第6話 恋する中年

 その次に約束していた日、上城梓は来なかった。

 電話をかけても出ず、SNSでメッセージを送っても返信はない。


 ただ一言だけ一方的に、ごめんなさい、とだけ来た。


 水無月は彼女のことを全く知らない。

 解っていても改めて思い知らされると心の中の大事なものをごっそり持って行かれたような気分になる。

 こうして向こうが連絡を途絶えさせただけで、いとも簡単に繋がりは絶たれてしまう。



 俺は他の男と違って、別れを直接告げることすらしてもらえなかったわけだ。



 ひとりの部屋で床に転がりながら天井の汚れを地図に見立て、大冒険を空想しながら思った。

 あのサーファーかチンピラみたいな男の一件から、直接別れを告げることのリスクに気付いたのかもしれない。


 今ごろ彼女はどうしているのだろう。

 結局誰か他に本命がいて、そいつとよろしくやってるのか。


 考えると胃の辺りが虫に喰われているようだった。


 なあに、最初からかなわぬ恋だったんだ、と唇で呟いてみる。


 梨子が最初に言った「身の程知らず」という言葉が正しい。

 むしろ何度も一緒の時間を過ごせたことを感謝すべきだ。



 それに、実際にはまだなにも始まっていなかったに等しい。


 それこそ梨子とでもできるようなことしかしてきていないのだから、裏切られたとか、別れるならきちんと理由を知りたかったとか思うほうが変だ。


 いつの間にか疎遠になった茶飲み友だち……うん、そっちのほうがはるかにいい。

 それならいつか再会して、また一緒にコーヒーを飲める可能性だってあるじゃないか。


「だから違うよな」


 今度はしっかりと声帯を震わせた。


「あいつのときとは、違うんだ」


 腹筋を使って一気に身体を起こす。

 壁に掛かった大鏡の中の自分と目が合った。


 老けてんな、と率直に思った。

 自分の中のイメージより、明らかに疲弊が滲んでいる。


 唐突に梨子の言葉を思い出す。


「水無月君こそ、こじらせ三十代の代表取締役みたいな人じゃん」


 そうなのかもしれない、と思った。


 三十になったら三十なりの落ち着きや精神力が手に入るとかつてはおぼろげに考えていたが、とんだ思い違いだ。

 身体は確実に衰えていくのに、梨子と普段話しているような内容も、自分が抱える悩みも、学生のころとなんら変わらない。



 確かにそうかもね。



 鏡の中の水無月が口を開いた。


「え?」


 水無月は声を出していない、つもりだった。


 よく見るといつの間にか鏡に映っている水無月の表情からは疲弊が消え、心なしか輪郭もシャープになっている。


 二十七歳だ、と直感的に思った。五股をかけられているとは欠片も思わず、恋人との幸せな時間を知っていた自分。

 まだ人生観に暗い影を落とすほどの重い荷物は背負っていなかった綺麗な若造だ。


 睨み付けるような目と笑みの浮かんだ口で、その水無月が言った。



 でも君は、そんな自分が嫌いかい?



 気付けば、鏡は鏡だった。


 その中の自分だけが自在に言葉を操ったなどというのは錯覚に過ぎない。



 かなり長い間、そのままの姿勢でいた。

 腰が痛くなって立ち上がるとき、水無月の中で樽に詰まった火薬に続く導火線に火がついた。



 そのまま家を飛び出し、走り出す。






 アスファルトで目玉焼きを作れ、と言わんばかりの熱線はなりを潜め、曇天の隙間から染み出す熱は肌を焼くほどではない。

 街路樹の脇に咲くのは桃色の秋桜で、BGMを提供していた蝉の声は聞こえない。


 いつの間にか、季節が変わろうとしていた。


 梨子は家にいた。

 マンションのエントランスで部屋番号を押してインターホンを鳴らすと、


「近いよ、水無月君」


 という呆れた声がした。

 水無月はカメラに思い切り近付き、瞬きをした。

 それから、スマホの画面を開いて見せる。


 ごめん。


 とだけ、特大の文字で書いていた。


「なんで無言なんだよ」


 口を開くと余計なことを言いそうで、と打ち込んだ。


「じゃあここまで来る必要なくない?」


 顔を見て話したかった。


「あんたからは私、見えてないけどね」


 誤解を解きたい、と書いた後、少し迷いがちに視線を泳がせて書き足した。


 大切な人間とすれ違って離れることを、仕方ない、で済ませたくない。


 顔色を窺うように上目遣いをして、それから愛想笑いをしてみせた。

 体内の毒素まで一緒に吐き出すような深いため息に続いて梨子が言う。


「解ったから、入ってきなよ」


 中に入るのは初めてだった。

 酔っ払って歩けなくなった梨子を扉の前まで送り届けたことは幾度かあるものの、これまでこの家を訪ねるような理由はなかった。


 梨子の部屋はひとり暮らしにしては広めのリビングで、隣には寝室もあるらしい。

 テーブルの上には何十本もの空き缶が散乱している、というのを想像していたが、ゴミはもちろん読みかけの雑誌などが放置されているようなこともない、整理整頓の見本のような部屋だった。


 壁はコンクリートの打ちっ放しで、天井には一部パイプ等がむき出しになっている。

 家具も最低限、雑貨等も飾っておらず、この部屋を写真に撮って人に見せたらショールームか、家であまり過ごすことのない独身貴族の部屋、と思うんじゃなかろうか。


 大量生産でコストを下げる、という世界とは無縁そうな、辞書のように分厚い木のテーブルにつき、水無月は感心を隠さず全体を見渡し、打ち込んだ。


 ナシコって資産家の親か血の繋がってないパパでもいるのか?


「どっちもいない。それなりの歳の女がひとりで働いてたら、お金は貯まるんだよ」


 なるほど、と打つ。


 出してくれた麦茶をすすりながら、意外と可愛い格好してるね、と書いた。

 梨子は触り心地が良さそうな半袖のパーカーに太腿まで剥き出しの花柄ショートパンツという姿だ。


「目の毒ざますか? ていうかそろそろ普通に喋ってほしいんだけど」


 でもさあ。


「でもじゃない。イラッとするんだよこのテンポ。一言二言で済む用事もメールで済ませようとする新人みたい。そこにいるんだから直接言え! いなくても電話をしろ! みたいな。私が話を聞く気があるうちに、喋っとけって」


 しぶしぶ、と書いてから


「じゃあ声を使う。久しぶり、ナシコ」


 スマホを手放した。


「久しぶりだっけ?」

「なんかもう随分会ってなかった気がする」

「そう? 私は、昨日も会ったような感覚だけど」

「それも解る。しかし離れてようやく君の大切さに気付くことが」

「茶番はいいから、本題。面倒臭い男だな、相変わらず」

「そこは諦めていただかないと、俺の基本仕様だから。ナシコの半分がアルコールでできてるのと同じで」

「いいから本題。どうせ、どうしても誰かに相談したいことでもできたんでしょ」

「さすが。だから好きだよナシコ」

「水無月君、とことん友達いないんだねえ」


 呆れたように笑う梨子に、今は苛立つどころか安心する。


「ごめんな。俺、もっとちゃんと説明しようとすべきだった」

「なにが?」

「上城さんのこと。思い返すと、話したって解ってくれないんじゃないかと思って、おざなりな言い方しかしてなかった」

「ストーカー疑惑のこと?」

「それもだし、そもそもどういう気持ちで俺が彼女に会ってたかとかも。前提をしっかり説明できてれば、誤解だってされなかったかもしれない。いやされてたかもしれないけどそれは結果の話で、姿勢としてナシコに失礼だったんじゃないかと思った」


 梨子は黙って聞く。

 水無月は改めて尾行、というか盗み聞きの経緯と、そこであったことをなるべく細かく説明した。


 今のところ水無月が把握する範囲で直接振られていないのは水無月だけであること、しかしその後連絡を取ろうとしても取れないでいること。


「一体彼女はどうして十人の男と茶飲み友達を始めて、すぐにやめてしまったのか。

 気まぐれ、で片付けるのは簡単だけど、なにかがある気がしてるんだ。俺は自分のためにそれを知りたい。

 もちろん、俺のしていたことが褒められることではないと解っているし、ナシコの信頼を酷く損なったかもしれない。

 それでも、今ここに至ってしまったからには、俺の我が儘だけど本当のことを知りたいんだ」


 いつになく真剣な表情でたまに頷きながら聴いていた梨子は、水無月の言葉が切れると麦茶を喉にくぐらせた。


「解った」


 いつもよりずっとゆっくり、一語一語を聞かせるように言う。


「エゴだって自覚してるなら、許してあげる。ぎりぎり」

「ぎりぎり?」

「そう。危なかったね」


 少しだけ笑った。


「実は、私も謝らなきゃいけないことがある」

「俺に?」

「水無月君に」


 ウォールナットの木目を掌全体で撫でながら、梨子は流し目気味に首を傾ける。


「実は梓に会った」

「マジで?」


 と言ってから意味を飲み下す。


「いつ?」

「昨日」

「タイムリーだな。なんで?」

「いや、普通に、前職の先輩として。辞めてまだ一ヶ月だけど、最近どう? って」

「表向きはだろ」

「まあね。そんな感じで誘って、男性関係のこととか、ストーカーに困ってないかとか、そういうことを遠回しに聞いてみた。そしたら、ばれてたよ」

「なにが?」

「水無月君がカフェに潜伏してたこと」

「嘘だろ?」

「そこでなぜ驚くかが解らない。あからさまに怪しい帽子とグラサンじゃ、気付かないふりをするほうが大変だって言ってたよ。それで、申し訳なさそうにしてた。切り出すタイミングを完全に逸したって」

「つまり俺はもっと最初の段階で振られる対象のはずだったのか?」

「まあぶっちゃけて言うと、そうだね。だけどそこでは落ち込まなくていいよ。梓がもう会えないって告げてた順番は、単にトラブルになりにくそうな順だって言ってたから。一番最後の人とか、結構手こずったんじゃない?」


 思い返して納得する。主張が激しそうな奴ほど最後まで残っていた。


「話を聞いて、それでも梓がしてたのは褒められたことじゃないって思った。

 付き合ってたわけじゃないにせよ、自分に気があると解ってる奴らの相手を繰り返してたわけだからね。

 それは重々承知しているようだったし、だからこそあの子はせめてものけじめとして、男たちに別れを直接告げていったんだ。

 許すかどうかは私が決めることじゃないけど、今も私の梓に対する印象は変わらない。

 あの子は、いい子だ」

「ちょっと待て、話が見えない」


 一気にまとめに入ってしまいそうな話に焦りを感じ、両手をかざす。


「つまるところ、上城さんはどうして十人の男と会っていたんだ?」

「そりゃ、男をキープしながら品定めしてたんだと思うよ。表面上は」

「表面上は?」

「そこに関してはまだ隠してることがあると思うんだよね。私の勝手な直感だけど」


 もうすっかり話したいことはなくなった、というように梨子は両腕を天井に突き上げて伸びをした。


「まあ、私はここまででいいや、すっきりしたから。あとは本人に直接聞いてみ。あと一回だけ、水無月君に会うよう言っといたから」


 ほんとかよ、と疑いの視線を向けるが、梨子との間にあったぎくしゃくした空気がいつの間にかすっかり霧散していることに気付いて、水無月は「まいっか」と呟く。


「ところでひとつ確認しておきたいんだけど」


 梨子が試すように見つめてくる。


「なんだよ?」

「水無月君は私のこと、なんだと思ってるの?」

「頼れるナシコ」


 即答した水無月に満足そうな笑みを向け、梨子は玄関を指差した。


「行きたまえ。恋する中年」

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