第33章 ときめきの導き③

 バスに揺られる中、隣の稀莉ちゃんの顔はずっと曇ったままだ。


 昨晩、稀莉ちゃんにかかってきた電話はマネージャーの長田さんからだった。電話では話せない、大事な話があり、『印鑑を持って事務所まで来てください』と言われたみたいだ。

 印鑑をわざわざ持っていく。それは契約の話以外ありえないだろう。

 それまでのイチャイチャな雰囲気は一瞬にして消え、「きょ、今日はもう寝ようか」と私から言い、その日は終わった。いや稀莉ちゃんはすぐに寝ちゃったが、私は目が冴えに冴えて、ビール缶を3本開けることになったのだが、それもきっと仕方のないことだ。さっきまでの行動を悔いつつ、「長田さんからの大事な話は自分のせいなのでは?」と不安で不安でたまらなかった。1,2時間しか眠ることができずに、朝を迎えてしまった。

 結局、お部屋の貸し切り露天風呂に入ることもなく、朝早くに旅館を後にした。



 バスを降り、電車を乗り継ぎ、新幹線に乗っても彼女の不安は拭えない。


「どうしよう……」


 稀莉ちゃんはずっとそればかりだ。問いかけても自分では解決できない戸惑い。けれど、少しでも元気になるようにと彼女を勇気づける。


「だ、大丈夫だよ。ちゃんとお土産も買ったし……」

「温泉饅頭に、温泉たまごに、草津ラスク、湯畑プリン……。遊んできました~♪ 全然反省してません~♪と思われないかしら……」

「た、確かにそっちの可能性を考慮してなかった!」

「ふふふ、ならここで食べてしまいましょう! 声優として最後のスイーツを満喫しましょう、ふふふふ」

「壊れないで、稀莉ちゃん!」


 昨日の夕方時点の話では、事務所の人たちを長田さんが必死にフォローしてくれているとのことだったが、それも限界を迎えたのかもしれない。マネージャーでも手に負えないことをしでかしたのだ。

 解雇。

 事前にその可能性もわかっていたはずだ。でもさすがにクビまではないと思った。私がクビになるのはわかるが、稀莉ちゃんはあっても注意ぐらいだろう。そう高を括っていた。


「どうしたの稀莉ちゃん……?」


 携帯を見ながら、ノートに必死にメモをしていた。


「何をメモして……」

「私を雇ってくれそうな声優の事務所をひたすら書いているの。クビなら早く次を探さないと。空白期間をつくりたくない!」

「たくましい! けど、さすがに気が早すぎるっ!」


 手を握り、書くのを止める。切り替えの早さは見習いたいが、まだ完全に解雇と決まったわけではない。


「大丈夫だよ、私がいる」


 何の励みにもならない言葉。でも諦めるのはまだ早いんだ。


「ごめん、皆の信頼を裏切ったのは私のせいだから」

「……裏切ったって言い方は好きじゃない。とったやり方は過激だったかもだけど、私の好きは間違いじゃない。けして裏切りなんかじゃない」


 そうだ、その通りだ。間違っていないんだ。


「そうだね、稀莉ちゃんの言う通りだよ」


 でも許してはくれない。この世界で普通じゃないことは許容されない。

 

「大丈夫、私もいくから。ちゃんと説得するから」


 私がいってどうにかなる問題でもない。余計にややこしくなるかもしれない。けど責任は私にあり、弱った稀莉ちゃんを一人にするなんて彼女としてできなかった。


 × × ×

 草津から東京に戻るまで3時間ほどかかった。行きは東京から草津まで直行のバスに乗ったが、乗り継ぎだとそれなりに時間はかかる。そしてようやくたどり着いたのが、


「ここが稀莉ちゃんの事務所……」


 私の声優事務所とは違い、大きくて綺麗なビルだ。看板を見ると、ビル内に知っている声優事務所が何個もある。稀莉ちゃんに聞くと全部関連会社とのことだ。いわゆるグループプロダクション。業界内においてその影響力は強大だ。さらに聞くと音響会社、編集会社とも資本関係にあるらしい。そりゃ強いわ、この事務所……。才能だけでは敵わない政治力をこの事務所は持っている。軒並み役を持っていくのも当然のことだ。

 そしてその強大な力に歯向かうために私はここにいる。


「行こう、稀莉」

「う、うん」


 気を引き締めるため、彼女のことを呼び捨てにする。手をしっかりと握り、敵地へ足を踏み入れた。


 × × ×

 事務所に入ると応接間に通され、少ししたら長田さんがやってきた。稀莉ちゃんの事務所のマネージャーの長田佳乃さん。今日もスーツでびっしりと決め、眼鏡姿がよく似合う、仕事のできる人だ。


「吉岡さんも一緒だったんですね。わざわざご足労いただき、ありがとうございます」

「こ、こちらつまらないものですが」


 まずはお土産を差し出す。眼鏡の奥がきらりと光ったのを見逃さない。


「これは湯畑プリン! それも季節商品のゆずじゃないですか! 食べたいと思っていたんですよ、ありがとう佐久間さん、吉岡さん!」

「よ、喜んでもらえて嬉しいです」


 以前パンケーキを長田さんとは食べにいった仲だ。彼女が甘いものに目がないのは当然知っている。第一作戦成功だ。


「ああ、そうでしたよね。草津に行ってたんですよね」

「はい、急に行ってすみません……」

「いえいえ、温泉いいですよね。私も久しぶりに行きたいです。草津は楽しかったですか?」

「え、ええ。楽しかったです。でも、その昨日の電話があってからは落ち着かず」

「あ、ごめんなさい。二人の楽しい時間を邪魔してしまいましたね」

「いえ、そんなことは。私たちが招いたことなんで長田さんは悪くありません」


 なかなか本題に入らない。私と長田さんの会話に焦れたのか、稀莉ちゃんは身を乗り出し、


「よ、よしの、いや、長田さん! 単刀直入に言ってください」


 話を切り出した。


「私はクビですか?」

「え? いや、クビではないですよ」


 長田さんの返答にほっと息をつく。よかった、クビじゃなかった。稀莉ちゃんも安心したのか、へなへなと後ろに倒れ、ソファーに身を預ける。昨日からの心配、不安は思い込みだった。取り越し苦労。良かった、稀莉ちゃんはこれからも声優でいられる。

 でも、それなら何故稀莉ちゃんを呼んだのか。

 答えはすぐに長田さんの口から出てきた。


「私がこの事務所からいなくなることになりました」

「「え」」


 稀莉ちゃんと驚きの声が重なった。

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