第36章 見上げた空は青くて④

 ライブ後はすべての仕事をキャンセルした。

 稀莉ちゃんに気づかれないように嘘のスケジュールを言い、出かけては病院に通い、手術の日取りを決めていった。ライブ後だからとマスクをして極力喋らないように偽って、同じ家にいながらもやり過ごした。無理して喋ることはできなかったが、その分たくさん笑顔でいることを心掛けた。稀莉ちゃんに暗い気持ちでいてほしくない。この後どうなろうとも笑顔のままで終わりたい。まだわからないクリスマスの話なんかして、給料三ヶ月分の叶うかもわからない約束をして、リミットは迫っていった。

 稀莉ちゃんは普段より大人しめだった。武道館の話が無くなったことも聞かれず、もしかしたら私のことを気遣ってくれているのかもしれないと思った。けど、きっとその考えは的外れで、私の決意など知ることはない。

 そして、彼女の前から去る日がやってきた。



 この後は収録の仕事だと嘘をついて、同じ家から一緒に駅へ向かう。

 駅に着き、反対側の電車に乗り込むため、彼女とは違う方向へ歩き出す。

 ……もうこのまま会えなくなるかもしれない。「またあとで」と去る彼女の姿も最後かもしれない。そう思うと、自分から決意したはずなのに、声を出し、呼び止めていた。


「稀莉ちゃん」


 彼女が立ち止まり、振り向く。

 少し短く切った髪も今ではまた肩より下まで伸びて、結ぶようになっていた。お化粧にも慣れ、どんどん大人っぽくなっていく。服装も高校生の頃よりも私服を着ることが多くなったから、バリエーション豊富だ。

 彼女は変わっていく。

 出会った過去から、知らない未来へと歩いていく。

 そんな彼女のこれからに、私は何かを与えられたと信じ、お別れの言葉を言う。


「いってきます」


 これ以上、稀莉ちゃんの顔を見ていたら足が進まなくなる。すでに感情が溢れてしまいそうだ。このまま一緒にいてもいいのではないか? すがってもいいのではないか? 好きな人の前で弱い自分を見せてもいいのではないか?

 いや、決めたんだ。そうはしないと。

 私は背を向け、旅立つ。


 しかし、私の動きは止められた。

 振り返ると袖が掴まれていた。何か言いたそうで、でも俯いたままの彼女を茶化す。


「どうしたの? あまえんぼうなの?」

「違う、違うけど」


 私の気持ちを感じ取ってしまったのだろうか。私は微笑み、告げる。


「大丈夫だよ」


 稀莉ちゃんならこれからも大丈夫。

 顔を見ていたら泣いちゃいそうで、抱きしめる。けどその温もりに余計に離れたくなくなる。


「稀莉ちゃん、じゃあね」

「うん、またあとで」


 あとで、は約束できない。泣かないと決めて、精一杯笑った。

 この日、私は彼女の前から消えた。




 × × ×

 音が聞こえる。

 耳を澄ますとそれは人の声だとわかる。

 私はその声に向かって、真っ暗闇の中、手を伸ばす。


『嫌だ! さよならなんて嫌だ!』

 

 稀莉ちゃんが誰かとラジオをしている。

 私ではない誰かと楽しそうに話している。

 その隣は私だった。

 私だったのに。

 私はいらなく、

 なって、

 いや、

 な

 、

 、

 、


 ……目を開けると、知らない部屋だった。


「…………」


 ここは何処だろう? 真っ白な部屋だ。

 さっきまでのことは夢だと気づき、徐々に現実に戻っていく。

 現状確認。

 ベッドに私は寝ている。かなり楽な格好だ。パジャマではない。

 部屋は夕暮れでオレンジ色に染まっている。

 うん、ここは病院だ。都内のとある病院だということを思い出す。

 何だかデジャヴを感じるな……。


「……」


 何か言おうとして、慌てて口をおさえる。

 駄目だ、私は喉の手術をしたんだ。

 悪い物を私から切り落としたので、5日間は完全に喋っては駄目なんだ。


 少しすると看護師さんがやってきた。


「体調いかがですか?」


 どうやら手術は無事に成功した、らしい。全身麻酔だったので、何があったのか、正直どうなったのかよくわかっていない。

 大丈夫とも言えず、頷くと看護師さんが笑顔を向けてきた。何が通じたのだろうか?

 私が、私でない日々がやってきた。

 

 自分の声が聞こえないと言うのが、こんなに辛いなんて思わなかった。

 入院中は事前の予告通りで全く喋っていけなく、ただただずっと病室にいた。これを機に読書をしよう、勉強しよう! なんて気は起きず、流れるテレビで誰が不倫したのだの、ファッションチェックで駄目だしされるだの、クリスマスの絶景スポット特集だの、目からは様々な情報が入ってきたが、何も頭は働かなかった。流れる映像をぼけーっと眺めるだきにだった。

 仕事も無く、働かないと私は何もない人なんだなとぼんやり思った。



 手術した次の日には両親がやってきた。事前に喉の手術をすることは連絡していたが、まさか青森から両親揃ってくるとは思っていなかった。


「大丈夫か、奏絵!」

「奏絵、大丈夫なの!? 手術は無事に成功したって聞いたけど本当なの? 痛い所はない? 泣いたりしなかった? あんたは痛くても我慢しちゃう子だったからちゃんと言うのよ?」


 喋れない私に母がマシンガントークを仕掛ける。

 頷くか首を振るしかできないんだって、とも口にできず、もどかしい。


「ほら、奏絵」


 そう思っていたら、父親が気を利かせて、フリップとペンを手渡してきた。「ここに書いて伝えなさい」ということだろう。フリップにペンを走らせると、クイズ番組にでも出ている気分になり、変な感じだ。サイン以外で字を書くのは慣れていない。

 書き終わった。


『来てくれてありがとう。わざわざ青森から来るなんてびっくりした。嬉しい』

「当然でしょ、あんたの一大事なのよ。来ないなんてことはないでしょ。ご飯はちゃんと食べているの? お腹空いていない? 青森から林檎を持ってきたのだけど」

「母さん、そんなに早く喋っても書くスピードが追いつかないよ。あ、奏絵、このフリップは書いて消せる優れものだから気にせず書くといい」


 二人ともマイペースだ。

 術後の何とも言えない暗い気持ちが少し明るくなる。


『私は大丈夫だよ。5日間は喋っては駄目だけど、それからも長いけど、大丈夫』


 書いている内にどんどん字が小さくなっていく。

 大丈夫と言い聞かせる。喋ってはいないけど、言い聞かせる。

 まだわからない。わからないんだ。本当に手術が成功したのかはこれから次第。大丈夫と思われなければやっていけない。

 母が私の手を握った。


「奏絵、強く生んであげられなくてごめんね」


 え。

 思わぬ言葉にフリップが滑り、床に落ちた。


「あなたのしたいことを、夢を十分にやらせてあげられなくてごめんなさい」


 違う。

 違うよ、違うんだ、お母さん。

 私は十分に強かった。身体も強くて、大きな怪我も、病気もなくて、体力もすごくある。恵まれているんだ。お母さんを恨むことなんてない。

 声優になることができた。

 一度は落ちたけど、また輝くことができた。

 そして歌手としての才能はあったかもしれない。けど、歌手として“あり続ける才能”がなかった。

 ただそれだけ、それだけなんだ。

 お父さんが拾ってくれたフリップにペンを走らせ、文字を伝える。


『謝らないで』

 

 お母さんが謝ることじゃないんだ。

 お母さんが泣くことじゃないんだ。

 ごめんね、の言葉が口から出ないことがこんなに苦しいのだとは知らなかった。


「ごめんなさい」

 

 私が言いたいのに、母が言う。

 わざわざ青森から東京まで親が来たのは「これを機に声優を辞めろ」というためだと思っていた。そりゃそうだ。身体を酷使してでも、心を病んででも続けることじゃない。

 けど、違う。違った。


「お母さん、もっと奏絵のライブに行っとけばよかった」

「お母さん、そういうことは言うな。奏絵はまだ歌える。きっとまた歌えるんだ」

「そうね、何度私が声優を辞めなさいといっても続けてきた、諦めの悪い子だものね」

「奏絵、今は辛いことしか考えられないかもしれないけど、気にするな。今は休むことが大切だ」

「そうよ、青森に少しの間いなさい。今は休むときだと思って、またチャンスはあるわ」


 自分のことを諦めてくれない。

 声優であることも、きっと歌手であることも望み、願っている。


「奏絵。たくさんの人が待っているのよ、あなたを待っている。だから辛い手術をしたのでしょ。あなたが諦めていない証拠よ」

「まあまあ考えるのは後でもできる。ともかく今はゆっくりしなさい」


 言葉って意外に不便だ。

 文字じゃ私の気持ちが存分に伝えられない。


 両親の前ではもう子供でいたくない。

 そう思っていたけど、また少し泣いてしまった。

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