第30章 空さえ色褪せて②

 稀莉ちゃんの部屋の前に立ち、扉をノックするも返事はない。

 けど普段みたいに扉を開けることはしない。壁1枚以上に距離は遠い。見えない鍵がここにはかかっている。


「稀莉ちゃん、聞こえる?」


 反応はない。でも聞こえているはずだ。晴子さんの話ならアニメをちょうど見終わった時間だ。寝落ちでもしていない限り、声は届くはずだ。


「扉越しでいいから聞いてほしい」


 届けと願い、声を絞り出す。

 そういえば、前にもこんなことがあったなと思い出す。あれは稀莉ちゃんの母親に、ネズミの国に遊びに行くのを許可をとりに実家まで行った日だ。母親の理香さんを説得したところで、ちょうど稀莉ちゃんが帰ってきて大いに勘違いされたっけ。理香さんからは門限を破る深夜帰宅が駄目だから、泊まってきなさいと許可された、意味が分からない。……懐かしい。あの頃の私も必死だったが、でも今思うと可愛いレベルの心配ごとだ。

 

「稀莉ちゃん、こないだはごめんなさい」


 メインの役じゃないからと降りようとしたのを止めた。あくまで彼女の自由だ。私は彼女であるが、それでも本人の仕事に口を出すべきではない。


「でも、それでも私の言うことは変わらないよ。役を降りることは違う」


 けどそれでも止める。嫌われようとも、喧嘩になろうとも止める。


「稀莉ちゃん、選ばれることって大事だよ」


 私は、選ばれ続けなかったから。いや、1回主役に選ばれただけでも十分に幸せだったのかもしれない。ほとんどが選ばれないのだ。決められた少ない席を、たくさんの声優が奪い合う。まともに席に座れず、消えていく人がほとんどだ。


「役がもらえないで、コンビニバイトをして“声優”と名乗っていた時期はとっても辛かった」


 床に座り、背中を扉につける。いまだ反応はないが、それでも喋るのを止めない。

 自分の話になってしまうが、それでも聞いてほしかった。

 選ばれたのを拒み続けていたら、いずれ選ばれなくなってしまう。選ぶのは人だ。

 主役しかやらない人と、どんな役でも全力でやる人。

 どっちを選ぶかは明白だ。

 それに、ちょい役でも音響会場で、録った声で良い印象を与えれば次につながる。そういうものだ。どんな仕事だって蔑ろにしてはいけない。


「稀莉ちゃんは、私を選んでくれた。私は嬉しかったんだ。私に憧れて声優になってくれて、私のことをこんなに思ってくれて」


 選ばれることは嬉しいことだ。選んでくれたのだ。感謝しかない。

 けど選ばれるためには、知られる必要がある。知らなきゃ、選ばれやしない。


「私は稀莉ちゃんが好き。だからこそ、私と同じ想いをしてほしくない。」


 好きだから困る。好きじゃなきゃ、ぶつからないし、困らない。

 この幸せな生活は続けたい。続けたいに決まっている。

 でも、


「佐久間稀莉は、私の彼女である前に声優なんだよ」


 そう、彼女は声優になることを選んだのだ。

 それは憧れだとしても、色々な思惑があったとしても、選んだのだ。人生の仕事として、一生をかける仕事として、学生生活の青春を捨ててでも選んだ。

 彼女の根幹は声優だ。


「だからさ……」


 条件、同棲、私。

 そのために、根幹は揺らぐべきではない。自身の選択を否定してはならない。


「私といることで、お母さんの条件で傷つくなら、この生活、私との同棲をやめようか」


 自分で言って、胸が締め付けられる。ひどいことを言っている。


「稀莉ちゃんの両親にもさ、一緒にデートしたり、恋人でいたりは禁止されてないんだ。私たちは変わらない、変わらないでいられるよ」


 彼女の努力を、今必死に悩んでいる姿を否定する。


「落ち着いたらまた一緒に住もう、今じゃなくたっていいんだからさ。私はいつまでも待つよ。だからさ焦らないで、今できることだけを精一杯頑張って、楽しもうよ」


 諦めろと、『1年で主演5本』は無理だと言っている。


「私は離れないよ、いつまでも君の近くにいる」


 同棲が終わっても、私とのラジオは続くし、恋人関係は終わらない。

 近くにいるからこそ、笑っていてほしい。


「私は稀莉ちゃんに辛い思いをしてほしくない」


 ドアが勢いよく開いた。

 扉に支えられていた背中は行き場を失い、私はそのまま後ろに倒れた。

 床についた体。仰向けの状態で、目は天井を見ていたが、稀莉ちゃんの顔が真上にきて、焦点が移る。


「わかってない、わかってないよ奏絵は」


 稀莉ちゃんは、倒れた私の頭の両脇に手を置き、瞳はまっすぐに私を捉える。

 私の顔にぽつぽつと雨が降る。


「……稀莉ちゃん」


 雨は彼女の瞳から落ちる。ずっと聞いていたのだ、届いていた。


「嫌だ、離れたくない」

 

 けど、答えは違う。

 声を詰まらせ、泣きながらも必死に私に伝えようとしてくる。


「やっと手に入れたの、私が笑顔でいられる場所を」

「うん」

「私だけの幸せを」

「……うん」

「嫌なの、いや、もう離れたくない。もうあんな辛い思いをしたくない」


 歌えなくなった稀莉ちゃんと離れる道を選んだ。私も彼女も辛かった。だからそれ以上にその穴を、悲しみを埋めようとした。


「楽しかった、この数カ月は今までの人生を1番楽しかった」

「私も楽しかった」


 けど現実は、条件は優しくない。


「なんで、何で駄目なの?私は悪くないよ、頑張っている。何で認めてくれないの?」

「知っているよ、知っている」


 稀莉ちゃんの努力は、頑張り屋さんなところは側で見てきた。苦手だったトークも、歌えなくなったのも彼女は克服してきた。


「一緒にいさせてよ、嫌なの。一緒にいないと不安なの」

「……ごめんね。勝手なこと言って」


 同棲を辞めても、一緒にいられる。

 違う。

 現実は違うだろう。ますます会えなくなるし、お互いのことを考える時間は減っていく。不安で、消えてしまいそうで、会ってどんなにその日が楽しかったとしても満たされない日々が続いていく。

 時間があったら、あったでそれは仕事が忙しくないことを示し、二人で笑顔でいられることはできない。


「辛くても、今を奏絵と生きたい」


 彼女から出てきた言葉は答えになっていない。解決策ではない、ただの願い。

 けど、それでも手放したら、無くなるかもしれない。

 だから、必死に繋げとめようとする。


「ごめんね、ごめん」


 手の力が無くなったのか、稀莉ちゃんが私の上に倒れてくる。

 せき止めていたものが壊れたのか泣く声が大きくなり、近くの私の耳に響く。


「ごめんね、本当にごめん」


 謝るが、どうしようもない。

 同棲を続けても、稀莉ちゃんを苦しめるだけだ。それなら稀莉ちゃんの声優人生を大切にし、同棲はまたの機会にすべきだ。

 でも同棲を辞めたら、今度はないのかもしれない。終わる。私たちの関係は終わる。ただでさえお互いに時間が無いのだ。すれ違いは増えていくだろう。離れ、また再会し、繋がった私たちの手が、また離れ離れになってしまう。

 どうする?

 どうすればいいの?

 これしかないと思った。同棲を辞めるしかないと思った。でも違う。稀莉ちゃんの想いに、涙に、私の結論も間違いだと気づく。

 なら、どうすればいいっていうんだ。

 わからないよ、教えてよ。


「ごめん、稀莉ちゃん」


 私にも、稀莉ちゃんにも答えはなく、泣き続ける彼女の頭を撫でるぐらいしか私にはできることがなかった。

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