第20章 一等の光②

「え」


 小さな驚きが彼女の口から零れる。風に揺れる結んだ後ろ髪と、揺れる瞳。


「高校を卒業するといっても、アーティスト活動や、アニメの仕事も本格的に増えて、稀莉ちゃんも忙しくなるだろうしさ。だから、少しでも一緒の時間を増やしたい」


 彼女の言葉を待たずに、続ける。


「それに稀莉ちゃんとの未来をちゃんと考えたい。それが私の挑戦。声優としてじゃないけど、吉岡奏絵としての決意だよ」


 自然と笑みになる。私は声優としては、これ以上飛べないかもしれない。ラジオのパーソナリティをして、アニメの声優の仕事をして、もうそれだけで十分なのだ。稀莉ちゃんが隣にいればいい、稀莉ちゃんさえいれば私の人生は満たされる。


「もちろん、稀莉ちゃんの両親を説得した上での話だけど」


 苦笑いに変わる。許してくれるだろうか。大事な一人娘を、私に預けてくれるのだろうか。稀莉ちゃんのお母さんは何とかなる気がしてしまうが、お父さんは果たしてどうか。え、娘さんをください!的なイベントが発生してしまうだろうか。


「どう、かな?」


 驚いたまま、固まっていた彼女に問いかける。

 稀莉ちゃんの瞳から涙が落ちる。


「え、ごめん、さすがになかったよね。いきなりすぎたよね、ごめんね、稀莉ちゃん」

「ち、違うの。これは悲しいんじゃなくて、辛いんじゃなくて」


 ぼふっ。

 彼女が私に飛び込み、腕をまわす。

 

「嬉しくて、気持ちが溢れたの」


 私を見上げる彼女の瞳は、どんな宝石よりも綺麗、そう思えた。


「嬉しい、嬉しいよ。奏絵、大好き。大好き、大好きよ」

「良かった、良かったよ、稀莉ちゃん。私も嬉しい」


 不安だった心が、桜色に色づく。

 けど一方で、理性を取り戻しつつもあった。日中の街中で、何をやっているんだという恥ずかしさ。今すぐ抱きしめたい気持ちでいっぱいなのだが、両手はわなわな震えているのだが、実行には至らない。ヘタレ!


「ちゃんと説得してね」

「が、頑張ります」

「じゃあ、さっそく明日」

「はやい、はやすぎる!」

「早めに物件をおさえた方がいいと思うの」


 ラジオのようにテンポのよい会話が続き、恥ずかしさも消えていく。いや、まだ街中で抱き合っているのだけどね。


「でも、もっと直接的ものも欲しい」


 稀莉ちゃんが耳元で2文字の単語を口にする。「××」、その言葉に一瞬で顔が真っ赤になる。


「気づいたの。まだ手を繋いだだけなの。お互いの裸は見せ合ったのに」

「待て、街中でその言葉は語弊がありすぎる!温泉、一緒に温泉はいっただけですよ、街中の皆さん!」


 ハッピーエンドを迎える前に、このまま警察に連れていかれないか心配だ。


「おでこにはしたよね?」

「あれはノーカウントだわ」

「ノーカウントなの!?あれでもけっこう決死の思いだったんだけど!?」

「良い思い出なのは間違いないわ。でも足りない」


 同棲を受け入れてもらった後なので、その提案を断れない。


「えっと、わかったよ、それはね……、うん、その、無事にイベントが終わったらの、ご褒美で」

「わかった、そのために頑張るわ」


 惚れた女の子に弱い、と心底思う。

 ご褒美のために頑張るなんて、良くない!そう、小さい頃は両親に言われたけど、人はそんなに頑張れないし、強くない。結果として、頑張って、成果が出ればいいのだ。たとえ甘い飴のおかげだったとしても、頑張ったことに変わりはない。


「でも、飴を与えすぎたかな……」

「うん?奏絵からホワイトデーに貰ったのはマカロンよ?飴を上げたのは私でしょ?」

「そういうことではなくてですね」


 でも飴は、好きの感情は、たくさん与え合った方がいい。きっとそうに決まっている。



× × ×


「あー、あー」

「ちょっと喉枯れているじゃない?」


 植島さんに言われていた、歌のレッスンの日がやってきた。風邪は引いていないが、喉の調子が絶好調ではない。


「しっかりとケアしたけどな……」

「もうしっかりしなさいよねー。のど飴舐める?」


 そう言って、稀莉ちゃんがバッグから飴を取り出す。彼女のように、常日頃のど飴を常備している声優さんは多い。


「おお、マヌカハニーののど飴じゃん。しかも、ここのメーカーって、けっこう高いよね?」

「値段よりも体調よ」

「おっしゃる通りで」


 ありがたく頂戴し、口に含む。うーん、甘い。

 

「あー、効く。さっそく効いている気がする」

「そんなすぐはないわ。プラシーボ効果よ」

「あーあー。うん、いい!ここの飴売っているところ教えてよ」

「あとでURL送る」


 ありがとう、とお礼をし、気づく。私が飴の施しを受けていた。可笑しいな、私が飴をたくさんあげるはずだったのに。


「私は最近、甜茶飴にハマっているかな」

「あー、持っている人多いわよね。私はちょっと味が合わなかった」

「苦手な人もいるよね。その点ハチミツ系は味が良い」

「そうね、マヌカハニー以外だと、プロポリスの飴を愛用しているわ」

「わかるわかる」


 広がる飴談義。喉が大事な職業だ。喉に関する話題、特にのど飴については、声優内で盛り上がるトークの鉄板である。

 その後も5分ほど熱く語り合った後、レッスンの先生がやってきた。


「こんにちは、牧野です。二人ともしっかりと歌えるようにしますね」

「はい、よろしくお願いします」

「お願いします」


 ハキハキとした声の、頼りになりそうな女性の先生だ。

 まずは、歌う準備をしましょう、ということでリップロールから始める。


「うーん、なかなか難しい」

「リラックスと、横隔膜のトレーニングなんです。裏声と地声を繋ぐ練習でもありますね。リップロールで1曲歌えるようになりましょう」

「むずいー、長く続かない」


 稀莉ちゃんも手こずっている。


「唇を動かすだけじゃなく、音もしっかりと出しましょう。はい、ドレミファソ」

「ド、ド、ド」

「レミファ、フォ」


 その後もレッスンは続く。基礎から教えてくれるので、本格的な歌の仕事をしてこなかった私にはありがたい。稀莉ちゃんも必死に練習している。夢への一歩なのだ。表情は真剣だ。

 さらに、腹式呼吸のマスターに、軽い体力測定。


「吉岡さんはけっこう体力ありますね」

「そうですか?これでも中学までは長距離の陸上やってましてね」

「息もよく続くわね」

「大学では途中で辞めちゃったけど、高校は吹奏楽部に入っていたからね」

「なるほど、吹奏楽、納得です」


 めったに褒められないのでいい気分だ。けれど、練習はまだ本番じゃない。


「じゃあ、発声練習といきましょうか。ここまではウォーミングアップです」


 稀莉ちゃんと顔を見合わせる。

 開始から2時間は経っていたが、序の口。歌の道は険しい。

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