第36章 見上げた空は青くて

第36章 見上げた空は青くて①

 いつからだろう、違和感を感じたのは。

 最初はレッスン中だったかもしれない。


「本当に歌よかったですか……?」


 そう尋ねる私に「何か気になるところでもあるんですか?」と牧野先生は答えた。「歌は今日もバッチリ良かったですね」と褒められたばかりで、私の返しに先生は不思議そうな顔をしていた。振りは駄目駄目だったが、歌は大丈夫だったのだろう。少し高音が出なかった、音程を外したかもと思ったがきっと気のせいだったのだ。牧野先生が気にならないということは特に何でもない。 

 その時はそう思った。そう片付けてしまった。



 × × ×

 違和感は徐々に大きくなっていった。

 10月前半。

 

「まずい風邪ひいたかも」


 喉の調子が少し悪く、風邪を疑った。鼻水は出ないし、熱もなかったが何だか声が可笑しいように感じた。ライブ前なのでいつも以上にのど飴やハチミツをなめ、スチーム吸入器も使い、ご飯もきちんとバランスよく食べて、睡眠もバッチリだったのだが、どこかで油断したのだろうか。


「あーあー」


 寝室で声の調子を確かめる。ライブに向け、ちょっと頑張りすぎていたのかもしれない。少し歌の練習も控えめにしておこう。そう思い、台本を読み込んでいるといつの間にか違和感は薄れていった。


「あーいーうー」


 声はもう元通りだった。うん、何も問題はない。



 × × ×

 10月中盤。

 歌だけでなく、喋っているだけでも違和感は目立ってきた。


「はい、おたよりよみまーす↑」

「よしおかん、声裏返っているんだけど! 何に緊張しているのよ?」

「あれ、あはは、おかしいな。全然緊張はしてないけど」


 水を飲むが、喉が潤った気はしない。

 ラジオだけではない。アフレコでもちょっとしたミスが目立つようになってきた。けど私はライブ前の緊張、練習のしすぎと結論づけてしまった。


「あんまり無理しすぎるんじゃないわよ、奏絵」

「大丈夫、無理してないよ! ……武道館のことを考えてちょっと緊張しているのかも」

「武道館はその後のことじゃない。まずは目の前のことに集中しなさい」

「その通りだけどね、面目ない。あ~大丈夫かな……」

「大丈夫」

「言い切るね」

「だって、私の大好きな人は世界で一番最強だもの」

「世界で一番とか言うと、唯奈ちゃんに怒られそう」

「別にあの子が特許持っているわけじゃないでしょ?」

「だね。でも世界で一番最高の方がいいかな」

「はいはい、最高最高」

「心がこもってないんだけど!」


 その笑顔に、私は自分を信じ切ってしまった。自分が強くて、凄いと思い込んでしまった。徐々に、その傷は大きくなっていった。



 × × ×

 10月後半。

 喉の調子は改善するどころか悪化していった。

 水を飲むことが多くなり、声がかすれるようになった。ちょっとだけ声も低くなった気がする。それでもライブまでもう時間はなく、弱音を吐くことはできなかった。調子が悪くても振りを覚えたり、立ち位置をしっかりと覚えたりとできることはたくさんある。

 でも、ごまかしごまかしの行動も限界がきた。


「眩しくてっ……、ごめんなさい。つまりました」

「吉岡さん、どこか調子が悪いのですか」


 睨む牧野先生の顔が怖い。もう騙すことはできないと悟り、自身のありのままの状態を話す。


「ごめんなさい。ちょっと喉の調子が悪いです。風邪っぽいかな~と思って薬を飲んでいたんですが、全然治らなくて。吸入器使って喉をケアしても良くならなくて」

「……ほかに」


 ぽつりとつぶやく先生の声に、「他に?」と聞き返してしまう。その表情はより一層険しくなり、逃れることはできない。


「吉岡さん、他に何か症状はありますか? 声がかすれたり、高音が出にくいなと思ったりとか」

「あー、先生の言う通りです。かすれ気味で、高音が出にくいです。最近は唾液を飲み込むと少しだけ痛くて。ただ日によって調子が違くて大丈夫な日もあるんです。けどそれも長く話していると声が出にくくなるだけで、単なる疲れ、喉の使い過ぎかなと思ってます」


 調子が悪いかなと思っても少し時間が経てば治ることもある。コンディションが日によって違い、朝起きる度に違う。けどそれでもラジオの仕事も、声優の仕事もこなしてしまっていた。できてしまっていた。ただ駄目な日は、駄目な時は徐々に増えていた。


「ラジオでも声が裏返ったり、演技が自分でも納得できないことがあったりと、日に日に思うようにできないことが増えてます」


 思った以上にメンタルに来ているのかもしれない。平気なフリをしているが、反対され、思い切ったことを決行し、批判もされた。自分では大丈夫と思うことも、心の中の私は悲鳴を上げているのかもしれない。

 けど、それでも進まなきゃいけないんだ。

 稀莉ちゃんが待っている。

 稀莉ちゃんとの永遠を手にするためのゴールを、機会を手に入れた。もう何も言わせない。稀莉ちゃんを幸せにするのは自分だと高らかに歌う。

 だから、止まってなどいられない。


「吉岡さん」

「はい?」

「病院に行きましょう」


 「へ?」と間抜けな声を出してしまった。


「先生、大げさですよ。確かにちょっと調子が悪いですが、少しすれば治ります。思った以上にライブに向けて心が揺らいでいるみたいです。大丈夫です。心はきちんと整えてきますので。あ、牧野先生も言ってましたよね。私は本番に強いって」

「吉岡さん!」


 大きな声にそのまま言葉を続けるのを許されない。


「喋るのを辞めてください。レッスンはいいです。今すぐです。荷物をまとめて病院に行きましょう」

「え、そんな、レッスン終わってからでも」

「今すぐです」


 威圧感に私は頷くしかなかった。


 

 先生も一緒にタクシーに乗り、病院へとすぐに向かった。牧野先生は何度か訪れたことがある場所らしい。案内されるがままに白い建物に辿り着く。


「病院か……」


 病院というのにはいつになっても慣れない。稀莉ちゃんとラジオを始めてすぐに風邪を引き、現場で倒れて、入院したこともあった。母親が倒れたと聞き、慌てて青森の病院へ向かったこともあった。命を脅かすような病気、大怪我ではなかったけど、それでも良いことがあったためしが無い。まぁ良いことが起こるような場所ではないのだけど。


 通された診療室で、鼻から喉へ細いファイバースコープを入れられる。嘔吐反射はないが、不快感はある。

 そして私の喉が画面いっぱいに映される。自分で見てもぎょっとしてしまう映像。目を背けたくなるが、事実は変えられない。お医者さんは抑揚のない声で淡々と告げた。


「声帯ポリープです」


 その日、私の違和感に名前がつけられた。


「それと声帯結節も発症しています」


 ご丁寧に二つも。

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