第8話 異世界の彼女
楽しもう、と言われても観光どころではない。
中途半端に打ち切られた会話は水無月の中で単細胞分裂のように増殖し、妄想の域に達していた。
親が決めた政略結婚、家族で唯一頼れた祖父はもうおらず、孤立し、抗うことも逃げることも許されない。
誰か私を救って……!
そんなとき、彼女の前に現れたのはコーンスープカレーしるこを持った憧れの先輩だった!
あほらしい。
我に返る。
しかし現実に戻ってもなかなか微妙だった。
『全国総本山、大いなる鶏皮神社』は鳥居だけやたら立派で、本殿はその辺の庭にある小型物置に等しい大きさだったし、次に案内された『交通の要博物館』は壊れたトラクターが所狭しと並ぶだけの納屋だったし、『史上最高の古墳』はただの山にしか見えず、『時の止まった小江戸』に至っては、今にも倒壊しそうな鄙びた駄菓子屋だった。『巨人の箱庭』は少し面白かったが、それにしたって単に盆栽で構成された庭園で、秘境というキャッチフレーズとはかけ離れている。
「ごめん」
これが最後の逢瀬となる可能性は極めて高いにもかかわらず、下調べが不十分だったと水無月が悔恨の表情を浮かべると、上城梓は「こっちこそごめん」となぜか苦笑いをした。
そして観光ルートの最後に至る。
バスに乗って数分、『輝ける星原、魔法使いの庭』と書かれたそこは、降り立った瞬間唖然としてしまうほどの場所だった。
なんだここは。
言葉を失い、立ち尽くす。
水無月はあまりのことに驚きを通り越して呆れていた。
気付けば笑っている。
これまでとギャップがあり過ぎた。
ツアー客のひとりが唐突に叫んだ。
意味のある言葉ではない。
声を出さざるを得なかったんだ、とすぐに理解できた。
それがきっかけであったかのように声は広がる。
子どもも、カップルも、中年も、老人ですら声を上げてこの光景を解釈しようとしている。
すげーっ!
きれい!
星だ! 咲いてる!
なんなんだこれ!
こんなの見たことない!
生きてて良かったって感じ!
オウグレイト! グレイト! グレイト!
どれも違う。言い表せていない。
水無月は、適切な言葉を見つけ出せない自分に切り刻んでやりたいほどの憤りを覚えた。
あらん限りの声を絞り尽くす人のように両手を広げて天を仰ぐ。
まぶたを固く閉じ、歯を食いしばりながら口を開けた。
地平線の向こうまで、黄金の海が広がっていた。
よく見るとそれは黄色く紅葉した星形の葉の集合で、目線より下の位置に生えている。
しかも葉の下からは光が溢れており、逆光となってあたかも葉自体が発光しているように見えた。
「叫ばないの?」
隣にいることをつかの間忘れていた。
上城梓は昂揚した様子もなく、眼下を眺めている。
「自分が正確と認められない言葉で表すことは、冒涜だと思う。声を上げれば一応はすっきりすると思うけど、そんな風に浅はかな消費はしたくない」
「ふうん」
上城梓は二、三度まばたきをした。
「変わってるね、水無月くんは」
「そっちこそ。全然驚いてもいないじゃないか」
「まあ、私はね」
そう言って横顔でかすかに笑ったように見えた。
あれ? 今、俺のこと呼んだ?
梨子とは微妙に違う「みなづきくん」に、悪くない意味で身震いする。
それが実は初めてかもしれないと気付いたけど、言い出すタイミングを逸して黙っていた。
「ねえ、あなたは地方ってどう思う?」
上城梓がそう切り出したのは、バスが彩珠新都心に戻ってきて、ツアーの余韻も薄れた夜だった。
そのまま解散したくはなかったし、かといって話がしたいとカフェや食事に誘うのもなにかが違う気がして、夜灯りの中、ひとけのない無機質な景色の中をふたりで歩いた。
「二十数年前にはね、この辺にはなにもなかったの」
と上城梓が言う。
「ビル群もスタジアムも駅もなかった。北のスーパーはあったけど、ショッピングモールはなかった。ただの
薄暗いので表情はよく解らない。
「詳しいね」
そんな言葉しか思い浮かばなかった。
「ねえ、あなたは地方ってどう思う?」
それが彼女にとっての「スイッチ」で、本当はここでそのことに気付くべきだったと水無月は後に悔やむのだが、今は唐突な話題に言葉を返すだけで精一杯だった。
「どう思うって?」
「好き? 嫌い?」
どう答えるのがよいのだろう。
解らず「あまり考えたことがないな」と濁した。
「私は嫌い。吐き気がするくらい」
上城梓の口調がそれまでと一切変わらなかったことが、逆にその台詞の異様さを際立たせた。
「コンクリートジャングルに近ければ近いほど、落ち着く。そこが昔山だったり森だったり、村だったりしたことが全く想像できないようなレベルだと最高。人間味が感じられない無機質さに囲まれて暮らしたかったな」
薄々感じていたが、やっぱり上城梓は変わっている。
同時に、もしや今日のツアーを選んだ自分を非難しているのか? とも思う。
「東京二十三区にしか住めないね」
「もっとだよ」
二十三区でもそういうところは少ない、と断定した。
沈黙の間、水無月は次の言葉を探した。ジグソーパズルのように、今ここに当てはまる形のピースを考えた。
「俺も、ビル街に憧れたことはあるよ」
正解だという確信はないまま口を開く。
「俺、実家は東京の西のほうなんだ。
閑静な住宅街っていうか、駅前なんてなんにもないし川とか山とか、自然も多い。
退屈で未開拓な感じがして、それが嫌だったよ。
だから大手ゼネコンがつくった街に、憧憬を抱いてた。異世界的で」
「異世界?」
「ほら、SFとかファンタジーに出てくるような、未来都市とか古代帝国とか。
俺は小さいころ、『いつか自分も異世界に行って選ばれた勇者として大冒険をするんだ』とか言ってたらしいんだけどさ、ああいうのと似た感じがするんだよね、ビル街が。
いい意味で非日常的に思えたんだ」
「今もそう思う?」
水無月は軽く首を横に振った。
「いつの間にか、慣れた。
異世界で毎日過ごすと、異世界じゃなくなる。
代わりに今度は元いた場所が異世界になる。
異世界に憧れる俺は、いつまで経ってもここだ、と思える場所には辿り着けない」
まあ、今いる場所で頑張るしかないってことかもね、とおどけてみせる。
上城梓は人差し指を額に付けて、やや寄り目で考える仕草をしながら言った。
「私は逆かな。どっちかというと」
「逆?」
「今いる場所が異世界だ。いつも、いつも」
「それは、いい意味で?」
「全然。異世界なんて要らなかったのに、気付いたらいつもその中にいる」
上城梓の言葉になにかが引っかかる。
とっさに、それは逆ではないんじゃないか、と思ったが上手く説明ができなさそうで水無月は黙っていた。
上城梓の言葉が続く。
「私はそのことにずっと気付かないふりをしてきた。
未来には希望がある、とかどこかのロマンチストみたいなことを自分に言い聞かせて、先延ばしにし続けた。
行き止まりになったときですら、壁を掘り続けてほらまだ道はあるでしょ、って言い張った。
けどもうさすがに、タイムリミットみたいなんだ」
落ち込んでいるような口調ではない。
誰か他の人間のことを喋っているように淀みのない説明だった。
「それが、蜘蛛の巣?」
「よく覚えてるね」
そう言って、上城梓は笑った。水無月のほうを向いて、声を立てずに。
水無月の胸に、正体不明の焦燥がこみ上げてきた。
「俺にできることはないかな」
「要らない」
即答だった。
しかもできることがないのではなく、要らない。
完全な拒絶に固まるしかなかった。
「あなたは私を理解できない。
あなたは、ここではないどこかに憧れながら、今いる場所でがんばり続けるしかないと思ってる。
だけどそれは私にとっては、絶望でしかない」
最後の「絶望でしかない」に、初めて感情らしいものを聞き取った。
声が一瞬だけ震えたことを水無月は流さない。
「絶望なんかじゃない」
「どうして?」
僅かに、自嘲するような笑みが混じる。
「どうして、そんなことが言えるの?」
言葉に抑えきれない、というような刺が混じっていた。
水無月はそれを受け止め、なにかを返したいという切実さで口を開く。
「人間の置かれる環境が平等だなんて言うつもりはない。
あらゆる意味での格差はあるし、人は生まれながらにスタートラインが違う。
だけどだからと言って、別人にはなれない」
「結局、自分の人生と向き合えってことでしょ?
月並みな説教なんてしないでよ」
「俺は現実の話をしてるだけだ。
明日は今日の延長にしかないし、十年後だって二十年後だってそうだ。
例えば十年後の今日、自分が誰となにをしているか言い当てられる人間は皆無だ。
上城さんだって、十年前に今日俺と話すことは予測できなかった。そうだろ?」
「そんな細かい話をしてるんじゃない」
「だけど、今上城さんが俺といるのは、奇跡的にいろんなことが積み重なった結果だ。
ナシコが上城さんに会わなければ今日俺と会わずに終わっていたかもしれないし、そもそも君があの会社にいなければ会うこともなかった。
君や俺があの会社に来るまでにも様々な選択があっただろう。
その会社でナシコと俺がこういう関係になったのも偶然の結果だ。
ひとつでもなにかが違っていたらこの会話は存在しなかった。
事実として世界は奇跡で成り立ってるし、奇跡でしか成り立っていない。
だから未来を完全に予想するなんてことは、できるはずがないんだ。良くも悪くも」
「……いい加減にしてよ。きれいごとばっかり」
上城梓の目が吊り上がる。
いつの間にか冷静さの代わりに、苛立ちと激しさが覗いている。
「偶然の連続で世界ができてることは認める。
それを奇跡だって呼びたいならそうすればいい。
けど私にとって、その奇跡の結果が絶望だよ」
「まだ終わってないだろ。生きてるんだから」
上城梓の足が止まる。
水無月の言葉は、上城梓の深いところを不用意に刺激した。
すんなり話を終わらせようとしない水無月に、
「あなたに……なにが解るの……!」
とうとう上城梓の声が破裂した。
水無月も立ち止まり、身体を正面に向け、下唇を噛んだ。
「俺はなにも解ってない、よ」
うつむき気味に目を逸らす。
「だから知りたいんだ。
教えてほしいんだ、上城さんを絶望させているものを。
俺は未来永劫同じ場所でがんばれなんて言うつもりはない。
ただ逃げても駄目だったなら、今いる場所と向き合うことで違うものが見えることもある。
ほんの些細な行動で人生は変わる。
それを一緒に考えたいんだ」
「偉そうに。あなたはじゃあ実際、些細な行動で人生を変えられたとでも?」
「変えられたよ」
水無月は顔を上げる。
とっさに上城梓もそれにならい、目が合った。
「君に会えた」
上城梓は舌打ちでもしそうな表情になる。
「コーンスープカレーしるこを床に転がしたら、君とコーヒーを飲めることになった」
「そんなこと?」
上城梓はばからしい、と言わんばかりの笑い方をした。
「そんなことだよ。そんなことで世界が変わるってことを君は知らないだろ?」
「知りたくもない!」
声を弾けさせた上城梓は目一杯瞼を開く。
「なんなの?
私が絶望してようが関係ないでしょ。
もう放っておいてよ!
どうしてそんなにしつこいの!?」
「そんなことも解らないのか!!」
上城梓の肩が弾かれたように縮こまる。
水無月は怒鳴ってすぐ、呆れた、と静かに付け加えた。
「好きだからだよ」
絞り出すように言い、語尾がかすれた。
「色々理屈らしいことを言ったけど本当はそんなのどうでもいいんだ。
上城さんが苦しんでるのをなんとかしたい。僅かでも助けになりたい。
そのためならなんでもしたいんだ」
上城梓は目をそらさなかった。
今にも泣き出しそうな形で見開かれている。
「……無理だよ」
水無月を見ているようで、どこか焦点が合っていないようにも見える。
「やめてよそんな、
好き、なんて、なんの責任も義務も発生しない台詞に心動かされるほど、私はもう気楽じゃない」
すぐに言い返そうと口を開いたが、言葉が喉に引っかかる。
浮かぶ台詞はどれもがこの場にはそぐわない気がして、強く歯を食いしばった。
「グレートソード村なの」
「え?」
唐突に出た横文字に水無月は意表を突かれる。
「私の出身。地元。現住所。全部あの、九割のしょぼい観光資源と一割の本当の異世界で成り立つ、存在自体がファンタジーみたいな場所なの」
冗談を言っているのかと思ったが、このタイミングではあり得なかったしいつまで待っても「なんてね」とは続かなかった。
脳味噌が上手く処理できずに
「住んでるってこと?」
と、既に答えが口にされた内容の質問をした。
上城梓は答えなかった。
「あの村は呪われてる。私は呪いから逃げようともがいたけど、呪いはあの村だけでなく私自身にもかかってた」
「それって、どういう……」
詳細を求める声を出し切る前に上城梓は突然顔を伏せる。
そして、
「あなたは他人です」
口調を変えて言い切った。
今日一日の時間がまるで一切なかったかのように、丁寧で柔らかい声に戻っていた。
「村には関係ない部外者です。だからこれ以上は教えられません。
あなたと過ごす時間は楽しかったけど、時間切れです。
変な夢を見て、巻き込んでしまって本当にごめんなさい。
納得しろというほうが無茶な話だとは十分解った上で、お願いです。
終わりにしてください。
どうか私のことは忘れてください。お願いします」
ひとつひとつの言葉がまるで鉄塊のように重かった。
丁寧に腰の位置までの礼をされると、水無月の抱いていた数々の思いは借金で差し押さえを食らった貴金属や家具のように簡単に動かすことができなくなる。
閉じられた心を開く台詞も、顔を上げさせる方法も見つからずに、やがて微動だにしない上城梓から離れ、歩き出す。
その日から水無月は、家に帰らなくなった。
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