第36章 見上げた空は青くて②

 知っていた。初めて聞いた言葉ではない。

 声帯ポリープに、声帯結節。

 声優として活動してきたのでその病名は当然聞き覚えがある。先輩がなって実際に手術したという話も聞いたことがあった。

 心の中ではその可能性も考えていた。もしかしたら……と思っていたが、それはないと決めつけ、向き合ってこなかった結果がこれだ。

 けど2つ、2つか。同時に2つとは想像すらしていなかった。


「どちらの病気も、声を出す仕事の人ができやすいものです」


 撮影済みの写真を見ながらお医者さんから説明される。

 声帯の片側で膨らんだものがポリープと説明され、声帯の縁に隆起し腫れたものが見える。一目見ただけでまずいとわかる。これが私の喉? この喉で声を出しているの? おぞましい光景に目を閉じたくなるが、そんな気力すらない。

 

「一方で声帯結節は、両側の声帯にある、まめのようなものです。硬いポリープのようなものといえばよいでしょうか。これが悪さをし、喉の違和感、声のかすれ、声が上手く出せない原因となっています」


 しっかりと話を聞いているが、それが自分のことだと思えない。昨日まで声優の活動をして、今日も歌のレッスンをした。していたんだ。きっとこれは悪い夢で目を覚ましたらまたいつもの自分に戻っている。指でつねった腕が痛い。


「喫煙はされていますか?」

「いえ。周りにも特にいません」

「なら、原因はご職業でしょう。どちらも無理な発声方法で声を出したり、歌ったりを継続的に行い、発症する、悪化することが多いです」


 声の出し方なんて、遡れば養成所時代から教わり、気を付けていたことだ。また稀莉ちゃんと同棲するのだから風邪になり、移すことなどないようにと人一倍体調には気をつかっていた。

 はずなのに、こうなった。

 職業病といってしまえばそれまでだが、どうして私が?という思いが私の心を蝕む。


「落ち込まないでください、というのは無理があるかもしれません。あなたの声の出し方がまずかったのかもしれませんが、ちゃんとできていたかもしれません。人によって喉は違います。耐久度、限界は人それぞれで、こういっちゃなんですが、運と生まれつきの要素もあります」


 それならどうしようもないではないか! そう迂闊に言葉を出すことも躊躇われるほど、私の喉はマズイ状況になっている。


「悔やまず、これからを考えていきましょう」


 真っ暗になった気持ちにこれからはあるのだろうか。


「どちらの病気も対応は基本的に2つです。保存療法か、手術で切ってしまうか」


 自分の体にメスを入れる。けどそれは絶対でないと知っている。


「切っても、再発する可能性があるんですよね?」

「あります。それに声が以前と変わる可能性もあります」


 切ったからといって楽になるわけではない。手術だ。リスクは当然伴う。


「切らないとなると、当分はお仕事を控えることになります。ただそれもいつまでなのか、経過を見て絶対によくなるかは保障できません」


 声優としてやっていくならその選択肢はない。いつまでも祈って待っていたら私の席はきっとなくなる。それなら切るしかない。切るしかないが……、すぐに踏み切れはしない。

 ライブが目前にある。ラジオの仕事もある。声優のレギュラーの仕事だってある。


「切った場合はどれぐらいで復帰できるのですか……?」

「人によりますが、切った後は約3~5日間入院してもらいます。その後、3週間発声の制限が入ります」


 少なくとも一カ月は活動休止となる。制限が解除されてもリハビリの必要があるし、すぐに仕事に復帰できるかはわからない。


「吉岡さん、治らないものではありません。声優さんでも色々な選択肢を取る人がいます。よくお考えください」


 この場ですぐに答えが出るほど私の心は準備できておらず、「考えさせてください」と言うしかなかった。



 × × ×

 診療室から出て、ロビーに行くと私に気づき、牧野さんが寄ってきた。

 

「吉岡さん……」


 そんなに私の表情がひどかったのか。牧野先生の顔もひどく不安げだ。そしてその顔をさらに曇らせてしまう事実を告げるしかない。ここまで連れて来てもらって黙っているなんてできない。

 病院から出て、自販機とベンチの近くで2つの病名を告げた。牧野さんが崩れ落ちそうになり、慌ててベンチに座らせた。


「ごめんなさい、私がショックを受けている場合じゃないですよね。吉岡さんの方がずっと辛い。予感はしていました。やっぱり……、ですが思った以上に事態は深刻です」


 ごめんなさいと頭を下げられる。「牧野先生は悪くないです」というも「気づけなかった私の責任です」と頭をあげてくれない。


「ライブ……、ライブはできるんですよね?」

「何言っているんですか、吉岡さん……?」


 来週には大阪、再来週には東京で開催される。私単独のライブだ。私がいなければ何も始まらない。


「吉岡さん、中止にしましょう」

「でも」

「決断ができないなら、私が代わりに決断します。中止にすべきです」


 私の代わりに背負ってくれる。その優しさが嬉しくて、温かい。こんなに私のことを思ってくれている。でも、でもなんだ。


「でも、中止にしても治らないんですよね。手術しても再発の可能性があるんですよね」

「そんなことありません、治ります。吉岡さんは絶対に治ります、治りますから……」


 縋るような言葉は弱々しく、消え入る。100%ではないし、うまくいっても再発の可能性があり、爆弾を抱えたまま生き続けることになる。


「今まで発症したままライブをした人もいました。ライブ後に手術をした人を何人も見てきました。でも吉岡さん」


 彼女の目がまっすぐに私を見てくる。


「あなたは歌手ですが、立派な歌手ですが声優でもあるんです。ここで無理して、全部を棒に振ってはいけません」


 最初は歌手ではなかった。ただの声優だった。歌手活動なんて副産物だ。

 けどここまで来てしまった。ステージの上での熱気を味わってしまった。ファンの歓声を知ってしまった。自分の限界以上が出せることがわかってしまった。武道館まで手が届きそうになってしまった。

 ここで諦めたら、逃したらその機会は一生ないかもしれない。


「でも!」

「大声は出さないでください。これ以上ひどくなったら大変です」

「……ごめんなさい」

「すぐに答えを出すのは酷ですね。私が勝手に中止といってもすぐに気持ちは切り替わらないでしょう。でも申し訳ございません、3日以内にはお返事が欲しいです。吉岡さんは気に病まなくていいですが、会場のキャンセル料や、チケットの払い戻しなどの対応が必要なので、ごめんなさい」


 そりゃそうだ。1週間と、2週間後に開催。ファンが現地入りしてから中止ですなんてあっては駄目だ。時間はない。すぐに決断しなくては皆に迷惑がかかる。

 そう、私だけの問題ではない。なくなってしまった。


「もう一度言います。気に病まないでください。自分のことを1番に考えてください。言いづらいかもしれませんが、佐久間さんに相談するのもよいかと思います」


 浮かぶのは彼女の顔。

 稀莉ちゃんの、表情。


「それはできません……、稀莉ちゃんには相談できません」

「どうしてですか? いや、あんまり話していては駄目ですね。今日は帰りましょう。気になること、相談がありましたらメッセージでいいので連絡ください」


 頷き、タクシーで家の近くまで送ってもらう。

 けど、そこから家にはすぐ帰らず、街を歩く。見上げた空はただただ青くて、昨日と何も変わっていない。

 けど一日でその色はすべて変わってしまったのだ。今すぐ叫び出したい。が、そんな自滅行為はできない。

 

 稀莉ちゃんには言えない。

 言えないんだ。

 言ったら止めてくれるだろう。ライブなんてしなくていいと言ってくれる。武道館の夢も諦めてくれるだろう。ラジオも私に任せなさい!ときっと力強く言葉にしてくれる。

 私がどんな状態に陥っても受け入れ、寄り添ってくれるだろう。憧れが消え失せても、もう光を無くしても稀莉ちゃんは優しいからずっと私の手を握ってくれる。そう、彼女の人生を犠牲にしてでも私といてくれる―。

 



 ……間違っているのはわかっている。

 これからの私を駄目にするかもしれない。けど、今やらなかったら物語を終わらすことすらできないかもしれない。

 輝く姿を見せずに去るのは嫌だな……、それがわたしの気持ちだ。

 私は精いっぱいの力を振り絞る。これから歌うのを諦める覚悟で、声優として致命傷を負う覚悟で光り輝く。

 君に見せたいんだ。私が消えたとしても、ずっと笑えるようにと力をあげたい。



 その夜、牧野さんに文字でメッセージを入れた。


『ライブやらせてください。どうなろうとも舞台から降りたくありません。歌手、吉岡奏絵のラストライブとして輝かせてください』


 ファンにも、彼女にも告げない私の戦いが始まった。

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