第16章 アオノ願い、赤色のセカイ⑤
二人で赤い暖簾をくぐる。
本来、実家に泊まるはずだったので着替えはちゃんと持ってきている。備えはバッチリだ。稀莉ちゃんも泊まり覚悟で東京から飛び出したので、着替えは問題ない。
問題なのは心の準備。
別に女子同士だし、気にするもんじゃない。……と思ってはいるが、お互いになかなか服を脱がない。
稀莉ちゃんをちらりと見ると顔を背ける。
「「…………」」
意識せずにはいられない。ただ、このままではにっちもさっちもいかない。お互いに牽制しあって身体を冷やし、風邪を引くなんて馬鹿なことはしたくない。
意を決して服を脱ぐ。さっとタオルで隠し、彼女の方を振り向かず、浴場へ。私がいなくなれば、稀莉ちゃんも大丈夫だろう。彼女から付いていくると言ったのだ。部屋に戻るなんてしないよね?
「ごくらくー」
平日の夜遅くだからか、人は私たち以外誰もいなかった。大きな湯船を二人占め。それになんと露天風呂つきだった。身体をさっと洗い、露天風呂に突入したのだった。なお、稀莉ちゃんは私が洗い終わる頃にやっと浴場に入ってきた模様。気持ちの準備が長いもので……。
外はまだ雪が降っており、顔は寒いが、お湯加減はちょうど良く、身体は温められた。雪降る中、お風呂に入るのも趣深く、心身ともに癒される。このまま悩みも吹っ飛んでしまえばいいが、そういうわけにはいかないよな。
稀莉ちゃんの母親にはホテルに着く前に電話した。無事会えたことを喜ぶ声に、再会の奇跡を「愛の力ね」の一言で片付けられた。謝罪をしたが、軽く流され、「せっかくだから明日は観光してきなさい。門限過ぎてもいいから、稀莉を楽しませてね」と言われる始末。
早朝の新幹線で東京に帰ろうと思っていたので、どうしたものか。幸いなのかどうかわからないが、私は明日も仕事はない。稀莉ちゃんにもお金をわざわざ払ってきてもらったので、確かにこのまま何もせず帰るのはもったいないなかった。でも稀莉ちゃんはまだ学生で、明日も平日だ。親公認とはいえ、学校を休んでいいの?私としては、地元を稀莉ちゃんに紹介できるのは嬉しいが、学校を休ませて連れまわすのは気が引ける。
そんなことを考えると、横から気配がした。
「お、お邪魔します」
考え事をしていたからか、気づかぬうちに稀莉ちゃんが露天風呂に来ていた。ちゃぽんと湯船につかり、私から少し離れた距離に座る。
「いい湯だね」
「ええ、そうね。雪も降っているし」
「こっちじゃ普通だよ」
「東京じゃ珍しいから。それになかなか露天風呂なんて入らないわ」
「温泉とか行かない?」
「二人とも忙しいからなかなか泊まりとなるとね」
思えば私も両親と温泉に行った記憶はあまりない。アラサーになってから温泉のありがたみを知った気がする。稀莉ちゃんもいずれ知る時が来るのだろう。
「そういえば、長田さんは何か言っていた?」
長田さんとは稀莉ちゃんの事務所のマネージャーだ。長田さんには、私が泣かせた後の稀莉ちゃんを任せてしまい、非常に迷惑をかけた。
「無事に会えてよかったですねと」
「本当?」
「だいぶ呆れられていたけどね」
アハハと愛想笑いで相槌を打つ。
「そもそもどうして私が青森にいるってわかったの?」
私は自分の事務所にしか伝えていない。
「佳乃に聞いたの」
「長田さんに?」
「そう。朝になって事務所にすぐ電話したわ。あの夜すぐに佳乃が来たから、計画的犯行だってわかっていた。で、私から奏絵を呼ぶのは、さすがにちょっと辛くて、佳乃から連絡してもらおうとしたの。佳乃は律儀に、奏絵の事務所に連絡して、そしたら奏絵が東京にいないと知った」
「で、来ちゃったと」
「うん、来ちゃった」
飛躍しすぎている。私が東京にいないとわかって、青森に来る、追いかけてくる。すぐ戻るつもりだった。少し待っていれば東京で会えた。
「聞きづらいんだけどさ、どうしてそこまでして私を追ってきたの?」
どうしてそこまでしてくれるのか。稀莉ちゃんが伏し目がちに答える。
「怖かったの」
「怖かった?」
「このままどこかに奏絵がいなくなっちゃう気がしたの。もう会えないかもしれない。不安で心が埋めつくされた」
「私は、いなくならないよ」
「わからないじゃない!もう東京に帰って来ないかもしれない。青森に戻ったままかもしれない。私はこれっきりにしたくなかったの」
これっきりにしたくない。
私と同じだ。これっきりにしちゃいけなかった。
「それによく考えたの。奏絵の気持ちを。『空音』を奪われた奏絵の気持ちを」
『私』を失った、私の気持ち。
「とっても辛くて、痛いほど気持ちがわかって……でも、それなのに奏絵は私に正直に言ってくれた。嫌な役を引き受けて、私に言ってくれた。1番辛いのは奏絵のはずなのに、奏絵から伝えてくれた」
「そんなことない。結局、八つ当たりしちゃったしさ。稀莉ちゃんを傷つけた」
「私だって、役が奪われたら嫌。思い入れのあるキャラが、自分の半身が人のものになったら耐えられない」
稀莉ちゃんが同じ立場だったら上手く伝えられただろうか。わからない。私だから失敗したのか。誰でも同じことになるのか。
「だからね、ありがとう奏絵。あなたから伝えてくれて」
私は稀莉ちゃんを傷つけた。彼女の才能に嫉妬した。恵まれた環境を恨んだ。稀莉ちゃんの強さを過信して、泣かした。
それなのに彼女は私にお礼を言う。
「お礼を言われる資格なんてないよ。ごめんね、本当にごめん。言い訳だけど、傷つけるつもりはなかった。何としてでも、意地でも納得してもらいたかったんだ」
それが彼女のためだと思ったから。私が諦める理由になると思ったから。
ただ、私の気持ちはまだ納得できていない。
「でもね、正直今でも稀莉ちゃんに嫉妬している」
『空音』を演じられる、稀莉ちゃんを妬んでいる。真っ黒な気持ちを否定できない。私の一部が彼女の中で生きていく、なんて割り切った考えはできない。
「空音は私のもので、譲りたくない。気持ちは急に変わったりなんかしない」
「わかっているよ、私もそうだから」
「だからさ、正直どうしたらいいか、わからないんだ。気持ちの整理がつかない」
答えがわからない私に、彼女は優しく微笑む。
「いいのよ、そう言ってくれたら良かったの。わからないでいいの。二人で考えれば良かった。紙に書いたじゃない。何でも相談するって」
「あっ、そういえば誓約書があったね……」
ラジオイベント前に無理やり書かされたんだっけ。
「①困ったことがあったら、何でも話すこと。②悩みはすぐに相談すること。一人で抱えないこと。③嬉しいことがあったら、報告すること。④一人で解決しないこと。⑤誰よりも私を1番好きでいること」
「何で、暗唱できるの!?」
「当たり前よ。今回は①と②と④が契約書違反だから、覚悟しときなさい」
「冗談は置いといて」
「私は本気よ、奏絵」
目がマジだ、怖い。は、話を戻さないと。
「1番は私が『空音』にこだわらない、売れっ子声優になることだと思う。『空音』しかないから、『空音』しかなかったから私は彼女に縋り、執着しているんだと思う」
たくさんの代表作に、たくさんの役があれば、1つの役にこだわらなくて済む。役への思い入れが消えるわけではないけど、それでも執着はしなくなる。
「成功体験が少ないんだ、もういい歳なんだけどね」
「そんなことない。私だって奏絵の演じる『空音』に出会わなければ声優にならなかった」
「ありがと。でもね、今の私は『空音』だけじゃないと気づいたんだ。馬鹿だね、青森に来て、一人になって気づいた」
それはいつの間にか当たり前になっていて、その呼び方にも違和感がなくなり、私となっていたもの。
「私は、『よしおかん』でもあるんだ。ラジオのパーソナリティで、稀莉ちゃんの相方。たぶん『これっきりラジオ』がなかったら私は今回のこと耐えきれなかった」
よしおかんであるから救われた。私には『空音』を失っても、ラジオのパーソナリティがあった。1年も経っていないけど、私の自信の源。
「『空音』じゃなくなっても、私は『よしおかん』だから」
けど、それでもまだ弱い。
「私ね、考えたの」
「うん」
「受け入れる必要はないんじゃないかって。『空音』はどこまでいっても奏絵のものなの」
「私のもの……」
「空音は奏絵のもの。でも新作によって空音が私のものになってしまう」
決められたことは変えることができない。どうにもならない。
「それならね」
彼女は、自信満々に言い放つ。
「空音を演じる私ごと、奏絵のものにしちゃえばいいの」
「……ん?」
はい?何を言って、この子は?
「だから、私が奏絵のものに」
「ちょっと待って、頭の中整理するから、タンマ、ちょいタンマ」
空音は私のもの。けど空音が稀莉ちゃんのものになる。だから、稀莉ちゃんを私のものにする……?
「あれよ、A=B、B=C、だからA=C。奏絵も私で、私も奏絵なの」
奏絵=空音。空音=稀莉ちゃん。つまり、奏絵=稀莉ちゃんって。
「ちょ、超理論だー!?」
「三段論法よ」
「呼び方の問題じゃなくて!」
いやいや、考えがぶっ飛びすぎだろう。
「佐久間稀莉は奏絵のものになります。そしたら、私が演じる空音も奏絵のものになる!」
「いやいや、何言っているの!?」
屁理屈にもほどがある。
「で、答えは?奏絵のものにしてくれる?」
「ものって言い方はどうかと思う!」
「そういう問題じゃない!」
「で、ですよねー」
目をキラキラさせないでくれ。勢いで納得しそうな私がいる。待て待て、流されるな!可笑しいから!
私の中で新しい定義を生み出す。名づけてしまう。
それは引き伸ばした、告白の答えとなるもの。答えを出すことが、『空音』の問題は解決することになるのか。
それに、答えなんてとっくに出ている。彼女が青森まで来てくれて、その思いはより強まった。ただ言葉にしないだけ。言葉にできないだけ。
「稀莉ちゃん、こういうのはロマンチックに言うものだと思うの。少なくとも全裸で言うものじゃない」
「だからこそよ。何もかも曝け出しているの。今ここに隠すものなんて何もない」
なかなか脱衣所から出てこなかったくせに、口は達者だ。
そして、私はズルい。タイミングを読むし、こういうのは中途半端にしたくない。大切にしたいと思っているのだから。
「ごめんね、今は言葉にしない」
湯の中から立ち上がり、稀莉ちゃんの元に近づく。
「か、奏絵!?」
「だから、今はね」
大切にしたいといいながら、矛盾した行動。
彼女の顔に触れる。小さな顔は林檎のように真っ赤に染まっている。潤んだ目に私が写る。
さらに顔を近づけると、その目はキュッと閉じられた。
今は言えない。だから彼女が安心できるように、私は契約する。
心臓の音は早くなる。取り返しのつかないことかもしれない。でも、これぐらいは許してほしい。
彼女の少し湿った前髪をかき上げ、
熱くなったおでこにそっと口づけた。
時間にして一瞬。
けど、永遠にも感じられる時間だった。
彼女から離れる。
稀莉ちゃんは目をまん丸に大きく開け、何が起きたのか理解できていない様子だ。
「明日はせっかくだから青森をまわろうか」
でも、言葉はしっかりと返ってきた。
「……新婚旅行?」
「違うからねっ!」
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