橘唯奈の出番はない③
「……歌だけじゃなくて、その、あの、えーっと」
「どうしたの、唯奈ちゃん?」
けど、言葉にすることはできない。
違う。
言葉にして、その意味に留めたくない。そう簡単にこの気持ちを表現しては駄目なんだから。
咄嗟に身体は動いた。
したことはない。
でも何度も目撃してきた。それはリアルじゃなくて、アニメや漫画、小説や映画の世界だけど、私にはリアル以上に鮮明なもので、そして私だって演じたこともあったものだ。リップ音が下手で苦労した。
知っていた。知らなくても知っていたんだ。
心が知っていて、飛び跳ねた。
顔が近づくと躊躇ってしまいそうになり、目を閉じた。でも抜け目なくマスクはずらして、空気を感じる。
突然の私の行動に、彼女はその場から動かなかった。動いていたら私は地面に激突していたかもしれない。
それは数秒の未開の旅。
触れた瞬間、世界が新たな色で塗り替わった気がした。
「こ、こういう意味でも好きだから!」
「…………えっ!?!?!?!?」
口づけた感触が確かに残る。
……彼女のマスク越しだったけど、初めて知った感覚にめまいを覚える。
レモンとかイチゴとかいわれた味はしない。何も味なんてしないのに、甘さで心が満たされる。
ファーストキス。
なんて、単語を呟いただけでもどうにかなりそうだ。
しちゃった。
「あんたが稀莉と付き合っているのも、同棲しているのも当然知っているわ」
必死で言い訳のような、告白のような言葉を並べる。
「う、奪うつもりもない! で、でも知ってほしかったというか、私のワガママというか、ああ、もう好きなの! あんたが好き!」
すれば、知ってもらえば、収まると思った。
でも胸は痛いほどに鼓動を打って、加速して、破裂しそうになる。
けど彼女はぽかーんとしていて、やっと私にされたことに気づき始める。
言葉と意味を理解して、突然の登場人物に驚く。彼女の恋物語に存在していなかった攻略対象。ただの友人? ライバルキャラ? が存在を主張してくる。
やっと彼女は知ったのだ。
「え、え、えええ!? 唯奈ちゃんが私を好き?」
驚くのも無理もない。
鈍感、なんて愚痴も言えないほどに私が何も示してこなかった。
「あの、その私のこと敵視していて、いや時には優しくしてくれたり、励ましてくれたりしたけど、うん、え、ええええええ」
その登場は遅すぎて、勝負はとうについている。
「べ、べ、別にどうこうしてほしいわけじゃないから。そういうことよ!」
「どういうこと!?」
「知らない!」
「わけわからない!」
「私の方がわけわからないの!!」
無意味な行為。
知っているのに乱した。
勝手すぎる好意。
二人の関係を知っているのに諦めず、壊そうとしたようにも思える。
存在を示そうとした。舞台に上がった。
出番は用意されていなかったのに、終わった物語に介入した。
「え、ええ……」
「じゃ、じゃあ! 私はここで!」
慌てて逃げる。振り向きもせず、駆ける。
マスク越しの重なり。私は唇を露出したわけで、感触はあるけど、けど、もう、わけがわからない!
何も変わらない。
なのに、知ってほしかった。
違う、自己満足だ。
一方的な押し付け。
返事なんてほしくない。そう思いながら驚く彼女に心が「やったー」と叫び、戸惑う姿に「嫌だったよね……」とざわついた。
でもこれで吉岡奏絵の中に『橘唯奈』が深く刻まれた。一瞬の出来事が忘れられないものとなった、とマスクで隠れた口元がニヤついていた。
「どうかしていたのよ」
声に出すと納得してしまった。
どうかしてしまっている。恋をして、私はどうかしてしまった。
なのに、そんな私に悪い気なんてしなかった。
× × ×
家に帰ってから携帯を確認すると、吉岡奏絵からメッセージが届いていた。だが、なかなか返す気が起きなかった。ううん、気持ちじゃない、どう返したらいいかわからなかったんだ。
そんな中、事務所から『吉岡奏絵30歳記念のビデオメッセージ』を頼まれた。「30歳記念だからどうしても橘君に」と構成作家の植島さんから依頼された、らしい。植島さんにはお世話になっている、主にうちのラジオの構成作家が迷惑をかけているので、無下にはできない。セルフで撮影すると、できあがったものはよくわからない映像だった。
『吉岡奏絵、誕生日おめでとう。30歳、めでたいわね! ……こないだはごめん、忘れなさい。私が可笑しかったわ、気にしないで。で、でも気にしてくれていたら嬉しくもある。べ、別に答えて欲しいわけじゃないし、ただ、知ってほしいというか、その、あー話が長くなる! ともかくおめでとう! あんたのこれからの活躍を心より祈っているわ! 橘唯奈でした!』
……これでも抑えたつもりだ。1回目は謝罪しかしていなかった。2回目もイマイチで、3回目。これ以上のものはとれないと思った私はこのままマネージャーに送り、……そして後悔した。「おめでとう!」だけでよかったじゃん。変な匂わせをマネージャーに知らせる必要なかった。何かがあったと思われる。あったんだけど。詮索してこなかったのは救いだ。でもこれが「これっきりラジオ」のスタッフに知られたら……面倒だ。面倒なことをしたのは私だ。私がしたのだ。本当どうにかしているわね!
しかし私の心配はよそに、私が送った記念のビデオレターはラジオ放送で流れなかった。別に収録したひどいバースデーソングだけで済んだのだ。
けど、放送されていなくても二人には届いている。
『唯奈さん、今週どこかで話しましょう』
私がやらかしてから2週間後、稀莉からのお呼び出しがかかった。「この状況下だし、会うのは辞めよう。電話でいいんじゃない?」なんて送れるわけなかった。短い文章に冷や汗が出て、止まらなかった。……ひとまず土下座スタンプを送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます