第9話 誰かの埋め合わせじゃないなら

 陽が傾く。

 あるいは、上っていく。


 あるときはオレンジで、あるときはピンク。

 同じピンクでも和やかな薄紅の日もあれば、恐ろしいほど鮮烈なパッションピンクの日もあった。


 もちろん曇っていれば青や灰色だが、僅かずつでも空の色は変わり続けている。

 昼の終わりと朝の始まり、もしくは夜の始まりと夜の終わり。

 その時間帯が、水無月は一番気に入っていた。


 日常でありながらこんなにも劇的な変化を、毎日欠かさず見ている人は多くないんじゃないか、とこのごろ考える。

 それは実はとてももったいないことで、一流の舞台の前を素通りするような行為だとすら思う。


 しかし少し前までは自分もそうだった。

 コンクリートの中にいると、コンクリートに夕焼けの当たる美しさには気付かない。


 水無月が会社へ行かなくなってから、もう何日経ったのか解らないくらいの時間が過ぎていた。



 初めは単純に、家に帰らなかった。

 大橋の下から会社に通い、いつもどおり仕事をこなした。


 しかし唐突に解らなくなった。

 自分はなにをやっているのだと、長い夢から覚めた気分だった。



 それからはむしろポジティブに橋の下へたむろしている。


 どうやって辿り着いたか覚えていない川沿いの草地で、大体一日中、川と向こう岸の建物を見ている。

 工場なのか、時折白い煙が立ち上ったりしたが、ほとんど人通りのない場所だった。


 近くに銭湯を見つけたので、たまに身体も洗っている。


 食事は摂ったり摂らなかったりだが、草の根を食むようなことはなく、コンビニなどで調達した。


 夜は、スーパーで貰ってきた段ボールと、買ってきたブルーシートの上で寝た。

 まだ毛布が一枚あればなんとかやっていけるくらいの気温だった。


 会社からの連絡は特にない。

 スマホの電源はとうに切れていた。






「なにしてんの、こんなところで」


 話しかけられるなんて珍しいこともあったもんだ、と思ったが、さほど動揺することもなく


「決断の先延ばしかな」


 と輪郭のはっきりしない声で言った。

 独り言に近い音量だったが聞こえたらしい。


「なんの決断だよ」


 と、声の主は隣に腰掛けた。

 横顔を見る。


「ナシコ」


 しかしそれでも心が粟立つことはない。


 どうしてナシコが?


 とは思ったが、驚くほどのことではないと思った。


 確かまだスマホのバッテリーが残っていたころ、どこにいるんだと訊かれて、川の名前は言った気がする。


「なかなか新鮮な気分なんだ。

 ちょっと前まで、毎日同じ時間に鉄の箱に詰められて同じ場所に行って、同じようなことをして気が付けば太陽とばいばいしてた。

 一体何をしてたんだろうな。

 俺はワールドカップのときだけやたらとサッカーフリークになる奴とかスマホの新機種が出るときに発売前日から店の前に並ぶ奴とかをどちらかと言えば理解できない、と笑っていたけど、客観的に見れば、自分の好きなことをしている彼らのほうがよほど理解に値する。

 行きたいとも思っていない会社に、他人と押し合いながら向かうサラリーマンたちは、最も思考が停止している存在かもしれない」

「だからドロップアウト?」

「いや、それは全然関係ない」


 ただ実感しただけだよ、と続けた。


「もう戻れないかもしれない」


 と笑う。


「あんたホームレスにでもなったつもり? 言っとくけど」

「解ってるよ」


 緩やかに、呼吸の音が聞こえるくらい静かに言った。


「俺には家があるし、少しは貯金もある。人生に絶望したわけでもない。

 ただ、帰りたくないだけだ。

 家に戻れば日常が待ってる。風呂にも入るし、酒も飲む。夜になればベッドでリラックスして眠るだろう。

 そういうことをする度に、俺はあのときの実感を失って、大事なものを流していく。

 今日を、昨日を過去にして消化していく。

 やれるだけのことはやったさ、と事実をまるめて美化しながら、思い出話として処理するんだ」

「駄目なの? それは」

「駄目ではないけど」

「そうやって忘れられる程度のことなら、忘れてしまったほうがいい」


 横顔を見ずとも、梨子がどんな表情をしているかが解った。

 叱られて拗ねている子どものような顔だ。


「違うんだよナシコ。

 解っているだろ?

 忘れたつもりでしつこい汚れのようにこびりついてることに、どうしようもなくなってから気付くんだ、は」

は?」


 一人称を変えて復唱してから、梨子はうつむく。


「確かにそうだわ」


 しばらくふたりとも黙った。


 時刻は解らないが、夕方だった。

 夕日を見ているわけではないが、夕日に照らされる川と世界を見ていた。


 梨子が膝を抱えて、額をうずめる。


「その姿勢だと、向こう岸からパンツ見えるよ」


 梨子がプリーツの入ったミニスカートであることを慮る。


「あんな遠くからじゃ、見えないよ」

「ばかだな。世の中には望遠レンズというものがあって」

「ねぇ水無月君」

「うん?」


 梨子の声は、子どもを諭すように柔らかい。


「私、随分探したんだよ?」

「うん」

「多摩川がどんだけ長いと思ってんの。しらみつぶしに、ってわけじゃないけど、山まで行ったり。私のアフターファイブと休日と少しだけ有休を返してよ」

「なぁナシコ」

「うん?」


 酷く真面目な顔で、ただし世間話のような声色で水無月は言った。


「付き合おう、って俺が言ったらどうする?」

「誰かの埋め合わせじゃないなら、いいよ、って言う」


 間ができた。


 それは一切の気まずさを含まない、とてつもなく優しい沈黙のひとときだった。

 やがて水無月は微かに、安心したように息を吐く。


「そっか」

「うん」

「そうだな」

「うん」

「厳しいなあ」

「そう?」

「厳しいよ」

「そうかもね」

「だから好きだよ、ナシコ」

「だからこの歳で結婚できないんだよ、ナシコ」


 梨子が水無月の口調を真似て、それから目だけ向けて笑った。

 それをまともに受け止めた水無月は肩の力を抜き、立ち上がって川へ一歩踏み出し、大きく伸びをする。


「帰ろっかなあ」


 川に向かって呟いてから、梨子を振り返る。


「そんで、ナシコに黒ラベルを二十四缶持ってくよ」


 梨子はたたんでいた手脚を伸ばして水無月を見上げる。


「その倍にしてよ」

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