第21章 繋いだ手④
変わらないままでよかった。
歌手になりたいわけではなかった。
私は決断したのだ。彼女と生きると。
でも、変わってしまった。
ずっと続くと思っていた。けど、私といるのが苦痛となってしまった。
家に帰ってからも、思い出すのは彼女の泣き顔。忘れられない、小さな、震えた身体。
何もできない。何もできなかった。
やっと会えたのに、あんなに会いたかったのに、彼女に全部背負わしてしまった。
自分の無力さに苛立ち、自分の愚かさに嫌気が差す。
彼女は我慢して、苦しむ道を選んでしまった。ラジオ番組を守るために、自分の気持ちを殺す。
……心がどうにかなりそうだ。
何時間ぼーっとしていただろう。散らかった荷物、食べかけの弁当、蓋を開けたままのペットボトル。このまま家にいたら駄目になる。私が私に圧し潰される。
ジャージに着替え、運動靴を履く。
何処かに行きたかった。逃げ出したかった。宛てもなく、家から飛び出した。
陽は落ち始め、会社帰りの社会人、買い物に来た主婦、部活帰りの学生が多くみられる。ただ商店街付近を通り過ぎると、一気に人はいなくなる。
神社の横を通り、坂道を駆け上がる。険しい。足が止まろうよ、と囁く。でも負けない。
「ああああああ」
声を上げ、走る。
周りを気にせず、ただただ走る。
2年目になって、すべてが上手くいくと思った。
『コエラジ・グランプリ』の新人賞。
受賞記念の雑誌の撮影。
番組テーマソングの作成。
自分たちで考えた歌詞。
お渡し回に、番組イベント。
あまりにも上手くいきすぎていた。
「はぁはぁ」
無茶な全力疾走にすぐ息が切れ、膝に手をつける。
ポタポタ。灰色の地面に汗が落ちる。
稀莉ちゃんといたい。でも、重荷だ。
前を向く。足を進める。ゆっくりでも足を踏み出す。
何処に行くかも考えてないし、きっと何処にもいけない。
「はぁ、はぁ」
けど、少しずつ速度を上げる。
稀莉ちゃんが好きだ、大好きだ。
私に憧れてくれた女の子。私のことを大好きな女の子。年が10歳も違うのに、一緒のことで笑ってくれる女の子。
彼女のことが大好きだ。
それでも私が枷となるなら、別れよう。一緒に暮らす約束も破棄しよう。今までの思い出も全部忘れよう。彼女が辛い思いをするなら、全部捨てよう。
「嫌だ」
嫌だ。そんなことして解決するわけではない。別れて、元通りになるわけがない。抱きしめた彼女との距離が遠くなるだけ。もう抱きしめられないほど、手が繋げないほど離れ離れになるだけだ。
なら、ラジオを終わらせた方が良いのだろうか。
駄目だ。わかっている。番組が終わったら、彼女と会うことはもうなくなる。一度離れたらもう届かない。
坂を登り終え、体がよろけ、慌てて金網を掴む。
足はもう限界だ。足だけじゃない。きっと心だって、もう無理だ。
「稀莉ちゃん……」
隣にいない彼女の名前を呼ぶ。
吉岡さん、奏絵、よしおかん。何だっていい。彼女の元気な声が聞きたい。呼んでよ、私の名前を呼んで。
光が、射した。
突然の眩しさに、空から顔を背ける。
眩しい。
ゆっくりと、恐る恐る顔を上げる。
オレンジが目に入った。
坂の上から見下ろす、街の様子。
街を鮮やかに染める、オレンジ色の空。
嫌なことも、楽しいことも、色んなことを引っくるめて塗り潰す。
「……綺麗」
荒んだ心に、夕暮れが染みわたる。痛いほど、沁みる。
眩しい。
一変した景色。自分のことに夢中で、見ようとしなかった空。
何度も裏切られて、飛ぼうとしては失敗して、それでも心を揺さぶる、果てしない空。
ステージの上に立ったら、こんな眩しい景色が見られるのだろうか。
ステージに立つ。思いもしなかった。1週間前には思いもしなかった。
歌うのは確かに楽しい。
そして、憧れてくれた気持ちはもっと嬉しい。
そうだ、始まりはそこなんだ。
空音としてステージに立った『私』を『彼女』は見つけ、憧れ、声優になった。
『はじめて彼女を見た時、私の心は弾みました。わざわざチケットを取ったんですよ。イベントで歌う彼女はかっこよく、きらきらと輝いていて、誰よりも大きな存在でした』
『あの日から、彼女は私の憧れになりました』
『あなたのおかげで私はここにいるのです。あなたに憧れたから、私は声優になりました』
『こんな素敵な景色を見せてくれてありがとう』
『私は、吉岡奏絵が好きーーー!大好き!!』
彼女の言葉を思い出す。
イベントの収録はしていないのに、見返すことはできないのに、忘れることはない台詞の数々。
「ははっ」
イベントで言ったんだよ、あの子は?ありえない、おかしい。おかしいほど、嬉しかった。
今でも思い出す。思い出す度、ニヤニヤしてしまう。
「……そっか」
そうなんだ。
わかった気がした。
私の夢。
私がしなきゃいけないこと。
私が稀莉ちゃんのためにできること。
私が稀莉ちゃんと一緒に生きるために、すること。
「そうなんだよね」
彼女は絶対に反対する。植島さんも許してくれないかもしれない。でも、それしか思いつかなかった。
それも上手くいくのか、わからない。果たして解決になっているのかも、わからない。何も解決しないかもしれない。すべてが終わる可能性もある。
でも、私は自分を信じる。
数日後、稀莉ちゃんの番組テーマ曲のレコーディングが終わったと、番組スタッフから連絡が来た。
ゴールデンウィークに入っているが、特別に開けてもらったらしい。植島さんが無理言って開けてもらったのだろう。連絡だけ聞けばあっけない。けど、どんな気持ちで彼女がレコーディングしたのか、想像するだけでも辛い。
そして、ラジオ収録の日がやってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます