02.彼女からのメッセージ
記憶もプログラムも閉ざされたまま、一体、どれだけの時が過ぎたのだろう。俺は血塗られた部屋で、かつて彼女の鮮血を浴びたパソコンを前にしている。
他人は「償い」や「贖罪」、そして「皮肉」というけれど、俺にとっては未だ芳夜の温もりが残っている、俺と芳夜の棺桶になるはずだったこの部屋で、彼女の気配を感じながら、こうして生きている事が幸せなのだ。
最近、もう一人の「かぐや」こと「潮 美智瑠」に出会ってから、今まで、罪滅ぼしのためにしていた俺自身の記憶探しが、自分自身分かっていなかったけれど、実は別な目的のためだと知った。ただ、その目的が何であるのかは全く思い出せないでいる。
潮 美智瑠は、あの事件とは全く無関係の人だ。
事件の後、あらゆる形での蟠りや遠慮、批難と軽蔑を日常としてきた俺の家族は結局、この街にから出てゆくことになり、そんな俺に新たな友人などできるはずもなく、俺の人間関係の広がりは唯一、匿名性のあるインターネットを介してのプログラム作成の関係者だけ。
少なくとも彼女は俺のことを、たとえインターネットやニュースの聞きかじり程度でしかないにしても、知った後でも俺と話をしてくれる数少ない新たな人間関係だ。
「先生」が紹介してくれる「友人」は、俺を「病人」としか扱わない。彼女、美智瑠は、単純に事件を引き起こした俺に興味を抱いているだけなのかも知れないが、真剣に怒ったり、俺に注文を付けたりする。だから、事件と無関係で、俺は彼女に素直になれるのだと思う。
「過去にだけ囚われている生き方は良くない。」
彼女がそう言った。確かにそうなのだろう。俺だって勿論わかっているけれど、ね。
ともかく今、過去を探らなければ、俺の記憶や事件の真実に近づくための鍵を得ることが難しくなる。今しかないのだ。
「本業(の仕事)が忙しくて、暇がない」
うっかり愚痴を瞳に聞かれたのは、まずかった。あの世話焼きの幼馴染みのお嬢さんは、俺のことになると必ず介入してくる。
やれ「毎日通学するのは、学生の本分よ」とか、なんとか。こっちは生活がかかってるんだってーの。親なし、家なし、金なしじゃ、義務教育ではない高校には行けないって分からないらしい。
いや、瞳のことだ、それを知っていて保護者めいたことをしているにちがいない。
でも、そんなことはどうだっていい。
一刻も早く、ダークウェブに沈んで行方不明になった芳夜の行方を探し出し、救い出す。それは俺の義務で責任だ。
しかし、行方を捜す手掛かりとなるはずの、芳夜の遺した未完成のプログラムの解析は、なかなか進捗しそうにない。だから、もう少し話していたかったけれど、美智瑠には「仕事があるから」と言って別れた。
同時進行中の博物館の展示用プログラムは大詰めに突入したが、瞳は猛反対。
文化祭での発表の前に、完成したばかりのプログラムをテストした時には、凄いの何の騒いだくせに今更だ。あいつの心変わりは本当に解らない。
バレたのかな、俺の稼ぎのネタにするために、部費を使っていることが。
ところで現時点での解析の結果は、解凍した芳夜のプログラムは断片的で、重複する箇所や意味不明の部分が相当含まれている、ということだけ。
芳夜のPCに残っていた謎のファイルを解凍したばかりのときは、当時新調したばかりのノートパソコンのハードディスクを全て占領しても有り余る容量だったが、ハードの改良とプログラムの洗練で、今は多少の余裕ができて半分ほどに収まりつつある。
未完成の部分を継ぎ足すのは、今の二つの仕事を終えてからにすることにしよう。
かぐや:「お腹が減っているの。ご飯を頂戴」
「シロアリ」がいた。仕事の合間に気晴らしのつもりで「芳夜」を開こうとしたら、前回保存したときの容量と一致しない。
僅かな数十バイトくらいの単位で文字列が消えている。念のため用意しておいたバックアップのほうを調べたら、ウイルスがいた。
意外と手の込んだヤツで、ファイルを開く度に感知して、自分以外のプログラムを消去し、最後は自分の存在さえも消去してしまう。繁殖感染能力がないところから推測するに、製作者が仕込んだものか、媒体に潜んでいたものかのどちらかだろう。
ふつう考えれば、前者である可能性は低い。私用ないしは製作中のプログラムに、何等目的もなく消滅するウイルスを潜ませておく必要は考えにくい。
一つ気になるのは、”かぐや”からのメールだ。美智瑠でもなければ、瞳でもない。ましてや昇でもない。一体、どこの誰なんだ。
かぐや:「何故だか解る?」
別件の仕事が終わった。多分、大学入学資金くらいにはなるはずだ。とはいっても、「入れるかどうか」より、瞳の言う「卒業できるかどうか」が問題なのだけれど。出席日数で留年もあるとのこと。今更、大検を受けるのも面倒だし、気をつけることにする。
今回作成したプログラムは、幅広い分野で革命を巻き起こすだろう。例えを幾つか挙げるとしたら、今回のような博物館の実物と寸分違わぬダミーであったり、テレビやビデオの触れることが可能な実体映像であったり、高度な技術の訓練をするためのシミュレーションであったりする。
「完成したことについて、とても満足している」と言いたいはずなのに、俺は不満だ。俺は今までもそうだし、今回の仕事もそうだ。喪失感を埋め合わせる、忘れるためにしているように思えてしまう。
あの事件で、芳夜と俺を別の世界へと誘い、彼女だけを連れ去られたときから、心の空虚さを、罪の意識を拭い去るためだけに没頭してきたとは思いたくない。
しかし俺にそれを否定できることすら適わない。忘れてしまうことはできるかも知れないが、俺は拒み続けたし、今も拒んでいる。
事件から時間を経るにしたがって、周りとの見えない壁はますます厚くなり、取り払うことも困難になり、最近は息苦しささえも感じないではない。それは幼馴染みや家族であればなおさらだ。
瞳との和解のチャンスは、浜辺の砂粒ほど否それ以上あったにも関わらず、互いに相手のアクションを期待したり望まなかったりして、何も手をつけられずにきた。こうした「ツケ」が今の関係を育んでしまったのだと思う。
何かの暗示か、後ろめたさか、瞳と感情のすれ違いのあった日の夜に見る夢は、「俺と芳夜が求めあう、その直ぐ傍に瞳がいて、瞳の視線が気になってしまい、俺が瞳に一瞬目をやると、今まで俺の手に触れていた芳夜がフッと消えてしまう」というもの。
毎回、見る度に芳夜が消えてしまうことを知っているのに、あの瞳の切なげな、避けられない視線がどうしようもなくて、とうとう瞳を見てしまい、瞳から芳夜に視線を戻すと、芳夜が消えている。
せめて夢の中だけでも、俺は瞳に構うことなく、ずっと芳夜といられればいいのに。
かぐや:「やっと『棺桶』を見つけたのね。食われてしまう寸前で。危ない」
どうして今までブラックボックスの存在に思いあたらなかったのか腑に落ちない。厳重に守られている以上、何かがそこにあることは疑いようがない。発見した「シロアリ」の仕組みを解析していて、「シロアリ」が全く手を付けられない場所があり、偶然にもブラックボックスに出くわした。
幾つかの代表的な強烈なウイルスの攻撃を受けても、傷一つもつかない。手製のウイルスも試したが、一部に浸食を許している間に抗体を編み出し、元のウイルスと共生ないしは取り込んでしまう様子を目のあたりにして、ブラックボックスと一連のプログラムは防御機能が絶えず進化する特性を持つものだと確信した。
外部からの攻撃に浸食されることを予定した緩衝域と、自ら抗体を作り出すワクチン生産工場が有機的に結合を果たし、相互作用により防御壁を形成する。まるで生き物だ。
パソコン自体に外部からの侵入の形跡がないところや、俺の手によるものではないから、芳夜の遺品としか考えられない。
しかし、彼女が作成したにしては手が込み過ぎていると警戒もしている。あまりに出来過ぎているのだ。
かぐや:「翔に『棺桶』は開けられない。だって翔を拒む私自身だから」
芳夜がいなくなったことを知ったのは、病院のベッドの上だった。
俺が意識を回復したのを発見したのは瞳で、芳夜ではなかった。
俺が目を覚ましたのは、芳夜の葬儀の1ヶ月後。
俺は芳夜が死んでしまったと知らされたが、理解できなかった。
「かぐや」は俺が彼女の棺桶を見ていないことを知っているのだろうか?
かぐや:「『壁』はね、創った私でしか開けないわ。だから、私を創って」
確かに俺は拒まれている。でも、単純にプロテクトが解けないだけに過ぎない。ただし、仮に彼女が遺したブラックボックスが、俺の手の内を知っているのなら、俺は俺以外の手でブラックボックスを解放すればいい。
かぐや:「私の全て、私の記憶が『箱』にある。私であって私でない私が」
惑わされるのは止そう。先生にも、瞳にも、美智瑠にも。芳夜、君は何を言いたいんだ!
しかし、ブラックボックスの一部には芳夜の記憶らしき映像や、キーワードがあった。これは本当に彼女なのか?
かぐや:「『箱』の中の『私』を、私を構成する一つの『私』として機能させて」
無数の断片と、複雑なリンク。リンクは定形を保っていない。いつからそういうことになったのか、俺には分からない。一つの可能性がある。ダークウェブから芳夜のPCになんらかのリンクが貼られていて、ブラックボックスと俺の介入を監視している。或いは、芳夜本人からのメッセージなのか?
もしかすると、俺の記憶の一部が、ブラックボックスにあるかも知れない。
俺には事件の記憶がない。或いは記憶を失っているだけなのかも知れない。
芳夜が何らかの方法で、自分の記憶を、彼女自身の意志を、ブラックボックスに入力する方法があったとしたら、ひょっとすると幻でしかなかった事が、実現するかも知れない。
かぐや:「ヒントを送るよ。無理を承知でヒント。三つに分けて残っているの」
「ヒント」が届いた。俺以外に知るはずもない「ブラックボックス」の存在を指摘した上で、「防御壁突破のヒント」なる文章と、一つのプログラムが添付されていた。
一種の思考するプログラムで、これをコアにしてAIを形成し、ブラックボックスを記憶回路として組み込むことで、ブラックボックス内の情報すなわち記憶と人格思考との間に自然な形で、拒絶反応や抗体反応を引き起こさせずに内部情報を循環させ、人格の発露としてブラックボックスから非破壊的に情報を取り出せるというのだ。
不可能ではないだろうが、何もそこまで複雑なプロセスを経なくても、ブラックボックスの解読は可能ではないかと俺は思っている。
かぐや:「翔と私が溶け合えなかったように、私も翔を拒みます。だから、私の言う通りにして。早く」
都合の良いタイミングで届いた、AIのコマンドのアーキテクト。
偶然にも彼女の記憶らしいと判明したブラックボックス。
これは、罠なのか?
本当に彼女からのメッセージなのか?
現実に、無傷で復元する方法が、他に見つからない。
複合防御壁と進化する抗原抗体反応で守られたブラックボックスは、解読というハッキングを仕掛ける俺を翻弄しはじめた。
嫌な感じだ。じきに逆ハッキングを仕掛けてくる可能性気配もある。「目には目を」と複製したブラックボックス同士で共食いさせれば、壁は破れるが、中身の記憶に傷が付く。ブラックボックスに退化を促すウイルスを投入することも考えたが、藪蛇にならないといえない。
かぐや:「失敗ばかり繰り返すのね。私はここにいて、ここにはいない。還るところが無いから」
それにしても「あのメール」の差し出し人は、一体何処の誰なのか。
今の時点でブラックボックスの存在を知り得るのは、俺自身を含めて片手で余る。いずれにしても「あのメール」が届いた後、芳夜の関係者と、かぐやを名乗る人物、それぞれ本人と直接話をして、「あのメール」の存在を初めて知ったのだから、俺の知る限りの範囲では、「あのメール」の差出人ではあり得ない。
瞳が言うように「よっぽど想像力のある、流れ星に当たる確率よりも難しい偶然」のない限り不可能なことだ。
犯人探しを続けるなか、それでも差し出し人不明のメールが相変わらず毎日届く。その都度逆ハッキングを仕掛けようとしても、いつ届くのか分からないのでおちおち眠ってはいられない。差出し不明のメールの着信と同時に逆ハックを仕掛けるカウンタープログラムを常駐させるべく、プログラム製作に着手した。
かぐや:「昔と変わってない。でも、もう迷わなくていいの。私はすぐに生まれ変わるから」
計画を検証して実行する決心がついた。昇や瞳、美智瑠に、AIで芳夜を甦らせる事を伝えた。
昇は「俺が決めたことなのだから構わない」というし、美智瑠は「何かに取り組む横顔が好き」と言ってくれた。
ただ、瞳は「いい顔をしない」どころか喰って掛かってきた。どうも、本当の目的を感じとったらしい。ただ、具体的にどうのこうのということは知らない。でも知らないから、厄介だ。なので、少しだけ情報をリークした。
俺はブラックボックスに芳夜の記憶が隠されていると、瞳に告げた。告げられるまで、相槌をうっていた瞳は、一変した。俺は瞳が反対する理由がわかる。解るから、瞳には“本当のこと”を話していない。話せない。
事件に関係する誰もが、事件の真実、すなわち芳夜と俺のその夜の行動や考え、それら全てを知ることを欲している。瞳も昇も、そして俺も互いに素知らぬ振りを装いつつも、失わざるべくして失った芳夜には一番の思い入れを持ち、癒えぬ傷を癒そうとしているのだから。
実を言えば、俺はフライングをしている。ブラックボックスは芳夜の記憶だということを知り得た時から、ブラックボックスはそこに芳夜の意志なしでは存在し得ないものであることが明らかだと思っている。俺は芳夜を独占しようとしていることを否定しない。秘密を守る必要もある。
例のシロアリの仕組み、シロアリというウイルスを使う回りくどい手法、そしてブラックボックス内に暗号のように加工されて保管されているであろう芳夜の記憶、どうして手の込んだ方法を選んだのか納得できないことが累積している。いずれその理由は明らかになるだろうが、今はブラックボックスと親和性のあるAIを作ることが急務なのだ。
かぐや:「私のために。あなたの罪を償うために、あなたを頂戴」
不可解なメールは必ず毎日届く。意味深な謎掛けめいたメールは今朝届いた。
俺は確信している。敢えて俺に確認させるためだけに送られてきたような気がする。
俺は芳夜の死に対して責任があり、それが俺以外の人が見たら罪であることは十二分にもわかっている。
しかし、「わかっている」つもりだけなのかも知れない。とどのつまり、誰も事件の真相を知らないから。でも、俺は罪を背負っていると確信している。
今回のことは俺の探究心のなせるところだ。はたからしてみれば、単にパンドラの箱の中身を見たいだけでしていることなのだから、いくら「芳夜の記憶と、ブラックボックスの中身は同じだ」と俺が主張しても、誰も信用しないだろう。
かぐや:「ここから私を解放して。ムルルが最後を見ているから」
いくら芳夜の飼い猫が事件の唯一の目撃者だからといって、ムルルの記憶を取り出すなんて馬鹿げた考えだ。それなら昇だってそうだ。あいつが事件の第一発見者なのだから。
瞳:「私は彼女の代わりなんかじゃない。だから私を見て」
瞳に「瞳」のメールの話をしたことが間違いだった。あれから一番の喧嘩になった。最悪だ。
「なにそれ、そんなの知らない」から始まって、
「私の知らないところで、私の知らないことをしたら怒るよ」なんて保護者めいたことを言う。
無視すると余計にあれだから、
「もしも、本当にブラックボックスの中身が芳夜だったら」と前置きをして、「ムルルと昇がブラックボックスを開く記憶を持っているから、彼等の記憶を読み解くことはどうなのだろうか」と瞳に尋ねた。
事件に関連することを俺と瞳が真正面から対峙して話すことは、事件以来、初めてのことだった。
その後は、わだかまっていたモヤモヤが言葉という形になり、お互いの口から発せられ、お互いの心を踏みにじり、傷つけあい、心が失血死しそうなほどに血が迸った。
手が出る喧嘩のほうが遥かにましで、一時的な肉体の痛みが癒えてしまうように後腐れがなくていいと思ったくらいだ。
どうしようもなく寂しく、どれほど相手が傷付いているのか知っていて、それでも言葉でお互いを傷つけ合うことしか出来ずに、お互いに譲歩出来なかった。
別れ際、泣いてはいなかったが、瞳はとても悲しそうな表情をしていた。彼女は知っているのだろうか?
芳夜が行方不明になってから、いや、俺と芳夜が出会う前から、俺は瞳を。
全く、後味が悪い。
瞳:「ムルルを壊すつもりなの?」
見損なわれたものだ。昇が告げ口でもしたのだろうか。今朝、家を出る直前まで俺がムルルと戯れていて、ムルルの喉を摩りながら「初めから最後までを知っているのは、お前だけなんだな」と呟いたのを。
かぐや:「この前は有り難う。それに御免ね」
悪戯をした子供のように、瞳の視線に心が痛むなんて、嫌な感じだ。美智瑠と公園で一頻り言葉を交わして見送った直後、街路灯の蔭から瞳が現れた。さっきまでの愉しい時間が幻かと疑われたほど、空気に重さを感じた。俺は疑われていた。いい訳でなく、事実として「ムルルには何もしていない」と俺は瞳に言った。
で、瞳は一言も反応しない。それが余計、俺には足枷のように感じられた。多くの過ちがそうであるように、捉え方によっては全く正反対に聞こえてしまう一言だったのだろうか。それとも瞳は他の言葉を俺の口から聞きたかったのだろうか。俺にはよく解らなかった。
多分、瞳が何かを話そうとした矢先に、最も場違いな誤魔化しを瞳の口封じのように俺は口にした。「夜道を一人で歩くなんて、家まで送るよ」と。
瞳は雷に撃たれたように動きを止め、唇を噛み、そして一度振り上げかけた拳を握りしめて、それから力なく振り下ろして、俺の目の前から風のように夜のなかに消えた。
瞳:「昔のこと、なのね? もう何も存在しない。何も、何も。何も」
ブラックボックスと、思考する意志、それは彼女のタマシイともいえる。しかし、彼女ではない。彼女を復元するためには……ブラックボックスと自立思考意志プログラムで構成される疑似人格だけでは、成り立たない。彼女を宿す器が必要だ。自他を区別するための明確な境界線としての物理的な器、すなわち体。
まさか、本物の人間に彼女を宿らせる訳ではない。博物館の展示で使った「電子情報光子転換物体再構成プログラム」で彼女の体を復元し、自我を納める。
人体の元データの入手は非常に難しい。芳夜に関するあらゆるのデータの洗い出しが主な方法となる。
概略としては、システムの起動とメンテナンスは定期的にハードディスクにダウンロードして行い、個々のアプリケーションは造り出された器を媒体として、疑似人格が有意識無意識で実行される。
瞳:「真実を教えてあげる。だから貴方を私にちょうだい」
起動ディスクはいい。問題は記憶をどう保管するか。疑似人格が行う膨大な価値判断の結果である記憶を保存する方法。圧縮にも限界がある。圧縮したものだけで容量を超えてしまう可能性がある。
瞳:「だめなのに、だのに」
シロアリがあった。消去されるべき記憶や、使われることのない記憶を忘却させる仕組みとして、シロアリを使えないか?
かぐや:「解いてはいけない。貴方の存在に関わる重大な問題だから」
今更、それはないだろう。今日、シロアリの実験が成功した。起動に必要な価値判断基準を網羅するためのデータを、ブラックボックスと自立思考意志プログラムとの間でデータを相互交換するステップに明日以降着手する。
かぐや:「私を殺しなさい。そうしたら許してあげる」
相互交換は順調に進んでいる。目標の10%も達成していないが、それだけにブラックボックスの内容が複雑であることを再認識させられる。気にかかる点も無くはないが、じきに解決の方法も見つかるだろう。
かぐや:「どうしてもというのなら、私を消してからにして」
15%。
一部機能し始めた疑似人格が、作業効率を多少なりとも高めている。シロアリを機能させていても、起動ディスクの容量が不足しはしないか心配だ。ここにきて事件を知る第三者でなければ善し悪しを決められないのではないかと思われる情報が溜まりはじめた。鍵はできるだけ使いたくはないのだが。
瞳:「殺したわ。取りに来て」
ムルルが姿を消した。
瞳ではない誰かが、メールを出している。
動物好きの瞳がそんなことをするはずがない。
「彼女」から送られてくるメールは、実に的確な指摘をする。しかし、できないことはできない。
かぐや:「だから、きらい」
ブラックボックスが俺を拒絶するのか? データ相互変換の効率が上がらない。
かぐや:「静かな生活を奪わないで」
未知のウイルスの可能性を探っている。「彼女」のメールが原因か?
ひとみ:「誰のためでもない。ムルルを消し、再生させるのは、貴方のためであるのだから」
1匹目のシロアリが音を上げはじめた。2匹目を投入する。
かぐや:「嘘だと思うのなら、彼女に訊きなさい。彼女が答えないのは、真実の証」
真実はどこにある?
わかっているなら、教えてくれたって良いじゃないか。芳夜。
かぐや:「瞳の目にまっすぐ正面から見られないのは、翔、あなたに罪があるから」
俺に真実があるというのか?
確かに、あの事件の後、俺には後ろ盾のようなものが出来たのは事実だ。
彼らが裏から手を回して、俺に何かをさせようとしているのか?
ひとみ:「既に決められたこと。誰にも止められない」
今度は、SNSにメッセージがきた。誰が何故。
他に方法がないのか?
かぐや:「決めたのは誰かって? 他でもない翔、あなたじゃない」
俺が?
いつ?
覚えていないだけなのか?
それともあの事件の時に?
ひとみ:「ムルルは邪魔者」
ヒトを使う訳にはいかない。もっとも、最悪、俺自身を使えばいいことか。
かぐや:「あるでしょ? そこ。真実の記憶されたディスクは、貴方の膝の上に」
芳夜……ブラックボックスは俺を寄り代として求めているのか?
ひとみ:「自らの手を血に濡らした気分はどう?」
バカなことをSNSは呟く。
ムルルはちゃんと生きている。
あと少しでAIは起動要件を満たす。
誰かが二人の名前を語って俺にメッセージがを送り続けている。
ひとみ:「御愁傷様。最大の失敗をしたのよ」
やっと送信元に辿り着いたが、理解の範疇を超えている。
次々と移動し続けるそれは、次の瞬間に1万5千キロも離れた場所から送られたりする。こんなことができるのは。
ひとみ:「不可能なのに、システムが完成したんですって?」
かぐや:「環境因子が欠けた記憶のない人格なんて、失敗作としかいいようがないわ」
かぐや:「時間を取り戻すことはできない。前にしか進まない。私たちの手では」
かぐや:「信じることから全てが始まるのに。本気で彼女を取り戻したいの?」
なぜ、同じ「かぐや」同士なのに、お互いを受け入れようとしないのか。
受け入れないだけならまだしも、互いに妨害をしようとする動きすらある。
俺の「かぐや」と何が違うというのだ。
かぐや:「バカね、ホントに。信じるなんて」
かぐや:「私の事を知りたくて仕方がない?でも教えない。一番そばに居るもの」
かぐや:「あの時と同じようにして、私のところに来て。優しくしてあげる」
かぐや:「彼女は貴方を壊そうとするわ。だから私は貴方を守るの」
疑似人格が俺との間に自ら防壁を設けたのか?
AIにそんな仕組みを組み込んでいないのに、自我の境界を生成し始めた。
人格の独立を意味するこれは、本当に芳夜なのだろうか?
ひとみ:「過去のことは忘れて。誰も貴方を責めはしないもの」
かぐや:「どうして全てが分かるのかですって? だって私は貴方自身だもの」
かぐや:「私たちだけが知っている、あのコードを調べてみて」
コードは俺と芳夜しか知らない。
間違いない。彼女は芳夜だ。
コードにふれたメールが届いた日の晩、俺はコードを入力した。
俺はついに彼女と再会した。
「貴方と私、溶け合いましょう」
「そういえば、あれから話さなかったっけ」
「記憶が不鮮明で、思い出せない」
まだ、PCを媒介とした会話しかできないが、「会話」はタイムラグ無く成り立っている。
「俺が誰だかわかる?」
「カケル……翔でしょ? とっても懐かしい感じがする。嬉しい」
「俺も。ところでさっきのは何?」
「アタマ……ううん、ココロの雑音みたい。私にはわからない」
「まあ、いいさ。じきにわかるだろ。積もり積もった話したいことがあるけれど、今日はここまで。明日もあるからね。お休み、芳夜」
「おやすみなさい」
今の人体再構成プログラムは不鮮明でノイズがある。
当然。ブラックボックスとダークウェブ上のデータとの相互変換は、20%を超えて起動要件を満たしただけで、完全ではない。
既知の記憶は分解された姿となり、必要な時に必要なだけ再構成され、その再構成の組み合わせをパターンとしてある種の暗号に置き換えられる。
問題は未知の記憶で、既知の記憶を再構成された暗号とみなして再分解し、再分解された記憶を更に分解することで、記憶を遡ることができる。しかし、それには時間が必要だ。
それは突然、始まった。
芳夜がSNSメッセージを読み込んだ途端、ハッキングを受けた。幸いにも芳夜は起きていたので頭痛がするという一言で危機を未然に防ぐことが出来た。その原因を探る過程で、あるアドレスが浮かび上がった。アドレスを残すなんて、よっぽどのバカか、でなければ報復を恐れなくていられる一部の限られたハッカーだ。
「何だい。こんな時間に」
「さあ、なんでかしら。誰も知らないことを誰が知っていると思う?」
「誰も知らないよ」
「そうね。私がこんなことをしたら、あなた、きっと怒るでしょうね」
「だから、今こうしているんだろ」
「そこまでして、どうして芳夜にこだわるの?」
「答える必要はない」
「お姫さまが永遠の眠りから目覚めたのは、あなた、誰のおかげかわかっていて?」
「知らないね」
「冷たいのね。やっぱり3年前に地獄の門をくぐり損ねただけのことは、あるわけね」
「何?」
「罪滅ぼしの積もり? 彼女が化けてこんなことしているのかしら」
「バカだな。そんなことで俺が動揺するとでも思ったのか」
「どうかしら。どこのバカがアドレス残すなんて、とか」
「偽名のメールは、あんたか?」
「生きるとか死ぬとか、私に関係ないから。それに私、ペンタゴンにも侵入したこともあるから、甘く見ない方がいいわ。これから楽しくなりそうね」
ペンタゴンにハッキングを、芳夜と二人で仕掛けたことは、アイツらにも伝えていないのに、この事実を知っている。もう、これは彼女でしかあり得ない。
(天地 翔のメールのログ・SNSのログ、雑記より)
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