第5章 また今日もジングルが流れる

第5章 また今日もジングルが流れる①

 何が正解かなんてわからない。

 今の演技が正しかったのか、間違っているのか。音響監督さんが頷いても、必ずしも成功とは限らない。その頷きはしぶしぶ頷いただけの諦めかもしれない。


 自分が納得できる演技ができればいい。

 そう言う大御所さんもいるが、自分で「上手くいった」と思っても、すぐに不安になり、自信は疑心に代わり、迷路に入り込む。いざ放送を見て、全国に流れても本当に合っていたのかはわからず、完全に納得できることなどない。

 常に不安に脅かされ、心配に磔にされる。

 それでも、正しいと思うしかない。人の言葉を信じるしかない。私の中の何かを信じてあげるしかない。そうやって騙し騙し、演技していくしかない。


 ただ正しくないことはすぐにわかる。わかってしまう。

 間違いは、妥協は、驕りは、失敗として目の前に現れ、私を攻撃する。

 ―そう、昨日の私は間違っていたのだ。

 



「ごほごほ」


 即落ち2コマである。

 朝起きたら鼻水ずるずるで、咳が止まらない。頭がぼーっとするし、おそらく熱もあるだろう。

 風邪を引いた。

 原因はわかりきっている。昨日のラジオゲスト出演の後、雨に濡れて帰ったことだろう。しかも家に着いたら疲れていたのか、濡れたままの服で床に寝ていた。最悪の対応にも程がある。

 声優において喉のケアは美容よりも重要なことだ。声が出せない声優など意味がない。商売道具をないがしろにしてはいけないのだ。健康でいることは、プロとして当然のことだった。

 それなのに、風邪をひいてしまった。

 でも今日はこれっきりラジオの収録の日だ。家でのんびり寝ているわけにはいかない。

 ともかく着替えなくちゃ。さすがにパジャマ姿のまま収録に行けない。

 あーだるい。家で寝ていたい。

 首を横に振って、頭から「逃げ」の考えを追っ払う。

 それは駄目だ、駄目。仕事に行かなきゃ。


「あえいうえお」


 声もがらがらだ。のど飴を舐めれば少しはマシになるだろうか。

 化粧も簡単に、私は家を飛び出した。

 今日は暑い日なのか、マスクをしているからか、それとも熱があるからか、汗が止まらず、タオルで何度も拭った。



「はあはあ」


 普段の倍以上の時間をかけ、なんとか収録現場に辿り着いた。


「おはよぅございまず……」


 ドアを開け、中に入ると私を見た女性スタッフが「大丈夫ですか?」と心配そうな声で話しかけてくる。


「だ、大丈夫です、げほっ」


 咳き込む私の辛そうな姿にスタッフは顔を曇らせる。

 どうみても大丈夫じゃなかった。

 歩けば歩くほど、熱が上がるのを感じ、ここに来るまでがやっとで、何度も引き返そうと思った。


「仕事なんで、私の仕事なんで」


 か細い声で私は自分を奮い立たせる。

 正直立っているのもしんどい。立っているだけで精一杯だった。


「あんた、大丈夫?」


 稀莉ちゃんが側にいるのも気づかなかった。


「はは、大丈夫だよ、稀莉ちゃん」


 そういった傍からよろけ、壁にもたれる。


「奏絵!」


 稀莉ちゃんが私の名前を叫ぶ。


「ごめん、ちょっとふらっときちゃって。もう大丈夫、大丈夫だから打ち合わせ始めましょう」


 強がる私の言葉は即座に否定された。


「吉岡君、今日はもう帰ってくれ」

 

 重い頭を声のした方に向ける。植島さんが厳しい顔で私を見ていた。


「できます、私できますから、やらせてください、げほげほ」


 何の説得力もない強がり。

 植島さんの表情が厳しい顔から、呆れた顔に変わった。

 そして、当然のように言葉は投げられる。


「厳しいこというようだけど、迷惑なんだよ」

「迷惑……」

 

 言葉が突き刺さる。


「ああ、迷惑だ。他の人に風邪が移るかもしれない。咳がマイクに入ったらその都度、編集しなくてはいけない。とてもじゃないが君の調子を見ながら、ストップさせてなどできない。倍以上の時間がかかる。君のために尽くせとスタッフに言うことなどできない」


 わかっている。ワタシがワルイのだ。

 それでも私は食い下がる。


「だって、私にはこれしか、このラジオしかないんです……」


 稀莉ちゃんが心配そうに私を見る。


「残念だよ、吉岡君」


 植島さんは言葉を止めなかった。


「プロ失格だよ」


 その言葉に、その一言に頭が真っ白になる。

 しばし沈黙が流れるも、私は必死に懇願する。


「そんな、お願い、お願いしますから……」


 植島さんにしがみつき、訴えるも彼は表情一つ変えない。

 ああ、終わりだ。

 そして、手から力が抜けた。

 景色が揺れる。


 どさっ。


 世界が回転する。


「……」


 気づいたら床に寝ていた。

 床が冷たい。

 私の名前を必死に呼ぶ稀莉ちゃんの声が聞こえたが、意識はフェードアウトしていった。


 ぷつん。


 そして、完全に意識を失った。

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