変なことしてないですよね?」

「御嬢、お前こそ勝手に想像妊娠するなよ」

「な、何をおっしゃるの。下らないことばかり言ってないでパソコンを直したら」

 翔に見つめられていると感じただけで、カラダが熱くなる。私の負けだ。翔の背後に周ると、彼の背中は思っていたよりも広かった。

「翔様、今日はお給料日?」

「まさかね。……桁が二つも三つも増える訳ないだろ」

 呆れたように翔の肩が落ちる。

「ハードやソフトは壊れていないし、多分誤入金か銀行のシステムが狂ってるだけだろ。確認してみるよ」

 翔は早速ケイタイをする。

「ところで御嬢、なんか変わったな」

「え?」

 私は髪型のことばかりと思っていた。

「カップのサイズ」

「!」

 言い返そうとした私を遮るように、翔のケイタイが鳴り出した。

(星野 瞳「あの日の出来事」より)



 日曜の早朝、枕元でチャイムが鳴る。いつもの休日なら芳夜と一緒に惰眠か快楽を貪る時間帯。珍しく完全オフ日だと喜びも束の間、深夜事務所からメールがあり昼前には桜田門で用事。多分半日は潰れてしまうだろう。

芳夜は静かに眠っていた。

「ったく、こんな時間……午前5時に誰だよ」

 枕元のスマホで招かざる客人をライブ画像で確認する。

「なんだ、昇かよ」

 画面を切替え寝室の空間に画像を浮かべた。

「翔、おはよう」

「俺は“おはよう”には早い時間だけどな」

「悪いな、ウチにはちょっと近寄り辛くて……」

「まあ、いいからあがれよ。モーニングコーヒーでも……ん?」

 昇は画面をモスの袋でいっばいにした。

 最近、昇は家に帰っていない。俺がこの街に帰って以降、昇はアルバイトを始めた。最初は只それだけの事だったが、俺が芳夜の開発を始めたあたりから、昇の生活が乱れだした。仕事やその他いろいろな事情があり、芳夜と暮らすこのマンションに移ってからは、よりひどくなっていったようだ。

というのも、実は昇とこうしてゆっくり話をする事自体が数か月ぶりで、ほぼ家出状態にあるのを知ったのは伯父さんから昇の所在確認の電話やメールをもらったからだった。御嬢のやつは、昇の彼女面をしていた割には案外クールなところがあって、俺が聞いても上の空か、誤魔化されていた。

 世話になった伯父さんの為に確かめたいと俺は思ったし、昇は昇で訴えておきたい事があった。

が、回りくどい事無しのガチンコトークはの口火を切ったのは、昇だった。

「『帰り辛い』じゃないんだ。親父の所は、僕が帰る場所では無くなったんだ」

「『芳夜がいない』から?」

「それはお互い様だろ?」

「だな。で、お前が帰るべき場所はあるのか?」

「無い訳じゃない。探している途中で、今は居候さ」

 ある程度予想をしていた答えではあった。昇は銀髪の珍しさもあって、高校で結構モテる。彼女予備軍の部屋を転々としているのだろう。

「瞳ではない誰かか?」

「彼女は……お嬢のことは翔が一番理解してる……これもお互い様か。新しい彼女じゃない、先輩の所にいる」

「年上の彼女か。意外だな、昇、お前、そういう趣味だったんだ。でもそれなら、御嬢は役不足だ」

「そうじゃないんだ」

「何がだよ?」

「お前が姿を消して、僕もお嬢も淋しさに耐えられなかったんだ。間違いだったと、今は思っている。翔が帰って来た日の夜も、僕らは逢ってたよ。でも、それは惰性を断ち切る何かを待っていただけなんだ。僕とお嬢の関係はそれっきりさ」

「瞳がお前の帰る場所を無くしたのか!いつまでお嬢様面をしているつもりなんだよ、あの女は!」

「待てよ、翔。彼女は……いや瞳ちゃんは悪くない。原因は別だ」

 昇はそう言ったきり黙ってしまった。

「その沈黙は、時が解決するって事か。伯父さんとこに帰りたくなかったら、ここに来いよ。まあ、話したくなったらいつでも聞いてやるよ。それより冷めないうちに食べよう」

「そうだな。しかし、翔」

「なんだ?」

「翔ってさ、ごく稀にイカした事を言うよな」

「稀で悪かったな。でも、それがどうかしたか?」

「……惚れた」

「馬鹿は休み休み言え。ところで昇、それだけを話す為にこんな朝っぱらから来たんじゃないだろ?」

「実は、僕は警察に事情聴取で呼ばれたんだ。それと、連絡をしてきた警官から言われたんだけど、翔も参考人聴取でこれから警視庁に行くんでしょ?」

「重要参考人が逃亡しないように身内を使って説得工作……回りくどいことをするものだ」

「残念だな。僕はそんな面倒臭い事をする気は無い。説得なら警察のネゴシエーターがすればいい。で、翔、実際はどうなんだ?」

 昇が参考人聴取の前に亜望丘に立ち寄ったのは、俺と口裏を合せる為だった。実際俺自身に覚えのない事であり、それを話すと昇は退屈そうな表情をして、容疑者リストから俺を外さざるを得なかった。

 無論、昇は犯人ではない。振り込まれた金額は億単位であったから仮に昇が犯人ならば、家出のついでに更にもっと遠くに高飛びしているに違いない。

「全く迷惑な話さ。次から次へと勝手に大金を振り込まれて。人から盗んで無いのに怪しまれて。まるであの時と一緒だな」

「ああ、そうだな」

「まあな、それがハッキリしてたら、簡単な取り調べで済んだものをよりによって、捜査一課に呼び出しを食うとは……」

「何かあれば『前科者』が疑われる。何も変わってないよね」

「疑いを晴らす為に呼び出されたようなものさ」

「振り込まれたお金はどうなる?そりゃ返さないといけないだろうけど。……何かこう謝礼みたいなものって貰えるのかな?」

「あるわけないだろ。精々キャラクター貯金箱くらいだな」

「あ、僕、そっちの方がいい」

 昇は本当に嬉しそうな顔をした。

「あのな……」

「参考人聴取は初めてではないけれど、内容が違うのかな」

「『前』より緩いだろうな。ただ、俺のは長引く。詳しい手口は知らないけど、技術的に俺には可能だから」

「翔、拷問か〜?」

「それは無いね。知能犯は扱いが違う。多分この件の取り調べには『彼』が来るだろうし」

「彼?警察に知り合いでもいるの?」

「餅は餅屋でね、専門の技官が……元ハッカーが登場する訳さ。広いようで狭いからね、この分野は。話が分かる同士だから、結論も早いよ」

「どういう事?」

「ついて来れば、わかるよ。そうそう、このことは一切、他言無用だからね」

(ブログ「出自不明の盗聴記録」より)



 僕と翔が通された部屋は取調室というより、むしろ応接室のしつらえで、所謂ブタバコではなかった。程無くして扉が開いた。

「久しぶりだな『ジョーカー』。……いや警部にはこちらのほうがいいかな……“ワイルドカード”」

「風の便りに聞いてはいたが、やっぱり、あんたか。『スペード』」

 僕の目の前で交わされる言葉は、少しも現実味が感じられなかった。翔がまるで別人に見える。

 仕立ての良いスーツを着こなした中年の『警部』が連れに向かって質問を投げ掛けた。

「白鳥、彼があの『最も危険なワイルドカード』なのか?君らが現役だったのはもう3年も前……その当時、彼は中学生だったというのは本当なのか?」

「ええ、そうですよ、警部。元ファイブカードの中で最も優れたハッカー『ワイルドカード』かつ、最も危険な切札『ジョーカー』。私は『スペードのエース』ですが、正直『腕』じゃ、当時、彼には全く敵いませんでしたけどね。彼はありとあらゆるハッキングの技術、手段をマスターしている。スペード、クラブ、ハート、ダイヤと称したハッキングのスペシャリストから全てを吸収し、凌駕した。でも、あー、なにも心配しなくて大丈夫すよ。コイツと話すのなら、他の奴じゃだめだが、俺なら適任だ。いい人選でしたね」

「御託を並べてないで、さっさと話をしろよ。貴重な休日を割いて来たんだぞ」

「おっと済まなかったですね。ちょうどいい頃合ですよ、警部」

「うむ、そろそろ予告の時間だな。早速始めてもらおう」

 彼等に促されなくても、翔はそうするつもりだったようで、芳夜専用のノートパソコンとフォトンステージをバッグから取り出していた。翔がパソコンを立ち上げると、フォトンステージから光の塊が現れる。室内が光に満たされ、とても目を開けていられない。光がおさまり視力が回復した頃、彼女が目覚めた。

「おはよう、翔。あれれ、昇も?一体ここは何処?」

「警察庁捜査一課の取調室。僕達三人にオンライン銀行強盗の疑いがかけられているんだ」

「おいおい、まだ容疑者ではないのだけど。今のところ、重要参考人。ですよね、警部?」

「おっさん、芳夜と俺の口座も立ち上げたぜ。昇、お前のは?」

「今やってるところ」

「ところでジョーカー、彼女は『芳夜』なのか?俺にはお前の許嫁にしか見えないが」

「いいや、彼女が芳夜だ。他に方法がなかった。それにお嬢はもう許嫁じゃない」

「白鳥、何をしている?」

「警部、参考人聴取すよ。この件は俺に任せると言われたのは貴方ですよ」

「サイバー犯罪対策室長、貴様!」

「警部、我々が熱くなってどうするんです?」

「わかった……続けたまえ」

 応接室の面々の視線が扉に向かった。ノックの後、係官らしき人物が室内に駆け込む。

「警部、今……」

「おっさん、始まったみたいだぜ。どうだ、昇?」

「こっちも始まった」

 並べられた二つの画面の中で数字だけが増えてゆく。

「警部、少なくとも時限式でない限り彼等には無理ですね。ただし、予告された銀行には部下を送り込んでモニターさせています。じきに犯人の足取りが掴めますよ」

「翔、昔のお友達は、なんだか相当自信がありそうだぞ」

「らしいな」

「ところで君らには確認してもらいたい『非常に興味深い映像』がある」

「白鳥、もう『あれ』を使うのか?」

「回りくどい方法もありますが、彼はそういう事が嫌いですから」

 白鳥はスーツのポケットからリモコンを取り出し操作する。室内の明るさが落ち、天井からスクリーンが垂れ下がる。

「これは犯行予告があった夜に映されたものだ。画像が一瞬だけ乱れるのだが、そこを静止画像にすると……」

「翔、あれは何かの影か?」

「これは……」

「元は防犯カメラの粗い画像だから、画像処理をかけると……」

「なんか見えて来た……幽霊?……な訳ないよな、翔」

「違うな」

「あれ?……足が映ってないよ」

「私は非科学的な事は信じない質でね、生身の人間には不可能だが一つだけ方法がある。ですよね、警部?」

「そうとも。防犯カメラの映像を差替えるタイミングがずれて、一瞬だけ残ったようだ……」

「おじさん、当りだけど、ハズレ。だって、あの消え方、カーヤがステージの演出で使うもの」

「カーヤ、言わなきゃいいのに」

「事実は事実だからな」

「翔までそんなことを」

「昇、状況が状況だ。俺が一番怪しい。銀行とカーヤのログ解析を付き合わせればいい。但し俺には動機が無いし、アリバイは超過密スケジュールが不可能だと証明してくれる。第一、俺がやるなら、こんなヘマはしない」

「既にアリバイや動機につながる背景は調査済みだ。わからないのは、そのログ解析だけだ。故にサイバー犯罪対策室長の白鳥を呼んだ」

「そういう事だ、ジョーカー。で、お前さんがここ最近関わった案件についても調べ直した。幻の誘拐監禁事件、……言うまでもないが、取下げられた調芳夜の盗難届の件だが、可能性の話としては彼女がコピーされた事はありうる。あとはそのパソコンのログだ。ジョーカー、数分時間をくれ」

「構わないよ、スペード」

 僕は白鳥が翔のパソコンを調べるのを横目にしながら、翔を問い質した。

「ところで、翔、あの白鳥っていう人、誰なの?」

「元ファイブカードのメンバー 、『スペードのエース』。今は警視庁サイバー犯罪対策室長、白鳥 司。奴が話した通りだよ」

「そうじゃなくて、僕が知りたいのは、僕が知らなかった事が知りたいだけさ。ファイブカードて何?」

「話してなかったっけ……ま、訊かれもしなかったから答える必要もなかっただけさ」

「ファイブカード……外務省国際情報統括官第一国際情報官室の実働機関の一つで電子諜報担当の特務機関。メンバーには超法規的な調査権限が与えられ、人員・予算・組織形態等は明らかにされていない」

「何だそれ。何で芳夜がそれを知っているの?」

「彼女もその一員だったからさ。」

「芳夜が?」

「差し詰め『ハートのエース』ってとこかな」

「もしかすると、ファーブカードと『あの事件』は関係あるの?」

「わからない。ただ、無関係とも断言できない。元メンバーにはな」

「今はどうなったの?」

「解体された。俺の両親の死と共に」

「翔の両親が作った組織だったから。前の私……望月芳夜はその前に死んじゃったけど」

「芳夜……。で、翔はこれからどうなるんだ?」

「銀行強盗事件が解決するまで、つき合わされるだろうね。まあ、芳夜の芸能活動にはそれほど支障はない。彼らがまだ疑っている通り、時間や距離はこの手の犯罪には関係ないから」

「翔がこの件に関わっていないという証拠は?」

「おそらく『スペード』は掴んでいるだろう。銀行のホストコンピュータに俺が侵入した形跡やその形跡を消した跡がない、その事実だけだな」

「なら、無罪放免だ」

「いいえ、私の存在があるから、翔は疑われている。そういうことでしょ?」

「正解だ、カーヤ。カーヤが複数存在すれば、可能なのさ」

「でも……だって、それは」

「翔のパソコンに何者かが侵入し、私をコピーすれば可能だよ。以前私が何者かに監禁された時に、翔は私が悪用されることを心配していた。そして今、現実となって現れ始めている」

「もしカーヤが複製されているとしたら、必ず現場に『彼女』が現れる。『彼女』に銀行のプログラムを書き換えさせれば、いいだけさ。ただ、よくわからないのはその目的だ」

「そうだな、カーヤが目的ではないし、金が目的でもない。翔、お前が目的なんじゃないか?」

「であれば、この件が始まってから今までに俺に対して何らかの接触を試みるはずだが、これっぽっちもない」

「翔、お前が犯人ではないなら、誰か心当たりはあるのか?」

「『それらしい』のはいる。昔、芳夜が現役だった頃の別名『ペンタゴンのゴースト』を騙るハッカーとしかわからない。その他に足がつくような痕跡がまるで無い」

「足の付かないハッカー、まさに幽霊だな」

「懐かしいわね。『ペンタゴンのゴースト』、か。私がファイブカードの『ハートのエース』であった頃の記憶は断片的なものしかないけどね。ちなみに『ペンタゴンのゴースト』というのは、ファイブカードのメンバーとしてした初仕事がペンタゴンのハッキングだったことからついたの。だとすれば相手は私の経歴をよく知っているハッカーのようね」

(出自不明の録音記録より)



こんばんは。カーヤだよ。

今夜も貴方を眠らせない『カーヤのミッドナイト・チャンネル』の始まり始まり〜。

今夜のゲストはカーヤの追っかけとして自他共に認める地上最強の『あの人』。

後で紹介するから、誰だか考えておいて。

さーて、まずは宿題から片付けちゃいましょうか。

みなさんから沢山のお手紙、メールやファックスをいただきました。

押忍、ごっつぁんです。

デコメやファックス……それはそれで便利だし素敵。

でも、請求書やダイレクトメールばかりの郵便物のなかで、たまに受け取る手書きのお手紙って、ちょっといいかななんて思ったりしちゃう。

内容はさておき、文字からは書いた人の温もりや人となりが滲み出て来る。

久しぶりにカーヤも書いてみようかな。

では宿題の発表と参りましょう。

お題は『切ない気持ち』。

カーヤのバラードにのせて紹介します。

(『カーヤのミッドナイト・チャンネル』より)



 『海を見に行こう』と翔の言葉に誘われて、トノとのアフターを丁重にお断りしたのは30分前。待ち合わせの場所で彼を待つ間の暇潰しにスマホのラジオをつけたら、芳夜がMCをしている『カーヤのミッドナイト・チャンネル』が丁度始まったところだった。

 普段なら彼は仕事中のはずなのに、真夜中のツーリングに誘いだすなんて珍しい。翔はテクニカルディレクターとして常に彼女と行動を共にしているから、翔が一人でいるのは彼女のメンテナンスをする時くらいと私は思っていた。

 ただ、そんな事はどうでもいい。私のわがままを忘れずに覚えていて、同じときを過ごしてくれるというのだから。

(ブログ「カグヤ姫の独り言」より)



『後になって、彼の友達からその事実を聞かされた時、訳も言わずに私の前から姿を消した彼の気持ちを考えると、切ない気持ちが込み上げて来てたまりません。』

う〜ん、せつない。

切ないなぁ。

でもドラマみたいな、ううん、ドラマ以上の現実があるのは驚きだよね。

彼はきっと未来のある貴女の事をいろいろと考えて、貴女に厳しい現実を言わなかったんだとカーヤは思うよ。

それに彼の思いを理解する貴女はとてもとても素敵な人だと想像しました。

素敵な思い出を残してくれた彼のご冥福をお祈りします。

そして明日のある貴女にはカーヤの『ラブ・ワーズ』を送ります。

(『カーヤのミッドナイト・チャンネル』より)



 始まりがどこからだったのか、私には記憶も記録もない。物心がついた頃、いつも側には彼がいて、私はそれが当り前の事だと思っていた。

 今、目の前にある空き地には、つい数年前まで幸せの代名詞のような家族がいた痕跡はまるでない。忘れられたようにポツンと電柱が佇んでいるだけだ。

「お姉ちゃん、お姉ちゃんてば」

「あ、ごめん」

 妹の光が怪訝に私を見ていた。

「どうかしちゃったのかと思った」

「月よ。月を見てたの。ご覧なさい、今夜は満月」

「ほんとだー。まるでホットケーキみたい」

 円月を眺める光の足下にはフレンチブルドッグのベガが退屈そうな顔をして、面倒臭そうに光の視線を追う。

「光ったら、食いしん坊」

「じゃあ、お姉ちゃんは月を見ながら何を思っていたの?」

「私は……」

 実際のところ、私は月を見ていなかった。この空き地で見る月はあまりにも淋しい。私が毎日その家の前を通る為に飼い始めた犬達のお散歩コース。今や目的は変わってしまった。気を紛らわす為に聞いていたラジオから流れてきた曲に、ふと思いを巡らさずにはいられなかった。私は妹に嘘をついた。

「クレー射撃の事」

「お姉ちゃんの嘘つき。カーヤの事考えてたくせに。お月様を見上げながら、呟いたのをこの耳で確かに聞いたもん。ねー、ベガ」

 試合後のボクサーよろしく右目の周りに黒い斑があるブルドッグは、私達姉妹の顔色を交互に伺ってから、面倒臭そうに鼻を舐めた。

(星野 瞳「あの日の出来事」より)



『続いてサイバー銀行強盗の続報です。一連のサイバー銀行強盗を捜査する警視庁捜査一課は『原因は外部からのサイバー攻撃ではなく、銀行内の支店間送金の誤入力によるものであり、セキュリティーを委託されたソフトウェア会社が想定していなかったエラーをセキュリティーソフトウェアが感知したものだった』との記者発表を行いました。また記者発表には関係各社が立ち会い、関係者の処分については監督官庁の指導通達を待って厳重に行う事を明らかにすると共に、一連の騒動で金融システム不審を招いた事を陳謝しました。この時間の交通情報とニュースは以上です』

はい、ありがとうございました。

次の交通情報とニュースは23時45分頃からです。

カーヤも最初にこのニュースを聞いた時は『そんなことある訳無いよー』て思ったりしたけど、勘違いで済んで良かったよね。

さて、次のお便りを紹介します。

千葉県流山市にお住まいの『コンドルは飛んでゆく』さんからのお手紙。

いつもリクエスト他ありがとう!

えーと何なに『こんばんは、カーヤ。“カーヤのミッドナイト・チャンネル”いつも楽しく聞かせて貰っています。宿題の課題“切ない気持ち”、今夜は私の友達の愚痴を聞いて欲しいのです』って案外他人事でないことが多いけどね。まあ憶測はやめにして続きを読みますか。

(『カーヤのミッドナイト・チャンネル』より)



 待ち合わせの場所は店からそう遠くは無い公園。彼とは『いつもの場所』というワンフレーズで充分。そこは私がベロベロに酔って拾われた、彼との始まりの場所でもある。公園に数あるうちのどれが始まりのベンチだったのか定かでは無い。

 うろ覚えな記憶の中で、彼の背後に月明りに照らされた並木道があった事だけは脳裏に甦る。そして月夜の底で、血塗られ失われた記憶を追う獣の瞳に、私は魅入ってしまった。いや、その獣は外見こそ飼い慣らされた動物にありがちな従順さを身に纏っていたが、眼の奥底から放たれる光は獲物を見つけた猛禽のそれに他ならず、一瞬にして射抜かれた私は動けなかったというのが正しい。

 彼が私を介抱したのは、憐れみや打算のいずれかだろうと、つい最近まで思っていたが、違っていたのだ。彼は急性アルコール中毒でグッタリした私の蒼白い顔を見て、失われたはずの記憶の断片を失うまいとして『彼女』を助けようとしたのだ。

(ブログ「カグヤ姫の独り言」より)



だよね〜。

記憶って言葉は本当に便利。

知らないことを知っているように出来たり、知ってたことを知らなかったり忘れたりすることができるなんてね。

何か証拠でも示されたとしても何となく誤魔化しきる事が出来そうだし。

でもでも今宵のゲストを相手にしたらはそうはいかないよー。

リクエスト曲の後、いよいよゲストが登場します。

では、カーヤのセカンドアルバム「メロディーズメロディー」から、「うつろなメモリー」、どうぞ。

(『カーヤのミッドナイト・チャンネル』より)



 いつもの時間、いつもの場所で、いつものドリンクを注文する。表参道や青山などハイソでアバンギャルドな街から始まったと思われがちなペット同伴可のコーヒーショップは、この店のきまぐれな看板犬とその飼い主でいいかげんな店主がいたお陰で成り立った事実はあまり知られていない。

 この店でオープンカフェとは良く言ったもので、いいかげんな店主が風雨吹き曝しの軒先やら縁側で、狭い庭で放し飼いに出来なかった犬を遊ばせながら緑茶ならぬコーヒーを出したのが端緒だなんてちっともありがたくない事実のせいで、元祖を宣言できないまま今日に至っている。休日となれば様々な動物が集まり、さながら動物園の様相を呈すカフヴェハーネは、私のお気に入りのお店の一つで、今は……

「お姉ちゃん、ベガがシリウスのクッキーを食べてる!」

「え?……ダイエット中なのに」

 ベガが口の周りの皺を満足げに震わせ咀嚼しているのを、シリウスは横目に眺めていた。

「リードをしっかり持ってなきゃ駄目って言ってたのは」

「はい、私です。ごめんね、光」

「やっぱり、さっきから変だよ。ボーッとして」

「そうかな」

「だから今日は光が注文しといたから。あ、来た来た」

 テーブルに置かれたカプチーノは、ホイップミルクで犬が描かれている。カプチーノを注文した客がペット同伴の場合、店からのサービスでそのペットをラテアートにしてくれる。

「これは私ので、こっちがお姉ちゃんの」

 光が指先で私に推し進めたソーサーのカップには『ベガ』が笑っていた。

「このベガ、顔が皺だらけね」

「皺だらけだからとは違うよ、今は光がシリウスのリードをしっかり持ってるもん」

「ココアがタップリトッピングしてあるからどうかと思ったけど、光がシリウスにするなら、私はベガをいただくわ」

 失敗作とも言えなくも無いカプチーノに口をつけると、光の泣きが入る。

「あーもー、お姉ちゃんの意地悪」

「最近、見習いのバリスタが入ったらしいわ。この時間だから任せたのかもしれないし。……光の言う通り飼い主はリードをしっかり持ってなきゃ駄目って事ね」

ラストオーダー間際のカフヴェハーネに人影は疎らで、私と光が座った店内のカウンター席からは厨房の後片付けが否応無しに目に入る。

「チョコをたっぷりトッピングなんて、光が頼めそうな雰囲気でなさそうだし、そろそろ潮時かしら」

「なんかそんな感じ。ところでさっきから何を聞いてるの?お姉ちゃん……もしかすると、これ?」

 光が指差した天井を見上げると、BOSEのスピーカーがある。イヤホン越しではよく聞き取れない。外すと理由がわかった。

「……。カーヤのミッドナイト・チャンネル」

「ずっとよ」

「そうなの?」

「そうだよ」

「私、さっきから聞いてたの」

 私はイヤホンに繋がったスマホの画面を妹に示す。

「うそ、お姉ちゃんがカーヤの番組?……本当だ。……カーヤとは仲が良くないって思ってたのに」

「嫌いっていう訳ではないの、ただ苦手なだけ。あの通り、外見は私と瓜二つだし」

「それだけ?」

 壁に掛かるカグヤのポスターから視線を戻す光に痛い所をつかれた。

「……事件の事も」

「ふうん。複雑なのね」

 興味で瞳を輝かせる光に、ほんの数年前の私がだぶる。かつて私が瞳を輝かせていたのは他でもない親友の芳夜と話していたその時だったのだろう。

(星野 瞳「あの日の出来事」より)



はい、というわけで、いよいよ今宵のゲストの登場です。

おっと、のっけからカメラを回わしてるぅー。

事件とスキャンダルとスクープのあるところなら、たとえ月面でも行っちゃうバイタリティーの持ち主、フリービデオジャーナリストの葉月陽子さんです。

……リスナーのみんな、予想は当たったかな?

「こんばんは、葉月陽子です」

リスナーの男子諸君、できるオンナのセクスィーヴォイスにやられるなよー。

抜きどころはまだまだ先だぞー。

「抜けるの?……私で?」

罪なひと。じゃあ、論より証拠ってことで、試してみましょ。

……陽子様にイカされちゃった男子、番組のアドレス宛にハートを30個送る!

制限時間は1分。

さあ来い!

「カーヤ、どうせ空振りよ」

(『カーヤのミッドナイト・チャンネル』より)



 芳夜は馬鹿げた事すると私は思った。

「……よくもこんな。ねえ?光」

「お姉ちゃん、あっち見なよ。ほら」

 光が顎で指す先に視線を向ける。見習いのバリスタがカウンターの下で小刻みに手を動かしている。

「ね。ほら、動いてるでしょ、右手が。アイツ、葉月陽子に……」

「違うわよ!光」

 見習いバリスタは小声のつもりだったのかもしれないが、私達の耳は確実に彼の快哉の叫びを拾っていた。

「よっしゃ、イッター!」

「……1分も保たないないなんて、早過ぎよ」

「……お姉ちゃん、何か勘違いしてない?」

「え?」

「……メールに決まってるじゃない」

(星野 瞳「あの日の出来事」より)



ほらほら、陽子様、あっという間に千通を超えてるでしょ。

あーあ、カーヤ、何か賭けておけば良かった。

「ふふふ、私もまんざらではないのね。ピーボディ賞をもらった時の次に嬉しい!」

(『カーヤのミッドナイト・チャンネル』より)



 所詮は……と言いかけてカフヴェハーネの柱時計が目に入る。

「光、そろそろ行きましょ」

「えー、もう?」

「さっきから見習いバリスタの彼の視線が私達と時計を往復してるわ」

「もしかしたら、彼女と約束があるのかも」

「さあ、どうかしら」

「……お姉ちゃん、最近欲求不満なんじゃない?」

「どうして?」

「昇君も翔様も忙しくて相手をしてくれないし」

 別に二人にチヤホヤされようと思ってはいない。銀行強盗疑惑の捜査協力で、二人とも忙しいのは事実ではあるが。と、思索の渦に取り込まれそうになった瞬間、私の手にしたリードが引かれた。

 シリウスだ。光の袖を軽く食んで合図し、と同時にリードを引いたのだ。

「あーはいはい、わかったわよ。シリウスが行きたいって。……ほんとご主人様に忠実ね、シリウス」

(星野 瞳「あの日の出来事」より)



今週のお題、『切ない気持ち』。

ここからは葉月さんにも参加してもらいます。

葉月さん、取材で『切ない気持ち』になった事とかありますか?

「切ない気持ちにね〜、何か立場が逆転すると新鮮な感じがするな……えっと、取材中に感情を持ち込まないようにしているので、『伝えたいっていう衝動』のほうが勝っている感じかな。駆け出しの頃は間合いがよく分からず過激に突っ走って、その場限りの取材を数こなしていたけど……『誰も伝えられなくて、誰かが伝えなければならない事を伝えなきゃ』って思わせてくれた事件があったから」

その事件が『切ない気持ち』にさせたから?

「嘘でもネタになる着地点に落とし込もうとするベクトルがあって、表向きに言うことは立派だけど、裏でどんなに汚いやり口でもやった者勝ち。世間て少なからずそういう面があるのは否定しない。でもね、強いものが弱いものを駆逐する為に、抵抗する手段がない相手にそこまでする必要があるのかって、疑問を感じたわけ」

事件とかスキャンダルとか、なんかこう人間のドロドロしたものに接するお仕事って、大変ですね。

「だからこそ私自身も含めて、人のする事って見てて飽きないのよ。特にカーヤ、貴女には」

なんか、うやむやにされちゃったけど、話を聞けたからよしとしますか。

さて葉月陽子さんのエピソードを聞いたリスナー『きらきら星さん』からのメール。

ええと、件名は『これって事件のニオイ?』

(『カーヤのミッドナイト・チャンネル』より)



「見え透いているんだよな」

「え?」

「あ、いや……ラジオの事」

 渋滞で遅れそうだと伝えるだけのつもりが、ついつい話し込んでしまう。

「ラジオ?」

「右耳でミッドナイト・チャンネル、左耳でスマホ」

「あ〜そういう」

「納得した?」

「ていうか、同じだなと思って」

 シグナルがグリーンからイエローへ。スロットルは絞らずに右折。

「実は暇つぶしに私も聞いてた」

「さては美智留だな、『きらきら星』は」

「ばれたか。いつから聞いていたの?」

「始めから。何かあったときに対応出来なきゃマズイだろ。『きらきら星』みたいにリークするとか。カグヤとネットバンキング強盗の関係は表沙汰にしてないし、俺なんか警察からGPSで追跡されているし」

 抜け道のはずが、夜間工事で片側一車線の交互通行。誘導に合わせ停車。

「でも楽しそうじゃない」

「今度は工事だ。……人から羨まれる境遇とは到底思えないけどね。美智留でもいいや、代れるものなら代ってもらいたいよ」

「まあ、失礼な言い草ね。も少し投稿しちゃおうかな〜」

「止めとけ。綺麗事を話す葉月陽子が驚天動地のスクープを撮れるわけないだろ。美智留が例の事件に興味を持つのは勝手だけど、ラジオの話、ありゃ嘘と本心がまるで逆転している」

「やはりね。なんか面白くない。刺激欲しい」

「だから誘わせたんだろ」

「まあね」

(ブログ「カグヤ姫の独り言」より)



「カーヤが銀行強盗をね。確かに話としては面白いけど、実際はどうだか。防犯ビデオとか確証がないと何とも言えないわよね。でも、カーヤの能力があれば不可能な事ではなさそうね」

私に?

私がですか?

ありませんよー、やだなー。

「ま、ニュースや記者会見でハッキリしてるし、カーヤがやるならこんなチマチマした事しないよね。それに銀行のサーバーのハッキングなら、そこに犯人がいる必要はない訳でしょ。目撃したなら、よく似た人が深夜の銀行の前にいたとか。カーヤくらいにもなると、妬みやっかみの種はつきないから大変だね」

いえいえ、『放送コード以外は何でもOK』が、ミッドナイト・チャンネルを始めた時のリスナー諸君と交わした約束だもの。

それにしても私のそっくりさんが世の中にいたっていう事にびっくりだよ、わたしゃ。

リクエストはなかったけど、銀行強盗をしていた私のそっくりさんを見て切なくなった『きらきら星』さんにカーヤから贈ります。

カーヤの初カバー曲で『恋泥棒』。

(『カーヤのミッドナイト・チャンネル』より)



「『恋泥棒』か……」

「お姉ちゃん、まだ引きずってるの?」

「ただの……翔はただの幼馴染みよ。ノボル、どうしてるかな」

 ポケットから取り出した携帯に、今日、彼からの着歴は無い。

「今日も無し……。私が無理なおねだりしたのが悪かったのかな。彼、ルックスと性格にギャップがあるし」

「ノボル君、イケメンだけど、ウブな位まじめだからなぁ。『男児たるものトランクスなんてヌルイ、褌だ』だもん」

 満月を背にしたマンションのシルエットが目に入る。

「もうすぐだけど、寄ってみる?」

「メール、送ったけど……、あ今来た……『バイト中だからごめん』だって」

「こんな夜更けに?ノボル君のいけずー。お姉ちゃん、この際イケメン君とは終わりにしたら?惰性で付き合うのはお互い良くないとヒカリは思うよ」

(星野 瞳「あの日の出来事」より)



「うん。わかった。そのことは会ってから話す。じゃあね」

 携帯を切った。ラジオではカーヤの唄が流れている。蹴った小石が公園の入口に設置された侵入防止柵に当たり、甲高い音が辺りに響く。

「そろそろ潮時かな。あ、電話」

(ブログ「カグヤ姫の独り言」より)


 

「お姉ちゃん、ところでノボル君に何をおねだりしたの?」

「それはね……」

 私が耳打ちすると、ヒカリはいかにも呆れた様子だった。

「無理だよ、それは」

「だから、次の日学校でちゃんと伝えたのよ『昨日の話は冗談だから気にしないで』て。あれ?『電源が切れてます』って」

「これは相当、重傷だね」

 かつてここで起きた事件の喧騒をすっかり忘れてしまったエントランス前から、あの部屋を見上げる。

「明かりがついてないし、ノボル君、多分ここにはいないよ」

 ヒカリは芳夜の部屋とノボルの部屋を勘違いしていたが、私は指摘しなかった。

「バイト……嘘かも知れないけど」

 マンションの角を曲がると、芳夜の部屋の窓が月明りを反射していた。

(星野 瞳「あの日の出来事」より)



 公園の入口にバイクを停め、約束の場所に向かう。が、並木道のベンチに美智留の姿は無かった。

「ここだよな。アイツ、一体何処に行ったんだ?」

 リダイアル。が、美智留の携帯は通じない。仕方なくイヤホンマイクを外すと、月夜の下、青白く冴えわたる並木道の奥から微かに水音が聞こえてきた。

「噴水?」

 並木道の奥、公園のほぼ中心には池がある。目の粗い鳥籠のようなオブジェの底一面が水盤になっている形で、水盤の直径はゆうに50mを越す。水面に反射する月光が揺れているのが遠目にもわかった。

 美智留だ。彼女は手にしたハイヒールでバランスをとり、踊るように水盤を右左して、そして時々立ち止まっては水底を覗き込む。

(ブログ「出自不明の盗聴記録」より)



「……という訳」

うひゃー!

いいんですか?

そこまでばらしちゃって。

「いいの、いいの。今更結果は変えようが無いんだから。一種の時効ってヤツ」

まぁ、葉月さんにしたら記事やレポートにしたところで一円にもならないでしょうし、さしづめミッドナイト・チャンネルのリスナー特典?

「カーヤもなかなか手厳しいね。嘘ではないけど。あーほら、リクエストが来てるみたいよ」

話が面白いのでついつい脱線しちゃいました。

先週の宿題そして今夜のテーマ『切ない気持ち』、ラジオネーム『杉玉』さんからのレポート提出。

『元彼と別れて今の彼氏と付き合い始めたのが3年前。周囲が不思議がるくらい喧嘩一つしたことのない私達でしたが、最近彼氏が多忙なバイトを理由になかなか会えません。私の我儘を嫌な顔せずに聞いてくれる優しさに甘えて、無理な誕生日プレゼントをおねだりしたのがいけなかったのかな、などと後悔してます。携帯もメールも素っ気ない返事ばかり。天国にいる親友に相談するわけにもいかず、どうしたらいいんでしょうか?』

「決まってるじゃない。女よ、女」

3年だし、倦怠期とか?

「倦怠期だとしても怪しい!」

じゃ、直接話してみましょうか。

本文の最後に番号があるし、相談するならそれが一番てっとり早い……『杉玉』さん今掛けますからね〜。

はい、かかってますよー。

ちなみにお電話させていただいた方にはもれなく番組特製マグネットやステッカーの他、カーヤとゲストのサイン色紙をプレゼントしちゃいますのでどしどし宿題を出しちゃって下さいまし……あ、しもしもし。『杉玉』さんですか?

「え?あ、はい。そうです」

こんばんは。ミッドナイト・チャンネルのカーヤです。

「本当にかかっちゃった」

は〜い本当でーす。

ゲストのフリービデオジャーナリスト、葉月陽子さんも隣りにいますよー。

「……お姉ちゃんすごーい」

あれ?

妹さん?

「そーでーす。私が姉の代わりにメールしました」

葉月さん、なんか面白い事になって来ましたよ……『杉玉』さんの『切ない気持ち』、ゲストの葉月さんが非常に気にしてたので電話しちゃいました。

スキャンダルを追及させたら世界一の強力な助っ人に相談できるので安心してね。

(『カーヤのミッドナイト・チャンネル』より)



「今の、瞳ちゃんだよね?」

 ジェットヘルメットのシールド越しに大声で翔に話しかける。

「番組でカーヤに相談するとは」

「プレゼント目当てなら、翔に言えばいいのに」

「それは妹」

「そうなの?」

「多分」

「なら相談は?」

「わからん」

 海を目指してひた走るバイク。風で声が流されてしまうので、殆ど単語でのやりとり。ラジオは翔のスマホでイヤホンを片方ずつ。私のスマホは……、公園の池に水没してご臨終。

 と、翔のヘルメットが動いた。私のシールドに触れてコツリと音を立てる。翔がクシャミをしたようだ。

「風邪?」

「噂話さ」

「温泉とか、どう?」

「朝帰りならOK」

「まさか」

「どこも閉まってるぞ」

「深夜だしね」

「そういうこと」

「……池の底、気持ち悪くて」

「俺もだ」

 ストラップに人差し指を掛けて回していたら、見事な放物線を描いてドボン。店の携帯は無事。あーあ、ついてない。

「……お嬢の奴!」

「ん?ごめん、考え事してた」

「ラジオ」

「聞いてた。スクエアな関係ね」

「相談する意味がない」

「カーヤは全部知ってるし」

「今、落す」

「待って」

「番組パニクるわ。それに葉月陽子に餌を与えるだけになる。予定通り」

「……終了後」

「で、カーヤは永遠の歌姫になる」

(ブログ「カグヤ姫の独り言」より)



カーヤ、そっくりな話を聞いた事がある!

「スクエアな関係よ?」

ある事故がきっかけで、それまでみんな友達だったのが一線を越えちゃって、ギスギスした関係になるって話。

謝っちゃえば済むのに世間体や誤解やプライドが錯綜して、タイミングを見逃しちゃうの。

「カーヤ、どうしたらいいの?」

『杉玉』さんは、未来に進みたいの?

過去に戻りたいの?

それとも今を生きるの?

「……」

今彼か、元彼か、二股か。

葉月さんなら、どうします?

「そうね、私は二股もありかな」

なんかスキャンダラスな私生活が見え隠れしてる。

「あくまで私の意見として。プライベートは至ってシンプル」

シンプルでなくシングル?

「さあ、どうかしら」

ちなみにカーヤは二股に賛成。

元彼とよりを戻すもよし、今彼を引き止めるもよし。

焦らなくても時が解決してくれるかも知れない。

『杉玉』さんのあるがままでいいとカーヤは思うな。

「カーヤ、なんか答えになってないけど」

葉月さん、カーヤは『杉玉』さんの希望を聞いてから、答えるの。

『杉玉』さんはどうしたい?

「私……私は二人共大好き!」

『杉玉』さん、伝えられて良かったね。

貴女の気持ち、二人に届いた事をカーヤが責任をもって保証するわ。

「ありがとう、カーヤ」

「カーヤ、断言しちゃっていいの?」

カーヤ、全部わかってるもん。

じゃあ、『杉玉』さんからのリクエスト、カーヤで『恋七変化』。

(『カーヤのミッドナイト・チャンネル』より)



 ……瞳が誰をどう思おうが、お嬢の自由だ。勿論、俺が何を考え、どう行動するかは、俺の勝手だ。俺には今しなければならない事がある。だから……。

「あれは?」

「却下!」

 これで3件目だ。桃色にライトアップされたシンデレラ城『キャッスル秘め』がシールドの視界から流れ去る。大体こんな夜更けに足湯とか温泉とか……まあスーパー銭湯なら別だろうが、開いてはいまい。お堅い美智留だから、別に俺が3本目の足で何かをしようなんて、無理に決まっている。

「翔、あそこ。あそこにする!」

「『リゾート・スパ江ノ島水族館』?」

「ね、ね、あそこにしよ」

 返事はバイクがした。シフトダウン、減速。美智留のシルエットを背中に感じながら。

(ブログ「出自不明の盗聴記録」より)



 湖のほとりに聳える塔に波紋が映る。振り返ると、主のいないマンション・亜望丘が静かに佇んでいた。

 妹ヒカリのしたメールから、ひた隠しにしてきた正直な気持ちを言葉に変換してカーヤとノボル、そしてカケルに伝えてしまう事態になり、私の心は大きく波打っていた。

「まだ、仕事だよね」

「カーヤと一緒だから、ラジオ局でしょ?」

「放送中だもの」

「そっか、……うふふ」

「なーに?その含み笑い」

「お姉ちゃんは二人が大好き」

「それがどうかした?」

「な〜んだ。つまんないの」

 そそり立つモノリスの頂上、硝子張りのペントハウスに第三の月が映り込む。湖に突き出た岬、或いは三日月の欠けた部分は非常に硬い岩盤でできている為、過去幾度となく入り江の部分が河道となったが、岬は微動だにしない。ロケーションからタワーマンションが建設され、一時は周辺相場にそぐわぬほどの豪奢さで話題となったが、逆に仇となり買い手が全く付かなかった。

「誰もいないのに、明かりだけついてるよ。お姉ちゃん」

「……そうだね」

「待つの?」

「……帰って来ないわ」

 電波にのった『恋七変化』は、湖の月を乱すさざ波のように流れる。衛星中継のような間があった。犬か人か、ヒカリを思考の迷宮に誘い込んでしまったようだ。

「……ベガは兎も角、シリウスまで」

「お姉ちゃん、やっぱり飼い主に似るって本当だね。あ、シリウスが戻って来た。ヒカリ、ベガを探してくるからここで待ってて」

「気をつけて。見つけたら連絡ちょうだい」

「了解!」

 入れ替わりにシリウスが足許で私を見上げる。

「シリウス、お前もたまには自由になりたいよね」

 シリウスが足にまとわりつく。

「くすぐったい。ヒカリ達が来るまでなら……。よし、私の目が届く範囲で行っておいで」

 シリウスは一目散に駆け、高い岩場の頂上に這い上がる。満月がシリウスの姿を影絵にする。悲しげな遠吠えが辺りに轟き、主不在の亜望丘に木霊した。

(星野 瞳「あの日の出来事」より)



さて、本日のゲスト、フリービデオジャーナリスト、葉月陽子さんとお届けしました今宵のカーヤのミッドナイト・チャンネルもそろそろお別れの時間がやって参りました。

葉月さんありがとうございました。

いかがでした?

ミッドナイト・チャンネル。

「下らない話して、つまらない相談やリクエストにパネラーとして参加できて。でもね、なんか普段着でいられる、パジャマや下着だけ、ううん裸でもいられる場所って、そうざらにないけど、いいなココは。最低な格好でいられる最高の場所だね。また呼んでくれたら嬉しいな」

カーヤもとても楽しかったし、スリリングな番組にして頂いて謝謝なのであります。

「ゲストだもの、『荒らし』みたいに場を弁えない、はしたない真似はしないわ」

良かった。葉月さん、カーヤ、一つお願いがあるんです。きいてもらえます?

「え?どんな?」

内容や訳は訊かずに、OKしてください。

「随分と強引ね。ま、いいわ」

押忍、姉貴と呼ばせて頂きます。

「ふふふ。カーヤ、貴女ってほんと、面白いわ。カーヤ、貴女に告白してもいい?」

どうしよう、お姉様とあんな事やこんな事になっちゃうのね……

「ちょ、ちょっと、早まらないの。実はね、カーヤ、貴女は私のライフワークだと思っているの」

ライフワーク?

「平たく言えば、ツキノミヤカグヤの追っかけ。このスタジオを出たら、カーヤは義妹から取材対象に変わる。今日は早速面白そうなネタを仕入れられたしね」

お手柔らかに頼みますよ、姉貴。

「手抜きは出来ないけどね」

おっとっと、忘れるところだった。

今週の宿題。

姉さんの話から二つ出しちゃいます。

『裸でいられる場所』と『ライフワーク』。

それからシークレット・ゲストへの質問や相談などなど受付てます。

受付は電話、メール、FAXお手紙、何でもOK。

頂いたもの全てにカーヤから返事を送ります。

またカーヤのチョイスしたものは番組で取り上げますので、どしどし送ってくださいまし。

番組で取り上げた方には番組特製ステッカーとカーヤの最新アルバム、それからゲストからの素敵なプレゼントをあげちゃうよ。

ちなみに今夜のゲスト、葉月陽子さんこと姉貴からは、番組中に姉貴が撮影したスタジオ内でのカーヤのノーカット映像を……あなただけにあ・げ・ちゃ・う。

宛先は番組ホームページ、カーヤ公式ブログ、カーヤのアルバムなどなど各種媒体に掲載してますのでご覧ください。

来週もこの時間、このチャンネルでお会いしましょう。

それじゃまた来週バイバイ

(『カーヤのミッドナイト・チャンネル』より)



「あーサッパリした」

 バスタオル姿の私を尻目にカケルはノートパソコンを広げていた。

 江ノ島に向かう間、過ぎ去る闇に浮かぶネオンの瞬きから足湯か温泉を探したが、深夜に営業していたのは、『キャッスル秘め』などの『休憩または一泊』専業ホテルばかり。最後に私が見つけた『リゾート・スパ江ノ島水族館』に飛び込んだのだ。

「カケル、見て見て」

「ダメだ」

「そんな堅い事言わないでさ。ほら、カケルが寝そべってるベッド、回ってるよ」

「『姉貴』の目の前でないと、意味がない」

 『巨大なチーズケーキ』は、カケル回転させながら上昇し始める。部屋各所に設置されている隠しカメラの映像が天井にプロジェクターを介して映し出される。

「そうなの?……面白いよ、これ。リモコン一つで何でもできちゃう」

「珍しい物じゃない。亜望丘には及ばない代物だ。……俺達は失敗したんだ、デジタル化された望月芳夜のサルベージに。今できることは、一旦計画を凍結して次の手段を実行する機会を待つしかない。彼女、調芳夜は失踪して引退してもらう。その事実の証人、大衆の信頼できる目撃者が必要だ。葉月陽子なら適任だろ?」

 一周して私の前に来たカケルは、相変わらず両耳にそれぞれケイタイとラジオのイヤホンをしたバイクスーツ姿でカーヤの状況をモニターする画面を見つめている。そして、カケルが寝そべった所は再びゆっくり離れてゆく。

「それで急遽ゲストを交替させたのね。確かに『姉貴』はカーヤと事件の繋がりを知りたがっているし、怪しげなカリスマがあるし」

「過去と現在の事件とそれに関わった人達の運命、『ライフワーク』とはよく言えたものさ、出刃亀記者の分際で。さて用意はできた」

 リモコンを操作してベッドを床に降ろす。カケルは私の膝くらいの高さになった。私はカケルの隣に体を投げ出す。

 カーヤの電源を落とすと決めたのは当のカケルだった。揺れるウォーターベッドの上で、本人は逡巡する様子を微塵も見せない。

「本当にいいの?」

「いいわけないさ……いいわけないけど、仕方ないだろ!」

 カケルの言いたい事は痛いほど理解できる。

 あの忌まわしい事故の解明につながる唯一の糸を手繰り寄せようとする時に、望月芳夜がかつてそう呼ばれていた『ペンタゴンのゴースト』を名乗る心無いクラッカーから執拗な攻撃を受け、調芳夜のシステムに連動するウイルスの為にカーヤの電源を落とすしか対処法が無い事態に追い込まれた。それは『過去からのログオフ』を意味する。失われた記憶と過去を自らの手で封印させられるのだ。

 しかしグズグズしてもいられなかった。

「カケル」

「心配するな。『何かを得るためには相応の対価を失わなければならない』だろ?センセイもそんな話してたな。カグヤを失って何を得たのかは出刃亀記者にでも聞いてみるとしようか。これで終わりだ!」

 逡巡しつつ決断をしたカケルは主電源を切断し、カーヤを強制終了させた。十重二十重のセキュリティーシステムに守られた芳夜は瞬時に非常電源に切り替わる。

 ラジオではエンディングの曲が流れる後ろでマイクをオフにする間際に、悲鳴のような声がした。次の瞬間、カケルのケイタイに着信が……。


……「カケル君?明星です。聞いてたでしょ?すぐにチェックして。カーヤの様子が変なの。それからケイタイはこのままにしてて」

「近くにゲストがいるんですよね?」

「ええ。それはこっちで何とかするから。今はカーヤにだけ集中して」

 悲鳴が電波に載った。とんだ茶番に巻き込まれた。眼下の床に横たわるカーヤは、春先の痛勤電車内で貧血やら過呼吸で倒れる若い娘そのままだが、彼女は人間ではないと知っていたのに。スクープ、カメラを……が、既に手首は明星にしっかりと掴まれていた。

「カーヤのプレス協定、御存知?」

「チッ」

 カーヤは芸能人だが、人ではない。つまりは出版物や映画などの著作物と同じ扱いとなる。版元の承諾無く使用すれば、特にカーヤのような超売れっ子ともなれば、巨額の権利料の他に莫大なパテント料を請求されかれない。

「こっちは何とかしたから。あとはカケル君に任せるわ」

「大丈夫なんですか?隠しカメラやボイスレコーダとか。日向野さんにチェックしてもらった方が」

「今、してるところ。で、どう?」

「良くないです。一旦強制終了させて、こちらで再起動かけてみます。いいですよね?」

「いいけど、一式あるの?」

「ありますよ。バイクに積んで来たから。電源も問題ないです」

「カケル君、ホテル?誰かと一緒?」

「やだなー、社長。一人ですよ」

「まあ、どちらでも構わないけど。状況に変化があったら連絡ちょうだい」

「了解」

 明星がケイタイを閉じるのと前後して、床に横たわるカーヤに変化が起こった。徐々に実体が無くなり、体を透かして床が見える。それと同時にカーヤの立体画像にノイズが走り出す。

 一瞬後、カーヤは三人の前から霞のように消え失せた。


 ……何が起こったのか、カーヤには理解出来なかった。強制終了中に転送され、気付くと目の前にはカケルとミチルがいた。

「お帰り、カーヤ」

「ここは?何がどうなったのか、カーヤにはわからないの!」

「混乱するだろうけど落ち着いて、カーヤ。あなたはウイルスに感染したの。でも大丈夫、カケルが直ぐに診てくれるわ」

 ベッドに寝そべっていたカケルと目が会う。前と同じように瞳を閉じて再び目覚めれば、『いつも』がはじまるだろう。

 カケルの瞳孔が『大丈夫』って言っている。『あの人』の予言なんて怖くない。

「カケル、明日もお仕事あるんだから、きっちり直してね」

「余計な心配をするな。任せておけ」

 『あの人』もカーヤに言ったんだ、「カケルに任せておけば、うまくいく」。それから「私がアナタの心の扉を開いてあげる」とも話していたっけ。でもカケルには内緒なの。『あの人』とカーヤだけの秘密だもの。

「カーヤ」

「何、カケル」

「いや、何でもない。そのままステージの上にいて」

「ラジャー。変なの、カケル」

 メンテナンス・モードに移行、フォトン濃度を実体化維持に必要な最小限に設定。不正なアクセスログを検索開始、ウイルス検索と駆除開始。あれ、何か変だ。

「カケル」

「ん、カーヤ、どうした?」

「変なの、今日のカケル」

「そうか?」

「そうなの」

「ここはホテルだよ。『リゾート・スパ江ノ島水族館』、ミチルが見つけた」

「カーヤ、ここがどんなことをする場所か知ってる?」

「うん、カーヤ、知ってるよ」

「え?」

「連れ込み宿っていうんでしょ。セックスするところ。ここ、来たことあるもん。ね、カケル?」

 私が言うことにミチルは拍子抜けしたようだ。ミチルはベッドのカケルに詰め寄る。

「……カケル君、ここで彼女に何を教えたのかな〜?」

「カーヤに聞いてみたらどうだ。俺は今、手を離せない」

「こんなときだけ忙しくなるのね」

 でも、変だった。現実味が薄れている。夢、……夢の中、ヒトミと同期している時、彼女の記憶にダイブして垣間見たあの感覚に似ている。

「カケル、やっぱり変だよ」

「カーヤ、どこが変?」

「なんていうかなー、……夢みたいに現実感がないの」

「現実感?」

「そう」

 あ、『あの人』が来た。ブラックボックスの鍵?そんなの知らないよ、カーヤは。心の入ったブラックボックスは、本人ならアクセスコードが必要ないから。私を乗っ取る?

「カーヤ、今、誰と話した?」

「今?」

「そう、『今』だ」

「カケルとだよ」

 カケル、怖いよ。

「『あの人』がいるの」

「『あの人』?」

 カケルが知っている、カケルのことをよく知っている、カケルが愛し愛された『あの人』のことだよ。……カー君、私のこと、忘れちゃったの?

「『ペンタゴンのゴースト』!」

「ごめんね、カーヤ。ちょっとの間、黙っててもらうわよ。……久しぶりね、カケル」

「芳夜、……望月 芳夜なのか?」

 翔はベッドから立ち上がった。半透明のカーヤの体に触れる。光の粒子が飛び散る。

「『サボテンを枯らしてしまう君がとても愛おしい』って言ったのはカケル、君だよ」

「それは、カーヤに昨日言った俺の言葉。じゃないのか?」

「君は繰り返しているだけだよ、カケル。でもね、カーヤは私じゃない。カケルが創った芳夜の幻影。だから私の手に取り戻すの」

「カケル、このコはカーヤじゃないの?」

「ミチル、よく見ろよ!瞳の色が赤いだろ。あれはハッキングを受けている状態を示すシグナルだ。今、カーヤがハッキングされているんだ」

「失礼ね、私が私の体を手に入れて何が悪いの?この体は、カー君が私の為に用意したものでしょ?」

「俺が芳夜の為に?」

「そうよ、約束忘れちゃったの?」

「覚えていない。記憶がないんだ」

「私と愛し合った記憶も?」

「忘れる訳がない!だから、君を取り戻そうと、俺の記憶とともに消えた君を取り戻そうとした」

「カケル、何を話しているの?」

「お黙り!偽りの名を語る者が差し出がましい真似をするなら、全てをここで明らかにしてもいいのよ」

「ミチル?」

「……」

「そう、おとなしくしてなさい。……カケル、話を続けましょうか。私は彼女、カーヤを実効支配した訳。彼女のログを見ればわかるけど、ブラックボックスにアクセスできたのはカーヤじゃなくて、私。だって、本人でなければ記憶の扉を開くことは不可能なの……私が私であり続ける為のシステムだもの」

「で、望月芳夜、いや『ペンダゴンのゴースト』、ファイブカードの『ハートのエース』は何を望む」

「話が早いところ、昔と変わらないわね。簡単なことよ。勿論、アナタの条件にも多少譲歩するわ」

「わかった……」

「……てことで、商談成立。ただいま、カケル……愛してるわ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る