04.別人のパルス

 今朝、僕の体験したことを瞳ちゃんに話したら、きっと「夢でも見たのよ」なんていわれるだろうな。「芳夜と話をした」なんて。

 夜半、翔に叩き起こされて窓を見たが、月が出ていなかったせいもあり、未だ明るくなっていない。引きずられるようにして翔の部屋に連れ込まれた。そして、そこで芳夜と話をした。他愛無い、というよりは社交辞令的な内容の対話だったが、それは確かに僕の妹・望月芳夜だった。寝ぼけていたし、半ば夢現だったから、特に何のためらいもなく、直ぐにまたベッドに戻った。


 案の定、僕ら三人は遅刻した。

「いつもでしたら、こんなこと絶対ありませんのに。昇君、何かありましたの?」

八時半の電車に揺られながら瞳ちゃんに言われて、頭がぼーっとしていた僕は思わず話してしまいそうになった。しかし、それまで瞳ちゃんの隣で眠っていた翔が、数日間の徹夜で窶れた顔に、油のように目玉をギラつかせて急に僕を睨んだので、何とかこらえることができた。別に話してしまっていても害はないと思うけど。

 一体、翔は何をしようとしているのだろう?「同居しているくせに無責任な事を言う」というのは、当たらない。その点、翔の幼馴染みの瞳ちゃんも同じで、自他ともに認めるところだから。

 しかしながら、解らないながらも、わかっているつもりの事実はあって、それは翔に彼女が出来たらしいということだ。僕はその彼女という人を直接見たことはないけれど、翔と彼女が二人で居るところを目撃した瞳ちゃんによると、「どうかと言われましても」なのだそうだ。

 今夜はバイトがあるから、明日こそ本当の処を翔にきいてみようと思う。


 まことしやかな情報は、真実だった。交際三ヶ月。帰ってこないムルルを探しに行き、夜の公園で出会ったのが馴れ初めなのだそうだ。僕の質問に対して、翔はいつになくよく喋る。そうして一頻り話し終えて、僕と瞳ちゃんの関係がどうなっているのかと、翔が僕に問いかけてきた。そんなに心配なのなら、瞳ちゃん本人に直接尋ねればいいものをと、僕は答えた。学校で流れている噂を、翔は翔なりに気にしているらしい。ここで書いても何の釈明にもならないけれど、こと僕と瞳ちゃんについては全くの濡れ衣だ。

 とか書いても、昼休みに瞳ちゃんがリンスのいい香りを漂わせながら、僕の机のところに来て二言三言交わしているだけで、僕と瞳ちゃんが“できている”事になってしまう。目下、それが僕の悩みなのだ。


 芳夜と話がしたくて、翔に頼んでみた。妹(?)と話をするだけなのに、翔の許可を必要とするなんて、変だ。ただ、仮にも彼女は翔の手なしでは、存在し続けることが困難であることも否めない。

 かつて僕の感じていたことが事実だとすれば、翔は芳夜が好きだった。お互いが存在していることが極めて当たり前で、おそらくは当人同士でさえ、好き嫌いの感覚を一足飛びにしてしまっていたのだと思う。

 不幸な事件の結果について、ここに記すことはしない。でも、芳夜がいるのであれば、新しい彼女の美智瑠って子はどうなるの?

 事件後、僕と翔が再会したのは、翔が飛行機事故で両親を亡くしてからのことだった。そして再会した時、僕は翔からある決意を告げられた。必ず芳夜を取り戻す、と。妹のいない生活、世界観に漸く慣れ始めたばかりの僕にとって、翔の決意の言葉は落胆させられた。と、同時に実は期待を抱かせた。

 ただ、芳夜の再生計画がこと此処にいたって、僕は翔のしていることにたいして理解に苦しむ場合が多い。翔は純粋に芳夜の再生を願って、今の行動をしているのかどうか、疑問に感じる節もある。本当の目的が何であるのか、僕には理解できない。

 ちょっと前、芳夜の心を開く為にある重要な決断が必要になったことがあった。翔の説明によれば、彼女が保存されているという「ブラックボックス」と呼ばれるプログラムに手を付けてもいいかどうか、翔に尋ねられたことがあった。僕はバックアップを必ずとることという条件付きで賛成した。

 もし、翔の言うように「ブラックボックス」が芳夜であるならば、傷を付けたり壊してしまうことを、僕は許さない。また、これは僕から翔への警告でもある。

 ……結局、今夜は芳夜と話すことはできなかった。翔は妹を独占したがっている。バグが発生したらしいけど、疑わしいものだ。何せ芳夜を起動させるコードは、翔しか知らないのだから。


 瞳ちゃんにありのままを話したら、「翔様がつくった新しいおもちゃですの?」なんて言われてしまい、取り合ってくれなかった。

 翔が出かけた後、うちに転がり込んできた美智瑠には、「聞いてはいたけれど、一度見てみたい」と言われた。

 ともかく、パソコンで造り出された仮想現実の妹・芳夜と、二度目の対面がつい先ほど実現した。

 二度目とはいっても、実際に素面で会うのは初めてだ。期待と不安がないまぜになった奇妙な気分だった。ありえないと思いつつも、期待する気持ちもある。もちろん、あることを試すつもりだった。

 僕ら兄妹でしか知り得ない事実で、彼女を試してみようと考えていた。対話の中では、あるところまでは驚くほど鮮明に、かつ僕以上に正確な記憶を彼女は語ったのだが、「ある出来事」についてだけ、僕の記憶と異なる答えをした。

 僕は「僕が初めて」と思っていたけれど、彼女はしばらく考えた後、「翔」だという。そうこうしているうちに彼女が頭痛を訴えはじめた。「頭痛」は芳夜に外部からの不正なアクセスがあった場合のシグナルなのだそうだ。こうして妹・芳夜との二回目の接触は中断された。


 最近、「妹」と対話をしていない。翔は文化祭の準備に忙しく、僕のちっぽけな願い事にとりあっている暇はないらしい。

 なんでも、今年のパソコン部の出し物は、「ノーベル賞もの」だそうだ。細かいことは部外秘で、僕や瞳ちゃんは勿論、例の彼女にも話していない様子。毎晩、僕がアルバイトを終えて帰宅した時にも、翔の部屋の扉の隙間からは部屋の灯りと、キーボードを叩く音が洩れてくる。大抵、徹夜でパソコンに向かっている時間以外は、「夜は眠らず、昼寝して」いる有り様。睡眠学習を続ける翔を見かねた瞳ちゃんをして「何かしているみたいだけど、これなら学校に居てもいなくても同じね」と言わしめる始末だ。学校に来るにも、家に帰るにも、翔は殆ど僕に引きずられているようなものだ。

 夜鷹の生活をする翔から、僕は一つだけお願いを受けた。受けたというよりも、有無を言わせてくれなかったのだけれど。何でも素材としての昆虫が必要だから、出来れば生きたモルフォ蝶か、そうでなければ標本とアゲハなり、モンシロなりのいきた蝶が欲しい、という注文。おかげで秋空のもと、小学校以来の昆虫採集を日々黙々としている。

 ただ、モルフォ蝶は天と地がひっくり返っても、生きたものを手に入れるのが難しい。そもそも標本でさえ言わずもがなだ。でも、どうやら貴重な標本の目処も、瞳ちゃんのつてを頼ってつきそうだ。彼女の父親は、地元の博物館の館長なのだから。


 翔は「ノーベル賞もの」を創ろうとしている。休日、昼なのにカーテンをして真っ暗にした翔の部屋から、廊下にいた僕の目の前に蝶が一匹壁をすり抜けて現れ、そして瞬間、蒸発するようにして消えた。途端、翔が部屋から出てきて、「飛んできたか?」と僕に問いかける。「いまの?」「見たか?」「でも消えた」「それでいい。でも、他の奴には『これ』だ」と翔は口にチャックをしてみせた。


 『質量のある三次元立体画像』。今のところの仮の名前だ。翔の暗室で(今の技術では暗室でしかできない光量なのだそうだ)、僕の掌にいる白く発光するモンシロチョウには、触感もあれば、羽ばたく風をも感じることが出来る。翔はこれでさえも始まりの第二段階に過ぎないと呟いている。

 翔、君は何をしようとしているんだ。


 翔が秋葉原に買い物に出かけた隙に部屋の掃除をしていたら、リストのような書類の束を見つけた。

 あまりにも無造作に置かれていたので、それまで気にも止めなかったが、タイトルもインデックスもなく、それでいながら不必要ともいえない身上報告書だった。

 瞳ちゃん、美智瑠、そして芳夜。顔と全身の写真、身長・体重など躯のありとあらゆるサイズの詳細な一覧表。普通でないのは彼女達のプロフィールで、家族構成や生活習慣、口癖や好物、趣味や生い立ちの他に、身体的な特徴(ホクロの位置や、ありとあらゆる体のサイズ、毛の本数まで)、翔との関係を年表のようにまとめられたものがあったこと。もう一つは、翔のベッドの下に隠してあった紙袋。中身は彼女達の衣服や手袋が丁寧に納められていた。

 趣味というなら危険だし、フェチというなら異常だ。翔は事実を認めたくないのか?妹、芳夜の温もりを追い続けているのだろうか?


 翔が彼女に「温泉旅行」をせがまれている。彼女、美智瑠の目的は、翔との関係を「元許嫁」に認めさせ、翔にもケジメをつけさせることだろう。もともと、翔の発明した入浴剤を彼女にプレゼントしようとしたのが、きっかけらしい。「だったら、温泉にゆこう」この一言で翔が動き出した。

 「別に構わないけど」というのは「元許嫁」の瞳ちゃん。翔が瞳ちゃんに隠し事をせず、のうのうとたれているところに居合わせた僕は、冷や汗をかきながら聞いていた。瞳ちゃんも意地が悪い。というよりやはり未練なのかな?瞳ちゃんはその場で僕を誘い、有無を言わせなかった。感心がなければ、翔の話しなんか聞き流しても良かったのに。


 美智瑠が翔に仕向けたのか、温泉旅行が持ち上がったかと思ったら、それぞれ都合がつかなくて、あえなく計画はポシャった。

 実際のところ、それぞれの都合というよりはスケジュールのせいではない。ダブルデートを目論んだのは翔あるいは美智瑠だったし、美智瑠は既成事実を実らせようとしていたのが見え見えだったし、僕と瞳ちゃんは「おまけ」に過ぎなかった。「嫌気がさしたから」ということもないことはない。けれど、現実は言い出した美智瑠の都合が付かず、それに瞳ちゃんが便乗して計画が流れた。

 僕は違う。表向きの口実は、バイトの都合が付かなかった。しかし本当は、翔の目的の為に今回の旅行が計画されたものではないかという直感だ。

 ここのところ、「芳夜」と何回か会っていく中で、気が付いたことがある。彼女は僕の妹ではないが、翔にとっての芳夜であることには違いない。翔が手をかければかけるほど、翔の思いに歪んだ芳夜になってゆく。こんな状況のなかで唯一救いなのが、「芳夜のいる」ブラックボックスが健在であること。それに尽きる。翔は何か企んでいる。僕はそう感じている。


 ニュースです。先ほど、■■マンションの808号室、望月さん宅にて事故があり、望月さんの飼い猫ムルルが前足に軽い火傷を負ったほか、同居している高校生も右手に全治一週間の火傷を負った模様です。現地とは中継で繋がっています。現地特派員の昇さん、お願いします。

 はい、昇です。夕飯の支度時に事故は起こりました。現地の片付けはすっかり終了しているせいか、事故当時の慌ただしい雰囲気とは裏腹にひっそりと静まりかえっています。

 さて、事故は立体像取り込み装置の実験中に発生しました。猫を入浴剤のような特殊な溶液を満たした盥に浸そうとした瞬間、発光する溶液に驚いた猫が熱した端子を前足で蹴り、盥から飛び上がった為、実験をしていた高校生が取り押さえようとして過って手で端子に触れ、猫は前足を、高校生は右手に火傷を負いました。

 あ、今、新しい情報が入りました。猫は飛び上がった後、机に着地しましたが、その際に高校生の携帯電話を机から蹴落とし、携帯電話が壊れたとのことです。以上、現場からのリポートでした。


 あの葉月陽子から、翔に面会を求める電話があった。とはいえ、彼女は翔と僕を勘違いした。気付いた僕が本当のことを告げる前に電話は切れていた。僕と葉月陽子が接触したのは、事件以来だ。

 事件当時、葉月陽子は冴えないタブロイド紙の記者であったと共に、駆け出しのカメラマンだった。後に「中学生心中事件」として世間を騒がせることになる翔と妹の事故を最初に嗅ぎ付けたのは、そのタブロイド紙の記者・日向野ではなく、駆け出しのカメラマンのほうだった。葉月陽子のジャーナリストとしての先見の明というか、「鼻の良さ」はそのときからであるようだ。日向野は事故として報道する方針だったが、津波の如く押し寄せる記者やカメラマン達から「加害者」を庇護したような形になった。そして日向野が担当記者から外され、「偽装心中」説の急先鋒となったのが、あの葉月陽子だ。つまり僕達を餌にしてジャーナリストとしての名を上げ、株を上げた。僕達と葉月陽子は、そういう不倶戴天の、因縁の関係にある。

 葉月陽子は、事件からしばらくしてジャーナリストの有名処ばかりが集まるテレビ局のニュースキャスターに転身した後、独立してフリーのジャーナリストになっている。今では元々カメラマンだった腕を活かして、デジタルカメラ片手に地球なら事件のあるところに出没し、世界一のスクープ稼ぎの座に君臨している。

 その葉月陽子が、何故自分の飯の種にもならない翔に接触を試みるのだろうか?


 妹との面会の日。何かこの前と違う感じがした。今までの「芳夜」よりも妹に近い。彼女の鮮明な記憶は、僕の記憶違いを指摘するほどだった。

 翔がトイレか何かで部屋を離れた時、彼女は僕に「最期の時」の前に翔と混浴したことを話した。話し様は幾分挑戦的。兄の僕を冗談でからかっている妹の姿が垣間見えた。

 僕を含め、事件に関わりのある誰もが知ろうとして知り得なかった「事件の真相」に近づく過去がパソコンのディスプレーに次々と表示されてゆく……。

 ふと気付くと、僕は翔に介抱されていた。頭痛を起こしている「芳夜」の前で僕が倒れていたのだという。「芳夜」の語った事で僅かながら強烈に記憶に残っている事柄をここに書いておく。

 ……あのとき、祭りの後の喧騒から抜け出した二人は、芳夜の部屋に戻った。そして祭りで汗みどろだった二人は、黒い粉末を風呂に溶かし込んだ風呂に、翔が先に芳夜は後を追って風呂場に入り、混浴する。芳夜は湯船から先に出て自分の部屋に戻り、日課の日記をつけるためにパソコンを起動した。髪を乾かしながら日記をつける芳夜は、翔が風呂からなかなかあがってこないので、風呂場に戻る。すると風呂場でぐったりした翔の手首から赤い血の輪が、黒い湯に広がってゆく……。


 「何故、葉月陽子が僕達に再び接触したのか」、この疑問がある程度解けたような気がする。

 翔が博物館の恐竜展に参加している事を知り、まず瞳ちゃんに。葉月陽子は瞳ちゃんに「翔に許可をもらった」などと真しやかな嘘をいい、恐竜展のことを訊き出した。それから美智瑠。美智瑠は葉月から「彼の本当の過去の事を教えてあげる」というのにのせられて、翔の博物館での仕事内容をそれこそ「尻の毛をむしり尽くす」ほど。

 そして僕。葉月は翔に会う前、最後に僕のところに来た。葉月は僕に会うなり、「恐竜展のことを教えてくれる?二人からは聞いていると思うけど」と臆面もなく言ったものだ。僕は葉月に、翔と恐竜展の関わりを何処から仕入れたのかと尋ねると、葉月はあっさりと答えた。「私みたいになると、何もしなくても情報が集まって来るのよ。私の中で、あの事件は終わっていないから、アンテナは常に立てているということ。私の原点とも言えるし、そろそろ第二幕が始まりそうな感じがしているし。失うものが無くなった翔君が表舞台に復帰するのには何か理由があるはず。直感かな」と。

 僕はいぶかしげな顔をしていたに違いない。葉月は僕の表情に対して答えていたように思える。「差し出し人不明のE-mail。差出人の名前はカグヤ」。何かが起ころうとしているのだろうか。


 放課後、パソコン部の近くを歩いていたら、丁度部室から瞳ちゃんが出てくるところだった。瞳ちゃんが翔のパソコン部を訪れるなんて、どういう風の吹き回しだろう。僕が知る限り、これが初めてだった。

 瞳ちゃん曰く、茶道部に行く途中に立ち寄ったとのことで、直接翔に渡さなければならないものがあったとか。そういって瞳ちゃんは、紙の手提げ袋を僕に示しながら、「これが新しい波の入ったカードですの」と中身を見せてくれた。USBが10枚ほど。「秘密ですわよ」と瞳ちゃん。使い方を訊こうとしたら、廊下の向こうから茶道部の面々がやってきたので、僕と瞳ちゃんはほぼ同時に廊下を別方向に歩き出した。

 秘密だ。多分、瞳ちゃんは僕に話してはくれないだろう。翔に尋ねてみるしかない。


 翔に「秘密」のことを訊ねたら、割とあっさり教えてくれた。健康器具とのこと。随分前から瞳ちゃんに渡しているらしい。「よりが戻ったのか」とチクリと刺してみたら、素っ気ない返事が返ってきた。「前に渡したものには、ノイズが混じっていたから、新しいのと交換したのさ」と、それだけ。


 翔から「芳夜」のシステムについてレクチャーを受けた後、再び芳夜と会った。

 人格のコアとなる「ブラックボックス」があり、自律思考プログラムがコアにある記憶を基にして人格を形成する。

 ただし、プログラムである以上、外部からのイレギュラーな接触や人格そしてプログラム本体を破壊しようとするアクセスがあった場合、免疫系プログラムが積極的な活動を開始する。免疫系は通常も監視程度の活動を続けており、プログラムの積極的関与を外部に示すときは、その重大性や異常の程度より反応が異なる。人の風邪の諸症状を訴えるようにプログラムが組まれている。

 もう一つの重要なプログラムは、忘却系プログラムだ。この忘却系プログラムは、人格が経験や環境に影響を受けて変化してゆく事を前提として、自律思考プログラムが組まれている事から、不要になった経験や環境を凝縮して記憶を更に圧縮し、通常の思考に際しては自律思考プログラムがアクセスできない状態にする、いわば記憶を擬似的に忘れさせるためのプログラムだ。

 これらコアと、それに付随する自律思考系、さらに内外に対する免疫系と忘却系、三津のキーとなるプログラムが相互に作用し、擬似人格が形成されている。いずれ擬似人格は自我に目覚めることだろう。そして「芳夜」の意識が蘇る……。

 翔のシナリオが、芳夜の意識の回復を最終目的とするのかどうか、それは僕にはわからない。ただ、僕に言えるのは、少なくとも僕は芳夜があんな形で突然みんなの前から姿形を消してしまった事に対する納得のいく答えが欲しいし、一瞬でもいいから、妹が元の姿で僕の前に現れて欲しい。

 翔が僕以外の誰にも「芳夜」を面会させないことは、何らかの理由があってのこととは思うけど、そんなことはどうでもいい。未だ「芳夜もどき」であるけれど、こと記憶の範囲に属する事柄について、僕と「彼女」はこうして話す事が出来るのだから。

 もしかしたら、僕と「未完成の芳夜」を対話させる事で、「彼女」をコンピューターのハードディスクから解き放たせるきっかけを作ろうとしているのかもしれない。僕は、彼女の自我を呼び起こす為のトレーナー役かも。実際、今まで彼女との対話には、翔から「ある種の制限」を言い渡されていた。話しの内容は、なるべく時間の流れに沿ってするようにと。でも、今日は違っていた。

 さっきの仕組みの説明があったのちに、「時間の順序に関係なく、彼女の記憶に存在しない事も話していい。例えば、今日あった出来事とか」と翔から聞かされた。僕は早速、ここのところあった出来事、翔の新しい彼女・美智瑠のことや、恐竜展のこと、諸々。それから、僕は彼女に質問をした。「翔はこれから何をしでかそうと考えているのか」と。

 しばしの沈黙を挟んで彼女が答えた。「瞳ちゃんを使って何かしようと考えていて、それは私に関わりのある事でしょ?」と。僕はマイクに向かって、「君に?」と訳もわからず反問する。

「翔は、君に何かを伝えたの?」

「ええと、それは……今は秘密。でも、ノイズに光ちゃんが混じっていたから、部室で瞳ちゃんにカードを渡したんだってさ」

「ノイズ?光ちゃんの?」

「別人のパルスが混じっていると、いけないから。純粋な瞳ちゃんだけのパルスが必要なんだって」

「別人のパルス?『パルス』って何?」

「心が発生するためには、それを納めるためのタマシイの器が必要なんだって。それのエキスみたいのがパルス」

「タマシイの器?」

「そう、器。私という心を形作る器。お兄ちゃんにはあるけれど、今の私には無いもの。それが器」

「うつわ……」

 これ以降の会話は、あまり記憶に残っていない。僕は「うつわ」という言葉で、かつて翔が話していた事を頭に巡らせていた。確かあれは翔の両親の葬式のときだった。去年の春、あの日は冷たい雨が降っていた。

 両親の骨壺を前に抱く翔の独り言。

「これはただの器。そうだろ、芳夜」

そのとき僕は聞いていない振りをしながら、翔の言葉を「遺体のない形だけの葬儀」という意味に解釈していた。翔が歩く度に骨壺の中のカフスボタンと指輪は、乾いた音を立てる……。


予定されていた芳夜との面会はできなかった。何でも「芳夜のプロトタイプはできたのだけれども、拒絶反応があって、器に納める事ができなかった」らしい。美智瑠から聞いた事もあり、真偽のほどは定かではない。

 翔は瞳ちゃんに話さないくせに、得体の知れない美智瑠には芳夜の事をよく話しているようだ。今のプロトタイプが完成する以前、理論的な裏付けがとれた段階で、美智瑠は翔からヌードモデルになってくれるよう、しつこく頼まれたけれども、美智瑠は拒み続けたという。僕はその話を意外に感じた。

 僕は彼女が断る理由に思い当たらなかった。だって、自ら既成事実を作ろうとして翔を温泉旅行に誘うくらいなのだから。それとも僕が思い違いをしていたのかも知れない。美智瑠は嫉妬で、翔が芳夜や瞳ちゃんに向いてしまわないようにするためであったかも。

 ともかく、今日は芳夜に会えない。それだけだ。


 夜、バイトから戻ったら、玄関に瞳ちゃんの靴があった。静かすぎるので変だと思って翔の部屋を覗くと、一瞬部屋に瞳ちゃんが二人居るように見えた。一人は翔の背後にあるベッドに横たわり、もう一人は翔の目の前、扉を開けようとした僕に背を向けて全裸で立っていた……。

 ……が、それは錯覚だった。目を閉じて頭を振ったら、ベッドですやすや寝息をたてている瞳ちゃんと、彼女を見守る翔の姿だけが僕の視野にあった。幻は例の光る蝶や恐竜よりも生々しかったような気がしていた。でも多分、僕は、寝ぼけているだけだったという事を翔の口から聞きたかったのかもしれない。

「翔、変な事を聞くようだけど、今、瞳ちゃんが……」

「まーったく、急に押しかけて来てさ、晩飯を作る手間が省けるまではいいけど、これだもんな。どうしようかと思ってさ」

「……どうしようって……」

「バカ、お前が想像するような事はしていないぜ」

「でも、……今、裸の瞳ちゃんが」

「妄想を巡らしているのは、お前だろ。……あーそうか。最近、ヤバい薬でも始めたのか?」

「まさか」

「美智瑠でさえも持て余しているのに、俺が瞳に『あんな事』とか『こんな事』とか……」

 翔は言い放ちながら、腹式呼吸で上下する毛布で覆われた瞳ちゃんのお腹に顔を埋めた。

「でも、してるよ」

「これはジョークだよ。ジョーク。うわっ!」

「……ううん、翔様……ダメ」

 突然、瞳ちゃんは鼻で寝言を言いながら、翔の頭を両手でしっかりと抱きしめた。

「おい、昇、逃げるな。な、待て」

「……なんか、僕、邪魔みたいだから」

 僕は翔の部屋から出た。離れてから直ぐにではなかったけれど、しばらくして、翔は眠る瞳ちゃんを背中に括りつけて、バイクで自宅に送り届けた。

 翌日ちょっと聞きづらかったけれど、それとなく瞳ちゃんに探りを入れてみると、「疲れていたのかな、眠っちゃったみたい」と臆面もなく話していたから、翔の言う「何もしていない」のは本当の事であろうと僕なりに納得した。


 芳夜に会う前、翔が変な事を言った。

「今の芳夜に会うのは、今日が最後だぞ」

どういう事かよく解らなくて、問い質しても翔は誤魔化して答えない。これは芳夜に訊くしか無いと思った。

 芳夜は、まるで遠足前のうきうきした子供のように、さも楽しげに僕の疑問に答えた。

「お兄ちゃんは、私と会いたくないの?」

「そんなことはないよ。でも、翔はなんであんな事を言ったのか、それが解らなくて」

「今のままだと、私はお兄ちゃんに触れる事もできないし、見る事もできない。それはとっても哀しい事。だから、翔は私をこの束縛から解き放ってくれようとして……」

 その後に続く彼女の話を僕は理解できなかったし、しようとも思わなかった。もともと妹・芳夜のパソコンのハードディスクに残されていた解読不能のデータ、それが彼女の正体ではないのか?そこから翔は妹の意識を復元しようとしているだけではなかったのか?妹の思考の真似をする、いや「ほぼ妹」が今の芳夜だと僕は思っていた。僕は今の彼女でいいと思っているし、今以上の事を求めるのはおかしい。

 僕の妹・芳夜は、もういない。あの祭りの後、消えてしまったからだ。翔は「最期の時」のことを僕に幾度となく尋ね、その度に僕は僕の見た「最期の時」を話した。誰もが納得の出来る事柄ではなかったから。

 ……祭りの後、僕がうちに戻ると、風呂場から芳夜の部屋にかけて大量の血液が広がっていた。血の海。あまりの事に僕はしばらく動く事もできず、早鐘を撞く鼓動だけを数えていた。それほど家の中は静まり返っていて、気味が悪かった。

 気を取り直し、血のぬめりに足を取られそうになりながら、玄関から廊下、風呂場へと足を進める。人気のない風呂場に目を遣ると、血液で赤く満ちた浴槽から、鉄の臭いのする湯気が立ち上っていた。血でなぞられた道をたどって芳夜の部屋へ。ベッドには血の気を失った芳夜と翔が血まみれで倒れていた。沈黙に支配された室内では、一際明るくパソコンのディスプレーが、いやに鼻につく電子臭を放っているだけだ。血で濡れた手でなぞられた痕のある画面に何か表示されていたので、僕が画面を見ようとして血を拭おうとすると、僕の行為を遮るように画面がプツと消えた……。

 そもそも、一体この「芳夜」は何物なのか?前から感じていた疑問や矛盾がもやもやとして、頭の中を駆け巡り混乱させていた。黙りこくる僕に「偽りの芳夜」が会話を再開した。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

「僕は、君の『お兄ちゃん』なんかじゃない。僕の妹はもういないんだ……」

「でも、私はここにいるよ。お兄ちゃんは私のお兄ちゃんだもの。翔が芳夜のお兄ちゃんだって教えてくれたもの」

「……わかった、わかったから。今日の芳夜と、明日の芳夜は違ってしまうの?」

「そうみたい。でも私は私なの。明日は私がお兄ちゃんに会いに行くから」


 あれは芳夜じゃない。僕は認めない。


 昨日の事。放課後、部室に来るよう翔に呼ばれた。夕日の差し込む薄暗い部室に他の部員の姿はなく、ひとり翔はノートパソコンに向かっていた。

「来たぞ」

「あ。ちょっと待ってろよ」

 翔の手元には奇妙な形をしたものがあった。二か所の継ぎ手のあるパイプ。僕は翔の背中に問いかけた。

「なんだこりゃ?」

「世紀の大発明さ」

 翔はパイプを折り曲げて三角形をつくり、パイプの一端から生えているコードをコンセントに繋ぐと、部室のブレーカーのうち特別大きなのを切り、もう一つの同じ大きさの電源らしきブレーカーを入れた。

「かなり食うんだ。この前うちで動かしたら、ブレーカーが上がって。ここなら使い放題だから」

「そういえば、父さんが電気代の事をぼやいていたよな……」

 今日付けの新聞の地方欄で知ったけど、僕らの高校で起きた原因不明の停電の元が『これ』だった。

 そうこう話しをしているうちに翔によってノートパソコンとコードで繋がれたパイプに堀り込まれた隙間から三角の内側に向かって光の板が浮かび上がってきた。そして、三角の光の板から光の粒子がチリチリと立ち昇り始める。

「翔、なんかヤバいよ、これ。ショートしているんじゃないか?」

 翔は答えない。光の粒子の上昇は次第に濃くなり、光の柱となりつつある。電子臭が凄い。

「昇、しっかりと見てろよ。これから芳夜を起こす」

 翔がノートパソコンのリターンキーを押す。すると光の柱が消え、いや一瞬で光の板に収斂し、何かが光の板からせり上がってくる。まぶしくて直視できない。次の瞬間、ものすごい光が室内に溢れた。まぶたを閉じても光が目に差し込む。光の残像が残る目をこする僕の肩に誰かの手が置かれた。僕は翔の手を捕まえながら、言ったつもりだった。

「翔、また失敗かよ。何度も実験に立ち会っているけど、今回のはマジで危険だぞ。失明しかねない……」

「違うよ。翔じゃないよ」

「何だ、瞳ちゃんもいたのか。いるならいるって……この声は」

「ただいま、お兄ちゃん。私の声を忘れちゃったのかな?」

 僕の肩に手を置いたのは、瞳ちゃんの姿をした「芳夜」だった。

(望月 昇の手記より抜粋)

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