橘唯奈の出番はない②
久しぶりに吹いた風に心が簡単に運ばれる。
「おはよう、唯奈ちゃん」
「おはようございます、唯奈様」
「リアル吉岡奏絵だっ……!」と不覚にも泣きそうだ。まずい、まずい。これから仕事。と思いながら下から上まで凝視してしまう。ブロイダーレースブラウスのブラック、肩のあたりで透けていて扇情的だ。パンツスタイルもスタイルが良いのでよく似合う。おうち時間が続いていたが身体は引き締まっている。ごくり。髪は前見た時よりも伸びている。私もそうだが、この状況でなかなか美容院にいけないので伸ばしっぱなしになりがちだ。仕方ない。でも伸びた髪はより大人びて見えてドキッとしてしまう。……恋というフィルターがかかりすぎだ。マスクで笑顔が見えないのが残念なぐらいに、キラキラ輝いていて眩しい。
一方で「唯奈様」と呼んだのは、彼女の事務所の後輩の広中砂羽だ。デカデカと英語の書かれたロゴTシャツに、濃いめのブラウンのカーディガン、そしてワイドパンツのスタイルだ。吉岡奏絵以上に背が高く、腰が高くて足が長いのでゆったりした格好でもバッチリと決まる。ぱっと見、モデルにしか見えない。
「久しぶりね、今年に入ってからは実は初めて?」
「だね~。ゲーム内では会ったけどリアルでは久々かも」
唯奈様と持て囃されているが、二人と並ぶと見劣りする。一緒に仕事していた人たちはやっぱり普通じゃないと再認識される。こんな美女二人が普通であったたまるか。10人中10人が振り返って目で追ってしまうだろう。
……いけない。久しぶりの邂逅に心の中の私がずっと踊っている。平気なフリはできているかしら。
「吉岡先輩に、唯奈様が一緒だなんて、今日の収録ガチャはSSRです…!」
「収録」
「ガチャ?」
浮かれているのは、この後輩も同じだった。
「いや、新人の私が言うのはおこがましいのですが、2,3人の収録になり、同じ作品でも会いづらくなったじゃないですか。特に私はちょい役が多いので、ちょい役の人たちと一緒のグループになって、すぐ終わることが多くて、人気声優さんと一緒になることが少ないんです。それが! 今日は! 大好きなお二人と一緒なんですよ!? SSR、いやUR、LR??? ともかくテンションあがりますよ!」
私にとってもSSRな二人! なんて褒めてあげないけど、心の中で深く頷いてしまう。外の世界は刺激がいっぱいだ。閉じこもっていてはわからないことだらけで、こうやって会えるのはやっぱり嬉しいなと思う。
しかしアフレコは30分ほどで終わってしまい、ボーナスタイム、後輩的にいえばSSRタイムはすぐに終了してしまった。
「待っている時間の方が長かったよね~」
「今は仕方ないでしょ」
「うう、もう少し皆さんの演技を聞きたかったです」
もっとアフレコ会場にいたかった。どこか物足りず、3人で駅まで話しながら歩いていると、先に後輩が最寄り駅に着き、去っていった。
「では、私はここなんで」
残された私と彼女。
この駅から乗っても目的地には乗り換えば着くのだが、もう少し一緒にいたいという気持ちが勝つ。
「唯奈ちゃんは?」
「銀座線。あんたは?」
「丸の内線」
「じゃあ、あっちの同じ駅ね」
横になって歩くと、私が少しだけ見上げる形になる。声優界の中で小さい身長ではなく平均より上だが、背の大きめな彼女が隣だと普段と目線の角度が異なる。でもよく目が合うのは彼女が目線を下げて、ちゃんと私を見てくれるからだと思う。彼女は何とも思ってないかもしれないが、そんな小さな優しさが好きだ。私に照れているのか、人間不信なのか、目合わせてくれない人多いんだもの。彼女はまっすぐに私を見てくれる。
「仙台に行ったことや、一緒にタピオカ飲んだのが遠くの昔に思える」
「仙台で号泣したオタクがいたわね」
「そりゃ泣くよ。稀莉ちゃんの歌っている姿見たら泣く」
「気持ちはわかるけど。稀莉も歌上手くなったわね。こないだの稀莉のキャラソンも凄くよかった」
見てくれて、わかってくれる。
「それ稀莉ちゃんに言ってあげた?」
「当然。でも唯奈に言われると嫌味に聞こえるって言われた」
「それはそうかも」
「ひどくない?」
でも、それは私だけじゃない。
私だけの特別じゃない。
「歌姫さんに言われても」
「あんたがいう?」
「アルバムも絶好調だよね、全曲すごい良かった。でもバラードの切ない感じが1番好きだったかな。すごい気持ち感じられた」
なのに、平気でこういうこと言ってくる。
「もう、あんたは本当そうなんだから」
私の欲しい言葉をくれる。お世辞でもなく、素直に、心から言ってくれる。文字じゃなくて、言葉だと彼女の想いから逃げられない。ニヤニヤするのもマスクだから隠せて良かった、なんて。
「そう?」
「そうよ」
「う、うーん」
すぐに次の駅についてしまうも、まだ物足りなく「もう一駅歩いていかない?」と提案すると彼女は頷いてくれた。まだいられる。数少ない機会がもう少し伸ばせる。
「車で通う人も増えたよね」
「あー、車だと人との接触も減るし、待ち時間も車で過ごせるのかー」
「唯奈ちゃんは免許持ってるの?」
「そんな余裕あったと思う?」
「ないよね」
「あんたは?」
「あるよ。両親から絶対にとれって言われて大学の時、合宿でとったんだ。AT限定。ほら」
「……免許の写真ってブサイクに写るわよね」
「失礼な!」
他愛ない会話も何気ないやりとりも、全部全部嬉しい。一緒にいられるだけでドキドキが体から飛び出そうだ。でも終わってしまう。終わってしまうんだ。言いたいことを出さなければ、今日も終わってしまう。
今日は『ふつう』で終わらせない。
「大手術だったわね」
「うん、色々とあったよ。でも今は治ってよかった」
「治った、のよね?」
「うん、たぶん。まだ怖さはある。また再発の可能性もあるし」
「もう歌わないの?」
歌。
声優としての吉岡奏絵も素敵だが、アーティストとしての吉岡奏絵は抜群だった。でも彼女は失ってしまった。
「うーん……」
「ハッキリしないわね」
「歌いたい。でも怖い」
気持ちはわかる。私だって、喉の病気になり、手術したら及び腰になってしまうだろう。
「私を失っていく感覚は、もう二度と味わいたくない」
そういう彼女に「そう、よね……」と言うしかない。私は聞きたい。彼女の歌声にまた震えたい。でもそれは私の勝手で、彼女には酷な選択でもある。
しかし、それでも彼女は声優としてここで一緒に歩いている。声の収録だって問題なく今日終えた。なら、歌だって! と高望みしてしまう。そう望んでしまうのは当たり前だ。
「けど声優としてまた戻ってきたんだよね。リスクがあっても、今までとは違っても、私はこうやってしか生きられない」
「そんなこと、……あるわね」
知ってしまったら離れがたい。同じフィールドに立つからこそ、わかる。舞台に立ったらその場所を、スポットライトの当たる奇跡の瞬間を譲れないし、ずっと味わっていたい。もう別の道はない。
「別の生き方をしろって言われてもできないし、私は私の声を届け続けたい」
「だよね。達成感、満足度は他じゃ味わえない」
だから彼女は言うんだ。
「諦めてはいないよ」
諦めてはないと。
いや、違う。諦めきれないと。
頭では上手く整理できても、心は拒み、求める。
「6月から少しずつだけど歌の練習を開始していくんだ。でも何のために歌うのか、わからない」
「理由なんていらないわ。ただ歌いたい。それだけでいい」
心の奥底から叫べ。沸き上がる感情を声にしろ。
そのための舞台を取り戻せ。
「そんな自分勝手なあなたを皆は待っているの」
私は吉岡奏絵の出番を待っている。
「うん、そうだといいな」
「だって私、好きよ」
「ありがとう。私の歌を好きになってくれて」
その言葉に引っかかってしまった。
私の『歌』を好きになってくれて。
私は彼女の歌が好きだ。彼女の歌う姿を見て心奪われた。そして彼女が声を失ったら、好きでい続ける自信がなくなってしまった。
でも、けど、違うのかもしれない。
かもじゃない。
違う。
「違う」
声に出て、否定していた。
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