第19話 ナシコ、裸で水無月に抱き付く
東京には冬がない。
故郷の金澤から出てきた最初の年、梨子はそう思った。
北陸の冬と言えば濁った色の空が十二月から三月半ばまで延々と続き、少しでも陽が射そうものなら梨子の父親なんかは「快晴や、快晴や」とはしゃぎ回る。
常に雪が降るわけではないものの、いつ降ってもおかしくないという緊張感とは隣り合わせで、東京人の多くが標準装備する「雪が降った!」と騒ぐ精神は持ち合わせていない。
陽が出ない分体感温度は実際の気温より低く、特に朝晩は寒さで寝られなかったり、逆に目が覚めたりする。
そのくせ外を歩く人のダウンジャケット、ダウンコート率は非常に低い。
寒くないわけではなく、持っていないわけでもない。
「今これを着てしまったら、さらなる厳冬が訪れたときどうするのだ」
という危機感から、ひとつ薄めのアウターを身に付ける。
学生時代からその精神は顕著で、彼ら彼女らの多くは学生服の上にコートを着ることすらしない。
それに比べ東京はいつから冬になったか、いつまでが冬なのか判然としない。
年末になっても銀杏の枝に色付いた葉が残っているし、雲ひとつない本当の快晴が何日も続く。
今日は特に暖かいな、と思った日でもダウンを着ている人は多く、学生も当たり前のようにコートを着る。
金澤では三月半ば、年によっては三月末まで頑なに咲かない梅も、東京では一月に開花、二月に見頃となるところもある。
そんな風に甘ったれた冬だから、一センチ雪が積もっただけで交通麻痺に追い込まれるのだと、初めのころは本気で思った。
その、四季の感覚がすっかり狂わされていたころにはもう、水無月と一緒だった。
始まりは四月一日。
ひとり暮らしのため借りた部屋はまだ段ボールが山積みで、前日までは妹が手伝いに来ていたのでまだ引っ越したという実感はなかった。
入社式だというのに、その日に限って目覚ましをセットするのを忘れ、ほとんど絶望的な時間に起きた。
髪をとかすのもそこそこにすっぴんでドアを開けると、ほぼ同じタイミングで隣の家の人も鍵を閉める動作をしていた。
ばたばたしていたのでまだ挨拶にも伺っておらず、身なりも状況も適切ではない、おまけに不意打ち、ということで思い切り狼狽したが、相手も急いでいるようで梨子に気付いていないかのように走り出す。
梨子も、時間がやばいことを思い出して後を追う格好になった。
しかしその隣人が同じ駅で同じ電車の同じ車両に乗り、同じ駅で乗り換えて同じ駅で降り、さらにまた走り出した方角が同じだったあたりで
「なんか……凄い偶然」
と思った。
そして同じビルに入って同じエレベータに乗った段階でさすがに気付く。
偶然だったのは行き先が同じだったことではなく、むしろ家が同じアパートだったことだと。
それが水無月だった。
流れからなんとなく、用事があるとき以外は一緒に帰るようになった。
行きも、寝坊癖のある水無月が
「起こし合おう、互いのために」
と図々しく言い放ち、悪い予感どおりほぼ毎朝梨子が起こす羽目になった。
帰り際に食事を共にすることも多く、やがてその場所は居酒屋になっていった。
仕事の愚痴も、将来の夢も、テレビや雑誌の感想も、他愛もない八つ当たりも、真剣な悩み相談も、全てあのころ、水無月が相手だった。
実家が東京都内かつ、まともに家事ができないくせに
「自立したいし、やっぱ社会人なら都心に住まなきゃ」
というよく解らない理由でひとり暮らしを始めた水無月は、最初全自動洗濯機の使い方すらよく解っていなかった。
あらゆる局面で世話を焼いているうちに遠慮の壁は跡形もなく瓦解し、一年が過ぎるころには相手の趣味と口癖までを把握し合う距離感になっていた。
水無月の距離の取り方は厚かましかったが男を感じさせるものではなく、むしろ誰々が好きになった、と子どものように目を輝かせては玉砕する姿を見て
「こいついつか悪い女に引っかかりそう」
と思った。
仕事はできるという周囲の評判なのに、恋愛にはまるで向いていなかった。
今思い返すと当時、新しい土地で生活を始めたのに淋しいとは思った記憶がない。
呆れながら、振り回されながら気が付けば慣れていた。
さすがに数年も経つとお互いに仕事が忙しくなり、帰る時間もばらばらで、食事もひとりのほうが多くなった。
しかし通勤は概ね一緒だったし、一ヶ月に何度かは居酒屋に行った。
そのうち一回は休日昼間から夜中まで飲むコースで、
「ナシコこんなとこで昼から飲んでっから彼氏ができないんだよ」
「水無月君こそそろそろ連敗にストップかけたら?」
という会話を何度したか解らない。
関係に少し変化があったのは四年が過ぎたころだ。
新人と呼ばれた時期はとうに過ぎ、お互いがお互いの部署で主力のひとりに位置付けられるようになっていた。
ボリュームのある仕事を片付けながら新しい技能を身に付け、後輩の指導も必要になる時期。
結果として強制されるわけでもなく残業は多くなり、終電の吊革に全体重を預け、立ったまま眠るというスキルを発揮するシーンも多かった。
ある朝、目を覚ますと眼前に水無月の顔があった。
正確に言うと、うつ伏せになっている梨子の下にいた。
驚きでしばし硬直している間、さらにもうひとつ気付いた。
素肌に布が触れる感触と床暖房のような温かさ。
「ど」
と思わず声が漏れた。
どうして私、裸で水無月君にしがみついてるの?
水無月が不意にまぶたを開いた。
至近距離で目が合って、自分の顔から火が出るのを感じた。
「なな、なんで水無月君が私の部屋に!?」
毛布で身体を隠しながら部屋の壁まで後ずさる。
水無月は目をこすりながら
「いないよ」
と言った。
「おるし!」
思わず地元の言葉が出た。
水無月はマイペースのまま
「ナシコがいるんだよ」
とあくびをした。
水無月は服を着ていた。
十秒ほど部屋を見渡して、ようやく気付いた。
そこが水無月の部屋であることに。
「な……なにもしてないでしょうね!」
「なんかしてもよかったのかよ」
「そんなの訊かないでよ!」
朝から必要以上の声量で八つ当たり気味に叫んだ。
つまり疲労と寝不足で意識が朦朧とする中、梨子は間違えて隣の家、水無月の部屋に入り、ろくに周囲も見ないままベッドに直行、気絶するように倒れ込んだ、という結論に至った。
実は水無月も既に同じ理由で服のままベッドに倒れ込んでいた。
「泥棒か? そういえば鍵閉めるの忘れたな、と思ったけど、半分寝てて起き上がれなかった。倒れてきたのがお前だったから『なんだ、ナシコか』と思ってそのまま寝たんだよ」
というのが説明だった。
梨子が服を脱いだのは、そのまま寝ると服が皺になるのと、素肌で寝る方が気持ちいいからという理由で、普段から無意識に脱ぐ癖が付いているからだと自覚していた。
「疲れてるからって鍵くらい閉めろよ。私が泥棒だったらどうすんの」
「疲れてるからって他人の家に入って裸で抱き付くなよ。俺が発情したらどうすんだ」
互いにもっともで言い返せず、以後反省、ということでお開きになった。
しかしその後ことあるごとに水無月はこのことをネタにした。
人前で言うことはなかったが、ふたりで飲んでいると
「一夜を共にした男に、冷たいじゃないか」
などとおどけるようになった。
そういうからかいを通じ、梨子は自分の心境にびっくりしていた。
なんで私、ちょっとがっかりしてるの?
ベッドの上で裸の女に抱き付かれても全く欲情しなかったことにか、その後気まずくなることもなくあっけらかんとネタにしてくることにか、とにかく水無月の態度にショックを受けている自分に気付いた。
女として見られてないんだ、ということに
「いいことじゃないか」
とひとり呟いてみたものの違和感があった。
その違和感は、ほどなくしてさらに形を変える。
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