第15章 アフターグロウ④

 家までどうやって帰ったのか、わからない。記憶がない。ただ無心で体が覚えている方向に動いていった。よく無事に帰れたものだ。

 部屋の電気もつけずに、ベッドの側に腰かけ、何もない空間をただただ眺めている。どれだけ時間が経過したのかも定かではない。

 夕飯は何も食べていない。体はエネルギーを求めているはずだが、動くことすら億劫だった。何もやる気が起きない。ため息すら出てこない。

 今の私は空っぽだった。


 仕事をしていればどうしようもないこともある。理不尽なこともある。めげることもある。

 でも、これはあまりにも残酷すぎではないか。

 よりにもよって、稀莉ちゃんが『空音』に抜擢。ラジオの相方が、私が演じていた役となる。キャストもスタッフも全部入れ替えなので仕方がない、とは割り切れない。1番身近な相手が、私に恋する彼女が、私に憧れた彼女が、『私』を奪う。


 客観的に考えれば、佐久間稀莉が『空音』になることは、完璧な選択だ。

 今をときめく売れっ子声優の佐久間稀莉。まだ10代の高校生と若いが、実力は申し分なく、可愛い容姿はイベントでの集客力を高める。歌唱力は高く、何より演技の声が良い。良く通る爽やかな声は、主人公にピッタリだろう。癖も強くなく、感情の入った演技も抜群に上手い。

 そして彼女が『空飛びの少女』の大ファンであるという事実。さらに今までは隠されていた、彼女が声優になった理由。イベントで明かされた、『空音』を演じた吉岡奏絵に憧れて声優になったというエピソード。

 そんな昔の『空音』とラジオの相方として共演しているという現実。新旧交代、憧れの人とのバトンタッチ。

 あまりにもできすぎた境遇だ。新しい『空音』が、稀莉ちゃん以外考えられないほどに、彼女はうってつけの存在である。


 ……私の気持ちを考えなければ。


 そう、私の気持ちなど、ちっぽけな1人の声優の自尊心すら気にしなければいいのだ。そうすれば万事解決。全ては丸く収まる。

 けれども、相手方の事務所も「さすがにそれは……」と思ったのだろう。だから、私を哀れみ、私に情をかけ、そして無情な提案をしてきたのだ。



× × ×

 「空音の役は、佐久間稀莉だ」と聞かされ、言葉を失った。ただ社長が「すまない」と言葉を繰り返す。

 ようやく絞り出てきた言葉は、1つの質問。


「……稀莉ちゃんは、知っているんですか」

「まだ知らない」


 ほんの少し、ほんの僅かだが安心する。空音を自分がやると知っていて、空飛びの少女の話を私に振っていたとしたら、私は立ち直ることができなかっただろう。少なくともそれだけは良かった。稀莉ちゃんに悪意はなかった。唯一の救い。


「けれどもキャスト発表は11月中旬を予定している」


 もうカレンダーは11月になる。稀莉ちゃんに黙っていられるのも、あと2週間近くしかないのだ。2週間もすれば世間が騒ぎ、稀莉ちゃんは嫌でも知ることになる。

 その時、彼女はどんな反応をするのか。今まで通りの私たちでいられるのか。「これっきりラジオ」を続けていくことは可能だろうか。いや、もうラジオの収録などできないだろう。稀莉ちゃんも前もって知る必要がある。知って、「私」じゃなく、「自分」だと理解しなくては今後「これっきりラジオ」を続けていくことなどできない。

 問題は、誰が伝えるかということだ。


「吉岡さん、君は今誰よりも辛い思いをしている。それなのに私はもっと君を苦しめることを言ってしまう。相手の事務所からのお願いで、君に伝えて欲しいと私は言われているんだ」


 私が、稀莉ちゃんに、稀莉ちゃんが『空音』に選ばれたと、伝える。


「理由はこうだ。事務所の人間が佐久間さんに伝えてもなかなか納得してくれないだろう。いや、むしろ反抗されると思っている。事務所としても、佐久間さんに抵抗されるのは困るのだ。決まった役を降りられるのを恐れている。最悪、声優を辞める選択をするかもしれない。だから、君を利用する。吉岡さんが言うのが、1番素直に聞き、納得すると思っている」

 

 私が言えば、稀莉ちゃんは納得する。本当に納得するのだろうか。


「私個人の意見としては、相手方の提案を断りたいと思っている。あまりに吉岡さんにとって残酷だ。君の気持ちを考えなさ過ぎている。ふざけた提案だ。でも、君たちはこれからも一緒にいなければいけない。ラジオは続くんだ。ラジオ番組のことを考えると、誰かに言われるより、君が伝えるのが1番いいのかもしれない。そう思う私もいる」


 これっきりラジオは続く。たとえ誰か違う人が、稀莉ちゃんに役のことを伝えたとしても、いずれ私と稀莉ちゃんとで話す機会を設ける必要があるだろう。

 早いか、遅いかの話。

 それなら、

 それならば、


「あくまで選択、選択としてだ。駄目なら断ってくれ。吉岡さんがどうしたいか、今答えなくてもいい。時間は少しだがまだある」


 下手したら、ラジオの打ち切りもあり得る。これっきりラジオの終わりは私は望んでいない。私一人が大人になればいい。気持ちを飲み込めばいい。


「社長、私が言います」

× × ×


 

 外から光が射し込み、目が痛い。

 もう朝だ。朝までただずっと座り込んでいたのか、私は。

 このまま光を浴びると体が消滅してしまいそうだ。重い腰を上げ、洗面所に向かう。

 ひどい顔だ。鏡の向こうには、死んだような顔をした私がいた。いや、「私」は死んだのだ。私であった『空音』は、私の隣の女の子に受け渡される。私は不必要となるのだ。私は失われる。


「何で引き受けたんだろうか」


 それは一つのけじめなのか。心残りなのか。未練なのか。

 私たちはこれからも「これっきりラジオ」を続けていかなければいけないのだ。私が言うことが最善なのだ。そう、自分に必死に言い聞かせる。

 何度、顔を水で洗ってもさっぱりなどしなかった。


 光が射しこむ部屋に戻る。あまりに眩しすぎて、私は布団を被った。

 再び闇の中に戻ってきた。


「ぁぁぁぁあぁああぁあっぁ」


 虚しい嗚咽が布団の中でかき消された。

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