声優にならなかった私。①

※このお話は同人誌『ふつおたはいりません!』④で書き下ろした短編+αです。



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 給茶機のコーヒーのボタンを押すと、鈍い音を立てながら噴き出した。


「…………」


 コップに落ちていく黒い水をぼーっと眺めながら、入れ終わるのを待つ。お茶が出る管に、コーヒーも通るのだ。中身が微妙に混ざっているに違いない。 

 苦くて、あまり美味しくなく、袋で買ったコーヒーフレッシュを入れて、やっと飲める味になる。文句を言うなら飲むなと思うが、無料で飲めるものがあるのに、コンビニや自販機でお金を払って買うのは躊躇う。言いたいことがありながら、無料にありがたく縋る、そんな人生。



 クッションが薄めであまり気に入っていない椅子に座り、パソコンモニターと向き合う。

 大学生の頃から変わらないパスワードを入れてロックを解除すると、溜まったメールの数が目に入る。いちいちメールの件数が表示されるのが憂鬱だ。


 26。


 その目についた数字も嫌で、一つのメールを見て、既読にして数を減らす。


 25。


 でもそんな数字に意味はない。ひとつ、ふたつで私の人生に変わりはない。


「吉岡君、次のプレゼンの資料できてる?」


 上司に声をかけられる。先日娘の運動会で張り切って足を怪我したらしく、歩く度に片足を引きずっている。いい年齢なんだからと思うが、可愛い愛娘の前では張り切りってしまうものなのだろうか。会ったこともないのに、打ち合わせの度に自慢されるので娘さんのことがやたら詳しくなってしまった。


「え、はい。2時間前にチャットで送ってます」

「2時間前にできてたの!? 言ってよー、君の足は何のためにあるの? 同じフロアなんだからできたら声かけてくれよ~」

「すみま、申し訳ございません。次からそうします」


 いちいちうるさい。こないだ声をかけたら「社内のチャットがあるんだからそれを使ってよ~、何のためのシステムなの?」と注意された。どっちを選んでも間違っていて、どっちを選択しても注意される。

 そういうものなのだ。正解なんて無くて、注意することで上司の威厳を保っている。かったるいなー。


「外に打ち合わせいってきますー」


 あまり会社にいたくなくて、30分ほどで席を立つ。ちょうど外での打ち合わせが予定にあったのだ。もやもやした気持ちを吹き飛ばすため、ひときわ明るい声で宣言する。

 我ながら通る良い声だ。思った以上に響き、何人かが振り向いた。嫌味でも、別に注目されたいわけではないよ。




 山手線に乗り、目的地までぐるりと回る。

 青森から出てきて10年、は経ってないが、だいたいそれぐらいの年月は経った。車窓からのビル群の景色に何の感動も覚えなくなって何年が経つだろう。スカイツリーを見ても、東京タワーを見てもテンションが上がらない。


『駆け込み乗車はおやめください~』


 何もない(と当時は思っていた)地元から出ていきたくて、東京の大学を選んで4年間過ごした。

 でも、私は特にやりたいことがなかった。

 ただ授業の単位をとるのに必死で、気づけば学生の身分ではなくなっていた。

 今思えば東京である必要はなかった。ともかく何処かに行って、自分を変えたかった。自分には何かがあると思いたかった。

 けど、やりたいことなんて見つからなかった。

 御社が第一志望です、とにこやかな仮面を被って、受かったところに今はいる。卒業して、働けているだけマシなのだろうか。

 働いていれば何かしたいことや、目標も見つかるだろうと思ったが、4年目になっても特に見つからない。時間が経っても、環境が変わっても私には何もなくて、


「……まぁ考えるだけ無駄か」


 誰にも聞こえない声をつぶやき、電車から降りる。

 外での打ち合わせは無難に終わった。





 会社に戻ると上司をはじめ、ほとんどの人がいなかった。まだ19時なのにと思ったが、最近は残業に厳しいのだ。ブラックと思われたくないのだろうか、ともかく残業をして稼ぐという文化はなくなった。

 それよりも自由に使える時間が大事。

 そのような世間の流れは否定しないし、良いと思う。でも、家に帰ってもそんなにすることないし、気力がない。


「あっ、吉岡先輩~。遅いですね、打ち合わせ帰りですか?」

「うん、今戻り」


 声をかけてきたのは、大島日奈子ちゃんだ。2年目の女の子で隣の部署だ。男性の多い会社なので、年齢の近い同性は貴重でよく一緒にお昼を食べに行く。


「お疲れ様です。まだ仕事多いですか?」

「うーん、打ち合わせの議事録まとめてなんで、10分ぐらいあれば終わるかな。夕飯行く?」

「はい、飲みいきましょう~」

「ちょっと待っててね」


 私の机の横で大島ちゃんが待つ。彼女の仕事はひと段落しているのか、私がキーボードをうつ姿を「ふむふむ」「なるほど」と言いながら見てくる。気になってしまう。


「……待たせているのは私だけど、じろじろと見ないで欲しい」

「えー」

「見ていて楽しい?」

「はい、だって先輩かっこいいんですもの~」

「仕事している姿が?」

「顔」

「顔……顔?」

「横顔が抜群にいい。情けない同期の男子どもより先輩の方が格段にカッコいい」

「比較対象が違くない? それにカッコいいと言われてもそんな嬉しくないというか」

「うーん、可愛い?」

「それも似合わない。私は顔だけか……」

「違いますよー。声もいいです、声」

「変な声ってけっこう言われるけどなー」

「そんなことないですよ、先輩の声けっこう好きです」

「ありがと」

「いえいえ。じゃあ次は私の良い所いってください」

「……一応、仕事中だからね?」


 そうこう話しながら仕事を終える。ながら作業できる私ってかっこいいなーと思う。

 別におだてられて気分良くなったわけではない。たぶん。





 会社を出て、後輩の女の子ときたのは夜景の綺麗なレストランでもなく、こじゃれたバーでもなく、居酒屋だ。ただ個室で少し値段は張る。他のお客と同じ空間は嫌で、パーソナルスペースは保ちたい。

 持っていたビールジョッキを置き、息を吐く。


「くはー、このために働いているんだよな~」

「先輩、いい飲みっぷり」

「おだてても驕らないよ?」

「年近いんだからたかりませんよ~」


 働いた後のビールは家で飲む缶ビールより、美味しい。鮮度、場所の雰囲気? ともかく生ビールを飲むために生きているといっても過言ではない。

 一方で大島ちゃんが飲んでいるのはハイボールだ。「私飲めません~」「カクテルだけなら……」というキャラでないので、のんべえの私としては気を遣わずにいられる。ありがたい飲み相手だ。


「先輩のところの上司うざいですよね~」

「うーん、まぁうざいけど、ある程度割り切ると働きやすい」

「えー、絶対否定から入る人じゃないですか。面倒でイラっときます」

「イラっとくるけどねー。そういうものだと前もって分かっていれば、いちいち感情が揺らがず、『はいまたいつものキター』と流せる」

「先輩は大人ですね~」

「さっき年近いといったのは誰かな? まぁ、なりたくない大人だよね」


 感情を殺して、なんとなく生きて、ビールが美味しい。

 盛り上がるのは仕事の愚痴ばかりで、狭い世界の話だ。

 けど、その世界で生きているのだから仕方がない。

 個室居酒屋で世界平和を説いたり、大冒険を語ったり、宇宙規模の話をしたりすることはない。


「明るい話しましょ! 明るい話!」

「ボーナスとか?」

「どうして仕事ばかりなんですか! 恋ですよ恋!」


 愚痴以外となると、恋愛トークしかない。他にあるとしたら美容とファッションと旅行ぐらいか。ここにいずれ健康トークが追加されるのだろう。あー歳は取りたくない。


「先輩、彼氏はできましたか、彼氏!」

「え、いないけど」


 手に持っていたさやから枝豆が飛び出して机に転がった。そんなわかりやすい驚き方をせんでいい。


「まじっすか。なのに、こないだ私の誘った合コン断ったんですか」

「うん」


 そういえば先週誘われていた。理由は覚えていないが、確かに断っていた。だって面倒なんだもん! と言ったらこの後輩に説教されそうなので口を閉じる。


「えー、寂しくないっすか?」

「うーん、別に?」


 強がりで言っているわけでもない。


「寂しくないですか」

「別に聞こえなかったわけじゃないよ!」

「絶対に先輩モテますもん。もったいない! 私が男だったら猛アプローチしてますよ!」

「えー、モテた記憶がない」

「くそっ、うちの会社の男どもは意気地なしか。飲み会すると吉岡さんいいよなーとけっこう噂されますよ。あの部署の」

「あー、言わない言わない、聞きたくない」

「そうでもしないと吉岡先輩、意識しないじゃないですか」


 会社で面倒事を起こしたくない。円滑に、波風立てずに生きていきたい。余計なトラブルは無用だ。仕事と私生活の混同は嫌だ。


「何か、他に先輩を夢中にしているものがあるんですか?」


 夢中に、しているもの。ものでは、ない。


「……うーん、どうだろう」

「悩むってことはあるんですか?」

「ないよ、ない。ミステリアスな雰囲気出しただけ。ビールぐらいだよ、私を夢中にするのは」


 自分で言って自分で悲しくなる。


「先輩と私って仲良いじゃないですか」

「え、うん」

「会社で1番仲が良いじゃないですか」

「う、うん。私、口説かれている?」

「ち、違います! でも思うんです。私って、先輩の心の声を聞いたことがないって」


 思わず黙ってしまう。心の声、本心、本音。

 でも、そんなもの私にはなくて、なくて……。


「私は嬉しいですけど、先輩の場所はここじゃない気がするんですよねー」


 何気ない一言が私の心に刺さる。

 ここじゃない、か。

 なら、私の場所は何処なのだろう。私の星は何処?


「買い被りすぎだよ。私はこの大手でもなく、かといって変な所でもない、無難なこの会社の人間だよ」

「褒めているのだか、貶しているのだか、わかりません」

「私の場所はここ」


 そう言って自分を納得させる。誰かの心にあるのか、誰かにあるのか、はたまたどこかの会社にあるのか。わからない。

 私の場所なんて、きっとない。

 星は見上げるだけで、私の住む場所ではない。




 居酒屋から出ると、夜風が気持ち良かった。


「よく飲んだー」

「本当、よく飲みますよね。私じゃなければ酔いつぶれてますよ」

「ありがとう、大島ちゃん。同じペースに付き合ってくれて助かる。今日も楽しかったよ」

「いえいえ~多く払ってくれてありがとうございます~。先輩大好きー」

「はいはい。私の方が飲んだからねー」


 駅まで一緒に歩く。ふらついてはいないが、どこかふわふわ浮いている感覚はある。いい気持ちだ。


「先輩、今度は合コンきてくださいね?」

「考えとく」

「うわー、これ絶対にこないやつだ」

「アハハ」


 信号で立ち止まり、ふと見上げるとビルの看板広告が目に入った。星ではないのに、煌めく。


 ――あの子だ。


 愛くるしい笑顔を振りまく彼女につい見とれてしまう。

 後輩も私の視線の先に気づいたのか、話を振ってくる。


「あの子、最近テレビでよく見ますよね~」

「そうだね」


 今回はスポーツ飲料の広告だ。CMにも出ていた。先日は漫画雑誌の表紙にもなっていたっけ。


っていうらしいですよー」

「うん、知っている」


 知っている。

 あのかわいい笑顔を私は知っている。


「詳しいんですね、意外」

「たまたま見た映画に出ていてね~」


 嘘だ。彼女が出た映画は全部見ている。我ながらけっこうなファンである。

 そして、明日は彼女が声を吹き込んだ、アニメ映画の舞台挨拶だった。


「先輩、じゃあねー」

「また来週ー」


 私を夢中にしている人がいる。

 そんな私を、この後輩は知らない。

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