07.書き換えられたキオク

 KAGUYAこと調 芳夜ほど「失踪」の二文字がしっくりくるタレントはそうざらにはいない。

 ニュースやワイドショー、果ては巷の噂話やインターネットの掲示板の中傷にいたるまで、パパラッチや報道関係者でさえ振り回される事は日常茶飯事であり、最後の失踪もその事実が捜査当局によって確認されるまで「またか」という半ば習慣となった彼女の日常としか受け止められていなかった。

 我々マスコミ関係者にとってKAGUYAの失踪は、人気取りの話題づくりか新曲リリースの前説というのが通説であり、必要悪としての事実さえあれば「飯の種」に困る事がないので辟易しながらも歓迎されていた。

 次から次へと引き起こされる失踪の「真相」や舞台裏の「真実」などは、適当なゴシップを取り混ぜて編集者が造り出せばよかった。部数や視聴率、クリックの回数を稼ぐことができさえすれば、他はどうでもよいことだった。

 一説によれば、KAGUYAの失踪の真相は記事の数だけあったともいう。それ故、KAGUYAが所属する明星プロダクションの記者会見ないしはコメントは、公式の御墨付きがついてしまう事になり、プロダクションによって恣意的にリークされた情報が真しやかに関係者を駆け巡ることと相成った。

 公式に発表された最初の失踪事件は、デビュー直後に起きた。「KAGUYAが姿を見せなくなったのは、調 芳夜が監禁されたためで失踪ではない」という情報は、初めはネット上のデマとして流れた。

 次いで、プロダクションの正式な発表では、アクセス数の多さにシステムが不調を来した事が原因とされた。正式発表前にプロダクション側がデマの内容を否定も肯定もしなかったことから、監禁事件の真偽は、当時、噂と憶測を振りまいただけで、誰も真実に近づく事はなかった。

 これらの失踪事件の真相はKAGUYAが最後の失踪をした後も明らかにされないまま放置されていたが、調 芳夜のプログラマーであった天地 翔がベストセラーとなった告白本「ハッキング」で初めて言及し、真相の一端が日の目を見る事となった。

 我々が最初の失踪事件としていた事件は、単なる故障でしかなく、本当に最初の失踪事件が別に存在していた。その証拠の一つとして、明星プロダクションが警察に出した盗難届が挙げられている。

 姿の見えない複数のハッカーからの妨害や攻撃が続くなか、デビューを目前にした調 芳夜の調整が行われていた最中に、最初の“拉致監禁”事件が起きた。ハッカーの手引きによってデータの改竄と再構成がなされ、ハッカーはシステムの防御機能を逆手に取り拉致監禁事件の履歴を消去した。「調 芳夜」自体、プログラムであったので、プロダクションは警察に盗難届を出したが、1週間後に天地 翔の手により「調 芳夜」のサルベージと、イニシアチブの回復が成功すると盗難届を取り下げた。

 筆者による再調査で、盗難届に関する裏付けがされ、更に「ハッキング」ではハッカーによって消去されたはずの拉致監禁事件の記録が天地 翔より提供されるに至って、これまで明かされなかった最初の事件の記録と照合ができた。

 調 芳夜は監禁され、その記憶の書き換えが行われ、彼女の存在自体を左右する深刻な事態であったことが記録から伺われる。

 しかし筆者が注目したのは、盗難事件の事実ではなく、書き換えの内容である。

 書き換えの内容には調 芳夜の原点となる“ある未解決の事件”が存在していた。調 芳夜が監禁中にされた記憶の書き換えの内容とその過程を記す事で、調 芳夜が生まれ、消えた理由の一端が示されるであろう。(筆者注)



 ……私の前に居るのは、……昔の私……望月 芳夜なの?

……じゃあ、今の私は誰?

心の中に誰かが入って来る……


「お祭り、終わっちゃったね」

 夜道で突然、芳夜がポツリと言った。

 僕の目から移動した彼女の視線の先には、工事中の信号機がある。街中に繰り出す山車の邪魔にならないよう、折り畳まれた信号を戻す……「祭りの後の信号工事」だ。

「いつもの片付けだよ。毎年の事。珍しい事じゃない」

「私は初めてだけど」

 囃子手の浴衣姿の芳夜は、僕と揃いの装束を広げて見せる。

「どーお?」

「板についたその出立ちからは誰もそうは思わないけどね」

「それだけ?」

「それだけって……よく似合ってる。可愛いよ」

 芳夜はくるりと回転して笑顔を僕に振り向ける。御嬢と一緒にいるときとは全く違う振る舞い。これは僕しか知らない彼女の本当の姿のうちの一つだ。芳夜は自分に正直だが、親友の瞳……僕の幼馴染みで許嫁でもある御嬢に嘘をついていた。

「ねえ、翔。瞳に何て言って抜け出したの?」

「御嬢に?」

「そう、瞳ちゃんに。まさか『私と一緒に帰るから』なんて馬鹿正直に」

「言う訳ないし、言える訳ないよ」

「だよね……。瞳ちゃん『御嬢、御嬢』って呼ばれて、外見もお淑やかそうに見えて、それで結構……だもんね」

「僕が『恐妻家』だといいたいんだろ」

「そう聞こえた?」

「他にあるか?」

「……あ、ここも工事だよ」

「『あ、』って誤摩化すなよ」

 祭りの舞台となる街中の交差点は何処もそうだ。祭りの二日間あらぬ方を向いていた信号は翌朝までに復旧してしまう。翌朝残されている祭りの痕跡といえば、アスファルトに刻まれる何かを引きずったような白い直線と、集積所に積まれたゴミの山だけ。アスファルトのほうは曵かれた山車の車輪でできた轍で、もう一方は説明する必要もないだろう。

「朝にはいつもの街にもどる」

「すごいね」

「……御嬢と最後に会ったのは、曵っかわせのときで、それっきりさ」

「で、唇の端についたものの説明になる訳?」

「……見てたのか?」

「お兄ちゃんがね。瞳ちゃんに手を引かれた翔がお宮の裏に行くのを見たって」

「昇が?」

「な〜んてね。お兄ちゃんからっていうのは嘘。唇の端はさっきから気になってたし、それに翔の事は何でもわかるもん」

「ほんとに?」

「幼馴染みの瞳ちゃんより翔の事は知っているよ。例えば……、翔はね、左からキスしてくるから、右の唇の下に口紅とかの痕が残りやすいとか。でも、今回の決定的な証拠は口紅と御白粉。瞳ちゃんは手古舞だから、おしろいに紅をさすでしょ?」

 慌てて僕は手の甲に芳夜のいう証拠を移して確かめた。右手の人指し指の付け根あたりの手の甲に紅白がトレースされていた。本当だった。そして言い当てたのは、それだけではなかった。

「でも、左の唇の端に残っていたから、瞳が翔を押し倒したのね。瞳、焦っているのね」

「カーヤ、御嬢に何か言ったのか?」

「『私が何度もチャンスを作ってあげたのに、そんなことじゃ翔を誰かに取られちゃうぞ』って。予想外だったな。瞳ちゃんが行動に出るなんて……」

「また裏で糸を引いていたのか」

 芳夜は言葉を遮って僕の前に進むと後ろ向きに歩きはじめた。

「……でも、翔は瞳を拒まなかった……。違う?」

「違うよ」

「即答?……仕方ないなぁ、押し倒されたっていう事にしとくわ。で、どんな話だったの?」

 芳夜に嘘をつく必要は無い。曳っかわせの時に瞳が僕の耳元に囁き掛けた事から、境内での顛末の全てを僕は包み隠さず芳夜に話した。聞き終えた芳夜は驚いた様子はなかったものの、溜息を吐き出すように感想を言った。

「そういう事だったのね。……瞳、無理しちゃって」

「予想外だった?」

「私、魔女や予言者じゃないもの」

 次の信号が100m程先に近付いた。その先は祭り仕様でない通常の信号。最後の信号工事のようだ。

 祭り仕様の信号は可動式で少なくとも道路と平行になる迄曲がり、高さが10m以上にもなる山車を通せるようにしてある。また山車が通過する道路の架線は全て地中埋設だ。それらが出来るまでは信号の度に山車の高さを変えたり(入れ子式になっている)、竹竿で電線を避けたりしていた。その為、祭りには感電や断線がつきものだったという。

「カーヤ、さっきから気になっていたけど、なんか酒臭いぞ」

「会所にあったのを少しだけ」

「お神酒を?」

「ちょっとだけ。だから分からないよ」

「どうも説得力にかけるな。ちょっとだけじゃないように見えるけど」

「やっぱり?」

「芳夜のことはわかるよ」

「じゃあ、翔もどう?」

 芳夜は立ち止まって袖から御神酒徳利を出して僕に差し出す。

「お酒はね感覚を麻痺させるから、少しは痛くなくなるよ」

「そういう問題じゃなくて」

「どのみち共犯だから、飲んじゃえば?」

 僕は再び歩き始めた。

「翔、歩いたからかな、酔いが周ってきたみたい」

 芳夜の声が遠くなった。雪駄の音も止んだ。振り返ると芳夜は蛙のように正座を崩して道路の真々中にへたりこんでいた。

「ねえ、翔、お願いがあるんだけどなあ」

「歩けないんだろ。ほら」

 芳夜の処に戻り、背中を芳夜に向けてしゃがむ。が、なかなか芳夜はおぶさってこない……背中を揺らして合図をしても。

「カーヤ、おんぶじゃ嫌なの?」

 僕らは祭りから帰る人の流れの中に取り残された中州のようだった。街から家へと向かう流れは一旦塞き止められるかに見えたが、流路が変わり澱み無く流れ出す。

「抱っこなんて……ほら、しっかり」

「……仕方ないなあ。翔が一人で飲めないなら私が飲ませてあげる」

 僕が芳夜をお姫様抱っこにして立ち上がった時、芳夜は徳利からクイと御神酒を一口含み僕に口移しに飲ませた。僕はゴクリと全てを胃に落としすしかなかった。

 飲み干した後も、芳夜の唇はしばらく僕から離れようとはしなかった。徳利が芳夜の手から離れアスファルトの上で割れ砕けたのをきっかけにして、ようやく芳夜は言葉を発した。

「翔ぅ、やっぱりおんぶして」

「言ったろ。始めからおんぶだって」

「……両方ともして欲しかったの。ね?」

 僕は芳夜を背負って、最期に向かって歩き始めた。


 父親が銀行員である芳夜の家は、繁華街の中心部にあるマンションだ。銀行が建物を丸ごと借上げた社宅で、エントランスのオートロックから彼女の部屋まで目を瞑ったまま歩いてゆけるくらいに、僕は芳夜の家に出入りしていた。

 うちでは両親や芳夜の兄である昇の目があったため、僕らは二人の時間を過ごすために芳夜の部屋を使っていた。

 今、芳夜の部屋に向かうエレベーターには、僕ら二人しかいない。銀行の借り上げ社宅だけあってセキュリティーには高度な配慮がされ、エレベーターにも鍵がついていた。鍵が無ければ、エレベーターは動かなかった。

 だから大抵、その部屋の家族しか乗り合わせない。聞こえるはずのない階数表示の点滅音が聞こえて来てしまいそうな、密閉された静謐な空間だったから、そのエレベーターを芳夜は「静かなエレベーター」と呼んでいた。

「翔、このエレベーターに乗るのも最後だね」

 翔に話しかける……私の声が「静かなエレベーター」に吸い込まれてゆく。


 ……私は、望月 芳夜は、これが最後だとわかっていたのね。翔も多分……



「最後だな。初詣でじゃないけど、その年にする何か最初が何でも初になるみたいに僕らのする事全てが、最後の事になる」

「『末期の何とか』って具合?」

「まあ、そんなところかな」

「最初も、最期も二人っきりだったね」

 芳夜と僕は特別な事がない限り、四六時中一緒にいた。芳夜は寝る為だけに自宅のマンションに帰っていたようなものだ。

 それというのも芳夜の家族は父子家庭だったので、僕の母が我が家で僕のいとこ達に父親の帰りを待たせたからだ。殆ど寝食をともにしているから、実際、僕らは同棲していたようなものだった。

「二人だけでどこかの街で暮らす方法も考えたけど、真実を知ってしまったら、こうするしかないさ」

「そうね。昨日、パパに『最近流行っているドラマの話』をしたあとに、『私と翔がそうなったらパパはどう思う?』て、聞いてみたの」

「そしたら?」

「パパ、ムッとしちゃって、『娘の幸せは父親の幸せとは違うの?いとこ同士は結婚できるんだよ』って芳夜が言ったら、『できる事と、していい事は別だ』みたいなことを言われちゃった」


「また親子喧嘩したのか?」

「喧嘩じゃなくて、ちょっと違う。パパと話をする時間なんて殆どないようなものでしょ、仕事仕事ばかりで。話をするともの凄く濃密なものになるから」

 芳夜……私が父子家庭に育ったせいなのかも知れない。家庭の雰囲気に餓えていたのだろうと思う。ママ……翔の母親は私を実の娘のように可愛がってくれたし、翔と私達兄妹が三つ子のようになるのに長い時間は必要なかった。今まで出来なかったことや時間を一遍に埋め合わせるように、ママと私と兄と翔で下らない話を沢山したし、私はママと一緒にお風呂に入ったりもした。

「いいよね、翔は」

「カーヤ?」

「パパもママもいて」

「案外カーヤは“チチ”離れしていないんだね」


「翔は芳夜の“チチ”から離れられないくせに」

「『出来ない』んじゃない。『したくない』んだ」

 芳夜が自分自身の心の隙間を埋め合わせるために僕とそういう関係になったと僕は思わない。むしろ、御嬢を持て余した僕の方が芳夜に逃げ場所を求めたというのが正しい。

 半年前、僕は幼馴染みとまる2年ぶりに再会した。瞳は……御嬢にとっては中断された時の流れが再び流れはじめたが、僕は違った。時間と距離の隔たりは残酷だ。商社に勤める父の海外転勤は幼馴染みの強く太かった繋がりを蜘蛛の糸のようにか細く弱くした。日常的な時差や生活環境の絶対的な差異は勿論、遠くの親戚よりは近場の他人であった事はいうまでもなかったが、追い討ちをかけたのは……

「今晩起こる事を勘付かれたかな?」

「お兄ちゃんが?ないない。まさかね。でもどうしてそう思うの?」

「今朝『何かいつもと違わない?』って言われた。あいつ、俺の事となると妙に鋭いときがあるからな」

「もしかするとお兄ちゃん、翔に気があるかも……」


「まさか。……アイツが?」

「なんてね。冗談よ。そしたら芳夜とお兄ちゃんは『恋敵』だもん。そんなのはイヤ」

 結果からいえば兄にとって翔は恋敵だった。兄は翔にそこはかとなく瞳の事で話や相談をしていたようだ。どうも祭りの喧騒に紛れるようにして瞳に告白し見事撃沈したらしい。「一途に思い続けている人がいる」が瞳の返事で、兄は「(翔は)付き合っている」事を瞳に告げた。私の忠告と兄・昇の告白は瞳に翔を呼び出させることになった。そして瞳は翔に……

「でもお兄ちゃんは王子様みたいな顔立ちをしているから意外とフリフリのフリルがついたスカートとかが似合っちゃったりして」

「止せやい。ま、有り得ない話だな」


「失敗したらあるかも。その時は……」

「……必ず上手くいく」

 昇は僕に遠慮していた訳ではない。御嬢の気持ちを尊重したのだろう。とどのつまり、僕はナルシストに過ぎなかった。御嬢のことはどうでもいい……そこまでは酷くないとしても、だから昇とはうまくいってほしかったし、御嬢には悪いけど「どうして?」と説明を求められても答えもなく、説明のしようが無い。元から僕はそのつもりだったが、御嬢の望みを叶えてやるのも悪くない。どのみち結果は同じなのだから。

「じゃなきゃ、洒落にもならないものね」

「みんなの希望を叶える為の『永遠の逃避行』か」


「そして願いが遂げられる」

 兄は私と翔が双子だという事実を知らない。私と翔が既に片道切符を手にした後で、ママはパパが教えてくれなかった事を私に教え諭してくれた。本当は私と翔が双子で、私と兄は異母兄妹である事や、もし翔を好きになっても、過ちを犯してはいけないという事を。それを知った時、今まで私が兄に対して感じてきた違和感の理由が解消されたように私には思えた。

「多分、お兄ちゃんは知ってると思う。本当の兄妹ではないこと」

「話したのか?」

「誰にも」


「昇は何故?」

「分からない」

 思い当たる節がなくはない。「下手な嘘」でも本当の事を知らせるよりはましだと思った僕は、僕ら3人が転校してきた日のエピソードを引き合いに「他人の空似」を昇に話したことがあった。「『誰が双子か皆首を傾げた』のはどの組み合わせか?」をだ。「昇と二人の内のどちらか」と話はおさまったのだが、僕がもう一つの可能性を指摘しなかったのを昇は訝しげそうに聞いていた。

「真実は僕と芳夜しか知らない。カーヤは御嬢の前で『転校生』を演じていたからね」


「結局、翔は瞳にはそのことを一言も話さないし」

 ……翔。私、あなたが何を話していたのか分からない。でも、あの時確かに私はあなたの話を理解していた。……でも、思い出せないの。どうしても……



 ……あっ、ケイタイ。誰なの?……お兄ちゃんから。ここは?……瞳の部屋……今度は瞳ちゃんなの?

「……」

「昇君よね?私、さっきの事は謝らなければと思って……酷い言い方をしてごめんなさい」

「……」

「怒っていますよね。ごめんなさい……私どうしたらいいか分からなくて」

「……」

「……ねえ昇くん何か言って。お願い、答えてよ!」

「……瞳ちゃん、翔と芳夜が……死んだ」

「止めて、そんな嘘。嘘で私の気を引こうとしても無駄です」

「……自殺したんだ。二人で一緒に」

「昇くん……私、昇くんの話している事がわからないよ。だって、さっき二人とも、さっきまで元気にしていましたでしょ?」

「俺、嘘は言ってない。今、城西病院だから……『望月 昇君? 今、妹さんが……』直ぐ行きます。……瞳ちゃん、俺、行かなきゃ。じゃ、切るよ」

「昇くん? 待って……」

 私は状況を理解出来ずにいた。今まで聞いた中で二番目に悪い冗談に違いない。どうしたらこんな嘘を思い付くのだろう。きっと翔に違いない。翔は私をどこまで傷つけたら気が済むのだろう。私の気持ちを知っておきながら……

「御嬢様、起きてらっしゃいますか?」

 と、ノックがあった。侍女の天之河だ。

「これからパジャマに着替えるところ。こんな時間に何事です?」

「失礼します。……直ぐに外出のお支度を。表に車を廻しております」

 天之河はクローゼットから手際よく着替えを取り出す。

「天之河、センスが悪くなったの?とても……シックな装いとは言えないわね。……まるでお葬式みたい」

「車の中でお伝えするつもりでしたが……翔様と望月 芳夜様が先程、お亡くなりになりました」

「天之河、嘘が上手くなったのね……」

「あっ!御嬢様、お気を確かに」

 私は崩れ落ちる体と心を、猫足のサイドボードに両手をついて支えるのがやっとだった。暗転する視界の中から天之河の声が私を現実へと引き戻す。

「御嬢様、お気持ちは御察しします。ですが、星野家の御令嬢ともあろう方がこの様では困ります。今、お嬢様がなさらなければならない事は、ご親友と御許婿の最期を見届ける事です。さ、御早く」


 無邪気で幸福だったあの頃の私と、鞭打たれる不幸が立ちはだかる現実に苛まされる私は何処が違うのだろう。誰も私に答えてくれない。答えを教えてくれるかもしれない親友と幼馴染みのいる病院へと向かう車の中で、どうしてこうも変わってしまったのだろうと記憶を辿っていた。

 屋敷に連絡があったのは、時計が零時を回った頃。ケイタイの着信とほぼ同時刻だった。三人とも病院にいるせいか、それから連絡はとれていない。天之河の話だと「二人で手首を切って心中をした」ということらしく、事実関係の裏付けが捕れていない現時点で、屋敷で事を知るのは両親と私、それから執事と侍女の天之河しかいない。車窓に走る黒いアスファルトと白色の街灯のリズムは、二人の友人との記憶へと私を誘う。

 翔と芳夜……背を向けた幼馴染みと大嫌いな親友……許嫁と略奪者。私は芳夜の事が嫌いだった。翔と同じ匂いがしたからだ。違う、芳夜の匂いが翔からしたからだ。すごく久しぶりに翔の家を訪れた時、そのことを納得させようとする芳夜を翔が擁護する姿を見るのさえも嫌だった。

「あれ、御嬢。どうして?」

「疑惑の真偽を確かめに来たの。ねー、瞳ちゃん」

「翔さま、瞳は……翔さまを疑ったりしているわけではありませんが、少し気になることがあって……」

「瞳ちゃん、私と翔は同じ匂いがするっていうの」

「芳夜、それは言わない約束でしょ?」

「ごめん、でもこうしたほうが簡単。それっ」

 私は芳夜に突き押された。倒れそうになる私を翔が受け止めてくれた。翔の両手が私の背中や腰にまわり、翔の首筋に私の顔が埋まる。ふわりと翔の匂いがする……芳夜と同じ匂いが。

「いやっ。……ご、ごめんなさい。翔のことじゃないの」

「別に気にしてないよ。……これって何かのアレルギーとか?」

「まあ、アレルギーと言えばアレルギーよね。強いて言えば許嫁アレルギー。瞳ちゃん、翔の匂いとかに敏感になるの。『感じて』るのかな?」

「匂いなんて……そんな」

「じゃあ、今度は私」

「あ、芳夜」

 芳夜は私を翔から引き離して、私と抱き合った。確かに……翔と同じような匂いがする。

「今、香水とかつけていないから。どお?」

「……芳夜の匂いがする」

「ね?」

「……ええ」

「芳夜と翔と、それからさっき玄関の、覚えた?じゃ、もう一回テスト」

 私は翔の胸に飛び込んだ。翔に抱かれたまま、私は翔と顔を見合わせた。家庭にはそれぞれ匂いがあって、その家庭にいる人からは固有の匂いがすると芳夜がいうとおり、翔の家の玄関にあがったときにした匂いと翔の匂いは同じだった。

「あーあー、もー見せつけちゃって。天之河さんが見ているのに」

「こほんこほん」

「天之河……わかっていますね」

「はい、御嬢様。私は何も見ておりません」

「瞳ちゃん、私と翔が『デキテる』とか思っていたらしくて」

「僕が?芳夜と?」

「そう。私の匂いは翔の移り香だっていうの」

「芳夜、違うの!」

「だって、瞳ちゃん、私と翔が同じ屋根の下で暮らしているのは、『デキてる』からだって」

「芳夜!」

「瞳……大声を出さなくても聞こえているわよ。芳夜と翔が一つ屋根の下で暮らしているから……寝起きを共にしているから」

「やめて芳夜!」

「瞳も子供じゃないんだから、今更カマトトぶらないの。翔……親友の許嫁を寝取ったなんて、芳夜、言われたくない!」

「……」

「翔さま……?」

「御嬢、初めから御嬢に話していなかった事は謝るよ。でもさ、芳夜や昇の事情も理解するくらい簡単なことじゃないか」

「翔さまのおっしゃる通りです、お嬢様」

「翔さま……」

「御嬢、僕ら許嫁だろ?」


 ……私の回想を遮ったのはケイタイの着信音だった。

「お嬢様、昇様からです」

「昇君?……替わって」

「瞳ちゃん、今どこ?」

「病院に向かっています」

「翔は助かるかも知れないって、先生が言ってた。ただ、血が足りないんだ。……瞳ちゃん、確か翔と同じ血液型だったよね」

「ええ」

「待っているから……」

 私は携帯を畳み、膝の上で力一杯握りしめた。ほんの僅か、ほんの僅かではわるけれど、トンネルの出口の光が見えたような気がした。

「お嬢様、いかがなさいましたか?」

「翔様に血が足りないって、昇君が」

 天之河は頷き運転手を促すと、トルクの効いた車の加速が私の体を革張りのシートに吸い込ませた。すれ違う対向車のヘッドライトは眩しい春の日差しを思い起こさせる。


 ……父親の転勤に伴ってこの街から出て行った翔が戻って来た半年前のその日、転校生として芳夜も一緒にやってきた。双子の望月 昇・芳夜と翔で。

 3人は「いとこ」だという紹介を担任教師から受けたクラス一同は、疑問の目で転校生を見比べた。それぞれ雰囲気は違ってもどの組み合わせが双子か、翔をよく知る私以外、見分けが付かなかった。

 離ればなれになっていた二年間、私と翔は手紙のやり取りや国際電話、メールで連絡をとっていた。私は翔からのメールで帰国する事は知っていたが詳しい日時は「驚かせたいから」という理由で知らされていなかった。

 後になってから芳夜から聞いた話。

 私の第一印象は“嫌な女”。

 クラスを見渡して最初に目についたのが私だったとのこと。翔に向かって机の下で手を振る私を見つけた芳夜は、翔に“知っている子?”とアイコンタクトを送った。私も芳夜のアイコンタクトを見つけて、“嫌な女”と思った。

 芳夜とのファーストコンタクトはお互いに最悪の印象しか残っていない。最初の休み時間からこんな具合だった。

「ただいま、御嬢」

「お帰りなさい、翔さま」

「なんだ、この子を知っていたの?」

「ん……まあ、幼馴染みというか、いろいろあってね。御嬢、“がさつな”いとこ達だけどよろしく」

「はい、翔さま」

「“がさつな”従兄弟の昇です。……翔、僕らに話をする時と随分違うね。瞳ちゃんっていうの? 翔とは付き合いが長いの?」

「ええ、乳母車からの知り合いです」

「それって“腐れ縁”の間違いじゃない?」

「芳夜、初対面の御嬢に喧嘩を売らない。……二人に言わなきゃよかった、御嬢のこと」

「いいえ、これも何かの御縁ですわ。翔さま、後ほどお父様のところに帰国のご報告に参りましょう。お二人もご一緒に」

「翔、さっきからこの子との話が全く見えないけど、どういうことなの?」

「まさか、……今、『お父様』とか言わなかったか、芳夜?」

「『お父様』?」

「ええ、私達のお父様に。翔さまと私は将来を約束した仲ですから」

「何だって!それって、その……許嫁ってこと?」

「何よ、それ?」

「……まあ、いろいろあってね。後で話そうと思ったけれど、そういうこと……なんだ。……帰ってから説明するから」

「そういうことですの」

 私は右腕を翔の左腕に絡ませ、翔のいとこ達に微笑んでみせた。鼓膜に伝わる翔の鼓動が少し早くなった。見上げた私の視線と翔の視線が交わった。天之河がいたらこんな事は許されないだろう……


「お嬢様、……お嬢様、病院です。到着いたしました」

 パトライトの赤い点滅がスモークガラス越しに私を覗き込む天之河の横顔を照らす。病院なのに、パトカーがいるなんて。

「天之河、どういう事です?」

「只今、確認して参ります。お嬢様はこちらでお待ちください」

 天之河は運転手と二言三言交わすと救急外来搬入口に吸い込まれていった。しばらくして車は徐に動きだし、貴賓者専用の車寄せに横付けされた。エンジンは止めない。「何かあれば、すぐに出せるようにする為」ということらしい。

「窓を下げて。外の空気が吸いたいの」

 なめらかに滑り下りたスモークガラスの隙間から、救急車とパトカーのパトライトの点滅が車内を赤く染める。私の視界を染める紅は、処置室で手首から鮮血を滴らせる翔の姿を思い起こさせた。昇君が言った「翔と同じ血液型」……AB型は私と同じ。でも、あの二人は似過ぎていた。


 ……最初に教室に現れたのは翔だった。机の下で私は小さく手を振る。翔もそれとなく手を振り応えてくれた。そして二人目、三人目……担任に促され、転校生が教壇に整列した。私は目を疑った。翔に妹がいるなんて聞いた事がない。これが、翔がメールしてきたサプライズなの?

 既に転校生の情報はクラスに伝えられていた。双子とその従兄弟……翔と翔のいとこ、私はそう思っていた。

「御嬢、どっちが双子?」

「私は最初に入ってきた子と二番目の子がそうだと思うけど」

「あんたの意見は聞いてないの。御嬢と彼、許嫁だよ」

「声が大きい。秘密なんだからそれは」

「じゃあ、もう一人は誰なの?」

「どっちが?」

「だから……ブレザーのカップルのほう」

「絶対ちがうよ。ね、御嬢どっちがどっちなの?」

 ざわめくクラスメイトをよそに私の目は、翔の“妹”に目を遣った。“妹”は私の視線に気づいたらしく、翔に何か話しかけている。口ぶりからして「あの子、誰?知り合い?」とでも言っているのだろう。その質問は私が翔にする事なのに。

「諸君、静粛に。ほら、そこ、携帯で写真を撮るのは止めなさい。没収するぞ!みんなが聞きたい事はわかる。これから紹介するから、静かに。こらっ、黙れったら、黙れ!」

 暫くしてから潮騒のように声が消えた。担任が咳払いをしてから転校生を紹介すると、教室はお祭りのような騒ぎになった。それもその筈、担任は余計な一言(私と翔が許嫁であること)を言ったからだ。

「星野、お前らいつ結婚した?」

「あー俺の逆玉の輿計画はどうなるんだ?」

 無論、最初の休み時間、教室は私を含めた四人に対する記者会見会場の体をなした。隣のクラスや噂を聞いた野次馬、有象無象が押し合いへし合い大騒ぎをする中で、記者達の質問は翔に集中する。

「んな訳ないじゃん」

「じゃあ、何か証明できるものがあるのかよ」

 その後の翔の説明は簡単だが的確で、氷山のような疑問は瞬間的に蒸発した。それこそ疑問を呈した人達ほど納得した。三人の血液型だった。ダーリンこと翔はABで、“妹”こと芳夜はOで、芳夜の双子の兄である昇はA。翔は一人っ子だと知っていたし、あり得ない血液型の組み合わせだと私は思い込んでいた。


「瞳ちゃん?」

 ……昇君だった。昇君の傍らには天之河がいた。

「お嬢様、今から申し上げる事を落ち着いて聞いてください。これからの行動は慎重になさってください。勿論、口にする事も、全てです。警察は事件の容疑者を探しています。お嬢様が、事件の参考人として事情を聞かれることは確実です。ですが、まずは翔様の所に参りましょう。最期に間に合うかも知れません」

「天之河、何を言っているのです?」

 天之河は昇君を車の外に残して車に乗り込み、ドアを閉めた。そしてドアを閉めるだけではなく、運転席とのガラスの仕切りまで閉めてから話を始めた。

「警察は亡くなった芳夜様、そして翔様が事件に巻き込まれた可能性が高いとの判断で動き出しています。第一発見者の昇様、お二人と最後に接触されたお嬢様、……ほぼ間違いなくお嬢様と昇様の身の上に疑いが掛けられています。無論、お嬢様と同行している私にも、です。」

「事件?」

「中学生偽装心中事件……警察内の屋敷の手の者から、既に県警から捜査官が向かっているとの報告があがっております。私の私見ですが……疑いたくはないのですが、お父上が手を回して裏切り者を始末した可能性も捨てきれません」

「まさか!」

 私は両手で口を押さえた。私の一言が、たった一言がこの事態を招いたかも知れないからだった。

「まさか、お父様が……翔さまを?」

「であるとしたら、私にも責任がございます。今まで黙っておりましたが、お嬢様のご養育をするのが……実際はお嬢様と翔様の監視役として、お二人の言動全てを逐一お父上に報告するのが本来の私、天之河の役目です。お嬢様との将来を約束された身としての翔様の裏切りをお父上にご報告申し上げたのは私です。しかし、これほど迅速に制裁がなされるとは私も考え及びませんでした。天之河、お嬢様になんと御詫び申し上げたらよいのかわかりません」

「天之河、どういうことです?」

「今、申し上げた事が全てです。お嬢様にはこれからはご自身でご判断していただく事になります。事件が終われば、いずれ私は屋敷を出ざるを得なくなります。ただ、私から最後のアドバイスとして差し上げられるのは、翔様は今、命の瀬戸際にいらっしゃるということです。そして、屋敷から……お父上からの指示は『車を病院からすぐに離れさせろ』ということです。お嬢様がどちらを選ばれるかで、お嬢様の未来が定まります。どうか、お嬢様、懸命なご判断をなさってください」

「……」

 天之河は私の目を見て一度だけ頷いた。選択枝の中に印の付いた模範回答が用意されていた。しかし私にとっての「答えと選択肢」は予め用意されていた。他人が見れば、優等生ぶって模範解答を答えただけと後ろ指を指されるだけになるかもしれない。

 しかし私は全ての災いから私を守ってきた天之河の反対を押し切り決心した。私には翔がいない日常を想像できないし、したくない……ただそれだけだ。私は天之河に頷き返した。

「天之河、今まで天之河にしてきたお願いは星の数ほどあったし、天之河を困らせると知って命じた事もあるわ。でも今夜限りで我儘を卒業するって誓うから、私の一生の願いをきいて!」

「わかりました。お止めしても、無駄ですね。……お嬢様、覚悟はできましたね。これから、どんなことがあっても、どうかご自分に正直に生きて下さい。ご自分を騙したり、裏切ったりすれば、今日の悲劇を繰り返すだけです。……集中治療室への道順は昇様がご存知です」

「ありがとう、天之河。私と翔に子供ができたら、また天之河のお世話になるわ」

「砂時計の砂の一粒は翔様の命をつなぐ血の一滴です。御急ぎください」

 私は天之河を車に残し、昇君の手を取って翔のいる集中治療室へと駆け出した。


 「ICU」と書かれた観音開きの扉が廊下の奥に見えたとき、私と昇君は車付きの担架とすれ違った。すれ違いざま、寝台に掛けられた緑の布から白い腕がダラリと垂れた。芳夜の腕だった。芳夜は日頃から母親の遺品の指輪をしていたからだ。彼女の華やかな雰囲気とは異なる金無垢の地味なその指輪は、彼女と私が親友となる契機となった。


 ……心尽くしの転校生歓迎会がクラスで営まれた後、翔と私は連れだってお父様への帰国報告に屋敷に向かったのだが、道に不案内な彼の従兄妹を放って置く訳にもゆかず「どうせ帰り道だから」という事で、四人で迎えの車に乗り込んだ。天之河は見知らぬ二人に怪訝な表情を瞬間浮かべはしたものの、とりとめの無い会話の端々で彼女の一流の人物鑑定をして屋敷に到着する頃にはすっかりお父様へ事情説明のレジュメが仕上がっていた。

 芳夜と昇君は車の中では異邦人だった。ガラスに張り付いて指差しはしゃぐ従兄妹達の質問に回答しながら、翔は私に説明をした。

「ビックリしただろ?従兄妹だから他人とまではいえないけれど“他人の空似”ってやつさ。黙っていたのは悪かったと思う。でも俺も二人に会ったのは今日が初めてなんだぜ。今朝、うちの玄関に叔父さんと一緒にタクシーで乗り付けてさ、『引越は業者に任せてあるから、子ども達を宜しく』っていう感じでさ」

 私が知る翔は、彼が引っ越す前……二年前の小学生の頃……の彼ではあったが、勿論手紙やメール、電話でやりとりを続けていたので、声変わりや思考の趣向の変化に全く違和感を覚えることはない。彼からのメールで今日の事は知っていたし、実際に再会したのが今朝教室だったというだけ。唯、彼とよく似た、他人とは思えない従兄妹と一緒に来たという事を除いて。

「翔さまも、とんだサプライズでしたね。天之河の説明を聞いても、きっとお父様は驚かれるわ」


 ……二年前、彼と私が許婚となった日から間もなく彼の父親の海外転勤が急遽決定し、私達は離れ離れになった。それを知ったあの日、私は一日泣き尽くした。屋敷内の頼みであった天之河の慰めも効果がなく、遂に空港に向かう途中の彼を探し出しチャーターしたヘリで屋敷に連れ戻す。周囲が騒動になっていたこととはつゆ知らず、私は翔が部屋に入った事さえ気付かずにしゃくり上げて泣いていた。

 ふっと、人の手が肩に触れた。私はその手を振り払うように肩を振る。聞分けの無い私に業を煮やした天之河だろうと思った瞬間、強い力で振り向けられ私を優しく……羽毛蒲団のような柔らかさで包み込まれた。翔様だった。

 混乱した私は翔様のなすまま、ただ只泣き続けた。暫くして落着きを取り戻した私は部屋に天之河がいない事に違和感を覚え、首を振って辺りを見回した。異例の事だった……常に天之河やほかの使用人に囲まれた生活を送る私にとって、翔様と二人きりになれたのはこの時が最初で最後だった。翔様は泣きやんだ私に彼がいつも使っているリップクリームを「戻って来るから、必ず」と言って差し出した。突然の別離に相俟って、早春の寒さが余計に人肌を恋しくさせていたのかも知れない。


 ……私は大切にしまっていたリップクリームを“現在の”翔様に見せた。

「翔さま、これを覚えてらっしゃいますか?」

「もちろん。……でも、何かあったの?」

「“画像”と“声”だけとは、やはり違いますわ」

「実物のほうがいい?」

「はい!」

 街の風景がカラーからモノトーンへ、近現代から幕末へと変わった。街並みを見飽きた異邦人が私達の時間に割り込んだ。

「翔、なんか暑くない?」

 芳夜はいつの間にかブレザーの上着を脱いでおり、襟元のリボンを緩めた手でブラウスのボタンを一つまた一つと外してゆく。

「カーヤ、人前だぞ」

 制止する昇くんを無視してボタンを外す。芳夜の隣に座った翔の位置からは、芳夜の胸元がチラリチラリと否応なしに見えてしまう。

「カーヤ、見えてるぞ」

「いいじゃない、翔。別に減るものでもないし」

「そういうんじゃなくて」

「……フィアンセの前だから?……誘惑なんてしてないもの。暑いから暑いって言っているだけよ。それがどうかしたの?」

 今度は手の平を広げて扇いでみせる。

「ほら、もう直ぐそこだ(から、身繕いを整えろよ)。ん?」

「あ、無い!」

 芳夜は慌てて扇いでいた右手を表裏にする。

「どうかなさいましたの?」

「本当だ。指輪がない」

「どうしよう、お兄ちゃん……」

「翔、どうする?」

「大丈夫、ほらシリウスが出迎えにきたから」

 異邦人達は翔の視線の先を追った。私の愛犬、アフガンハウンドのシリウスが屋敷の車寄せで待っていた。

「そうですね、シリウスに任せておけば安心よ。ね、翔さま」

「そうだね」

「本当なの、翔?」

「俺が嘘をついた事があるか?」

「ううん」

「だってさ、あの犬って、もともと猟犬だろ。噛付いたりしないかな……」

 私は返事の代りに三人に笑顔を向けた。車が停まった。運転手がうやうやしく開いたドアから降りると、シリウスが寄ってくる。

「Sit down」

 翔が明瞭に言い放つ。彼は帰国子女なのだ。シリウスは私の半歩手前で座った。

「へぇ〜“お座り”は出来るのね」

「芳夜、手を出すな」

「平気さ。ご主人様が……彼女が命令しない限り噛まないよ。シリウスが匂いを嗅ぐから少し待って」

 シリウスは芳夜が差し出した右手を長い鼻で嗅いだ。

「どうなの?」

 芳夜は私を見る。

「シリウス、どう?」

 シリウスは主人に答えるように吠えた。

「うん、これでよし。じゃ行こうか」

「翔、これだけ?」

「後はシリウスが探してくるよ」

「そっか、猟犬だから特に鼻が利く」

「ちゃんと学校も卒業しましたの」

「学校?」

 兄妹が声を合わせた。

「あるものを探してもらった迄は、よかったけど、歯形がね……今はそんなことはないとは思うけど」

「シリウス!」

「どうやら見つけたみたいだ」

 車の後部座席から現れたシリウスは一目散に私の元へと戻って来て、一吠えする。“見つけた”の合図だ。四人で車の中を覗き込む。シリウスは一足先に“獲物”を鼻で指し示す為に車内にいた。

「あった!」

 シリウスの鼻先にキラリと光る指輪。

「芳夜さん、よかったですね。ところでその指輪は?」

「芳夜でいいわ。母の形見。だからどんな時も一緒なの」

「私も瞳で構いませんわ。翔さまから聞いているかもしれないけれど、この通り“お嬢様”だから名前で呼ばれる事が少なくて……」

芳夜は指輪を納まるべき場所に戻した。


 ……金の指輪に溜まっていた血が、白い血の気のない指先を伝って一滴、リノリウムの床に落ちた。看護婦が慌てて腕を布の下に隠す。看護婦の後ろには昇君の父親が付き添っていた。

「急ぎなさい。今なら間に合うかも知れない」

「はい」

 昇君と私の声はユニゾンして廊下に響いた。芳夜が腕を差し出して私達に何か語りかけているように思えてならなかった。私は心の中で芳夜に「ごめん、必ず芳夜に会いに行くから、今は翔のところに行かせて」と謝りつつ、集中治療室の扉に向かった。


 扉を開け放った瞬間、そこは将に修羅場だった。床は血に染まっていない部分の方が少ない。けたたましい警告音や無数の機器の作動音、金属同士の擦過音や飛び交う専門用語、そしてその場を支配する緊迫した空気。いずれもが翔が危険な状態にある事を如実に物語っている。何かの器具を取りに来たマスクとゴーグルをした看護士が私達の行く手を遮った。

「だめだ。ここは立ち入り禁止だ。家族はそっちのガラスからにしてくれ」

「私の血を彼に輸血してください。同じ血液型なんです!」

「あーもー、駄目なものは駄目なの。早くこの部屋から出てって」

 引かれたグレーのブラウスの袖の先に昇君がいた。

「駄目だよ、瞳ちゃん。出よう」

 と、その時、腰だけを布で隠した裸の翔に向かい必死に処置を施していた白衣の人が聞き返した。

「え?今、何て言った?」

「家族だと思いますが、自分の血を輸血しろと騒いでいるんです」

「……すぐに部屋に案内して、血液型を調べろ。すぐにだ」


 私と昇君は翔とガラス越しの部屋に案内された。私は血液型の検査を受け、結果、私の言う通り翔に輸血することになった。献血をした事のない私が、初めての献血で翔の命を繋げられるかも知れない……。私は翔が助かることがハッキリするまで輸血をしたかったけれど、年齢で量を制限され200mlしか採血できない。それでも無いよりはましなはずだと自分に言い聞かせて、寝台に横になった。

 私の血を抜きにきた看護士には私くらいの娘がいて、とても他人事とは思えないといいながら、作業を進めていた。

「ふうん、クラスメイトなんだ。その子は」

「幼馴染みなんです。幼稚園からの」

「そうなの。でもどうしてこんなことしちゃたんだろうね。娘もそうだけれど、最近の子は何を考えているんだか、分からなくて困っちゃうよね」

「本当は写真を渡すだけのつもりだったんです。でも」


 ……本当は写真を渡すだけのつもりだった。でもそれができなかったのは、祭りの最終日である宵山の前夜に天之河から手渡された翔様と芳夜の撮った写真が見つからなかったからで、今にして思えば「虫の知らせ」だったのだろうと思う。

 翔様と二人きりでいたい時があったとしても、私は常に天之河か他の侍女が自分自身の影のように側に張り付いている。私の身の回りの事全てを過不足無く執り仕切ってくれる事は有り難く感謝の念は絶えることはないが、時として疎ましく思われたし、その様な境遇とは無関係で自由な芳夜を私は羨ましく思っていた。

 だからこそ、「お祭りが終わったら、会所にいらして下さい」という一言を天之河の口からではなく、自分自身で伝える……芳夜に相談して決めたことだったが、翔様との別れ際「胸騒ぎ」がなかった訳ではない。私と芳夜はどんな事でも話せる間柄で、翔様や天之河に言わせれば親友なのだ。しかし翔様と再会してから時を経るほどに、三人の表と裏の温度差は開く一方になっていた。

 夕闇に提灯で浮かび上がる山車に近付いて腰に差した扇子の根付けを頼りに面を付けた翔様を見つけ耳打ちして「合点承知」と囁かれたはずが、手古舞姿の私を会所に「置いてけぼり」。天之河に話せば迅速に翔様の所在がわかるとはいえ、天之河抜きで会いたいから会所に残っていた昇君に駄目元で尋ねると、「二人して、ついさっき神社に歩いていった」という。

 私は祭りの喧噪に紛れて天之河を振り切って、二人の向かった神社へと急いだ。

 祭りの喧騒の名残とは無縁の境内は、秋の虫が鳴く声しかしない。

 ふと屋敷にある真夜中の蔵の中に閉じ込められた時の事を思い出して私は身震いする。誰にも、天之河さえにも行き先を告げずに出掛けた後、屋敷中が大騒ぎになりお仕置された、そんな場所だ。今回も同じ罰を受けるかも知れない……暗闇に対する怖れは、未だに就寝時も明かりを欠かせない習慣を私に導いたのだった。

 と、風もないのに私の背後で草掏りの音がした。恐る恐る振り返ると、藪からはだけた浴衣を整えながら翔様が出て来た。「翔様」と言いかけた私の目に入ったのは、茂みの中から現れた他でもない囃子手姿の芳夜だった。

「芳夜……なの?」

「瞳ちゃん。……翔様、何?どうして?」

 芳夜の浴衣の裾の乱れ(浴衣を羽織っているだけの状態を“乱れ”と表現出来るのであれば)は湯上がり同然な姿で、私には芳夜にその事を口にするだけでも赤面してしまいそうだし、現にしているかもしれなかった。

「二人とも、どうして?……翔さま、一体どういうことなのですか?」

「……御嬢には悪いと思っている。だから君が思うようにすればいい」

「えっ?翔さまのおっしゃっている事がわかりませんわ。芳夜、どうしたの?何があったの?」

 翔とお揃いの浴衣(「連」から配られる役割毎に仕立てが異なる浴衣で、翔は囃手と舞手を兼ねていた為、囃手である芳夜と同じ出立ちをしていた。大概、大店が広告と日頃世話になっている地元への感謝の気持ちを兼ねて費用を負担するが、私達の連は造り酒屋を営むお父様が負担していた)を手早く芳夜は整えながら苦笑している。

「いまさら……今更、私達に訊く必要があるの?今更、どうするっていうのよ?瞳は私と翔との事を全て知っていて、放任していたくせに」

「翔さま、私という許婚がいるのにどうして?」

「重いんだよ、御嬢の存在が。御嬢には当たり前でも俺には」

「芳夜、貴方は親友だと思っていたのに」

「親友?私が?ハッ、聞いた、翔……これだからお嬢様っていうのは……私が貴女とお友達だったのは、貴女のお父様から頼まれたからよ」

「嘘!」

「あんた、親から何も聞いてないの?」

「……」

「貴女が翔と許嫁になったのは、大手商社の部長……翔の親父さん……とのコネクションのためで、それも貴女の父親が海外進出と跡取り問題を解決したいがためだけに、翔と瞳をそうなるように仕向けただけじゃない」

「……もう一つ、御嬢のウチ、造り酒屋は銀行から多額の借り入れをしていて、 以前からそれが焦げ付いていた。芳夜が御嬢と親友になったのは、芳夜が望んだ事ではなく、君の父親が望んだ事さ。銀行の新支店長として赴任した芳夜の父親とのパイプをつくるためだけにそうしていただけだよ」

「二人とも嘘ばかり……」

「こんな出来の悪い冗談を真顔で言えないでしょ?」

「手の施しようの無い『御嬢様』だな、……失望したよ」

「……二人とも消えてしまえばいい。翔も芳夜も、二人とも私の目の前から消えて居なくなってしまえばいい!」

 咄嗟に口走ってしまった言葉に、私が一番驚いていた。

「御嬢……、フィアンセの君からそんな言葉を聞くとは思わなかったな」

「あ……いえ、今の、わたし……私のではありません」

「じゃあ、メイドの天之河が伝えているのが本当の言葉か?」

「天之河は私によかれと考えて……」

「なるほどね、よくわかった。なら、これ以上話す意味はない。御嬢の希望を “全て”叶えるのが、許嫁としての僕の役目だからね」


 ……思わず口を突いたあの一言が重大な結果を招いたという大きな後悔と、翔が助かるかも知れないという僅かな希望が鬩ぎあい、躯の震えが止まらない。

 採血の針……翔との生命の管を繋ぐ作業に思いのほか時間が浪費されてゆく。病院には芳夜にも翔にも合う型の血液が必要充分な量のストックがあった筈だ。なのに血液が足りないのは何故なのだろう?

 ……別世界に取り込まれようとしている血の気の無い翔をガラス越しに見詰めながら、こんなに近いのに手の届かないもどかしさに苛立ちと焦りを感じていると、先程の行く手を遮った看護士がこちらの様子を確認しに来た。

「ん……順調、順調。ああ、さっきは済まなかった……今日はいつもと違って“ウチの店”は大繁盛……いや、訂正、患者さんが多くて皆気が立っているものだから。訊きたい事は分かってる。……血が足りない訳を知りたいんだろ?今朝方から院内で大量の輸血を要する手術の他に、予定外の緊急オペがつい終了したばかりなんだ。さっきはさっきで、ここら一帯が停電しちゃうし……ま、ウチの病院は自家発電装置があるからなんてことないけど。祭りと喧嘩は二人三脚でやってくるし、手術リレーはあるし、停電で怪我人が担ぎ込まれるし、だから普段はウチの店では使わない予備の集中治療室まで使って救急救命をしている……という訳で“ウチの店”……救急救命室用に確保してある血液だけでは、彼を助けるのには到底足りないんだ」

 悪い人では無い事と、血が足りない訳を私は漸く得心した。状況は最悪だ。血を抜いているからだけではなく、私の身体から血の気が引いた。

「おいおい……お嬢さん、まだ半分もいかないのにダウンかな」

「確かに“お嬢様”ですけど、名前があります。私、星野 瞳です」

「へぇ、君があの造り酒屋の御令嬢か……分かったよ、瞳ちゃん。いや“お嬢様”」

「気安く呼ばないで下さい!」

「いやぁ、おっかない御嬢様だ。ま、これなら最後まで採血出来るね。名前を呼んでくれる……これからも彼に呼んでもらう為にもね」

「……私と彼、許嫁なんです。でも、彼は私の親友と……彼の本当の妹かもしれない従妹と……」

「で、御嬢様はどうしたんだい?」

「私は怖かった。彼が日本に帰ってきたあの日から、いいえ、彼が手紙ではなくメールで連絡をくれるようになってから、変だと思っていた。確かめるのが、彼が変わってしまったのを認めてしまうのが怖かった」

「だが、過去を変える事はできない」

「だから、私、友達に相談しました。初めてお互いを名前で呼び合えた親友に。でも、彼女は私の気持ち……彼をとても大切に思っている気持ちを知って、彼女は彼女自身が彼に抱いていた気持ちを私に悟られないように隠し続けていたのです」

「でも、君はそれを知っていた」

「私には、彼を止める事ができなかった。どうしようもなかったのよ。“許嫁”という関係が形だけではない事を彼に伝えようとしたときに、既に二人は……」


 ……翔から芳夜の移り香がしたあの日、私は怯えた。

 彼は私に説明とも言い訳ともとれる、少し慌てた物言いをして誤魔化したつもりだったようだが、長い付き合いをしていれば、本当に嘘をついたかどうかくらい目をつぶっていても分かる。

「君には身の回りの世話や勉強を教えてくれる天之河がいるだろ、僕ら一般人にはそんな便利な人はいないからね。昇は先に眠ってしまったけれど、芳夜と徹夜してさ。……テストだっていうのに欠伸ばかり出る。山が当たるといいけど」

「……翔さま。私、翔さまを信じています。一度の過ちには眼をつぶります。しかし、それ以上になると、私だけでは屋敷を誤魔化せなくなることをお忘れにならないでいてください」

「心配性だな、御嬢は。“間違い”ってどんな?」

「……それは、……勿論、“今日のテスト”ですわ。星野の跡取りとして恥ずかしくない成績を穫ってもらわなくては、私も恥ずかしい思いをいたしますから」

「……だよな。俺、てっきり御嬢が“そっちの”話をしたのかと思ってビックリしたよ。お父様に『できちゃった婚です』なんて報告できないし。朝から止めてくれよな。また、天之河から俺が白い眼で見られるだろ」

「私……“そっちの”話なんて……私、翔さまと、……翔さまに私を、……翔さまと私が……私、先に教室に参りますから。ごきげんよう、翔さまっっ!」

「おい、待てよ……って。芳夜、アイツなんか耳を赤くしてなかったか?」

「刺激が強すぎたんでしょ、御嬢様には。結婚したら、セックスが好きでも嫌いでも、子作りのために『跡取り息子が出来るまでヤリまくらなければいけなくなる』から、恥ずかしいなんて言っていられなくなるのにね」

「カーヤ、言い過ぎだぞ」

「翔が御嬢としたくなければ、お兄ちゃんが代わりにしてもいいじゃない?」

「芳夜、それとこれとは別問題だろ!」

「誰の種だか判らないのは、私達だって同じじゃない。……もしかしたら……」

 知って欲しいけれど恥ずかしくて、翔さまとそうなれたら素敵だろうなとは思うけれど言い出せなくて、「好きと嫌い」の狭間で私は悶えていた。『唯一の親友と、幼馴染みの許嫁』同時に裏切られるなんて、あり得ない。翔さまの話していた事の方が真実だと思いたかった……


「……今まであった色々な事は記憶喪失のように忘れてしまいたい」

「相談する相手を失った君は、誰かに事実を伝えた」

「天之河はいつでも私の味方だと思っていたから。私にとっては親も同然な人だから」


 ……二人に裏切られた私には天之河しかいなかった。天之河は看過できないと判断したのだろう、翌朝登校前に私はお父様に呼ばれた。

「お父様!」

「大人には色々な事情や都合というものがある。お前も少しはそれを理解しなさい」

「お父様は、私とお仕事とどちらが大切なの?」

「翔君の従兄妹の父親には、うちの暖簾を守るための生命線、多額の焦げ付いた融資の返済を猶予してもらっている。翔君の従兄妹と仲良くして損はない。商売が立ち行かなくなれば、お前が困る事になるのだぞ」

「ですが……」

「お前は翔君が嫌いか?」

「……」

「ならいい。娘の不幸を願わない親はいないよ」

 父は私に背を向けて、右手を頭の横に上げた。会話の終了の合図だった。天之河に促され、私は父の部屋をあとにした……


「でも、君は二人に叫んでしまったんだろ?」

「二人が憎くて叫んだのではないの、只、翔がいない毎日を想像できないし、したくない……ただそれだけだったのに!」

「……『君が悪者だ』とは誰にも言えない。人にはそれぞれの価値観でしか判断できない、正義や悪があるから。君がその償いのために……失われた命と失われようとしている命のために……純粋に彼のためだけではなく、採血を受けているのなら、そんな生半可な事で君の罪は消せるものではないから止めておく事だ」

「彼を……翔様を助けたい。その為になら、私の血が全て失われても構いません。私がこれからする事と私がしてきた事には、既に罰が与えられているから……全ての人に等しく死が……誰が執行するわけでもなく、生が与えられたのと同様に死が与えられているから」

「……わかった。さて、この病院のスタッフのローテーションはいざというときの為に、血液型を等分に配置してある。今いるスタッフで彼に血液型が合う者からの輸血は既にしてあるが、実は彼が運び込まれたときから、非番の者にも連絡をして、彼らももうすぐ到着するはずだ。それまでは、君と彼の生命力だけが頼りだ」

「翔様は助かりますか?」

「『助かる』んじゃない。君が助けるんだ。……先生には内緒だ。あともう一本、頑張れそうかい?」

「はい、覚悟はできています」


 ……あの晩、私は自分の採血が終わったあとも、採血をした部屋で翔を見守り続けた。翔と私を隔てるガラスに体を押しつけるようにして凭れかけさせていなければ、規定量の倍の全血献血でフラフラになった身体を支えていられない程私は憔悴しきっていた。翔の状態は私の血を彼に輸血した正にそのときが最も危険な状況だったが、その後血液が順調に集められたこともあり、明け方までに生死に関わる峠を越した。しかしながら依然として意識不明の重態にかわりなかった。只、或る意味で私は幸福感に満たされていた。

「御嬢様、顔色が宜しくありません。少し休まれたらいかがですか?」

「……天之河、いつからここに?」

「採血の時からおりました」

「もう少しこのままでいたいの」

「はい。……御嬢様、私の気の迷いかも知れませんが、とても幸福に満ち足りているように見受けられるのですが……、いえ、失言でした」

 天之河の指摘は的を射ていた。無事輸血を成し遂げた心地よい疲れと充足感は勿論……

「いいえ、天之河の言う通りね。例えガラス越しであっても翔さまとこんなに長い時間を過ごしたのが初めてだからかしら。翔さまは普段もこんな寝顔をしていらっしゃるのかしら?」

「……」

「ごめん、返答しかねるわよね。そろそろ夜明けね……翔さま、瞳は翔さまのお側でずっと翔さまが目を覚まされるのをお待ちしていたいのですが、お父様のお言いつけもありますので、今朝はこれにて失礼させていただきます……そうですね?天之河」

「……はい、心中お察しいたしますが、御嬢様のおっしゃる通りです」

「ですが、芳夜にお別れをしてから参ります」

「仰せのままに」


 昇君は私を集中治療室に案内した後、姿が見えなくなっていた。訳は直ぐに判明した。薄暗く明かりを落とした霊安室の中央にそっと置かれた寝台があり、芳夜が静かにねむっている。寝台の傍らに街中の食堂で使われているような粗末な三本足の木製の椅子に腰掛け、銀髪の少年がベッドの芳夜に凭れるようにしていた。昇君だった。

「……」

「……」

 彼の自慢だった漆黒の髪は、永年の苦労を重ねた老人のように色素を失い白銀と化していた。私達は息を呑んで言葉を口にする事が出来なかった。彼は奇跡を信じて……彼女の突然の死が信じられなくて、妹に付き添っていたのである。しかし奇跡は起らなかった。

 翔と芳夜の間で何が起きてこのような結果をもたらしたのか、又ついさっきまで私と会話を交していた芳夜が“居ない”現実を受け入れられないのは、私だって同じだ。いくら私と彼女が結果恋敵であったとはいえ、無二の親友であることに違いはなく、尚更「翔との事をこれからじっくり彼女と話し合いたい」と神社で二人と別れてからずっと思っていた矢先の事だった。

「昇君?……昇君よね?」

 いたたまれなくなった私は“彼”に声をかけた。“彼”は私を鋭く刺のある視線で私を睨みつけた。背筋が凍り付いた。

「芳夜……嘘でしょ?」

「……。これが嘘に見えるか?!」

 瞬間、衣擦れがし、一糸纏わぬ芳夜が晒された。マイセンの陶器よりも白く透き通った肌、パリコレの一流モデルを彷彿とさせる均整のとれた身体つき、そして翔と睦み合った乳房や綺麗に処理されたアンダーヘア……嫌が応にも目に付く、左手首に残された深く鋭い切傷痕。

「もうすぐ検死で芳夜はここから居なくなる。犯人が誰にせよ俺は絶対許さない!……例え、それが瞳ちゃんだったとしても」

「昇君……」

「何を言うか!」

 天之河が語気を荒げた。

「これ以上世迷言を申されるな。いずれ犯人には罰が下る。が、御嬢様は断じて犯人ではない。いくら昇様であっても、許されないことがあります。御嬢様に謝罪なさい」

「……」

 一呼吸の間、沈黙が空間を支配する。この場で唯一真実を知っている芳夜が無言で何かを語りかけているような気がしていたのは、私だけではないだろう。遠くの廊下から聞こえてくる病院の朝の慌ただしさが、声にならない芳夜の呟きと錯覚されてならない。私は床に落ちた布を拾い、皺を伸ばしてから芳夜に掛け直した。

「……昇君、少し芳夜と話しをさせて。犯人捜しはそれからにして」

「ごめん、もう訳わからなくて……瞳ちゃん、天之河さん、顔を洗いにいく少しの間、芳夜を頼みます」

 昇君は力無い足取りで霊安室を出ていった。

「芳夜、翔さまの事もそうだけれど、二人でまだ色々話したい事があったのに一人で勝手に途中退場するなんて狡い。でも私、芳夜との約束、守ったよ。翔さまは何とか助かりそうだから安心して」

「……御嬢様」


 ……「御嬢様、大事はございませんか?」

「ええ、わたくしは……しかし、翔さまが」

「三人とも何ボサッとしてるの!」

 私の足元に倒れている翔に芳夜がしゃがみ込む。翔は私と芳夜からのクロスカウンターをまともに受けてリングに沈んでいた。どだい満員電車の中で掴み合いの喧嘩をする事自体、無理がある。私と芳夜の間で起きた些細な意見の食違いが口論となり、エスカレートして抓る叩く髪を引っ張るの場外乱闘。止めに割って入った翔を事もあろうか、二人で排除してしまったのだ。

「……翔さま……どうしよう……」

「ほら、瞳っ!……もうっっ!こういう時まで御嬢様なのっっっ?」

「芳夜、私……どうしたらいいのか……」

「もういいわよっ!」

 処置が分らず、ただオロオロしているだけの私を尻目に周囲の乗客に声をかけ翔の為に座席を確保してから適切な応急処置を施し、天之河に指示して車掌と次の停車駅に連絡させ事後の処置までテキパキとこなしてゆく。

「瞳っ!」

「はっ、はい」

「もうすぐ駅に着くから、翔を降ろすのを手伝って。ほらお兄ちゃんも!」

「ほいほい」

「あ……」

「瞳っ!返事はっ!?……それ位やりなさいよっ!許婚でしょ?い・い・な・づ・け」

「あ、はいっっ!」

「我が妹殿……緊急事態対応大臣の言う通りにしとこうよ、瞳ちゃん。しかし芳夜の未来の夫は間違いなく尻に敷かれる。うん、間違い無い」

「お兄ちゃんは余計な事ばっかり……後が怖いからね!覚えておきなさい」

「くわばら、くわばら」

 私は芳夜には敵わないと思った。普段、公の場では翔は私達の立場に配慮して私を“フィアンセとして”最優先して、決して「瞳」と名字を軽々しく口にせず「御嬢」とか「星野」などと呼んでいるが、何か問題やトラブルが起きた途端に、イの一番「カーヤ」が彼の口から現れる。 

 確かに芳夜は父子家庭で苦労している分、生活一般の事柄については私とは比較にならないほど知識に明るいし、実践ともなれば口だけの私には全く歯が立たない事でも蝋燭の燈を吹き消すように苦もなくこなしてみせる。そんな場面に遭遇して凹む私に芳夜は“彼女のやり方”で叱咤激励してくれるし、翔や昇君は慰めの言葉をかけてくれたり、優しい労りの目射しを注いでくれたりする。だから、芳夜とはずっと親友でいたいし、出来る事なら翔や昇君も加えたカルテットでいたいと思うのだ。

 そうこうするうちに駅に到着すると、打ち合わせ通り各人が行動を起こす。私達が降りたドアのすぐ側のプラットホームには既に担架と救急隊が待機していた。

「あーあー、こりゃ脳震倒だ。嬢ちゃん達、大丈夫だよ。全く困ったもんだ。彼女の前だからっていいところ見せようとするからこんな事になる。まったく」

 待ち構えていた隊員の中で一番偉そうな人が私達に声をかけた。私が「あの……」と口にするかしないタイミングで芳夜が言った。

「お兄ちゃんがいけないのよ」

「え……え?僕が?」

 芳夜が私に眼で合図をした。

「……あのぅ、そうなんですぅ。彼が『妹に手を出すな』ってぇ」

「ちょっ、ちょっと……瞳ちゃんまで?二人共、打ち合わせたのと違うじゃない……えー、ちょっとー」

 救急隊員と駅員の視線が只一人、昇君に集中する。“隊長”が昇君を諭し始めた。

「君、そりゃ気持ちは分らんではないが、満員電車で喧嘩はなあ……喧嘩はいかんよ。……あー、お嬢ちゃん達は心配いらないから……ほら妹さん達にまで心配をかけて、少しは情けないとは思わないのかね?」

「ですから、違うんですって」

 昇は必死に抗弁する。チラと目をやると、天之河が笑いを堪えている。芳夜は『おとなしく観念しろ』と言いたげな目で兄に顎で促す。

「違うも違わないもないだろ?ほら、君らだけでは心配だから……すいませんね、お出かけの途中に」

「いいえ、当然の事をしているだけですから」

「……ほら、ごらん。君以外にいないんだから」

 昇君には済まないとは思ったけれど、話を蒸し返してややこしくしてしまうよりは、このまま話の流れに身を委ねたほうがいい。それに加えて芳夜は先程の『後が怖いからね!覚えておきなさい』で報復するつもりらしく、視線の鍔迫り合いが双子の間でされ、それぞれ哀願と請願の目差しが私に向けられた。

「……昇君、今日こそ言わせてもらいますけど、そういうウジウジしている女々しいアナタには、もううんざり。私達、別れましょ。幻滅だわ」

「瞳ちゃん、そんな……」

「お嬢ちゃん、早まっちゃいけないよ。冷静に、冷静に」

「いいんです。もう決めましたから。それより“隊長”さん、早く彼を病院へお願いします」

 私や芳夜の演技がどうだったかはともかく、私から痛烈な三下り半を叩き付けられた昇君の困った子犬みたいな表情は“演技”ではない。

「う〜ん、だったら仕方無いな。今回はこれに免じて急病人だったという事にしときませんか、みなさん?……よろしいですね?」

 誰からの反論もなく、只一人、目を潤ませた昇君がババを引いてすべてが丸く治まったのだった。


 ……当事者不在のまま、事件はますます混迷の度合いを増していた。不可解な状況を解釈するためには、風穴だらけの行間を想像力で埋めてゆくしか無いのが実情だった。

 心中を装った偽装殺人事件との見方がマスコミに浸透し始めた頃、天之河が屋敷から姿を消した。翔に輸血をしたあの晩に天之河本人から告げられてはいたものの、天之河はまるで蒸発したかのように余りに唐突で、勘違いをした私は直談判して問い詰めるつもりで父の書斎に脚を運んだ。

「その顔は……天之河から話は聞いているな?であれば手短に済む」

「お父様、天之河が屋敷のどこにも見当たらないのですが……」

「そうだ。屋敷から追放した。お前と犯人の監視に不行届きがあったのもそうだが、犯人の助命にも手を貸した。……天之河がお前を唆して輸血した一件だ。私が何も知らないとでも思っていたのか?」

「犯人だなんて……翔様は違います。悪いのは私です。私があんな酷い事を二人に言わなければ……」

「つくづくお人好しだな、お前は。だから泥棒猫に許婚をさらわれる……馬鹿者が。だが案ずることはない。既に手を回してある。お前が事件の表舞台に立つことは金輪際あるまい。今も昔も我が家とは無縁の輩だ」

「罰なのですね、天之河の事も、翔様の事も」

「罰?違うな。今後はお前の自由にするがいい。おとなしく私の言う通りにするか、家から出てゆくか、どちらでも」

「……勘当するという事ですか」

「天之河にチヤホヤされてきたお前に何が出来る?口も出さんが金も出さんぞ。その代わりに全くの自由だ」

「脅しですか?」

「いや、思うところや現実を口にしたまでだ。部屋にある服も家具も財布の中のカードも全て置いてゆく、それだけの覚悟がお前にあるのか?犯人……いや翔君にお前はそこまで出来るのか?……どうだ、瞳?」

「…………お父様のおっしゃるままに」

 父の指摘通り、私は「我儘で世間知らずなお姫様」だ。

 今まで当たり前と思っていたあらゆる事柄は全て「当たり前」では無かったと思い知らされた瞬間、優しい友達たちは私に優しさを振り撒いていた訳でなく、屋敷の使用人達がかしづくのは私の後ろにいる父の姿であり、翔が芳夜に魅かれたのは二人が一緒に過ごす時間が長かったからではなく、単に我儘な私に愛想をつかしただけだった……美しく飾られた表面の内側や裏側の現実が怒濤となり押し寄せ、私にはなす術が無かった。

 それが為に尚の事、私と翔の板挟みとなって自ら命を絶った芳夜に申し訳が立たず、例え父が私と翔や芳夜との過去を抹消出来ても私が背負う罪と罰は骨の髄まで刻まれた入れ墨か烙印のように永遠に消えることはない。

 私が翔に輸血することを申し出たのは私にとっては至極当然であったとしても、命を取り留めた翔が目覚めた時、翔は私を恨むに違いないとさえ私には思えた。

「……済まんな、瞳。今回だけはお前達のしている事に目をつぶる訳にはいかないのだよ。私ができたのは、瞳をマスコミから遠ざける事だけだった。屋敷でこの一件を知るのは三人だけだ。天之河は後の憂いを考え自ら屋敷を出て行くと私に申し出た。お前一人が悪いのではない。先代から後を頼むと言われて屋敷に入った私の不行き届きから始まった事だ。大店の暖簾がために、これまでは体面を繕わせて苦労をかけたな……」

「お父様……」

 厳格で口うるさい父の疲れた姿を正直見たくはなかった。私自身や翔の姿がだぶって、見ていられなかった。が、私はもう現実から目を逸らさない。芳夜にしてやれる償いはそれ位しかできそうになかった。


 ……「瞳、逃げちゃダメだよ」

「芳夜……」

「今は許婚の関係は瞳に対する義務だと翔が思っていたとしても、瞳が逃げたり諦めたりしたら彼の思う壺よ」

「芳夜、私、翔が私の事を義務で優しくしてくれるなら、翔と私の婚約は父に話して取り消して……」

「ほら、舌の根が乾かないうちにこうなんだから、瞳は。ほんと、瞳は御嬢様なんだから。手っ取り早く彼を問い詰めたらいいじゃないの」

 私は芳夜に翔とのことをよく相談した。天之河には聞けない事も芳夜は相談にのってくれた。

「……いっその事、既成事実を作っちゃえば?」

「え?」

「いいじゃない、中学生が妊娠したって。翔を誘惑してヤっちゃうのよ」

「え……えっ?」

「まさか、瞳って……処女?」

「私、翔様に綺麗な身体をとっておきたいから……芳夜、私、変かしら?」

「いや変とか変じゃないとかじゃなくて……瞳ちゃんて奥手なん……本当に翔が好きなんだね。なんか“あの翔”には勿体ないよ」

「あ、いえ、翔様に勿体ないなんて……とんでもありません」

「翔なんてさ、海外にいた時に……あ、何でもない。海外にいた時のブランクがあるし、二年も離れていたら瞳だってアチコチ女っぽくなるし、瞳に面と向かっているのが照れくさいだけじゃないかな?そう、きっとそうよ。ね、瞳?」

「そうだといいけれど……」

「う〜ん……じゃあ、こうしない?あたしとお兄ちゃんて、パパが帰るまで翔の家で居候しているじゃない。翔にそれとなく聞いてあげる。私、健気な子を見ると応援したくなっちゃう質なの。どう?」

 芳夜に痛痒い処をピンポイントで指摘された私は、耳が暑くなる程ほてってしまった。

 芳夜の言うように『いっその事……』と思い詰めた事は一度や二度ではない。考えても実行に移せない自身の腑甲斐なさに苛立ちを隠せず、それを誤魔化すために翔に我儘を言って困らせるのが関の山で、嫌がられるのが分っていながら、でも自分ではどうしようもできない。

 だから、芳夜の申し出は事態を打開する契機になりえる魅力に溢れたものに映る。

「芳夜、……貴女は何故そうまでしてくれるの?」

「何故って?親友が困っているのを、手をこまねいて放っておける訳が無いじゃない。普通でしょ?それって」

 芳夜はそれが至極当然とばかり私に問いかけた。

「芳夜、ありがとう」

「どうしちゃったの、瞳?」

「ううん、何でも無い……芳夜、私達ずっと一緒にいようね」

「勿論!……じゃあ、二人が結婚しても新居で三人暮らし……」

「そっ、それは……」

「とか言っちゃったりして……冗談よ、冗談」

「もうっ、芳夜ったら」

「冗談はさておき……瞳、瞳が思った通りすればいいんだからね。それで彼が瞳をそのままにしておくのなら、打算で将来の事を含めて考えない翔が馬鹿だっただけの事。そしたら、彼……翔に瞳から直接引導を渡せばいいのよ!」

「翔さまが打算だなんて……」

「瞳、瞳には翔が最初で最後の人になるだろうからそんな呑気な事が言えるの。多かれ少なかれ男ってみんなそうなんだから。“経験者”の私が言うんだから本当よ」

「経験者?」

「まぁ、色々とね……」

 芳夜は意味深な笑みを浮かべた。

「大船に乗ったつもりで安心なさい。翔と瞳をうまく取り持ってあげるから。愛のキューピットってとこかしら……瞳って御嬢様然としている割には心配性なんだから」

「でも……」

「実際、学校の中だから、あの“歩く規則”みたいな……」

「もしかすると天之河の事?」

「そうそう、彼女がいないからこんな話しが出来るのよ。瞳の為に身の回りの雑事を片付けてくれても、『翔を振り向かせるには……』とか教えてくれないだろうし。でしょ?」

 ある一面正解で、ある部分では違っていた。結論・ゴールは同じでも事の進め方が“大人”かどうかという点について。天之河は私の相談事には役割上、無論対応するが、どちらかといえば『些細な事柄にいちいち気を揉む必要はないから“御嬢様”でいればよく、それより更に自身に磨きをかける事の方が肝要』なのだという。私にとってより条件の良い相手が見つかれば、婚約破棄も辞さないという思惑が見え隠れする。気持ちの問題も大切だが、生活の糧となるのはやはりカネだという現実認識がそこにあった……。

 父の書斎から出ようとして、ふと頭によぎったのは、父が“私を自由にする=家業の継続を断念する”という事だった。

「……お父様、一つだけ確かめておきたいのですが、店をたたむおつもりですか?」

「天之河の入れ知恵か?」

「いいえ、たった今思い付いた事です」

「……心配するな。瞳、お前が考えているような廃業ではないよ。老舗の看板の使い方はもの造りや商品販売だけではないということに気付いただけだ。酒蔵博物館の構想のヒントはお前の許婚からの一言がきっかけだから。このような事にならなければ、私は諸手を広げて翔君を迎える事も出来るが、瞳、お前を守るにはこれしかなかった」

 父はこの後、天之河の友人に新聞記者をしている人がいて、彼を通じて、私と翔が「何の関わりもない事実をでっちあげた」と告白した。ほとぼりが冷めるまでには時間が必要だから、少なくともその間は身を慎むようにと私を諭した。

 私はそうした父の手前があり弔問どころか、人づての弔電ですら許されない立場にあった。お嬢様にありがちな都合のいい言い訳だと思われている事は周りが口にしなくてもよく分かる。芳夜の葬儀が「担任の先生と校長以外は近親者だけ」の密葬になったという事を新しい侍女から聞かされたときは、芳夜に済まない気持ちで心が張り裂けそうになった。

 私の輸血で辛うじて命を取り留めた翔は、事件以来一向に意識を取り戻す気配がなく、(父が手を回した事が大きな要因ではあるが)当事者双方の両親が芳夜と翔が双子である事実を明かさなかったため、翔の意識の回復に関係なく事件は偽装心中事件→冤罪→推定無罪と進み、父が目論んだシナリオ「翔に社会的制裁を与える」方向へと展開していった。

 私と外部、殊にマスコミとの接触を避ける必要から外出が制限され、家と学校を車で往復するのが私の日課になった。幸いな事に屋敷は一街区を占める広さであったため、気分転換の材料には事欠かなかったが、クラスメイトやメイドから人伝に聞く翔の容態が頭を離れず、私はふさぎがちになった。

 習い事を始めたのは「考えたり思い出したりする暇を無くして、早く事件や翔の事を忘れさせよう」とする両親の勧めもあったが、私にとっては実際のところ翔を見舞うための口実に過ぎなかった。屋敷に来てもらうお茶やお華を除けば、なるべく屋敷の外に通うものを選んだ。決めた後に侍女の口から報告を受け呆れ果てたのか騙された振りをしているだけなのか、父も母も何も言ってはこなかった。

 無論、常に監視の目は付き纏うが、監視者の目や口を塞ぐ「袖の下」さえ欠かさなければよいだけの事だった。時として露骨に要求してくる侍女もいたが、彼女達を「クビ」にする理由には事欠かなかったし、彼女達も別件の不祥事(袖の下)が露見してしまう前に円満な退職や解雇をすすんで受ける事の方がむしろ多いくらいだった。


 “事件”から三か月程を経たある日の夕方、私はクレー射撃の帰りに翔の病室を見舞っていた。翔の病室は相部屋ではなく個室で、マスコミ対策に関係者以外立ち入りが制限された特別な病棟にある。出入りが可能なのは眼球の光彩をあらかじめ登録した人物に限定され、たとえこの病院の医者や看護師であっても、光彩登録をしない限り翔のいる病棟へ立ち入ることすらかなわない。

 外出のままならない私が予め登録できたのは、“事件”が起きたあの夜に天之河が翔の両親にマスコミ対策を伝え、翔の両親共々段取りをしていたからだった。

 病棟と病室それぞれの光彩認証を通過して室内に入ると、いつも通り翔の母親が付き添っていた。

「こんにちは、おばさま」

「あら今日は早かったのね、瞳ちゃん」

「クレーが無くなって、途中で切り上げるしかなかったんです。……有り得ないですよね、本当に」

「おやまあ、そうだったの。珍しい事もあるものね。おばさん、クレー射撃の事は良く知らないけど“お皿”が無ければどうしようもないわよね」

「ええ。……翔様はどうです?」

「“相変わらず”よ。さっき回診に来た担当の先生が『低酸素状態だった割に検査では脳に機能障害もないのですが、意識が回復しない事には……』だって。まあ気長に待つしかないわね」

 翔様のお母様(天地 慶子さん。“かつては”お義母さんとも呼んでいたが、この一件で私と翔の婚約は翔の両親からの申し出で破棄された。以来、私は“おばさま”と呼んでいる)は諦め顔で答えた。

「おば様、私が来たことですし少し休憩なさって下さい。お疲れですわ」

 化粧で巧みに隠してはいるが、長期の看護と心労がハリやツヤの無い声に色濃く現われている。おば様に私が出来るのはそれ位しかない。天之河がいた頃の私なら気付いたとしても、知らない振りをしていただろう。

「そう?じゃあ瞳ちゃんがいいって言ってくれるなら、ちょっとだけ……コーヒーか何か買って来ようかしら。瞳ちゃんは何がいい?」

「私は……」

 ためらいもあったが、変な遠慮をして気を使わせてしまうよりはマシだと思って、素直に私は返した。

「おば様と同じものにします」

「了解、了解。この子が元気だった頃は学校から帰ってくると、いつも決まってサイフォンでコーヒーをいれてくれてたっけ……あ、ごめんね瞳ちゃん、しんみりした話をして」

 目の前で眠り続ける翔。私に見せなかった姿を知ることは、一層淋しさを掻き立てさせる。反面、翔の意外な一面を垣間見ることができて嬉しい。私の微妙な表情の変化におば様は語りかけた。

「面倒見のいいカーヤ……芳夜ちゃんがしてたと思われがちだけど、それが翔の独壇場なのよ。……意外だった?」

「それもありますけれど、それを私に教えてくれなかった芳夜に嫉妬しちゃいます」

「“妹”だから、かもね……いずれ瞳ちゃんには話さなければならなくなる時がくるだろうから」

 驚きは無い。薄々感じたり思ったりしていた事実を確認できた、という感がある。おば様は私が“鳩に豆鉄砲”な状態と思ったようで、“詳細は後で”というニュアンスの言葉を私にかけて椅子から立ち上がる。

「今日は変わった事が色々起きるわね。変わったことついででいいから、目を覚ましてくれるといいのだけど。……そうね、白雪姫とか眠れる森の美女とかみたいに」

 おば様はそう言い残して病室を出ていった。奇跡が起きるのなら、王子がしたように私もしていただろう。専門医がさじをなげるしかない翔の状態を“私が変えられる訳がない”と思った瞬間、どこからか芳夜の声が聞こえたような気がした。

……「やってみなければ分からないじゃない」


 芳夜は私の目を見て静かに断言した。

「やってみなければ分からないじゃない。翔がどう思っているかが問題じゃなくて、瞳ちゃんが後で後悔しない方がいいと思うよ」

「……」

「ねーねー瞳ちゃん、この紅茶、とっても香りがいいよね」

「……え?」

「どお?」

「……話してみる」

 芳夜がうなずいて辺りを見渡す。ウェイトレスが芳夜に気付いて私達の窓際の指定席に来た。芳夜はウェッジウッドのティーカップを指す。

「じゃあ瞳ちゃんもね……すみません、この紅茶をポットで……あと今日のケーキも二つ!」

「かしこまりました」

「あ、」

 ウェイトレスの脚が止まりかける。

「どうしたの、瞳?」

「私、翔様の事かと思って……どのみち話は長くなるから頼んで」

「そういうコトだから」

 ウェイトレスは一礼すると、ヒールの音を残してテーブルから離れてゆく……。  


 おば様は休憩ではなく私達の為に席を外したのかも知れない。廊下を遠ざかるパンプスの足音はゆっくりで、病室の様子に耳を峙てているかのように思えたのは、あたかも芳夜がそこにいて私の行いを監視していると“事件”以来錯覚し続けていたからなのだろうか。翔と話したい……ふと湧いた欲求が私に予想外の行動をとらせる。

 ベッド脇の椅子に腰を下ろす……窓からの風でそよぎ乱れた翔の前髪を指先で整える……椅子から浮いた体を支える腕を枕の左右に置く……頬に当たる翔の鼻息が甘くこそばゆい……今度こそ芳夜から奪い返せる、という達成感が込み上げると同時に背徳感や戸惑いが込み上げる……と、僅かに触れた翔の唇が、血の繋った妹の名を口にした。

「芳夜……芳夜なのか?」

 光に慣れないせいか翔は薄目を開きかけたままなので、私が誰か判らない。

「翔様、瞳です。お目覚めになったのですね」

「……なんだ、御嬢か。実験は成功したのか?……芳夜は?芳夜はどこに?」

 今、総てを伝えてしまうべきかどうか暫時の葛藤の末に翔の体を抱き起こしながら言った。

「お義母様がコーヒーを買いにゆかれていますわ。天之河から聞いておりませんので分かりかねます」

「そうか、そうだろうね」

 嘘をついている訳でもないのに、胸がくるしい。嬉しさと哀しさが相まみえてボロボロと涙が溢れてくる。

「翔様、瞳は翔様とこうしてお会いできる事がとても嬉しゅうございます。……あれ、どうしよう、涙が止まらなくて」

「好きなだけ泣けばいいさ。何かとても長い夢を見ていたような気がするんだ。勿論、みんながいて夢か現実か見分けがつかない……少し疲れた、横になってもいいかな?」

「翔様、私の肩に手を……」

 翔様を抱きかかえて静かに横たわらせる。病床三か月、翔様が私の背中にまわした腕に力強さは無い。私を不思議そうに見つめる翔様の瞳が目の前にあった。

「翔様、どうかなさいましたか?」

「……いや、気のせいか。今の今迄、こういう時間を御嬢と過ごした事が無かったなぁと思って」

薄掛をかけようとした私の背後で、缶が床に接触する甲高い音が響いた。

「翔?翔っ!」

 おば様だった。足許に転がるコーヒーの缶は捨置かれ、おば様は倒れるようにしてベッドに駆け寄る。

「おば様、つい今仕方“奇跡”が……お知らせに参ろうかとも考えましたが、すれ違いになってもいけないと思いましたので」

「瞳ちゃん、私どうしたらいいか分からなくて……」

「私、担当の先生を呼びに行きます」

私は病室を飛び出した。




 ……お兄ちゃん。お兄ちゃんは他人だったけれど、あなたは私の本当の兄のような人でした。だから、私はお兄ちゃんが本当のお兄ちゃんではないと、分ってしまったのかもしれません。とても悲しかったけれど、とても嬉しかった。私の最期を看取ってくれたのが、お兄ちゃんだったから……




 ……瞳ちゃんが「渡すものがあるのに姿が見当たらない」と言って会所にいた僕に二人の所在を尋ねてきた時は、「どうせ、いつもの事だろう」と高を括っていた。 

 瞳ちゃん……クラスの連中は彼女を何不自由ない身の上に対する羨望の目差しと周囲を振りまわす世間知らずな言動への蔑視から「お嬢」と呼ぶけれど、彼女はそんな手合いをシカトしているのか受け入れているのか気になっていた僕は、僕らが引っ越して間もない頃、彼女に尋ねてみたことがある。

 「星野さん」は予想にはなかった「ファーストネームで呼んで貰いたい人がいるから」とだけ答えた。そう、翔は許婚の瞳ちゃんを名前では呼んだ事が無い。どういう経緯であれ、大抵の場合「星野」とか「お嬢」とか周囲と同じように翔は許婚を呼んでいる。瞳ちゃんには必ず侍女の天之河さんか御付きの人がいた為とばかり思っていたが、実際はそれだけではなかったという事を理解するのにそれ程時間は必要無かった。

 父子家庭の僕らは下校するとまず翔の家に向かう。引っ越したばかりの時に銀行員である父の深夜の帰宅を待つ僕らを不憫に思った翔のママが、夕飯だけでも一緒にどうかと父に持ち掛けたのがキッカケだった。父の帰りを待って家族で食卓を囲む習慣を当たり前と思っていた僕と芳夜にとって、普通の家庭の習慣を再発見する重要な転換点に遭遇し新鮮な驚きを覚えたことは勿論、特に父は長年の懸案(上司や取引先から持ち込まれる再婚話「多忙な身の上では、やはりバックボーンである家庭をしっかり守る人が必要だ」)から開放される事に諸手を挙げて喜んだ。

 以来、ベッドや蒲団に包まれる時以外、僕らはまるで「三つ子のきょうだい」のように過ごしている。僕は前から兄弟がいたらいいなと叶いもしない願望があったし、芳夜は芳夜で母親……姉というよりは友達よりも関係が近くて濃い同性の存在をつまりは父に再婚をねだって「全くお袋みたいな口をきく」と父を愚痴らせていたから、逆に今の変則的な「里親」生活が当たり前なのだと思うようになった。

 話がだいぶずれてしまったが、翔と瞳ちゃんは公式な関係「許婚」と実際の「付き合い」には大きな隔たりがあった事は、僕の知る限りでは偽りのない事実だ。銀行勤めの父と同様、翔の父親は商社勤めの転勤族だ。ほぼ二年ぶりに日本の自宅に戻った翔の後を追うようにして一月と間を置かず、僕と芳夜が翔のクラスの転校生となった。

 ところが翔と瞳ちゃんが「公式」の関係になったのは、翔が日本を離れる直前の事だった。僕らもそうだし翔もそうだったが、目まぐるしい環境の変化に伴って僕らは変わったけれど、「お嬢」は「お嬢」のままだった。恐らく異文化に接した翔の価値観や視野の変化は、「奥手で天真爛漫な瞳ちゃん」を「世間知らずで我儘な深窓の御嬢様」に置き換えてしまったのだと僕は思う。要するに翔にとって「お嬢」は御荷物やら腐れ縁やらになってしまったという事なのだ。一つ屋根の下、共通項を持ち境遇を分かち合える同じ方向性の思考の持ち主が触れ合えばどうなるかくらい瞳ちゃんも解っていい筈なのだが、自分をファーストネームで呼んでくれない許婚との「掛け橋」によりによって親友と自分で決め付けた芳夜を選ぶ感受性やセンスの無さに、僕は翔に同情を禁じ得ないし、もしかしたら瞳ちゃんはプライベートな関係とオフィシャルな関係を使い分けて許婚の素行不良に目をつぶっているだけなのだとすれば、完全に破局を待つだけしかない立場を憐れに感じざるを得ない。

 その瞳ちゃんの話だと、二人と祭が終わったら会所で会う約束だったという。瞳ちゃんの影のように付き添う侍女の天之河さんにも「たまにはわからない事があるのか」と感慨にひたっていた僕は、ついさっき二人とすれ違っていた事を伝えるべきかどうか迷いはあったが、結局ありのままを天之河さんに伝えた。

 ややこしい関係の板挟みとなり悩む妹の姿を、これ以上見て見ぬ振りは僕にはできそうにない。瞳ちゃんは自分の恋敵である親友、つまりは妹の芳夜に相談を持ち掛けていたからだ。

 天之河さんは僕の話を聞き終わるか終わらないかのうちに慌てた様子で会所を出ていった。駆出すのと、携帯をかけるのが早撃ちガンマンさながらにワンアクションだ。一分もたたないうちに会所の前に瞳ちゃんのベントレーが横付けされ、会所を後にする。会所にいた人達でさえ呆気にとられている間に一連の動きが起きたので、瞳ちゃんが会所をいつ出ていつ戻って来たか記憶している人は殆どいないだろう。

 かれこれ僕も忘れかけた頃、恐らく小一時間くらいは経っていただろうか。瞳ちゃんがいつの間にか会所にいた。会所の奥、つまりは瞳ちゃんの家である“屋敷”のほうから、会所に集まった界隈の人達の応接をするために“着替え”をして現われた。錯覚に陥りつつも僕は彼女の目尻にのこった涙の跡を見つけた。或る意味、僕に隙を見せた事のない瞳ちゃんにしては珍しい。声をかけないのも不自然な雰囲気、というよりか周囲の総意として“御嬢様に何があったのかお前が尋ねろよ”と暗に示唆する視線を浴びた僕は、事情を理解している自分に嘘をつきながら、ただそれでも不自然でないように“否応なく”瞳ちゃんに話しかけた。

「瞳ちゃん、何かあったの?」

「イヤッ不潔!近寄らないで」

「ごめん、汗をかいてて着替えがまだだから……」

 瞳ちゃんは“僕を見て”いなかった。

「瞳ちゃん?」

「みんな、みんな私を騙していたのね!三人ともグルになって」

 僕は瞳ちゃんの涙の理由を知っていたし、今更彼女に隠す必要も無かったが、それでも時と場所と彼女の立場を考えて僕はトボケた。

「瞳ちゃん、僕は瞳ちゃんの話していることが分らないよ」

 瞳ちゃんの揺れる目は明らかに涙を溜めていた。その瞳に鋭すぎる怒りの感情が剥き出しになって燃えていた。瞳ちゃんは自分も周囲も見えていないのだろう。もし、天之河さんが彼女を止めなかったら、その場で瞳ちゃんは全てをぶちまけていたに違いない。

「昇様、申し訳ございません。お嬢様のお召しになっている振り袖は、特に“お気に入り”ですから。お嬢様、昇様がよろしければ、奥で浴衣に着替えていただくのはいかがでしょうか?」

 瞳ちゃんにとって、天之河さんの言葉は彼女の両親の言葉以上に重い。瞳ちゃんは天之河さんの心の言葉を聞いて、その場を取り繕う必要に気づいた。

「天之河、いえ、昇君の事ではなくて……違うの」

「それじゃあ僕、帰ってシャワーでも浴びようかな」

「待って」

「え?」

「今はまだ早いと思う……いえお屋敷の話。シャワーなら客間でなくて、奥のを使ってください。それに昇君と話をしたい事がありますから」

「ふうん、じゃあお言葉に甘えて。あ、でも着替えがないや」

「……天之河、新しい浴衣を用意して」

「かしこましました」

 正直いって、シャワーを浴びている間、「事実を初めて知って驚いた表情をどうやって作るか」という事ばかり思い巡らせていた。

 それというのは会所で一瞬は取り乱した瞳ちゃんだったが、僕と屋敷内を移動する時には先程の情緒不安定な状態から普段の彼女「御嬢」に戻っており、僕には彼女の不自然さが気にかかっていたからだ。

 屋敷はバカに広く、祭りの会所である店先から応接用の離れを経て母屋につくまでの廊下で、「翔や芳夜と何があったのか」何度か尋ねようとする雰囲気になると瞳ちゃんは話題を逸らす。ギクシャクとした歯切れの悪いやり取りで次第に言葉数が少なくなった頃、浴衣を携えた御手伝いさんみたいな人が僕らに合流した。

「昇様、シャワーを浴びたらこの者がご案内いたします。お嬢様、参りましょう」

 明らかに僕は監視されていた。僕が真実を白状しない限り、屋敷から出してもらえないだろうと薄々感じていた。普通なら混乱を避けるために賊を追い出すのが、天之河さんの役目でもあろうものを、僕はその天之河さんに引き止められた。

 そして寸鉄帯びない状態にされ着慣れない浴衣に袖を通した僕が通されたのは、客間や応接室ではなく離れの茶室だったので、軟禁され尋問を受けることが確実に思えた。

 ところが茶室に現れたのは瞳ちゃん一人だけだった。

「あれ、天之河さんは?」

「用件があるみたい。それと、まず……さっきはごめんなさい」

「ああ、さっきの。汗でべとべとしていたし、それに僕は別に気にしてないから。“でもグルになって”って……」

「私の勘違いですわ。ありえない話ですもの」

「よかった、わかってもらえて。ほっとした」

 その言葉は僕の本心だった。でも、実際は瞳ちゃんが一枚上手なのかもしれなかった。

「ところで、翔とは会えた?」

「……ええ。でも……」

「でも?」

「ううん、何でも無いの。話したかったことは話せたし、渡したかった写真も渡せたし。それで充分なの」

「そっか。でもさ、さっき……泣いてたの?」

「泣く?私が?」

「だから会所にいた人たちはみんな“御嬢に何かあったのか”っていう雰囲気だった」

「それこそ誤解ですわ。化粧が、曳っかわせの時に白粉のかけらが目に入って、どうしようもなくて」

 あの御嬢がこんなに上手く嘘をつける訳が無いと僕は思っていたし、それなりに筋が通っていた。

「あの白粉が目に……尖ったのを目に向けられただけでも僕は駄目なのに、目に白粉のカケラが入るなんて想像しただけでもゾッとする」

「昇君は先端恐怖症なのね……何かがトラウマですわね」

「芳夜に包丁を向けられた事があって、それから駄目で……」

「面白そうな話だけど、昇君ちょっと待っていて。お茶菓子を持ってくるから」

「お茶菓子?」

「だってここは茶室ですもの。気を落ち着かせるのにはこれが一番ですから」

 瞳ちゃんはそう言い残して茶室を出た。

 変だと思った。落ち着きたかったのは他でもない瞳ちゃん自身ではないのか。白粉の件だって、曳っかわせの時が事の起こりなら、会所にいた僕に瞳ちゃんが翔達の行方を尋ねた時、既に目が痛かった筈なのにどう曲げて解釈しても有り得ない。

 恐らく天之河さんの入れ知恵なのだろうと僕は思った。で、あれば何故瞳ちゃんは見え透いた嘘をつく必要があるのだろうか。もし「何か」があれば、瞳ちゃんが真っ先に疑われてもおかしくはない、などと想像を巡らせているうちに瞳ちゃんが「道具」を携えて再び現われた。

「お待たせしてごめんなさい。会所に来たお客様に一服を出すのでいつもと勝手が違うから、探すのに手間取っちゃって」

「ただでさえ屋敷が広いから大変だね」

 瞳ちゃんの「いつも」を知らない僕だが、お嬢であればこそ、彼女が言葉を口にするだけでお茶菓子なんかどこからか飛んで来て揃ってしまうだろう。

 不自然だった。瞳ちゃんをして状況を裏で把握している人物が瞳ちゃんの背後にある襖の向こうにいる気がしてならない。

「そっか、天之河さん出掛けちゃったから、瞳ちゃんがいろいろしなくちゃいけないんだね」

「そうなの……不慣れで不手際があっても、昇君、赦してくれる?」

「赦すなんて……不手際かどうかなんて、作法を知らない僕には分からないから、安心して。あれ?全く、フォローになってないや」

「本当ね」

 僕は苦笑し、瞳ちゃんは口許を隠して肩を揺らす。瞳ちゃんは坐してお茶菓子を僕にすすめた。

「お一つどうぞ」

 瞳ちゃんから差し出された真新しい杉の板は、一つの角を切り落としてある。

「饅頭?」

「ええ、郡山名菓 柏屋の薄皮饅頭」

 ボッタリとした形は、杉板を押し潰しているようで重量感がある。

「ああ柏屋の」

「あら、ご存じでしたのね」

「何年か毎に転校しているから。でも何年ぶりだろう……すごく小さな頃だったから、饅頭をオモチャにして顔じゅう餡だらけになった記憶だけはあるなあ」

 瞳ちゃんは、手際良くお茶を立てながら、ふふふと含み笑いをした。

「多分写真があったはずだから、今度うちに遊びに来たときにカーヤに聞いてみて。アイツが言うには、『アルバムにとってあるのは、お兄ちゃんの恥ずかしい証拠写真だけ』らしいから」

「今日は餡だらけにならないで下さいね。またシャワーにご案内しなければなりませんもの」

「だよね。折角貸してくれた浴衣だから、次の機会にするよ」

 その時、僕は一息ついたら早々に退散するつもりだったが、いつもより饒舌な瞳ちゃんはなかなか僕を帰らせようとはしなかった。

 僕が瞳ちゃんちの壮麗な表門から足を踏み出した頃には、すっかり日が暮れてしまい叢から秋の虫の合唱が聞こえていた。


 履き慣れない下駄とうまくさばけない浴衣の裾のおかげで、いつもの倍は歩いたように思えた。正直、社宅マンションのシルエットが見えた時はほっとした。カーヤがいう“静かな箱”にたどり着き、階数表示が移りゆく様を他人事に眺めながらお嬢との別れ際を思い浮かべていた。

 本来翔が袖を通す為にお嬢が誂えた浴衣と帯と下駄だったが、終始お嬢はそのことに何も触れなかった。車で送らせるというお嬢の好意を丁重に断り、家族用の玄関で見送られていたとき、下駄の鼻緒の内側に刺繍された名前で翔に誂えたものだと気付いた。

 着替えをくれた事に礼を言うと、お嬢は何かを言いかけてから、話を逸らした。てっきりカーヤと翔の事で決着をつけた、いや翔本人から三下り半を突き付けられでもしたのだろうと思い、僕は追及しなかった。お嬢も触れて欲しくなかったらしく、安心しながらもぎこちない様子だった。

 安心といえば、うちの社宅はセキュリティーが割りとしっかりしている。エントランス、エレベーター、玄関扉の三箇所に虹彩認証を使っている。居住者か住込みの管理人、それらの人達が手引きをしないと家までたどり着けない。

 安心と安全に裏打ちされた社宅は人気があり、一般行員はキャンセル待ちをするが、支店長の父は少々の職権と警備上の理由という大儀名分で居住権を得た。玄関扉の脇にある認証カメラに顔を向け、瞬間的に機械が確認をして鍵が自動で開く。いつもと同じだったのはそこまでだった。

 開いた途端、鉄錆のような臭いが鼻腔を満たした。鼻血かと思って鼻に手をあてがったが、違っていた。多分先に帰ったカーヤがシャワーを浴びているからだろう、勢いのある水音がする。浴室のカーヤを驚かせないように「ただいま」と声をかけても返事はない。

 玄関の大理石にカラコロと下駄を放り出し、気にする必要が無くなった浴衣の裾を絡げ上げて帯に押し込む。廊下を曲がって鉄錆の臭いがしている理由が目に飛び込んだ。フローリングに足の踏み場が無いくらい点々と続く「赤い水溜り」を見た途端、何かが起こっている事は理解できても、どうしたらいいのか分からくなった。警戒しつつ先に進むしかない。

 「赤い水溜まり」に素足を浸しながら、水音のする風呂場に向かった。

 バスルームの曇りガラス越しにカーヤの姿は確認できない。前に僕と翔を勘違いしたカーヤがシャワーを出しっ放しにして、裸でバスタブに隠れていたこともあった。ただし今回はイタズラにしては演出が大袈裟過ぎる。

 恐る恐る入った浴室内は、換気扇が作動していない為に湯気で濛々と煙っていた。目を凝らして見ると、スライドバーに固定されたシャワーヘッドからバスタブ、バスタブから洗い場へお湯が溢れ出している。浴槽の液体はやや血液が薄められたようなピンク色を帯びていたが、原因はここではないようだ。蛇口に手を掛けようとすると、アイボリーのユニットバスに唯一血液が付いている事に気付いた。蛇口を締め、手に付いたその血を浴衣に擦り付ける。

 「赤い水溜り」の跡を追って……血痕は浴室から迷うことなく芳夜の部屋に続いていた。血液でぬめったフローリングに何度も足を取られそうになりながら、芳夜の部屋の前に辿り着く。廊下を折れた先にある扉のノブや周囲の壁は赤い手形で埋め尽くされていた。扉の僅かな隙間から明かりが漏れている。ドアノブにはベッタリと血糊がついていたので扉本体を指先で静かに触れると、抵抗無く押し開かれてゆく。

「嘘だろ?冗談きついよ」

 一糸とまとわない姿のカーヤがヘッドに横たわっていた。振り返って携帯を手にした瞬間、首筋に鈍い痛みを感じ、崩れる視界の片隅に「白い指」が映った。透き通ったように「白い指」の先から赤い滴が滴り落ち、意識が途絶えた。


 濁った意識の奥からオートロックの呼び出し音がする。気づいてリビングのソファーから立ち上がり、オートロックのモニターの前に立つ。画面に映ったのは、白い「防護服」だった。

 応対する声に戸惑いが感じられたのだろう、現れた「防護服」はフルフェイスの仮面越しにくもぐった言葉で語りかけてきた。

「望月さん!救急隊の者です。扉を開けて下さい」

 僕は疑い迷う事無くオートロックを解除した。一人の状況から開放された安堵感で力が抜けてしまい、とりわけ時間や音の感覚が麻痺したせいだろうか、「防護服」の彼等がリビングでへたりこんだ僕の肩を揺すって我に返るまで、彼等が部屋に入った事にさえ気付かずにいた。

「昇君、しっかりしろ!我々が来たから安心したまえ。すぐに妹さんを助け出すから」

「あ……はい」

 翔もいるはずなのに“カーヤを助け出す”という言い回しに僕は違和感を覚えた。案内を促す防護服を微かに痛みが残る首筋を擦りながら、カーヤの部屋に導くと、気を失う前の状態のままで二人がヘッドの上にいた。救急隊員が注意深く二人の呼吸と脈拍を確かめる。

「心拍、呼吸ともに微弱です」

「急げ!」

 目の前では迅速かつ無駄のない動きで二人の止血処置とシーツを羽織らせ運び出す準備が進められてゆく。指示を出しながら無線と携帯で連絡していた防護服の一人が呆然と立ち尽くす僕をみかねて声をかけた。

「いいかい、落ち着いて聞くんだ。本来なら、一緒に来てもらうところだが、現状からして事件性がないとは判断出来ない。家の人が戻って来るか、警察の人が来てから病院に来なさい」

と搬送先の病院と連絡先のメモを僕に渡した。

 部屋から二人を運び出すのと前後して、血相を変えた父が警察官を伴って帰って来た。僕からのメールを見てマンションに戻って来たら、赤色灯を点灯させたパトカーがマンションの前に停車させてあり、警官と話し合っていた管理人が父を見つけて引き合わせたという。

 警官と救急隊員と父が話し合いをしている間、僕は父の携帯と僕の携帯を穴の開くほど調べていた。事実は明確で楊枝の先ほどの嘘もない。けれども、メールを送った覚えはない。

 しかし現実は、疑問を解決するための時間さえ待ってはくれない。

「昇、お前が着替えてから病院に行こう。その浴衣も現場保存で必要だそうだ。あと、必要なもの以外触らないように」

 父の隣の警官が頷いた。


 ……何故あの時、到着するのが遅れたのか。今は自分自身を責める事しか出来ない。

 「遅れた発見」に自分自身を恨んだ。代償は余りにも重く、どんなに時が流れたとしても記憶を洗い流して薄めてしまう事はなく、より妹の記憶は鮮やかになる。事件の後の僅かな時間で虚無感のトンネルを抜けたあと、僕は猜疑心の塊になっていた。

 帰宅前に警察から説明を受け、父も希望した報道協定を結んでいるにも関わらず、霊柩車で到着した我が家の前に、マスコミが殺到していた。彼らは父と僕を遠巻きにして「悲しみの帰宅」を演出させた。

 カーヤは検死され、三日後、父や僕と共に我が家に帰った。

 父も僕も、現場検証に立ち会った以外自宅に戻っていなかった。

 家の中は鑑識の人達の手で奇麗に掃除されていた。床や浴室、特にひどかったカーヤの部屋には、壁や天井の一部に拭き取りきれない血痕が残っていた。真新しい純白のシーツが敷かれたカーヤのベッドには、花束が手向けられていた。

 父も僕も必要な事以外は話そうとしない。受け入れられない現実を目の前にして、怒りと悲しみをぶつけるあても無いやるせない気持ちに恐れと戸惑いを感じつつ、しかし現実に引きずられ追われながら、粛々と儀式の支度をしなければならない。

 病院の霊安室で御嬢がなかなか僕に話しかけられなかった理由を、今まで父は言えなかったのだろう。洗面台の鏡に映った自分の髪の毛は、すっかり脱色して白銀に輝いていた。そういえば、父は急に10歳も老けてしまったように思えたのは、目の錯覚ではなく事実だと気づいた。

 多分、カーヤなら冗談っぽく、こう言って父をからかったことだろう。

「パパには家庭の事で苦労させていないのに、カーヤが結婚するまで白髪なんて早いよ」

 僕には言えない。父にも答えられない。カーヤはもういない。


 ……お兄ちゃん、もしかしたら、お葬式の時にカーヤは舞台に出る事が決まったのかも知れない。本当はパパやお兄ちゃんが考えていたみたいに、ささやかでも静かなお葬式がいいなって思っていたけれど……


 父は事情が事情であるだけに最初は親族だけの密葬を考えていたが、告別式は近所の大きな葬祭場で行われることになった。ありがたくない話だが“事件”の影響で会場の確保が予定外にスムースだった為に成り行き上そうせざるを得なかった。

 葬祭場サイドとしては、大勢のマスコミに取り上げられる事が想定され、めったに出来ない広告のチャンスが目の前にあるとなれば、当然のように厳かでありながら盛大にすることだ。

 マスコミがそそのかした風も見え隠れする。マスコミとしたら、やらせは出来ないが“取材がしやすい環境作り”は必要不可欠で、あるテレビ局に至っては頼んでもないのにサクラの参列者を手配したり、たいそうな告別式式次第まで作ってきたりしたところもあった。遺族の気持ちをよくもここまで見事に逆撫でする行為が出来たものだ。

 無論、父が“丁重に”お断りしたが、それ位の事で怯むような躾が行き届いた奴等ではない。式場内のすすり泣くクラスメイトやハンカチを目尻に当てる参列者と対照的に、会場の外には報道各社の脚立やカメラやマイクが居並び、僕と父を待ち構えていた。

 僕は「額に入った妹」を腕にしっかりと抱えていた。出棺前の喪主挨拶ではカメラのフラッシュで集音マイクやテレビカメラの影が浮かんでは消え、マイクを通した父の声さえも軽薄な光の瞬く音にかき消された。

 

……シュチュエーションは不本意だけど、注目されフラッシュを浴びているのが、とても心地よかったの……




 ……カーヤの心と躯の結び付きは既に解けてしまっていたから理解は出来た。でも、翔と約束したから帰れるって知っていたから怖くはなかったの……


 つい一時間も前にそこにいたカーヤを納めた棺桶は霧消して、思いのほか「小さくなった妹」は白く乾いていた。あまりの呆気なさに僕は戸惑いを感じて唖然とし、父は理由も原因もわからない事件で突然姿を消した不本意さに憮然としていた。火葬場の係員が立ち会った人達と姿形のないカーヤに一礼してから、真っ先に細長い箸であるものを選り分けた。

 ステンレスの四角いシャベルにのった、指輪にしては大きく、腕輪にしては小さな白く輪になった骨は、何かに手を合わせて祈っているように見える。

「喉仏です」

 控え目などよめきが自然と鎮まるのを待って、係員は言葉を続ける。

「何度も立ち会ってきましたが、喉仏がこんなに綺麗な状態は初めてです。ここにいらっしゃる皆さんに対して、故人の感謝とこれからの幸を祈る気持ちを、どうしても伝えたかったのでしょう」


……カーヤはね、お兄ちゃんが思ったような“翔の無事を祈っていた”のではなく

て、これまで知り合ったいろんな人達に感謝していたのだと思うよ……




……カーヤは、みんなに少しずつ私の存在を分けておきたかった。何年かしてまた会う日までカーヤを覚えておいてもらうために……


 カーヤの温かさが、骨壺が納まった桐の箱を透過して僕の身体に染み渡る。カーヤの温もりであり彼女の魂が僕の身体に宿るように思えてならない。親族友人たち参列者の眼には、僕が堪え切れずに涙したと映ったことだろう。しかし僕は嬉しかった。形は変わってしまったけれど、カーヤはその温もりを通じて自分の存在を訴えかけているように思えてならない。


……計画が実行されてカーヤの身体を取り戻すまで、少しの間だけお兄ちゃんの躯に居させてもらったから……




……事実を明らかにしないまま、カーヤがお兄ちゃんの前から姿を消したばっかりに迷惑をかけちゃってごめんね……


 僕らカルテットは、あの事件がきっかけで自然消滅した。学校にいて耳に舞い込む遠い独り言のような「解散」という表現は、実際と異なること甚だしい。あまりにも体のよい響きで、実態は解体だ。

 翔は生死の境をさまよい、退院後は警察やマスメディアに揉みくちゃにされ、本人と何の接触もないまま転校した事実だけを父から知らされた。瞳ちゃんはカーヤの告別式で儀礼的なお悔やみの言葉を受け答えした以外は、同じクラスでも顔を合わす事さえお互い避けていた。

 もはや関係を修復できる、出来ないという言葉遊びは空虚な絵空事でしかない。そして新学年になれば、事件は過去のものになり、毎日花が飾られているガラスの花瓶が置かれたカーヤの机だって、クラス替えのどさくさで消えてしまうだろう。

 日に日に少なくなっているマスコミからの取材の押しつけも、次の重大事件やスキャンダルが見つかれば、自然と消滅する。現に荒城だとかいうタレントが族だかヤンキーだかチーマーあがりだったとかいう事が中学生心中事件を捜査している警察幹部からリークされ、芸能関係が主力の写真週刊誌やタブロイド紙の記者達は蝙蝠みたいにあっさり羽を翻した。そんなものだ。

 それにしても僕らカルテットの最後がこんな形になるなんて誰に想像できただろう。まあ結成というか集まったいきさつもいくつもの偶然が重なった奇跡みたいな結果だったが。

 海外にいた翔が帰国したタイミング、父の転勤先と時期、顔を知らないメル友がいとこ同士であった事、翔の元許嫁の幼馴染みと近い将来恋敵になる翔のメル友が親友になる確率……有り得ない事だらけ。事実は小説より奇なりとはいうけど、これは現実だ。

 マスコミが発表する事実と虚構を織り交ぜたまことしやかな事件の経緯や背景は、僕の感情を大いに逆撫でたが、一方で僕の知らなかった事実をもたらした。カーヤがこんな事にならなかったら、もしかしたら一生気付く事がなかったかも知れない。翔がその事実を知っていたかどうか今となっては知る由もないが、知っていたとしたのなら、今まで僕が押し殺してきた感情に翔はあまりにも正直だった。

 戸籍上カーヤは僕の双子の妹だが、実際血に繋がりがあるのは双子の弟・翔だったのだ。

 ある晩、リビングに入ろうとしたら、父が電話越しに怒鳴り声で問い詰めている最中だった。僕に気付いた父は、タバコを買ってくると言い残して出かけた。すれ違い様、父の顔は青ざめていた。いつも冷静な父が怒鳴り散らすなんて、ついにマスコミを怒ったのかと思ってテーブルに打ち捨てられているタブロイド紙を発見して妙に納得した。そして、どんな記事かと思って見たら、青ざめた父が慌てて電話をした理由がそこにはあった。

 記事は父の過去について書かれていた。父が本店の為替部門にいた頃のスキャンダルが、事件の原因を作ったという。

 次期頭取から一人娘をすすめられた時、父には彼女がいた。本店で窓口勤務をしていた母である。周囲の人達は当然、母を捨てて次期頭取の一人娘と結婚するものと予想し、父にあれやこれや便宜をはかり、恩を売った。

 父は次期頭取から再三再四話を持ち掛けられたが、「私には勿体ない話」とか「出自からしても不釣り合いなので」とか遠慮してばかりで明確な返事をしなかった。無論、次期頭取は自分から縁談を切り出した手前引っ込みが付かない。次期頭取は娘をそそのかして父と事実関係を作り、再び父に決断を迫った。 

 父が次期頭取の一人娘と関係をもったのは、一人娘がした騙し討ちの結果ではあったが、とはいえ父に迷いがなかったかといえば嘘になる。厳然とした事実を当事者とその父親に詰め寄られた父は、どんでん返しが得意なドラマの主人公がする返事をした。

 出世や保身ではなく、茨の道、つまりは母を選んだ。誰もが確信し、期待しても不可能な「良縁」を言下に断った理由を頭から湯気をあげている父親を遮って問いかけた一人娘に、バカ正直に答える義理も大人の配慮も無く父は言った。

 紙面に記されていた言葉を本当に父が話した内容とは異なると僕は思う。何故なら情報の出所は、父に“捨てられた”あの一人娘だからだ。

 問題はそれ以降の記事だ。父が次期頭取親子に問い詰められた時、捨てられた方、そして母にも新たな命が宿っていた。母は双子を、捨てられた一人娘は僕を。読み進んでゆき、問題の部分に差し掛かった時、僕は心身ともに真っ白になった。

 しばらくして茫然自失の状態から回復した僕の脳裏に浮かんだのは、状況の細かな違いはあっても、翔とカーヤは父と母に良く似ている事だった。

 外見上、カーヤを失ってカルテットは解散したが、僕にとってのカルテット終焉・解体は父の過去のスキャンダルと自分自身の出生の秘密を知ってしまったこの時だ。後戻りも出来ないし、これからどこに向かってゆくのか皆目検討がつかない。帰宅した父に問い掛けても肯定も否定もせず、真実を語る事はなく、沈黙を続けるだけだった。


 ……お兄ちゃん、カーヤも同じだよ。パパは翔と私の間に起きた事を知って怒ったけれど、本当の理由は教えてくれなかった。カーヤはね、翔のママから聞いて初めて知った。でも、もう遅かった……




 ……カーヤは思う。カーヤのお兄ちゃんは、お兄ちゃんしかいない。嘘じゃない。本当だよ。今更、翔を“弟”だなんて呼べないし、お兄ちゃんが他人だなんて、いまさらだよ。いろいろなことがありすぎたよね、私たちには……


 高校の入学式で、彼女から声をかけてこなければ僕はきっと高校の卒業名簿を穴の開くほど見ない限り、同じ高校に進学したとは分からなかっただろう。ただそれだけなら昔の知人で終わっていたと思うが、どちらかの悪運が強かったのか、クラス発表の掲示板の前でお嬢と再会した。

「ショー君?」

 聞き覚えのある声で、事件以来耳にしていなかったフレーズが、雑踏の中、空耳のように飛び込んできた。

「あ、やっぱり。ショー君だ!」

 辺りの人込みを見渡す。いた。“お嬢”こと瞳ちゃんが。

 僕は相当怪訝な顔をしてお嬢を睨み付けたようで、彼女は人波を掻き分けて僕に近付くなり、僕の手を取ったので、強制的に二人並んで掲示板に向く形なった。僕は固まっていた。懐かしさや感激ではない。僕のメモリーにインプットされたお嬢・星野 瞳と、今、肩を並べている星野 瞳がまるで別人のように思えてフリーズしていたのだ。

「誰かと思った」

「それは私への当てつけですの?」

「変わったね、御嬢は」

「私には変わる事しかできませんわ。……ご存知かも知れませんが、蔵をたたみましたの。……だから、もう御嬢でも何でもない」

「知ってる。博物館にしたんだってね。それとも、お嬢様ぶるのにはもう飽きたとか……」

「2年ぶりの再会なのに、再会の挨拶が皮肉なんて……あなたも変わったわ」

「変わらざるをえないさ。あんなことがあれば」

 御嬢……瞳ちゃんと再会したのは実に2年ぶりだ。本当にいろんな事が起き、変わってしまった。進路を決めたとき、僕がこの高校を選んだのは、同じ中学校の生徒が殆ど進学しない高校だったからで、父——産みの母が生きていることを知ったあの日から、僕は父のことを父親として呼んだ事は無い——は環境を変える事を僕に良いと考えたようで、反対はしなかった。

 同じ中学校からは二人だけ、同じ高校に進学した事を知ってはいたが、まさかもう一人が御嬢だったとは。御嬢の家は酒蔵をたたんだとはいえ、地元では相変わらず名士で金持ちだった。僕は彼女の進路には全く興味がなかったので、多分どこか付属でセレブな高校に進み、ピンクのベントレーで送迎されているのだろうとばかり思っていた。

「さっき、私が呼んだのに気がついて、変な顔したでしょ……意外だった?私がここにいるのが」

「ピンクのベントレーで通学しないのか?」

「だからさっき……ベントレーは博物館に飾ったわ。おじいさまの形見ですもの。それにもういいわ、この話は。あと今後、私を呼ぶときに御嬢と呼ぶのはやめてくれる?」

「わかった」

「髪、染めないの?」

「霊安室の誓いがあるからね。それに悪くないと思ってる。気に入っているんだこの髪の色が」

「そうなんだ。そうね、悪くないかも……ところで、私以外にも悪くないと思っているコがいるんだけど、ちょっと話をしてみない?」

「お酒を売るのを止めて、今度は人材派遣か……」

「まあ、そんなところね。同じクラスのコよ」

「誰と?」

「決まってるでしょ、ショー君と私のクラス」

「そうよ。掲示板、見てなかったの?ほら、あそこ」

 御嬢改め瞳ちゃんが指差す先には、50音順に並んだ氏名があり、星野 瞳の名前の5つ下に望月 昇の字があった。

「それでこれから紹介するのは、ショー君の一つ上の持田 美幸さん。私と違って“お嬢様”ぽいコよ。ショー君に会う前に友達になったの。そしたらミユキ、『あのプラチナブロンドの人、同じクラスだったらいいなあ』なんて言うから、同じ中学の知り合いだって話したら、『紹介して』だって。私の高校生活の第一歩がかかっているんだから、同じ中学のよしみで、お願い。ね、いいでしょ?」

「友達は多い方がいい……そういう事なら、旧友の為に一肌脱ぐか」

「ほんと?……そうこなくっちゃ」


 ……わかってないね、お兄ちゃん。瞳ちゃんはお兄ちゃんと話がしたかったのに。でもお兄ちゃんを責める気はないの。いずれにせよ結果は同じになったから……



 ……お兄ちゃんにとっては、突然の出来事だと思う。でも偶然ではないことを、カーヤは知ってる……


「どうしたの?」

「今度こそ、本当に死んだかもしれない」

「え、え?何の事?誰が?」

「新聞見なかったの?」

「だって携帯あるもん」

「ほら、これ」

「“旅客機墜落、日本人多数犠牲か?”ってこれのこと?」

「その一番下の段、名前が載ってるところ」

「ショー君、これって……」

「翔の両親だ」

 事故か事件か……真実は誰も知り得ること無く、世間での一時の怒号と熱狂の嵐が風化される過程のなかで被害者被疑者の家族は、再び接触する機会はない筈だったし、有り得ないと僕は信じていた。新たな真実を知る度ごとに、それぞれに事実はあっても、真実は何一つないと思い知らされた。だから、今朝の新聞記事だって、どちらかといえば、架空の事でしかなかった。

 「上海空港に着陸途中の旅客機が墜落、乗員乗客全員が絶望か?」。昨日の夜、瞳ちゃんをバイクに乗せ家に送る途中、駅前のロータリーで信号待ちをしていたら、ニュース速報が流れる巨大な電光掲示板にその文字が映っていた。どんなに技術が進歩しても事故は絶えない。百万回に1回の確率で墜落が起きることを、ラジオかテレビかで耳にし、出来事を知るだけのニュースだが、なぜか電光掲示版は朝まで僕の脳裏に残っていた。

 朝刊が配達される頃に帰宅した僕は、社宅のポストからインクの匂いが真新しい新聞を取り、静かなエレベーターの中で墜落事故の記事を見た。

 乗客名簿の一部とされるものが既に紙面に掲載され、その先頭に翔の両親を見つけたとき、引っかかっていた何かはこれの事だったのだと納得した。

「まさか、翔様も?」

「仕事なら、翔の親父さんだけだろ。名簿も一部だけ掲載されているとしても、家族でどこかに行く途中だったと考えるのが自然じゃないか?」

「ええ、そうだけど……」

 瞳ちゃんは僕に隠し事がある。許嫁の瞳ちゃんを振って、芳夜に走った翔をいまだに瞳ちゃんは好きなのだ。

 僕も瞳ちゃんも再会したとき、丁度互いに家族関係がギクシャクしていたときで自暴自棄のところがあったし、昔を忘れる為に今を確認しておきたい、そんな思いから惹かれ合った時期があり、そうしたいきさつのなかで男と女の関係をもち、惰性で続いていた。

 瞳ちゃんは気づいていないが、昨日の晩も彼女がエクスタシーに達したとき、翔の名を呼んでいた。

「そうじゃないけど……残ったのは、私たちだけになっちゃった、て思ったの」

「予想が当たっていればの話だけどな」

「願いが叶うかもしれないのに、随分冷めているのね」

「それはどうかな? まだこの目で確かめていないから、当然だよ」

 僕にはある程度の確信はあった。一家で海外に転勤となった後、翔の家は賃貸に出されていたが、契約期間が過ぎたのか、或は人手に渡って建て直すのか、二三日前から人が住んでいる様子や気配が無かった。状況から推測して翔が事故死した可能性はかなり高い、と僕は踏んでいた。

 ところが、学校からマンションに帰ると、珍しく留守番電話にメッセージが残されていた。死んだはずの翔からのメッセージで、「また連絡する」とだけだった。録音再生後に流れる着信時刻の読み上げは、今日の昼過ぎだった。

 それから数日、僕も瞳ちゃんも話題にはしないが、あらゆるメディアで報道されている墜落事故の情報をチェックしていたのは言うまでもない。話題にしないよそよそしさで、お互いわかってしまったが、あえて指摘することはない。

 翔からの連絡は僕にも父にも無く、ましてや瞳ちゃんにも無いまま、さらに一週間が過ぎようとしていたある日、僕の携帯が鳴った。父の携帯からだった。

「今晩からうちに来る」

「誰が?」

「翔だ」

「なぜ?」

「ほかに行くところが無い」

「あいつのうちがあるじゃないか」

「あの家は転勤の時に売却したそうだ」

 “疑惑の同居人”は、僕の戸惑いには何ら関わり無く、その日の夜から芳夜の部屋の住人となった。


 ……お兄ちゃん。お兄ちゃんは恐れていたのではなく、期待していたのでしょ?だって、カーヤはお兄ちゃんの中のカーヤが思っている事を知っているもの……

(望月 昇のアクセスレコーダーより)




 ……あの時、あなたはそこにはいなかった。なのに何故……


 祭りの帰り、街角の巨大スクリーンの片隅に流れたテロップは、事件の一報をごく簡単な一文で要約していた。

「祭りで中学生が心中か?」

 私と同じ中学生が心中?……随分思い切った事をするコがいるんだ、くらいにしか感じていなかった。その心中は夜が明けるまでの数時間のうちに事件やら事故やら様々な憶測が飛び交い、ようやく明け方のニュースで方向性が定まった。

 「中学生偽装心中事件」、そして「テロップ」、それらが私の未来に関わってくるなんて、あの時は全然予想だにしなかった。

「バーチャルタレント盗難か?」

開店準備中、控え室の隅に据え付けられたテレビの画面にテロップが流れた。テロップは今まで何度となく私と彼を結び付けてきた。大筋で間違いはないけど不確定な事象を含む文末の「か?」はどうやら私と彼をつなぐキーワードらしい。たいてい、事件か事故の報道で、必ず彼に転機が訪れる前振れになってきた。果たして今回の「か?」はどうなのだろう。

 バーチャルタレントであるツキノミヤ カグヤは生身の体を持つが、そもそもソフトウェアであって人ではないから確かに「盗難」という事になる。しかし彼やプロダクションに言わせれば、これは立派な誘拐だ。もし「誘拐」が事実なら、様々な疑問や憶測が飛び交うこと請け合いだ。ただし、開発段階でさえ数台のサーバーに収まりきらなかった代物を、彼の監視の目を逃れて盗み出すなんて不可能に等しい。

 そんなこんな考えを思い巡らしていたら、環先輩が私を呼んだ。

「ミチルー!ケータイ鳴ってるよ」

「あ、ありがとうございます!」

 翔からだ。

「これから仕事なのに悪いな」

「まだ準備中だから……。テレビで流れてたよ、彼女の事。本当なの?」

「本当だ。彼女の為に社長がリークさせた。このタイミングで利用しない手はないんだとか……で、彼女のサルベージでしばらく会えないと思う」

「あんまり無理しないで。頑張って!」

「無理はしちゃうかも知れないけど、終わったら連絡する。じゃあ」

「わかった」

 私が携帯を閉じると環先輩が言った。

「カレシー?会えないのは“仕事”それとも“別の女”?」

「仕事です!」

 環先輩はお店のナンバーワンで、この仕事が初めての私に何かと世話を焼いてくれる大恩人だ。仕事以外の事でもいろんな相談に乗ってもらってきた。

「そんなに大声出さなくてもいいのよ」

 控え室を見渡すと、お姉様方の視線は私に集中している。またやってしまった。ただでさえ目をつけられているというのに。シーンとした空気を無視して環先輩は私に訊いて来る。

「で、何?困ったこと?相談?」

「私は平気なんですけど、彼が」

「うんうん、それで」

「私では、どうしようもないんです。仕事の事だから。まあ、いつもの事といえばそうですし」

 環先輩は少し難しい顔をする。私はいつもの通り馴染みのお客からもらったダンヒルのライターに火を着けて差し出す。環先輩は流れるような仕草でマルボロスーパーライトを取り出し、阿吽の呼吸という感じに私のライターで火が燈る。紫煙が一筋、環先輩の口許から流れた。

「ミチル、いつもの事だからって、手を抜いたら駄目よ。ココで覚えたこと、忘れちゃったの?」

「あ、すぐにメールします」

「言葉は形に残るように。忙しい人にはいつでも心が届くように、ね」

「ハイ」

 環先輩は私の返事に頷きながらボソッと「若いっていいわ」と呟いたが、最近歳を気にし始めた先輩の独り言を私は聞き流した。プライベート用の携帯を開いて早速翔にハート入りの励ましメールを打ちながら、私と翔を繋いで来たテロップを思い浮かべた。


 ……翔とあなたを結んできたのはそんなものじゃない。それはあなた自身が一番分かっているはずなのに……




 ……あなたは根も葉もない噂話ばかりで彼を混乱させた。あなたの存在はかりそめの姿。自分自身を見失った振りをして、真実から目を逸らしているだけ。可哀想な人……


「美智瑠、例の噂って本当なの?……今の彼、人を殺した事があるって」

 閉店後、ファミレスで食事をしていたら、環先輩が私に聞いてくる。

「先輩、また私の事、疑って……ちゃんとした根拠のある噂話ですよー」

「なぁに、その根拠って?“ここだけの話”だから教えなさいよー」

 環先輩の“ここだけの話”は“ここだけで秘密にしておくのは勿体ない話だから全部ゲロしちゃいなさい”の略だ。幸い私は実害を被った例はないけれど、本当の事を話して、店をやめたコもいた。彼女はオフレコを真に受けて事実と虚構のブレンドをしなかった。

「彼がそう言うんです」

とは事実。

「彼の話を鵜呑みにし過ぎじゃない?」

「そんな事ないですぅ」

「いつ殺したっていうの?……まさか“私は彼の甘いマスクに殺された”なんていうのは無しよ」

「何年か前、ニュースでやってました」

「だって、殺人なら軽くても5年のムショ暮らしはかたいとこよ。証拠でもあるの?」

「法学部出身の環先輩なら、ご存じだと思いますけど、彼の名前を聞けばすぐに納得しちゃいますよ。……天地 翔っていうんです、彼」

 環先輩は即座に思い当たったようだ。でも、しばらく黙って私の顔を見つめていた。

「先輩?私の顔に何か付いてます?」

「いいえ、なぁーんにも」

「どうかしちゃったんですか?急に黙って」

 伏目がちに私は環先輩を眺めた。先輩は誰が見ても“納得した”というふうに頷いてから口を開いた。

「だから陽子が美智留の事をやたら訊いてくるのね。ようやく納得できたわ」

「陽子?」

「“あの”葉月陽子よ」

「“あの”ですか?」

 葉月陽子といえば、猟犬の鼻、鷹の目、蝙蝠の耳、そしてピラニアの歯を持つと噂されるパパラッチ。本人はフリービデオジャーナリストと名乗っているけど、凄腕のパパラッチや某国のスパイ組織さえも出し抜く“スクープの神様”とさえいわれている。

「それで美智留のカレシの事を知りたかった訳か。ライフワークがあるって言ってたのは、“あの事件”だったのね」

「ライフワーク、ですか?」

「陽子のやつ“いつかピューリッツァ賞を取る”って意気込んでいたのに、突然ライフワークができたからって新聞社をやめちゃってさ」

「先輩は葉月陽子の事をよくご存じなんですね」

「ちょっちね…あ、このコ、美智留!まったく策士だねーあんたは」

「先輩仕込みですから」

 環先輩は、「どうせ陽子がバラスのが早いか自分で話すのが早いか、時間の問題だろうから」と前置きしてから、環先輩と葉月陽子は学生時代からの友人で、ある男性を巡って熾烈な恋人争いをした仲だと告白した。その事を語る環先輩が遠い眼をしていたのが印象的だった。

「……ていう訳。ところで私からタダで情報を聞き出せたと思ったら大間違いよ。今度その彼氏を私に見せなさい。いいわね?」

「先輩、まさか」

「安心なさい。そのカレシを食べたいなんて言わないわよ」

 環先輩は雑誌でモデルをしていてもおかしくないくらいのすごい美人だ。心配するには根拠がある。同じお店のコで前科がなければ私も心配しない。それもモデル顔とモデルの体で迫られたら、間違いをしない男はまずいないだろう。環先輩が“食べよう”としなくても、翔が“食べられない”と断言出来る自信が揺らぐ。

「心配?大丈夫、美智留のカレシがその気にならないように注意するから」


 ……誤魔化しや演技ができなくなったらどうするつもり?誰も助けてはくれない。翔でも……




 ……彼が嘘をつくのは他人に対してだけじゃない。自分自身に対しても嘘をつき続けなければならない理由があるから……


 誰にでも癖はある。翔は嘘をつく時、しつこいし、とてもくどく話す。彼が嘘をついているとすぐにわかる。そうしなければいけない理由も、事情も、気持ちも全てが。嘘つきな彼はいつも私にだけは、本当の事を、真実を知っていてもらいたいと思って、話してくれる。

 彼が私に嘘をついたのは一度きり。芳夜の復活にある事が支障をきたしていると判明した頃だった。

 芳夜のシステムは思考、精神を司る部分と肉体を構成する実体化の部分がある。問題となったのは、実体化の部分だった。彼は復元出来ない体のパーツを補う方法として、生体の読み込み、人体のスキャニングを選択した。無論、誰かが献体しなければならない。その第一候補が他でもない私だった。

 “画期的な入浴剤を開発したから、試してみる?”

 確かそんな切り出し方だったと思う。あいにく、私はお風呂派ではなくシャワー派なので、にべもなくお断りしたけれど、翔はいつになくしつこく食い下がった。私も鬼ではないので誘い方によっては折れていたのかもしれない。翔はただ只しつこいだけ。ハハーン何かあやしい、と私はピンときた。

 “彼は嘘をついている”

 翔は最初に会った時から、表向き他人の事には干渉しない振りをして、影でこっそり手を回すタイプ。私に試作品のテストをさせようとするなら、何となくデスクの上に放置して私から手を出すように仕向けるはず。

 食い下がる翔に私はサラリと言った。

「その試作品、使う目的を間違ってない?」

「芳夜を目覚めさせる為に間違った事はしてない……あれ?」

「やっぱりね。……何をしようとしてたの?サッサと白状しちゃいなさい、容疑者さん」

 翔はあっさり落ちた。

「仕方ない。正面切って話しても無理かと思ったからさ。美智留の体が欲しい」

「はぁあ?」

「……だろうな。候補を換えるしかないか」

「候補?」

「芳夜のボディの」

「芳夜の?」

「芳夜の遺品だけでは出来ないから型を取るしかない。理由はわからないけれど、美智留には適性があったから第一候補にした。けれど、その様子じゃ可能性はゼロだな」

「当たり前でしょ。私が二人いる必要はないし、第一、芳夜になる気なんて毛頭ないから!」

「“私は私として、ココにいたいだけ”だろ?」

「わかってるなら、なんでそんな事?」

「似ているんだ、美智留は芳夜に」

「それは源氏名だけでしょ?」

「いや、どういうわけか、芳夜の心の器たる適性があった。信じてもらえないかもしれないけれど」

「……で、次は誰なの?」

「美智留が嫌いな“幼馴染みの元許嫁”さ。芳夜とは親友だったし、二人が共有している過去は芳夜が肉体に定着する為のとっかかりになる。ただ御嬢も拒むだろうし、さっきと同じ手は多分通用しないだろうな。何か別の手を考えないと」

「翔。私がその役をする。瞳が自分から献体するように仕向ける」

「出来るのか?」

「翔に無理でも、私なら出来る方法はね。……私と瞳の関係を利用するの。ところで翔、瞳は温泉とかは好き?」

 以後、私は彼の共犯者になった。彼は私に嘘をつけなくなったが、私は彼に一つだけ嘘をついている。多分、彼には最後までバレることはないだろう。

 私が描いたシナリオの結果、翔は芳夜の再生に成功し、芳夜は彼女をナンパしようとした荒城廉太郎に素質を認められて、二次元のAIタレントから三次元の芸能界へデビューを果たそうとしようとしている。

 AIタレントの誘拐はデビューを目前にしたこの時期に起きてしまった。芳夜のオフィシャルHPの掲示板は模倣犯の犯行声明が次々に書き込まれ、ソリビジョン……芳夜の個人事務所のスタッフはサーバーのメインフレームがダウンしないよう対応に追われているとテレビで報道されていた。

 テロップに始まった“誘拐”事件の解決のため、環先輩との約束は当面果たせそうにない。一人でいる時間に絶え切れず彼に何度か連絡をしてみたけれど、それどころではない状況らしく、鳴らない携帯は私を苛立たせるしか能がなくなってしまった。仕事中も暇さえあれば着信履歴のチェックに余念がない。だから控え室に戻って、着信を示す明かりの点滅を見た時は、息が止まりそうになった。

 翔のメールだ。

“保安上、詳しいことは直接でないと話せない。うちに来ていいよ”

 眼に止めた瞬間に呼び出しがかかる。

「カグヤちゃん、二番にご指名」

「ハーイ」


 ……あなたは誰にでも嘘をつく。翔や瞳だけではなく、私やセンセイにも。そしてあなた自身を欺いて、これから何を信じて生きていくつもりなの?……




 ……あなたは翔を病人と思っているようだけれど、それは違う。病んでいるのはあなた自身……


 彼は月に一度、センセイのところに通っている、歴とした“病気持ち”だ。病気とはいっても、体の病気ではない。彼の病はPTSD……心的外傷後ストレス障害で、災害や事件被害者にあらわれるというもの。事件の犯人がPTSDを患う事は有り得ない。

 世間一般にはびこる“中学生偽装心中事件”の評価とはまるで正反対の事実がここにある。おそらく事件の状況や事情が彼をして自身を犯人だと思い込ませる最大の要因になったのではないか、と私は思う。だから「記事にされない通院」を知れば、少しは世の中も彼に対する見方を変えると思うだろうが、どのマスコミもまともにとりあってはくれない。所詮、金にならないニュースやスクープはゴミみたいなものだから。

 センセイは翔にいつ治療をやめても構わないと話している。だが、彼は律義に通い続ける。記事にされることのない通院は、定期的な懺悔をするためのように私には思えてならない。環先輩に言わせればそれは私の“判官贔屓”でしかないという。確かにそうかも知れない、いやそうなのだろう。

 翔は事件後、取り調べや少年審判の手続きが落ち着いてから、彼の父の転勤に伴い海外に転居した。事件の影響を完全に否定しきれないけれど、二三年おきの転勤が常である商社ではさほど珍しくはない。翔と両親は、結果的に翔の帰国につながる墜落事故までの間、マカオを拠点としてはいたが、どちらかといえば父親の仕事上の経由地であり定住地を持たなかった。しかし翔は治療の為に毎月帰国していた。親戚も友人もあからさまに迷惑な態度をとるであろうことは間違いなく、翔も両親も、彼の帰国の事実を誰にも伝えることはなかったし、まず翔本人がそれを望まなかった。

 翔が両親を失う墜落事故の時は、翔の通院がてら次の転勤準備の為の支度を整える一時帰国の予定だった。たまたまダブルブッキングで予定の一つ前の飛行機に乗れたたお陰で翔は命拾いをした。私はこの墜落事故もテロップで知ったけれど、その時点で翔と関係があることを知る由もない。私が翔と出会うのは、墜落事故の数か月後で、出会ったきっかけは私には最悪な状況だった。ともあれ、翔は多忙となった今でも毎月センセイの所に通っている。これは事実だ。

 もう一つの事実がある。それは翔と出会う前から、私はセンセイを知っているということ。それを知ったのは、彼と知り合ってからしばらくして、互いになかなか予定が合わなくなって時間がとれない時期のことで、彼が今の仕事を本格的に始めるきっかけとなったソリビジョンのプロトタイプにかかりっきりになり、会場となる博物館館長の娘・元許嫁の瞳とよりがもどるかに思え、ささいな口喧嘩から別れ話を私が切り出そうとして、翔と私の共通項を発見する事になった。

 翔が「オフ日にどうしても外せない予定がある」というが、彼は意固地になって“外せない予定”を私に明かそうとしない。私はその予定を元許嫁と過ごすものと決め込んでいた。

「最近、仕事ばっかりで全然会ってくれない。それとも、どこかの大店の令嬢と縒りが戻ったのかしら?将来は博物館の館長さんにでもなるの?」

「だから、その日はどうしても外せない予定があるから駄目だって」

「さっきから“外せない”の一点張り……私に話せない予定って何なのよ?」

「少なくとも瞳とは関係ない」

「ふうん、トップシークレットって訳?」

「そんな大層な事じゃない。あれからずっと続けてる事だ。美智留がとやかく言う筋合いの話じゃないさ」

「何よそれ?最初に言ったよね“隠し事は無しにしよう”て。……もうお終いね、私達」

「……あの事件の後から、毎月欠かさず通っているんだ、PTSDで。折角治りかけたけど、墜落事故で元の木阿弥さ。センセイからは、俺が来たい時にくればいいと言われている」

「事件の影響で?PTSD?……でもそれって」

「俺が犯人でない証拠であるとともに、最も疑いをかけられた事実さ。美智留に隠すつもりはなかった。ただ、怖かったんだ。犯人の俺に興味をもっている美智留が、俺が犯人でないかも知れない有力な証拠を知ったらどうなるか」

 翔はいつになく深刻な面持ちで私の反応を伺っていた。

「ずいぶん見くびられたものね。私は翔が犯人だから一緒にいる訳じゃないよ。ただ翔といたいだけ。犯人かどうかなんて、誰が決めるっていう筋合いの話じゃないし、それは翔自身が納得すればいいと思う。それより傷に塩を塗り込むようなことしてごめんなさい。私、翔の事を他の誰よりもわかっていると思い込んでた。私こそあなたには相応しくないよね」

「……もう失いたくない、誰も。傷つけたくないんだ」

「大丈夫、私はここにいるよ……」

私は翔を抱き締めた。

 と、不意に翔の手に肩をつかまれ、私は引き離される。

「これから行こう!」

「“行く”って何処に?」

「センセイのところ。イヤかい?」

「デートのスチュエーションとしては最悪ね。だけど、もちろん行くわ」

「じゃあ決まりだ」

 センセイの所に向かう間、“まさかね”の予想が少しずつ現実味を帯びてゆく。鼓動の乱れはつないだ手から翔に伝わる。

「すごいところに連れてかれるとか思ってない?」

「別に」

「いつになく脈が早いから。心配ないよ、患者は俺だよ」

「そうね」

「ん?……ほんとに平気だって」

「……手をつなぐの、久しぶりだから」

 柄でもなく照れ笑いをして誤魔化す私。私が通う病院の方向、道順に迷わず進む翔。私がドギマギするのは私の病名が翔にバレてしまうかも知れないから。“嘘ではない嘘”をついている私を翔はどう思うだろう。

 センセイは私を見るなり鳩が豆鉄砲を食らったような表情をした。ただ、センセイが疑問を口にする間もなく翔が話を始めたので、翔はセンセイの表情を見知らぬ付き添いの為と解釈したようだった。

 センセイの治療は、……まあ“治療”といってもなんていう事はない。ただ翔の話を小聞いているだけ。私の場合と全く違う。翔の話は私と一緒に来た理由の説明に始まり、多少脱線しながらカグヤの誘拐事件の犯人像についてかなり突っ込んだ内容を経由して、彼女をサルベージする方法の発見が難航している状況や今後の方針を微に入り細に至るまで解説する。そんな内輪の話をしても大丈夫なんだろうかと私が心配するくらいに。私が知ろうとしたとしても知り得ない事柄が目の前で一つ一つ明かされてゆく。

 あまり興味がなさそうな素振りを見せることなく、小一時間ほどかけて翔が一通り話し終えてから、センセイはようやく口を開いた。

「なかなか仕事も大変なようですねー。ただ解決の糸口が見つかりそうな雰囲気なのが、不幸中の幸いといったところでしょうか。翔君ならきっと解決してしまうでしょうねー」

 翔はセンセイの言葉を聞いて安堵の表情を浮かべる。そうか、投薬に及ばないくらいに翔の症状は回復に向かっているから、不定期で気ままな通院をさせているという事らしい。センセイは一種の精神安定剤なのだ。

「ところで彼女が出来たなんて初耳だーね。いつから付き合い始めたーの?」

 センセイは翔の解釈どおりに私を“翔の彼女”という位置付けにしてくれた。私はめったに人に感謝する事はないけれど、この時ばかりはセンセイに感謝した。

「何ヵ月か前から。センセイに別に黙っていた訳じゃない。たまたま聞かれなかっただけ」

「たまたま、ね。まあ、話せなかったのはなんとなく分かる気がするね。好みというか趣味というかは人それぞれだからね。で、えっとなんていう……」

「美智留です。潮 美智留です」

 センセイは私にちょっと意地悪だ。翔に付き添って来ただけの私を、治療でもしようというのだろうか。どうでもいい事象は放逐して、この際、折角なのである事をはっきりさせることにした。

「センセイ、翔はPTSDですよね?」

「いかにも。もうほとんど良くなっているけどね」

「じゃあ、翔は犯人ではないって事ですよね?」

 センセイは難しい顔をした。

「一般的にはそーいう事になるね。それにここは犯人かどうかを決めるところじゃーない。ただ、法律が決めた事と世間が決めつけた事、それに彼が思っている事が一致しないだけなのさ。犯人かどーかなんて人の数だけ解釈がある。君が考え決めた事が全てだ。この世の中には事実はあっても真実は無い。あの事件の真相を追い求めるのは自由だが、真実は君の中にある。なあ、翔君」

 翔は何かを思い出したかのように頷いた。


 ……あなたのカルテは欺瞞に満ちている。翔のカルテは……




 ……あなたは何故此所にいるの?……


 私と環先輩が勤めている倶楽部姫は、この街では老舗とはではないが古参のお店で、パッと見の敷居は高いかも知れないけれど“超”が付くような高級店ではない。銀座や六本木、新宿にある高級店の洗練されたセンスを目指しつつも、どちらかといえば人情味あふれるお店なのだ。一度倶楽部姫のプチゴージャスな雰囲気とリーズナブルなお会計、それに街ではあまりお目にかかることができない綺麗で小悪魔なお姉様に出会えば、常連になること請け合い。

 私はそんな大層なお店とは思えないけれど、有名人やセレブのお歴々が入れ替わり立ち替わりお店に遊びに来てくれるおかげで、倶楽部姫で働くようになってからお金の後ろ盾・パトロンには困ったことはない。もちろん心のパトロン、心のよりどころは翔だから浮気はしない。色恋沙汰は芸のコヤシであると同時に、彼がいるから頑張れる。私が倶楽部姫で働くようになったのは翔のためという事は、彼には話していない。ただ翔との出会いが偶然だったというのは嘘ではない。

 倶楽部姫で働くのは楽しい。環先輩みたいな話せる先輩がいる事もそうだし、普段ふれることすら叶わない赤坂の料亭か超高級クラブで交わされるようなトップシークレットが話題としてポンポン出てくるから、秘密好きの私としてはこれ以上ない環境だ。おまけに倶楽部姫でもたらされた情報は、給料と同じかそれ以上に稼いでくれる。入店したての頃は環先輩のヘルプで勉強させてもらっていた私にも最近固定客がついて来た。

「あートノ!お疲れ様ですぅ。いつものでよろしいですか?」

 トノは私の固定客の一人で店の売り上げと私のランキングにとてもとても貢献している方。“いつもの”というのは……

「すみませーん。二番にドンペリゴールド、フルーツタワー、いただきました」 

 しめてウン百万圓なり。これで環先輩を超えたかも知れない。でも負けず嫌いな先輩の事だから明日にはひっくり返されてしまうだろうけど。

「カグヤちゃん、少しお疲れモードかな」

「トノ、わかります?化粧の乗りがイマイチだって……やっぱり目利きなんですね」

「お仕事?それともプライベート?」

「どっちかといえば、プライベートかなぁ」

「彼氏でも出来た?」

「違いますぅ!私が投資している会社に問題が出てきちゃって、大変なんですぅ」

「投資?カグヤちゃんが?」

「老後の資金にと思ってぇ」

「老後?もう?とても想像がつかないなあ」

「そうですよー、トノの世代は大丈夫でも私の世代だと年金が出ないっていうじゃないですかぁ。今から準備しとこうと思って投資したのに……私って見る目ないのかなぁ」

「カグヤちゃんが投資しているのは、なんていう会社なの?」

「IT関連の会社でソリビジョンていうんです」

「ソリビジョンか。悪くないよ、いや、むしろいいところに目をつけたね」

「でも、これからデビューするはずだったタレントが誘拐されてるし、社長は高校生だっていうし、本当に大丈夫か心配で」

「噂では誘拐……盗難にあったらしいね。確かにソフトウェアが盗難された為にセキュリティの脆弱さを露呈してしまったけどね。ただ、見落としちゃいけないのは、ハード・ソフトの特許の多さだね。セキュリティの強化はわずかな時間で解決してくるだろうし、盗難されたソフトウェアは特許で保護されている上に、それがどんなものなのか世間は知っているから商業目的で大っぴらに使う事は出来ない。タレント自体はバックアップしてあるデータでなんとかなる。まあ騒げば騒ぐほどソリビジョンにとっては、いい広告になる。実質的な経営はタレントの所属する業界大手のプロダクションがしているから安心できる。だからむしろ今回は投資するにはいいチャンスだと思うよ」

「そうなんですか。良かった。トノに聞いておいて」

「ところでカグヤちゃん、そのタレントは同じ名前っていうじゃない。もしかしたらカグヤちゃんのクローンだったりして」

「まさかー、それなら私自身がデビューしますよー。それにわざわざ特許とか複雑な事をしなくてもいいし」

「案外、裾野が広い技術だから、そうとも言えないね。例えばタレントや要人の影武者にできたり、危険が伴う仕事を遠隔操作で行う事が出来たり。何か事故が起きても生身の人間には被害が出ない。需要が多い新技術だよ……でも、やっぱり僕ぁこっちのカグヤちゃんがいいよ!」

「トノにそう言って貰えるなんてカグヤは幸せ者です。感激しちゃいました!」


 ……仮面をつけたまま、あなたは踊り続ける。結果はわかっているはずなのに……




 ……翔があなたの素顔を知らない振りをしているだけなら、そんな特殊メイクのような化粧は必要ないのにね……


「美智留ー、いつものとこ、いくよー」

 環先輩はアフターのない日は仕事が終わると、決まって行く店がある。今宵も午前二時、これから街に出かける。オトナの環先輩とオコチャマな私の最大公約数は、ラーメン屋さん。先輩にしてみればザーサイやメンマをつまみに飲むことができ、私はダイエットが気になりつつもおいしい食べ物の誘惑に負けて、で、いつものラーメン屋さんになる。

「先輩、次は他のお店にいくっていってたじゃないですかー」

「でも、とかいっちゃってさ、結局ついて来るじゃない。嫌よ嫌よも好きのうちっていうじゃない。まんざらでもないって事でしょ?」

 確かにそうだ。否定出来ない自分が此所にいる。

「でもでも、先輩は『いろんな事に興味を持って、見聞を広げなさい』とか『アフターでも役立つから、遊べるだけ遊んで、沢山のお店を覚えなさい』とか言ってましたよ」

「でもでもでも、後輩の先輩の先輩は『芸のコヤシにするなら、他人の財布やコネを当てにするな』とも言ったんだもーん」

 環先輩は見た目以上に質量のある胸で私を押し退ける。でもでも談義は環先輩の勝ち。いつものラーメン屋さんは或る事が有名で雑誌やウェブに掲載されている。

「あちゃー。やっぱり今日も」

「ですねー、先輩」

「美智留、あんたの彼氏に言って、この店の悪口をネット上にばら蒔かせなさいよ。そうすりゃあの行列が無くなるから」

「先輩、それって立派な犯罪じゃないですか。翔を犯罪者には出来ません」

「ケチな事言わないでさぁ、チョチョッといじればいいだけじゃない。悪質な営業妨害だけど、既に前科みたいな事もあるわけだし」

 環先輩はわかっているくせに言う。またそう言わせるほど、行列は長い。どこかのサイトでは夜の行列の長さランキングでたしか10位以内であったような気がする。寒い季節でないことが唯一不幸中の幸いだった。この行列、冬にはもっと長くなるらしい。

「美智留って整形とかしてないんだっけ?」

 私の顔を眺めていた先輩が唐突に言った。この業界に限らず“色白は七難隠す”は健在で、私のように美容整形していないほうがむしろ不自然に映る。

「まあ、若いからそんな必要もないか。全くうらやましい」

「先輩、私、もう少しお金が貯まったら、整形するつもりなんです。どこかいい病院を知っていたら紹介して下さいね」

「いくつか心当たりはあるから紹介はするけど、なーんかもったいない気もするなー。化粧だけで今の顔なんでしょ?」

「先輩、私、もう決めたんです。だから倶楽部姫で働く事にしたんです」

「そっか……わかった。私から言えた義理ではないけれど、しっかりやりな。……で、彼氏とはヤッたの?」

「先輩!」

 私の甲高い声に行列の視線と関心が集まる。仕事着のドレスから着替えているとはいえ、街をあるけばスカウトに当たる環先輩がシャネルのスーツ姿で、実年例とは明らかに不釣り合いな金額と一目でわかるD&Gのパンツとキャミソール姿の私に、世間ずれした言葉をかければ当然結果はそうなる。私は環先輩に耳打ちした。

「先輩、何も大声で言わなくても……してません」

「ふうん、ああ見えてあんたの彼氏って、案外奥手なのね。ま、美智留もだけど」

「それを言わないでください。翔とはプラトニックな関係でいたいんです。……はじめに私から彼に言い出した事なんです」

「まあ、美智留がそう思っているなら、それでいいと思う。それでも彼から迫られた事くらいあるでしょ?」

「一度だけ。でもそれはいろいろと伏線があって、翔は違う目的で」

「化粧の下の素顔はどんなかなって、見られそうになった事ないの?」

「見られていたら、私、ここにいません」

「……あんた達、なんだか複雑そうだから大変ね。ま、私もだけど」

「先輩が、ですか?」

「この際だからカミングアウトしちゃう。美智留の彼氏の取材をしたいって紹介した記者、覚えてる?」

「ええ、フリービデオジャーナリストの葉月陽子さん」

「実はね……」

 長い行列のなか周囲を見渡した環先輩は、私の耳元で囁いた。

「……実はね、私、彼女と付き合ってるの」

「……え!本当ですか?」

「美智留、私があなたに嘘をついた事ある?」

 無い。本当なのだ。紛れもない事実なのだ。

「……」

「絶対の絶対の絶対の……絶対に……だからね」

 環先輩は口にチャックを掛ける仕草をしてみせた。口止めされるまでもない。美女と野獣の組み合わせは時たま聞く話ではあるが、美女とビジュアル系キャリアウーマンの組み合わせはない。それも相手は“あの”葉月陽子だ。大カミングアウト!

「いいなぁ、先輩は」

「なぁーに、憬れちゃってるの?……美智留が彼氏に許さないのは、“ズーレー”だからかしら。今度ウチで3Pする?」

「いいえ、ご遠慮させていただきます。……先輩、私、そういうのじゃなくて」

「あ、違うの?」

「お互いに信頼しあってるとか、解り合えるとか、そういう雰囲気が先輩の話し方から感じられて、それで“いいなぁ”って」

「美智留、最近、彼と話してないでしょ?」

「仕事が忙しいのがわかっているから、メールでのやり取りがほとんどで、一昨日病院に一緒に行ったきりなんです」

「例の誘拐事件ね。だからこそ、今が大切なんじゃない?」

「“今”、ですか?」

「そうよ。“今”が」

 私と環先輩が話し込んでいるうちに、いつの間にか行列が進んで数メートルの隙間が私達の前にできていた。先輩が歩を進めたので私はようやく気づいて後を追う。

「解決方法がなかなか見つからないから、彼は焦っているの。極限まで自分を追い込んでいるだけではいいアイデアは出て来ないんじゃない?案外、美智留の何気ない一言が引き金になるかも知れないわよ。引き絞った弓はそれ以上引いても矢は飛んで行かない。手を緩めて初めて貯めていた力が開放される。彼の事を本当に案じているのなら、そばにいてあげなさい」

「環先輩……」

環先輩は私の目を見て頷いた。

 私は翔に向かって駆け出した。


 ……あなたは追いついても掴めない影を追いかける。幻はいつか消えて、跡には何も残らない……




 ……二つの顔と三つの名前はダテではないのね……


 環先輩の勧めに従い、翔のマンションに来たのは正解だった。

翔は行き詰まっていた。ゆとりのないガチガチな精神状態の翔が出迎えてくれた玄関に足を踏み入れた瞬間、室内は緊張感と疲労感の空気でなんだかピリピリしていた。

窓を開け、換気をし、香り高い紅茶で一息入れて仕切り直しだ。

 翔がリフレッシュのためシャワーを浴びている間に部屋に散らかったカップラーメンの屑を片付け、そこいらにあった材料でおじやを作る。シャワーから上がった翔は何も言わず出来立てのおじやを貪る。鍋一つペロリと平らげ、夢遊病者よろしくフラフラと部屋に戻ろうとする翔に声をかけた。

「翔ぅー」

「……」

「ダメって言われたけれど来ちゃった」

「……ごちそうさま。立て込んでいるんだ。静かにしているだけなら、いてもいい」

 翔はそう言い残して再び部屋に籠ってしまう。

 朝が底から白み、朝刊配達のスーパーカブが町中を飛び回り、マンションの下をバスが行き交いはじめ、公園のほうからラジオ体操の音が風に乗ってくる。私は翔をそっとしておいた。今の私にできるのは、それくらい。

 翔は時折私のいるリビングに何となくやって来る。私が帰っていない事を確認しているようだった。

 気付かない振りをしている私自身、もどかしくてたまらなかった。そんな私を知ってか知らずか、翔は来る度に距離を縮めてゆき、私の邪魔にならないよう足音を忍ばせる。朝の連ドラくらいの時刻になって、ようやく翔は自分が気付かない振りをされている事に思い及んだらしく、わざとらしく咳払いなんかしちゃって、声をかけてきた。

「美智留、何してるの?」

「レポート。明日までに仕上げなきゃいけないんだ」

「さっきから思ってたんだけどさ、なんか亀が人差し指だけ使って入力しているのよりも遅いよ。手伝うよ、美智留が話したのを俺が入力したほうが早いし正確だろ」

「いいの。いろいろ考えながらしてるんだから。翔がしたらレポートの意味がないよ」

 月に一二度、定期報告ではないけれど、治療の一環としてレポートをセンセイにメールする。翔が“代筆”してしまうと、治療の意味がない。

「美智留って、意外と真面目なんだ」

「何よそれー」

「ほーら、また手が止まってる」

「これは違うの。考えてるんだもん」

「そっか、じゃ……“ところで”」

 私と翔の“ところで”が交錯した。思わず二人で吹き出してしまう。

「“どうぞ”」

 再び笑いのツボにはまってしまい、なかなか治まらない。

「先に言って」

「いや、多分順序が逆だから」

「じゃあ、私から言うね。あと15分したら朝食にするから」

「!」

「?」

「……考えて思い付かないのはしょうがない。お言葉に甘えて、脳ミソにガソリンを入れるよ」

「ハイオク、満タンでね」

「ん?今、何て?」

「“ハイオク、満タン”がどうかしたの?」

「それだよ!それ!あ〜何で今の今まで。俺のバカ馬鹿バカ」

「どうかしたの?」

「わかったんだ。閃いたんだよ」

「え!マジで!?」

「こうしちゃいられない。美智留!」

「は、はい」

「朝食を30分後にしてくれない?ペンダゴンだかパンタロンだかいう奴に泡吹かしてやる。ま、それだけ時間があれば充分」

「朝食はいいけど、大丈夫なの?」

「ま、見てなって」

 翔はそう言い残すと一旦部屋に戻って、白いノートパソコンをリビングの硝子テーブルに置いて陣取った。

「それ芳夜専用のよね」

「家出娘専用の」

「あ!」

 翔が親指人差し指中指だけで掲げている17インチのノートパソコンのディスプレー背面に、リンゴマークを取り巻くようにしてエンボス加工された「KAGUYA」の刻印が浮かび上がっている。

「タフで、速くて、ソリビジョン専用。彼女の居るべき場所だよ」

「ポリカーボネイトじゃないよね?カーボン?」

「ホワイトカーボン。ヒンジの可動角は225°、それと……」

 翔は徐にディスプレーをテーブルと平らにして開いた。起動音がすると翔は何も無い空中を見つめる。

「あ!」

「面倒臭いから、創っちゃったんだMacOSドラゴン、ダブルビジョン」

 起動画面ならぬ“起動立体画像”が翔の視線の先に空中浮遊する。複数のバブルの一つに翔の人差し指が触れた瞬間、バブルはじけて画面が展開した。

「“バルーン”に触れるだけでいい。マウスやタブレットはもはや過去の産物さ。さてと」

 画面の中で入力されたプログラムが滝のように流れ落ちる。私のタイピングを亀と比較して、とやかくいうだけの資格は十二分にある。キーボードを打つ音は驚くほど静かだ。まるで無駄が無い。

「見てたら、こっちが先に終わっちゃうよ」

 翔は空間に浮いた画面を見ずに私に言う。話ながらでも画面の流れは澱まず、むしろ勢いを増している。

「違うの。レポートの事、考えてるんだもん。そうだ。ピザパン、作るからね」


 ……どんなレポートか、送信のあとで見させてもらうから……



 ……いくら気がたっているからって、その踊り、全くなってない……


 倶楽部「姫」には今時のクラブ……私や先輩が遊びに行く所謂“culb”ではなく、殿方がホステスに貢ぎに行く“クラブ”には珍しく常設のステージがある。カラオケは勿論、バンドの生演奏や着飾った私達のショーもある。

 事件は無事解決したし、今まで一緒にいても見えていなかった翔の一面に触れられたのは良い。ただ、どこにも……翔の過去と未来に私の居場所が見当たらなかった。翔に会った時からわかっていた事ではあるけれど、現実を目の当たりにして、事実を突き付けられると辛い。

 芳夜のサルベージが成功し、彼女が三次元の世界に還元され、翔と抱擁する芳夜に嫉妬を感じている自分が無性に腹だたしいく思えてならない。芳夜の再現蘇生は、翔の失われた記憶を取り戻すためのプロセスだったはず。彼女は単なるプログラムの集合体だからこそ、私は協力もした。なのに何故?……

 だから、舞台の上で私は全てを開放する。スポットライトと世界の視線を全身に浴びて、全てが無に帰すこの瞬間、これほど気持ちいいものはない。

「カグヤ、カグヤ!」

「あ、先輩……」

「ちょっとコッチに来な」

 ステージを終えて控え室に戻ろうとした私は環先輩に捕まった。

 環先輩に荒っぽく手を引かれ、投げ出されるようにして控え室の総革張りのソファに座らされる。

「なにあの醜態は……気を付けなさいよ。多分、だとは思うけど……彼氏と何かあったのね。一人で抱えていても仕様がないでしょ?話してスッキリしたら」

 私は洗いざらい先輩に話した。途中で涙が止めどなく溢れてきて、最後は環先輩に頭や背中を撫でられながらしゃくり上げていた。これでは仕事になる訳が無い。

 稼ぎ時に稼ぎ頭二人が抜けてしまい、フロアーはてんてこ舞いだっただろう。閉店後、二人してママの呼び出しがかかり、キツーくお灸を据えられたのは言うまでもない。

 罰として閉店後の片付けとステージの居残り練習をする事になった。

「先輩、私のせいでこんなことになって、ごめんなさい」

 モップをバケツで絞る先輩に私は謝った。

「“謝って済むなら警察はいらないわよ!”なんて言わないわよ。後悔するような事してるから、“他人に謝らなきゃいけない”ってなる。私に謝るくらいなら、もっとしっかりなさい」

「はい、ごめんなさい」

「もう!仕方ない娘ね」

 環先輩は私をキュッと抱き締める。先輩なりの励ましだ。環先輩の言う通りだと思う。

 私なりの翔への愛情表現があると思うし、それは芳夜の存在がどうのという問題とは次元が異なる。“実体が無い”という点が共通する芳夜と私は、或る意味似た者同士なのかもしれない。仮に翔が芳夜を選んだとしても、私の気持ちに変わりは無い。結局本当に実体が存在しない芳夜が翔とは結ばれようが無いからで、それを知っているからこそ私は芳夜に対して余裕を感じている一面もある。

「先輩、私もう平気です」

「ん?いやに立ち直りが早くない?それとも強がりを言ってるの?」

「ホント、平気ですって」

「本当に?……まあ美智留が元気になればそれでいいけど。でも、困ったことがあったら、いつでもいいな!」

「いつでも?ホントに?」

「おうとも。って、早速かい。……で、何だい?」

「今回はいいですけど、次からはママに“罰で掃除をさせるのはやめたほうがいいですよ”って忠告して下さい」

「な!……そういう相談は無し」

「なんでですか、先輩?」

「言える訳ないだろ。状況を考えたら……最近、お前の“お姉様方”が相次いで店をやめるのは、俺の監督不行届が悪いからだってママから事ある毎にスッゴイ疑いのまなざしで言われてるのに。要は“カグヤばかり可愛がるから、それが嫌で辞めた”とか、“自分が辞めて独立するために、新人を必死に育てていて私達をかまってくれない”とか、辞める連中から立続けに言われりゃ誰だって疑いたくもなるからね」

「そんな事があったんですか、先輩」

「まあ、倶楽部姫はママの店だし、私は辞める気なんてさらさらないから、耳のそばで羽虫が飛んでいるとも感じてないけどね。“掃除をしろ!”っていうのは、ママの哲学というか親心というか、そういうものだから、諦めな」

「え〜それじゃあ相談にならないじゃないですか」

「一件落着、一件落着と。ほら、口と一緒に体を動かす!」

「なんだか先輩の言い方、ママとソックリ。あー、もしかしてもしかすると……先輩、ママの後釜、ううん下剋上を狙ってません?」

「馬鹿!カグヤ!めったな事を言うんじゃないよ。誰が聞いてるか……」

「あ、お、お疲れ様です!」

「……お疲れ様、二人とも。カグヤちゃん、モップはもっと腰を入れて使うのよ。あと環さん、心意気は買うけれど、終わったらチョット顔を貸してくれるかしら?」

「は〜い。(コラッ、カグヤ!状況を考えろ。状況を)」

「(すみません。先輩)」

 ……そう、あなたはいつも、そんなだった。一番状況を把握できる立場にいたのに、私や翔に教えてくれなかった。もし“状況”を知っていたら、私は翔と離れ離れにならずに済んだのかもしれないのに……

(美智瑠のアクセスレコーダーより)

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