第36章 見上げた空は青くて⑤

「……」


 退院後、私は沖縄に来ていた。

 気持ちが揺らいでもすぐに戻れない場所に行くべきだと思っていた。

 けど、やっぱり沖縄はどうかと思う。

 目の前には青空と、透き通った海が広がっていた。


 

 × × ×

 手術前、手術後すぐは点滴生活であったが、1日経ってからは普通食も出てきた。院内も自由に歩けて、喋れない以外は割と自由があった。

 4日目に「これなら無事退院できる」とお医者さんに言われ、5日目牧野さんと事務所の人が迎えに来て、病院を後にした。ただ3週間は発声を制限するようにと言われ、喋れる時間が指定された。退院したとはいえ、無事に回復したかはまだわかっていなかった。

  

 そして、自分の住む家、稀莉ちゃんのいる家には戻らなかった。

 両親に甘え、青森に行くのもいいかと思ったが、目の前で泣いたので行きづらい。……というのは冗談で、誰か旧友や知り合いに会うのが嫌だった。「何で戻ってきたの?」と詮索され、「大変だったね」と同情されるのが嫌だった。いちいち説明するのも面倒だった。

 なら、東京でホテル暮らしもいいかなと思ったが、弱ったらすぐに味方に会え、甘えれられる距離にいるのはどうかと思った。

 そこで沖縄だ。

 事前に予約さえしてしまえば、キャンセル料金がもったいなくて、戻ることはない。一時的な場所としては最適だろう。


 ……いや、違う。

 違うんだ。 


 私は逃げ出したんだ。

 親からも願われた。事務所から励ましの言葉もたくさん貰った。

 貰ったけど、嬉しいけど、私の心は信じ切れなかった。

 私は怖くて逃げた。

 醜い姿を誰かに見せたくなかった。私は声優だから、声がなければ何にもなれない。自分がまだ自分ではない。わからない、これからがわからない。


 東京の街を歩けば、人が楽しそうに話している。

 電話を使って話す。隣の友人と喋る。お客さんを勧誘するために声を出す。

 羨ましかった。ただ喋れることが羨ましかった。


 東京にい続けたら頭がどうにかなりそうだった。


 ノイズだらけの街から逃げ出したかったのだ。

 街の喧騒から耳を塞ぎたかった

 だからただの旅人として南の島へ降り立った。


 


 

 けど声から逃げたはずなのに沖縄に来て、海を眺めながらラジオを聞いている。


 これっきりラジオの番組で、彼女と、違う人の声が流れる。

 そこに私はいない。


「……」


 見上げた空も、見渡す海も青くて、吸い込まれそうになる。

 私がいないラジオも悪くないなと納得してしまった。事務所の新人の砂羽ちゃんも良い味を出している。ラジオ好きであっても、初めてのラジオでここまで喋れるとは思わず、感心してしまう。

 そして稀莉ちゃん。トークを引っ張り、ツッコミもギャグもふつうにこなしていた。初めて会った時の何も話せず、つまらなかった彼女はもういない。

 これっきりラジオがそこにはあった。

 私はいなくてもよい。

 そう思うぐらいに成立していた。


 もういいか、と思った。

 たくさん夢を見れた。もう一回輝けた。

 思い出はたくさんある。私に憧れた女の子は私を超えるぐらいに成長し、苦手だったトークもでき、大人になった。

 私の役目は終わり。

 吉岡奏絵は声優史というものがあれば1行は書かれるぐらいに何かを残せたと思う。誰かの記憶の中で生き、誰かの頑張る糧になり、誰かのこれからの光になれた。

 終わりでもいいんだ。

 歌手だけでなく、声優としても、ラジオパーソナリティーとしても終わる。

 それでいいんだ。吉岡奏絵の声優人生は幸せだった。

 そう、胸を張って言える。

 けど、波の音は何も答えてくれない。


 × × ×

 せっかくの沖縄に来たが、味付けの濃い物はもちろん、アルコールが一切飲めないのはかなりもったいなかった。泡盛やオリオンビールを飲みたかったが、それでも沖縄での生活は楽しかった。食事は美味しいし、飽きないほどに自然が盛りだくさんだ。ただ海を見ているだけで一日が過ごせるし、レンタカーを借りて島内をただ走るだけでロードムービーの主人公のようだった。

 喋れないといっても1日30分は話していいようになり、旅をする分にはそれだけで十分だった。また父親からもらったフリップが意外と役立っている。


「久米島に来たなら、はての浜に行ったらいいですよ~」


 沖縄にきて何日が経っただろう。

 朝起きて、ホテルのお姉さんに観光名称を聞くと、聞きなれない場所を教えられた。早速午前中から予約し、向かうことになった。

 船に乗り、島から島へ向かう。

 降り立ち、1番の絶景スポットに行くと言葉を失った。

 海と空が繋がる。360度の蒼と青の中に私がただ立っている。


 思わず、イヤホンを取り出していた。

 聞いたのは、自分の曲だ。


「……」


 アニメのような光景。ここでもアニメかと思ってしまう自分の頭が可笑しい。

 歩きながら、私の耳に、私が流れ込んでくる。 


 上手だ、それ以上にたくさんの感情が溢れている。

 歌に、メロディに、歌詞に、言葉に音以上の何かが詰まっている。


 自分の声を聞いて寂しく思う。

 出したい。

 戻って来ない。

 歌いたい。

 戻って来れない。

 また立ちたい。

 

 感情がぐちゃぐちゃでも、見渡す景色は解放的だった。

 溶けてしまいそうな光景なのに、私は確かにここにいた。

 ここにいて、呼吸をしていて、鼓動していて、願っていた。

 

 ゆっくりと足を進める。

 この光景を彼女と一緒に見たら、どんな顔をするだろうか。海を背景に彼女の写真を撮ったらカレンダーだって飛ぶように売れるだろう。でもそれは私だけの待ち受け写真に留めておきたいなと思ったりして、頭を横に振る。

 あぁ、駄目だ。

 やっぱり彼女のことばかり考えてしまう。

 ここまできたのに私は忘れられなくて、その笑顔を、怒ったような声を、甘えてくる感触を思い出してしまう。


 そして、そんな時に君は現れるんだ。

 どんなに遠くに行ったって、君は私をみつける。

 私の幻想かと思ったが、彼女はそこにいた。


「奏絵」


 そして名を呼び、私は色づいてしまうのだ。

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