第35章 セカイの彼方

第35章 セカイの彼方①

 奏絵が声優活動休止?


「笑えないわ。そんな冗談」


 強い調子で言ったが、植島さん、他スタッフは何も答えてくれない。

 代わりに隣の女の子が答える。


「ぼく、えと、わ、私も今日限りのゲストってことで呼ばれてます。吉岡さんが活動休止なんて初耳です、初耳なんです」


 砂羽さんも戸惑っている。同じ事務所の人間にも伝わっていなかったのだ。本当どういうことなんだ。


「事務所の仕事をこっちに押しつけられても困るんだけど」


 植島さんの言葉に砂羽さんがびくっと震える。


「じ、事務所に電話してきます」

「植島さん」


 新人声優に文句を言っても仕方ない。彼女も巻き込まれた被害者だ。そういう思いを込めて、構成作家の名前を強く呼ぶ。彼も大人げなかったことを理解したようだ。


「ごめん、君を責めるつもりは全くない。事務所からそう連絡があった。電話してもあっちもよくわかっていないだろう。困惑しているみたいだった。そして困っているのはこっちもだ」

「奏絵とは」


 今朝のことを思い出す。いたのだ。数時間前までは普通にいたのだ。


「今朝、家を一緒に出ました。前の現場があるとかで駅で別れましたが、一緒でした。一緒だったの。一緒だったのに」


 彼女はそのまま去った。

 ラジオの現場に来ず、何処かに行った。


「吉岡君、どこか可笑しかったりしたのかい?」

「ぱっと見はいつも通りだったと思います」

 

 いつも通りだったと思う。でもどこかに消えてしまいそうな感じはした。だから私は彼女の袖を掴み、別れるのを阻止した。そのまま握っていれば、そのまま彼女と一緒にいればこんなことにはならなかったのに。そう思うとあの時の言動を後悔してしまう。

 けど奏絵は何よりラジオが大好きだった。これっきりラジオのスタッフ、私を裏切ることはしないはずだ。よっぽどのことがなければそんなことしない。つまり、よっぽどのことがあったのだ。

 まず思いつくのは、事務所のクビだ。同棲告白宣言や私との同棲を語ることを事務所が問題にしたのかもしれない。奏絵は「事務所は引き留めてくれた」といったのも嘘だったのかもしれない。実はクビは決まっていた。そしてライブ後にそれは行使された。それがシナリオとしては自然か?

 でも植島さんの報告では“活動休止”だ。クビではなく休止。それは本当なのだろうか? すぐにクビでは印象が悪いからひとまず休止にしただけなのでは?

 けど、と思う。

 クビならクビでここに来ない意味がわからない。私に説明しない意味がわからない。新しい事務所を探せばいい、いったんフリーになればいい。それこそ私の所属する佳乃の事務所に入ればいいのだ。

 なら、何なのだ。奏絵がここにいない理由が全くわからない。急な体調不良でもないし、身内のご不幸でもない。

 彼女が、わからない。奏絵、あなたは今どこで何をしているっていうの……?


「……どうしようか、今日の収録」


 植島さんも困り果て、私たちに問いかける。

 ラジオの収録どころではない。でも今日録るためにこうして集まったのだ。こうなることを踏まえて、奏絵もいなくなった。

 なら、


「やりましょう、植島さん、砂羽さん」


 砂羽さんが「本当に?」とでも言いたそうな目でこっちを見る。やるしかないのだ。釈然としないし、ムカついているし、悲しくもある。

 でも私はラジオのパーソナリティーだ。何があっても声は届ける。求めているものとは違っても待っているリスナーはいるのだ。


「いいのかい、佐久間君?」


 私は頷く。

 この日、奏絵がいないこれっきりラジオが始まった。



 × × ×

 ラジオの収録が終わり、すぐに家に帰る。

 奏絵には何度も連絡した。でも返信はおろか既読すらつかなかった。無視。ただ無事ではいてほしい。


「ただいま」


 勢いよく扉を開き、リビングに入る。


「稀莉さん」


 そこに晴子はいたが、奏絵はいなかった。ラジオの収録には来ず、家に何事もなかったかのように普通に帰ってくるなんて甘い妄想は存在しなかった。


「晴子、あんたは何処まで聞いているの?」

「詳しいことは知りません。知っているのは奏絵さんは旅に出たとのことです。きっと辛い旅です」

「そんな抽象的なことを聞いているんじゃないわよ。何処にいるかって聞いているの」

「私も知りません」

「本当なの」

「本当です。信じてください」


 私には言わず、晴子にはすべての事情を話して出ていったと思ったが違ったみたいだ。


「奏絵とは話したの?」

「いえ、話していません。手紙がありました。私とそれに稀莉さんへと」


 晴子が私に紙を渡す。アニメキャラの便箋で緊張感ないが、それは確かに奏絵の字で、私へのメッセージがあった。


「私の手紙にはごめんなさいとありがとうと、またきっと会えはすると書かれていました」


 さよならではない。また会える。

 それはいつ? いつのことなのだ。そんな不確かな言葉を信じたくない。


「こんなおたよりはいらないわ」


 でも破れない私がいた。

 通知音が鳴る。

 急いで携帯を見るとそれは奏絵からだった。ただ言葉はなく、空飛びの空音のスタンプだけだった。それも『元気♪』と空音が食事するシーンのスタンプだった。私を煽っているのだろうか? 急いで文字を打ち込み、通話に切り替えるが応答はしない。


「いったい何なのよ、奏絵……」


 ただ無事ではいるらしいので、一安心だ。けど私のぐちゃぐちゃな感情は収まらない。


 その日、奏絵は私の前から消えた。唐突に、理由も不明に、無神経に姿を消した。

 まだ世間では奏絵が消えたことは発表されていない。

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