第20話 勇者水無月と恋するナシコ

 二十代後半戦の始まった女として、そのころ梨子の友人はこぞって婚活に傾倒していた。

 二十代のうちに結婚するんだと、どこまで本気か解らないがよく合コンをしていた。


 梨子は結婚、特に恋愛の先にある結婚ではない、結婚のための結婚に興味がなく、また自分の実年齢と精神に乖離があると感じてもいたので、友人たちのように婚活に走ることはなかった。


 しかし付き合いで合コンの数合わせに参加することはしばしばあり、そこで梨子はひとりの男に出会った。


 名前も顔も声も思い出したくないその男はとても紳士的な物腰で、顔も悪くなかった。


「地顔が笑ってるみたいだとよく言われます」


 と自己紹介した男とは、合コン中


「こういう会が実は苦手で」


 という話で密かに盛り上がった。



 そうは言っても梨子のほうは恋人を作る気もなかったのですぐに男の存在も忘れた。

 数週間後に男からメールが届いて


「ああ、あのときの」


 と思い出すのに苦労したくらいだ。


 メアド交換したっけ?

 とは思ったが、他愛もない内容だったので気にしなかった。



 それから数日後、男から今度は電話がかかってきて、さらにその数日後、ポストに手紙が届いたあたりで背中に鳥肌が立った。


 メールも電話も手紙も大した内容があるものではなかったが、それがかえって気味悪く、いつも見張られているようなストレスに見舞われた。

 夜道を歩いていても、不意に男があの電信柱の陰から飛び出すんじゃないかと想像しては動悸が激しくなった。


 そんな日々が何週間も続き、水無月と飲んだある夜、前触れなく涙がこぼれてきて、ああ私は相当やられてるんだな、と思った。


 いつも自分の心の動きに鈍く、気付かせてくれるのは水無月だった。






 水無月に相談し、極力一緒に帰るようにした。

 梨子のほうが遅いときには


「俺だってどうせいくらでもやる仕事あるし」


 と言って、一時間でも二時間でも待ってくれた。


 家に着いたときにポストをチェックしてくれたし、男からの手紙があるときはその事実を告げず、水無月が持ち帰って処分してくれた。

 メールと電話は着信拒否し、一旦は表面上解決したかに見えた。


 私、甘えてるなあ、と自覚していたが、水無月にならいいんじゃないかとも思った。


 ある日、いつものようにポストをチェックした水無月から郵便物を受け取り


「じゃあね、ありがとね」


 と手を振って家のドアを開けた。

 廊下を通って部屋に入り、電気のスイッチを入れた。



 そこに男がいた。



 無表情な笑顔で、ベッドに腰掛けていた。


「やあ、おかえり」


 久しぶりだね、と言って口の両端を吊り上げた。


 とっさに悲鳴でも上げられればよかったのだろうが、心臓が止まりそうなほど身体が硬直してかすれ声すら出なかった。

 足も金縛りに遭ったように動かない。


 なんで?

 どうして?


 男が立ち上がり、一歩一歩スローモーションのような速度で近付いてくる。



 水無月君、助けて。



 男は動けない梨子の頬に右手を当てて、慈しむように撫でた。

 瞳はうっとりとしていて、焦点が合っていない。


「転勤することになったんだ」


 と男は言った。


「残念だけど、会社には逆らえない。サラリーマンだからね」


 なにか可笑しいことを言った、というように肩を震わせ、くっく、と忍び声を漏らす。


「君は僕を、ストーカーかなにかと勘違いしていただろうから、誤解を解きに来たんだ」


 誤解? と唇で問うがやはり声は出ない。


「僕は君を本当に愛している。君を苦しめる者がいれば僕は全力でそいつと戦うだろう」


 頬に添えられた手には左手も加わり、美術品を扱うような手つきで包み込まれた。

 手の甲まで鳥肌がほどばしるのが解った。


「今回も、君が望むなら一緒に行こう。行き先はデトロイトだ。僕の力をどうしても必要としていて、行かなきゃならない。さあ、決めてくれ。僕のものになるかい?」


 答えられなかった。

 断ればなにをされるか解らなかったし、一時的にでも今肯定したらやっぱりなにをされるか考えたくもなかった。


 そもそも声が出ない。

 触られるがままに目を細めてかろうじて顔を歪めると、男は不意に溜息をついた。


「やっぱりね」


 三流のドラマ俳優のような訳知り顔で首を振る。


「君はあの男を選ぶんだ。あんな男のどこがいいんだ、と言いたいところだけど、恋はそういうものじゃない、ということは僕が一番解っている。認めようじゃないか。祝福するよ。繰り返すけど、僕はストーカーじゃないんだ。君を愛するあまり思い詰めた哀れな男さ。遠く離れた国、それでも繋がっているこの青空の下で、君の幸せを心から願ってやまない。願わくば、そんな男がいたことだけは時々思い出してやってくれ」


 劇的に言い終えると男は手を放し、裏表がないように見える極上の笑みを残して去って行った。

 あまりのあっけなさにしばらく危険が去ったことを認識できず、長い時間の後ようやく腰が抜け、涙が出てきた。


 触れられた頬の感触が蘇り、嗚咽が漏れる。

 わけが解らなくなって元栓が壊れた蛇口のように、出したこともないような大声になった。


 ドアを叩く音がしたのはすぐのことだ。

 男が戻ってきたのかと思い、喉が引きつった。


「ナシコ!」


 だが入ってきたのは間違いなく水無月で、顔を見た瞬間抜けていたはずの腰が座り、タックルをかますようにしがみつく。


「みな、みなづきくん」


 言葉にならないまま泣く梨子の背を、水無月は大分長い時間撫で続けてくれていた。


 落ち着いて話ができるようになるころには、部屋から男の気配は完全に消えていた。



 翌日水無月の家のポストに、男からの手紙が入っていたと教えられた。

 彼女を頼む、というようなことが便せん二十枚にわたり延々書かれていたという。


「読む?」


 と言われたがもちろん辞退した。



 これで本当に脅威は去ったかのように思えたが、梨子はその後も男の影に苦しめられた。


 夜道をひとりで歩くことは相変わらずはばかられたし、家にいてもどこか気が休まらない。

 男が家にどうやって侵入したかは謎のままであり、部屋の扉を開けたら、朝目覚めたら、男がそこにいるんじゃないかと思ってしまう。

 眠っていてもうなされて起きることがしばしばあった。


「引っ越すわ、私」


 これ以上精神が蝕まれる前に……と考え、梨子は結論を出した。


「そっか」


 残念だけどしょうがないね、という顔で水無月は笑った。


「ねえ、ひとつ訊いてもいい?」

「うん?」

「これはね、真面目に答えてほしいの。

 茶化したり、誤魔化したりしないで。

 たとえそれで私が傷付くとしても、オブラートに包んだりしないで真っ直ぐ、教えてほしいの。

 約束してくれる?」

「内容によるよ」

「約束、して」

「…………解った」

「私のこと……」


 詰め寄ったくせに次の一言を、梨子は躊躇った。

 そして言おうとしていた言葉とは微妙に違う台詞を口にする。


「どうして私に優しくしてくれるの?」

「え、俺優しい?」

「優しいよ」

「んー……仲間、だから?」


 水無月の即答に、意図が伝わっていないと思って重ねる。


「仲間って言っても、ただの会社の同期だよ。ストーカーに付きまとわれる女の世話を焼くなんて面倒でしょ? 危険な目に遭う可能性だってあった。なのにどうして?」


 問いに対して水無月は随分長い時間、無言で梨子の顔を見た。

 意図を掴みかねているようでもあったし、真剣に言葉を選んでいるようでもあった。

 やがて口にした台詞は、梨子の想像を超えていた。


「俺は勇者になりたいんだ」


 聞いたことがないほど、真面目な声だった。


「…………は?」

「今回特に危険とか面倒とか考えてなかったけど、そもそもそういうものに自分の行動が制限されることを俺は恐れる。

 相手の強さによって出したり引っ込めたりするのは本当の勇気じゃなぁぁい。バイまぞっほ、の師匠」

「はあ……?」

「例えば少年漫画のヒーローが、立ちはだかる脅威を前に危険だからやめとこう、って逃げるか?

 それじゃ物語にならない。

 動けなくなるくらいなら、危険なんて認識していないほうがいい。

 仮にいつここではない異世界から召喚されて選ばれし勇者として戦えと言われても、ためらわず戦える自分でいたいんだ」

「はあ」

「俺の言ってること、解る?」


 遠慮なく首を横に振る。


「全然解らん」

「いや、だから……」

「あ、うん。大丈夫。もういいです」


 手を挙げて目を逸らす。


「引くな! ナシコが真っ直ぐ答えろって約束させたんじゃないか。約束がなかったら俺だってこんなこと人に言わないよ。ああもう、絶対誰にも言うなよ?」


 顔を赤くして口元を歪める水無月を見て、はっきりと解った。



 そうか。

 この人は、頭がおかしいんだ。



 同時に笑う。

 にやけて、目とか口がこぼれ落ちてしまいそうなほど崩れる。


 喉の奥から湧き出た声が漏れ、明らかな音になり、腹を抱えて爆発するまでほんの数秒だった。


「笑うな!」


 水無月はとうとうそっぽを向いてしまった。


「ごめんごめん、でも真面目にドン引きよりいいでしょ?

 私、水無月君のそーいうとこ、好きだわー」


 ありがとね、と少し背伸びして頭をぐしゃぐしゃに撫でたら、頬をつねられた。


「一杯おごれよ」

「プレモル二十四缶でいい?」


 いいよ、と言いかけたのを止め、水無月は口の片端を上げた。


「その倍にしてよ。誰かさんが、半分飲んじゃうだろうから」


 オッケー、と、つねられた頬のまま梨子はいちだんと笑い皺を深めた。

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