第21話 できるわけないでしょ

 それからまた時が経った。


 梨子は二年ほど大阪に転勤し、その間はほとんど水無月と顔を合わせることがなかった。

 仕事の上で仲良くなった他社の男に口説かれたこともあったが、何度か食事に行ったくらいで、その先へ進む気は起きなかった。


「河島さん、好きな人おるやろ?」


 割と女慣れした様子の営業マンは、嫌みのない口調で言った。


「さあ、どうかな」

「男が苦手ってわけでもないのに、全然なびかんもんなー。決めた人がいる、って顔しとるわ。俺、あんまり長続きせんから……君みたいなひとに好きになってもらえたら、変われるかもしれんって思ったんやけどなあ。一途に愛されるってどんな感じなんか、知りたかったわ」

「残念だけど、私もそんなん知らないから」


 梨子は酒を吸って滑らかになった舌をすべらせる。


「そのひとはねえ、いい歳こいて小学生みたいなひとなの。

 だけど、現実を見てないとかつらい目に遭ったことがないとかじゃなくて……いくら叩き付けられても、戦うことをやめようとしない。

 だからね、私の恋は、絶対に成就しない」

「どういうこと?」

「だって、私なんかで妥協したら、がっかりしちゃうじゃない?

 私のことを好きになっちゃう水無月君なんて、私は、好きじゃない」

「だったら俺にしとけば」

「ごめんね。

 私も、妥協したくないんだ。

 矛盾してると思うでしょ? 私もそう思う。

 けどね、勇気はないけど、戦う強さも足りないけど、隣にいられるくらいの、私でいたい」


 解らんなあ、と言って男は笑っていた。






 また東京に戻ってきた梨子に、水無月は泣いてすがりついた。


「聞いてくれええ、ナシコぉおお!」


 ジョッキで豪快に酒を入れつつ二年間の失恋ダイジェストを、息をつく間もなく披露し続けた。


 振られ続けてようやく恋人ができた、と思ったのに五股だったんだ、という話を聞いたとき、さすがに胸が締め付けられるような思いになったが、敢えて


「水無月君、物語作るの上手くなったねえ」


 と笑い飛ばした。

 水無月は


「作ってねえし!」


 と憤り、しかし叫ぶごとにすっきりした表情に変わっていった。



 再会したその日、一緒に朝を迎えた。

 最終的にどこでなにを飲んでいたのか定かではないが、ふたりとも財布の中には缶ジュースを買う程度の小銭しか残っておらず、路上の自販機横に背中合わせで倒れていた。


 先に目を開けた梨子は水無月の頬を叩き、


「おーい、起きないと舌入れてキスしちゃうぞー」


 と揺すった。



 水無月のスーツは吐瀉物にまみれて異様な臭いを放っていたが、そういえば吐いたのは自分だ、と思い出し、心の中で申し訳ないと手を合わせる。


 残った小銭で缶コーヒーとコーンスープを買って、朝日を浴びながらふたりで半分ずつ飲んだ。


「今日、何曜日だ?」

「……火曜日じゃない?」


 ふたりで同時に、絶望のため息をついた。

 もうそのときには、以前と全く変わらない距離感を取り戻していた。



 隣に住んでいたころより共有する時間は短くなったが、一緒にいるときはたとえそれがひと月ぶりだったとしても、昨日も一昨日も会っていたかのような感覚になった。


 水無月が誰かを好きになっているときだけ、相談のため会う頻度が多くなるのは考えものだ、と梨子は思っていたが、拒む理由はなかった。



 上城梓を好きになったと聞いたときも、いつもと同じだろうとたかをくくっていた。

 彼女は辞めてしまうし、どうせ相手にされることはないと。


 しかし紆余曲折の末、水無月は会社まで辞め、上城梓を追って行ってしまった。






 それがもう、半年以上前のことだ。


 この間、水無月からは断片的な連絡しかなかった。

 パソコン教室を始めたとか隣のじいさんに飯をたかられるとか、時々業務報告のように短いメッセージが届くだけだった。



 頑張ってるのかな。

 私は、頑張ってるよ。水無月君。



 姿を思い出す度に、自然と笑みが浮かぶ。


 寂しくないと言えば嘘になる。

 これから水無月がどうなるのか、気にならないわけじゃない。


 しかし梨子は、自分の立場をわきまえていた。

 そしてそれを、かけがえのないものだと心底大事に思っていた。

 水無月もきっと、その点では同じ思いでいてくれると信じていた。


「ナシコ」


 しかしその日唐突にインターホンの向こうに現れた水無月は、様子が違っていた。


 どんな酷い失恋をした日でも見たことがないようなこわばった目で、追い詰められたように無理矢理笑っていた。


「連絡してくれればよかったのに」

「あ……そうだよな。ごめん、スマホ使う習慣がなくなっちゃって。村では使えないから」


 部屋に入った水無月は所在なさげに立ちっぱなしだった。

 まるで友達を作れずクラスで浮いている少年のように、目線すら定まらない。



 それでも、アルコールを注ぐと言葉は流れ出した。


 この数ヶ月で起きた日常の話、ニュースの話題、見て面白かったドラマや映画の話、仕事の話……話題には困らなかった。お互いとめどなく溢れてきた。


 だけど以前そうだったような、空白の時間を埋めるものではなかった。

 なにかを覆い隠すように、白々しい言葉たちであることに梨子は気付いていた。



 不意に声が途切れ、水無月は黙り込んだ。

 視線は、見ていていたたまれなくなるほど落ちていた。


「どうしたの?」


 梨子の問いかけに水無月は俯いたまま


「帰れなくなった。もう、交通手段がない」


 と押し殺した声で言った。

 壁の時計を見ると、まだ八時半を回るころだった。


「あらま。明日は朝早いの?」


 水無月は首を左右に振る。


「そっか。なんなら泊まってく? ベッドはひとつしかないけど」


 言ってから、梨子は慌てて掌を身体の前に掲げて振る。


「あ、いや、違うよ!? 床に寝てって意味だからね?」


 水無月が立ち上がる。


 体重を億劫に感じているような動作で、誰かに操られているようでもあった。

 梨子が口を開けて見上げると、ゆっくりと近くまで来て、膝を折った。



 おもむろに、床についている梨子の手の上に、手のひらが乗る。



「えっと……」


 眉根を寄せ、至近距離に小さな声を向ける。


「手、当たってるけど?」

「重い?」

「体重はかかってないよね」

「重いなら、振りほどいてくれ」


 水無月の声は、まるで今にも泣き出しそうだった。

 梨子は気付かないふりをして言う。


「ふざけてんの?」

「本当に。嫌なら振りほどいてほしいんだ。早く」


 水無月君、と顔を覗き込もうとした瞬間、水無月は両腕で覆うように梨子を抱き抱えた。


 力は込められていない。突き飛ばせばすぐにほどけるだろう。


「解ってるよ、ナシコ」


 耳元で、形を失う寸前のかすれた声がする。


「俺は甘え過ぎだ。付け入って、負担させて、狡い、最低の男だ」


 だから迷惑なら突き放してほしいんだ。


 絞り出された、その、濡れた声に、梨子の身体が動く。

 首に回された腕に指先で触れて、体温を噛み締めるように目を閉じた。


「迷惑なわけないでしょ」


 自分でも驚くほど穏やかな声だった。


「一度も思ったことない」


 薄く目を開ける。


 それから、両腕を伸ばして水無月の頭を引き寄せ、出せる限りの力を込めた。

 感じる鼓動は、大きく、不安定だった。


「私は、勝てる勝負しかしてこなかった。

 どんなに言葉を取り繕ったって、この状況は、それだけのことだよ。

 だから私にとって、君は憧れだ。

 勝ち目を考えず、突進して敗北しても、結局はまたぶつかることをやめない。

 私はそんな、現実に打ちのめされず、しつこく何度でも理想に手を伸ばす君が大好きだ」


「ナシコ」

「けど、もし」


 梨子は声に硬質な色を混ぜる。


「楽なほうに流されてここに来たなら、私は君を嫌いになる。軽蔑して見限るよ」


 肩を持って押し返し、両目を真っ直ぐ睨み付けた。



「そんなことはないよね?」



 長い間、見つめ合った。


 出会ってからこれまでの会話を全て反芻するようなひとときだった。



 水無月の目は見開かれ、すがるような色からなにかに気付いたような色に変わり、一歩一歩踏みしめるように、手探りで確かめるように瞼からは余計な力が抜けていった。


 やがて黒目が落ち着きを取り戻し、光が射し込む。

 諦めたように口元だけで笑い、うなだれた。


「嫌ってくれ」


 唇から漏れた声は、今日出たどの言葉より芯のある響きだった。


「軽蔑して、見限ってくれ、ナシコ。俺はお前の信頼を裏切っ」


 水無月が言い終える前に梨子は立ち上がる。胸板目がけて前蹴りを放つ。

 まともに喰らって仰向けに倒れ込んだ身体を追う。

 覆い被さって胸ぐらを締め上げる。


 充血した目を隠さずむしろ見開いて全力で、叫ぶ。



「できるわけないでしょ、馬鹿!!」



 溢れる涙をこぼれるままにして、梨子は切り裂いたばかりの傷口のように鮮烈な怒りを叩き付けた。

 水無月は遠慮のない嗚咽を漏らして、その口が何度も言う。



 ありがとう。

 ありがとう、ナシコ。



 親とはぐれた子どものような大声になって、ふたりはその夜、声が枯れるまで泣きじゃくった。

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