第35章 セカイの彼方④
「牧野先生」
もう一度口にする。
歌のレッスンをしてくれた私たちにとって彼女は『先生』だが、作詞・作曲もし、自身も昔歌ってCDも出していた多彩な人だ。手がけた曲は私も知っているものが多く、調べて驚いたものだ。また10年前に歌うことを辞めてはいたが、聞いてみるとその力強い歌声に鳥肌が立ったのを覚えている。奏絵も「どうしてこんな凄い人が歌のレッスンを引き受けてくれたのだろう?」と不思議がっていた。植島さんや会社の繋がりだったのだろうか。番組テーマ曲づくりレベルの話だったが、牧野先生の贅沢な起用を考えると意外と気合いが入っていた企画だったのかもしれない。
そんな音楽の人間が声優事務所にいる。
可笑しい。
事務所の声優さんに歌を提供する交渉のために来たと考えれば不思議はないが、やっぱりここにいるのは違和感がある。違う事務所の私がいるのも可笑しいが、牧野先生が社長と会議していたというのはどうみても怪しい。
「佐久間さん、久しぶりね」
「お久しぶりです、牧野先生。ライブ以来ですかね?」
「そうね、あなたのサプライズが成功した以来です。佐久間さんのいきなりの登場に驚く吉岡さんの表情はいまでも忘れられません」
「サプライズを提案したのは誰でしたっけ?」
「最近忘れっぽくてね」
「まだまだ先生は若いですよ」
「10代に言われると嫌味ですね。そうだ、アプリゲームの曲聞きましたよ。アニメ化もするとのことでおめでとうございます」
「ありがとうございます。アニメ化に合わせて、たくさん歌えます」
「すごく努力しましたね。ぜひその姿を観に行きたいです」
「ありがとうございます。でも」
「今はそんな話をしている場合じゃない」と言葉にする。ここにいては可笑しい私と牧野先生がいる。私の反論に牧野さんは表情を崩さない。
「私から話します、と先生は言いましたよね。奏絵のこと知っているんですよね?」
「ええ、知っています。全部知っています。……そう、私の責任です」
「そんなことないですよ、牧野さん!」
社長の言葉に「ありがとうございます。でもやっぱり私の責任です」と牧野先生は口にする。
「……やっぱりライブで何かあったのね」
「“何か”ありました。佐久間さんも可笑しいことに気づいたんですね」
気づいた。……気づいたが奏絵の活動休止に紐づかない。
発表されるはずだった武道館の話がなかった。けど、それと牧野先生に何か関係があるのか? 牧野先生の責任?
「私から言えることは、1カ月すればきっと彼女は戻って来てくれますということです」
「1カ月……?」
その数字は何を意味する? 謹慎が解かれる? 青森での実家での何かが終了する? 修行の旅から帰ってくる?
「戻って来てくれると願いたいんです」
その言葉は願望か、祈りか。願いたい、つまり戻って来ないことも考えられる。
私は、祈れない。
「1カ月何もせず、奏絵を待っているなんてできない!」
牧野さんが「やっぱりそうですよね」と苦笑いする。
「吉岡さんから何があったか言うことを口留めされています。これは彼女の意志です。私はその想いと意志は尊重したいと思っています。たとえ佐久間さんが相手でも私から口にすべきではありません」
「でも!」
「はい、でもですよね。私は、佐久間さん、あなたに吉岡さんに会ってほしいと思っています」
「え?」
「吉岡さんが嫌がっても強く拒んだとしても、それでも佐久間さんが必要だと思うんです」
奏絵は会いたがっていない。理由はわからない。
けど会えばわかる。
牧野先生も約束した以上、何らかの事実を口にはできないのだろう。説明するなら奏絵の口からだ。
「いいのかい? 吉岡君は来てほしくないと言っているんだろう?」
会わそうとしてくれる牧野先生とは裏腹に、社長さんは不安そうだ。けど、彼女は私に問う。
「それでも佐久間さんは行きますか?」
答えは私に委ねられた。
待ち受ける真実は、私にとって怖く、恐ろしいものかもしれない。それに奏絵が望んでいない、来て欲しくないと思っているんだ。彼女の意志に反する。
けど、それでも私は進む。悲しみも苦しみも一緒に背負って生きていくととっくに決めている。
「もちろんです」
私は彼女のラジオのパートナーで、憧れで、一心同体で、光で、共に歩く人だ。
「いい返事です」と先生が褒め、奏絵の居場所をその場でメモしてくれた。
それは予想外の場所だった。
× × ×
大学もあったが、サボると決めた。仕事もあったが、無理言って変更してもらった。
玄関で靴を履いていると後ろから声をかけられる。
「こんな朝早くからどうしたんですか?」
振り返ると晴子が腰に手をあてて、あきれ顔だった。
「どうしたんですかって行き先は言ったじゃない」
「聞きましたが、次の日出発って、稀莉さんは本当せっかちですね」
「愛は急げよ」
「善は急げです。それにそんな大きなリュックを背負って、いったい何をするつもりですか、馬鹿なんですか?」
「これでもおさえた方よ」
「そうですか」
靴を履き終え、立ち上がる。
「行くんですね」
「ええ、アメリカだって、南極だって、宇宙だって何処にだっていくんだから!」
「奏絵さんがそこにいるなら、でしょ?」
「そんなの言わなくてもわかるでしょ?」
セカイの彼方だって私は彼女を追いかける。何処に逃げようと追いかけまわしてやる。
「だって愛しているから!」
「はいはい、いってらっしゃいませ、稀莉さん」
扉を開け、「二人のただいまを待っています」という晴子の声を胸に、私は奏絵の元へ歩き出した。
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