第5話 ストーキング・デイズ
「で、だから?」
と梨子は言った。
場所は変わって、夜のバーカウンターで話は続く。
昼間は子どもの乱入で結局中断された。
さすがに気まずそうな感じになるか、慰めモードに入るか、憤ってくれるか少なくとも詳しい事情を聞きたがるかと思っていた水無月はすっかり肩すかしを食らった気分で、思わず言語の違う人種を見るような顔で大口を開けた。
「で、だから、って……なにその無関心かつまあそういうこともあるよね的問いかけ」
「いや、だって付き合ってたわけじゃないんでしょ?」
梨子はいつもの冷静な目を据えたまま、掌で作った皿に顎を乗せた。
「そもそも好きって言ったの? 伝えたの?」
なにも言えない水無月を見て梨子は質問を変える。
「その男とはどういう感じだったの? 楽しそうだった?」
かろうじて水無月は頷く。
「恋人みたいだった?」
頷く。
「まさかホテルから出てきたとか?」
首を横に振る。激しく。
「梓にどういう関係か聞いてみた?」
とんでもない、と言うように両手も同時に振る。
「まあ、私には、あの子の男性関係までは解らないからなあ。単なる友だちか、二股か」
二股、という単語に水無月が硬直する。
「終わった」
「え、いや、水無月君?」
「終わった。絶対終わったよ。もう駄目だ。
単なる友だち? そうだよ、俺がそうだったんだ。
考えてもみろ、コーヒー飲んだり映画見たり、こんなの学校帰りの高校生だって日常的にやってることじゃないか。
たまたま俺が男という性別だっただけで、彼女にとっては太平洋並に広い交友関係の端っこの端っこもいいところだったんだ。
声掛けられたからたまたま気まぐれで付き合ってやったのよ。
あんたが私の恋人候補?
はっ、自惚れ甚だしい。
日本海の水でも被って出直してきな!」
「水無月君、落ち着きなさい」
「三十路過ぎのおっさんが私とつり合うわけがないでしょう!
会社辞めて暇じゃなかったら、あんたなんかと五秒も会話しないわよ!」
「落ち着けって」
耳を強く引っ張られた。
痛い、痛たたた、と暴走を止める。
「妄想で勝手に敗北するのはやめなさい。自己防衛のためだとしても。そりゃ、トラウマがあるのは解るけど」
「だって」
大粒の涙を掌でぬぐい、けいれんする横隔膜をもう片方の手で押さえる。
「また、負けたんだ、俺は」
「まだ決まったわけじゃないでしょ」
梓に言ってみればいい、と梨子は提案した。
「なにを?」
「俺以外の男と会わないで、って。芽があるなら、言われて嬉しいんじゃない?」
「きっぱり振られに行けって?」
「そんなこと言ってないでしょ」
ため息をついて、呆れ顔ながらも梨子は微かに笑った。
「そんなに怖いなら、私から訊いてあげようか?」
「大きなお世話だ」
「あ、そう」
我が儘な子どもを見るような目になった。
「じゃあ勝手にすれば」
実際勝手にした。
その結果水無月は秋の入口までにさらにへこみ、その後多少の元気を取り戻した。
「二股ではなかった」
「ほう」
その割に浮かない顔だね、と梨子に指摘される。
行きつけのカフェで、ふたり、横並びに座っている。
「五股だったとか?」
「五股でもない」
とうつむき気味に言う。
「むしろそれ以上だ」
「マジで?」
水無月君、そういう女を引き当てるの上手いねと半ば本気で感心したような声が返ってくる。
「でも実は誰とも付き合ってない状態で、単に男友達が多いだけかもしれない」
「そうなの?」
「映画やコーヒーくらい、友達同士でも行くだろ」
「じゃあ水無月君は少なくとも、恋人しかしないようなことはしてないわけだ」
「どこからがそうなのかという議論はあるけど」
「へー、その議論次第では、したの?」
「ごめんしてない」
なんだよそれ、と笑われる。
「で、ほかの誰ともしてないと?」
「思います」
眼球周りの皮膚が緊張しているのを見て取り、梨子は深く息を吐き出す。
「やめといたほうがいいんじゃない、水無月君。梓がそういう子だとは気付かなかったけど、君には向いてないと思うよ」
十分にその言葉を受け止めるだけの時間沈黙してから、水無月はしかし、と繋げた。
「彼女は、段々男を絞り込んでる。次はいつ会える? って訊いた男に断りを入れてたんだ。ひとりやふたりじゃない。なんと七人。残りもはっきりしてる。三人だ。俺を入れて!」
珍しくノースリーブのワンピースを着て短い髪を無理やりくくった梨子が、レモンスカッシュをすすりながら水無月を睨んだ。
「よかったね、変態」
「よかったとも!」
ガッツポーズを取ってから、顔を上げて梨子を見る。
「変態?」
「ストーカーはやめろって言ったでしょ」
声色に冗談めいた響きはない。
「ストーカーなんてしてない」
誤解だよ、と両手を振る。
「じゃあどうやって知ったの、それ」
「彼女を尾行して」
梨子は大量に買った宝くじが外れたときのように肺の奥からため息をついた。
「それはストーカー行為です」
「なにもしてないよ?」
「個人のプライバシーを覗いてるでしょう。部屋を盗撮するに等しい」
「いやでも、私的な場所までついてってるわけじゃない。公共の場所で話している内容がたまたま聞こえてきた、というくらいのものだ」
「たまたま? 九人分も?」
水無月は壊れたおもちゃのように何度も首を縦に振る。
「悪いことは言わないから、やめときなさい」
「本当になにもしてないんだって。これ以上のことは本当にしないから」
「水無月君」
ストローから唇を離した梨子の目は少しも笑っていない。
「君を嫌いになりたくないんだけど」
静かな口調が真剣さを物語っているようで、はいともいいえとも言えずに黙ってアイスコーヒーの氷を鳴らすくらいしかできなかった。
しかしそれでも尾行は継続した。
これがストーカーなら刑事や探偵もストーカーだ、などと心中で呟きながら、上城梓が男と会うときはこっそり同じところにいるようにした。
と言っても、水無月は上城梓の自宅からつけているわけではない。
そもそも自宅を知らない。
単に、上城梓が男を振る場所がいつも同じ喫茶店というだけだった。
水無月もその店には彼女と行っており、約束のない日もたまたま会えないものかとひとりでコーヒーを飲んでいたところに、ほかの男を伴った上城梓が来た。
それ以来、予定のない平日および休日はもっぱらそこで時間をつぶしている。
平日は敢えて早めに会社を出て、喫茶店で仕事を続けることもあった。
ちなみに上城梓にばれないよう、店に行くときは野球帽にサングラスという簡易変装をするようにしている。
そういうわけだから、実のところ振られた七人と残っている三人が男性関係の全てかどうかは不明だ。
水無月が張り込みで来ている時間など喫茶店の営業時間の半分にも満たないし、そもそも上城梓がほかの場所で誰かに会うことはない、と考えるほうが不自然だ。
にもかかわらず、水無月は上城梓の相手は全部で十人だろうと根拠なく確信していた。
そして残っていた三人が二人になり、水無月を除けば最後のひとりと上城梓が会っているのを近くの座席で観察しているころになると、憤りや不安よりも疑問が先立ってきた。
彼女は一体、どうしてこんなことをしている?
「だっておかしいじゃないか。
いくら会社辞めて時間があるからって、友だちレベルにせよ十人同時に付き合うのは相当な負担だ。しかも徐々に会うのをやめてる。
本当に友達付き合いならならそんな風に切る理由がない。
一体なんのメリットがある?
案一。本当にただの暇つぶし。でも飽きてきた。
案二。誰かに指示されている。でも誰に?
案三。気になる男子に片っ端から手を付けてみた。見極めが進んで切っていってる。
でも自分で言うのも悲しいけど、その場合俺が今まで残ってる理由が解らない。
案四。実は別の目的がある。例えばやばい薬とか魔除けの壺を売りつけて」
「ストーカーはやめたの?」
電話の向こうから平坦な声がする。
「だからストーカーじゃないって言」 通話は突然切られた。
湧き上がった疑問を整理しようと、一旦店の外に出て梨子にかけたのだが先日のテンションのままだった。
もう一度かけるが今度は出ない。
なんだよ、とスマホを睨んで仕方なく店に戻った。
「どうしてだよ、ふざけんな」
席に戻るまでもなくすぐ聞こえてきた声に、水無月は足を止める。
「お前、自分が美人だと思って調子乗ってんじゃないの?」
テーブルを叩く音がして「声が大きいです」というささやき大の言葉が続く。
居心地の良い図書館のような静けさを持った店だから、異色の会話はすぐ解る。
男は上城梓に怒っているようであり、上城梓はひたすら困った様子だった。
もう会えない、と告げたのだろう。これまでの八回と同じだ。
ただし今までの相手はそのしおらしい姿に、比較的物わかりの良い対応で納得した様子だったが、この男はいかにも気性が荒い。
アロハに白いハーフパンツ、額に黄色い丸眼鏡、髪は茶髪がソフトクリームのように逆立ち、肌は一目で焼いているのだと解るほど黒い。
顔立ちはイケメンの部類なのだろうが、目は笹の葉のように鋭い。
その男が言った。
「まさかほかの奴と同じように切られるとはな」
水無月は席に座る寸前にその声を聞いて、思わず男をガン見してしまった。
上城梓の背後にある席なので、彼女がどういう顔になっているのかは見えない。
「何がしたいの、お前。上から目線で品定めか? バカな男たちに群がられて、さぞ満足だったろうな」
上城梓は答えない。ごめんなさい、とだけ言った。
大仰に男が息を吐き出し、脱力する。
「まあいいや。もういい」
観念した様子に、水無月も内心ほっとした。
次の言葉を聞くまでは。
「じゃあ終わらせる前に一回だけ、させてよ」
当然上城梓は頷かない。
今すぐ男の首根っこを掴んで引きずり倒し
「そういうことを言っていい女性じゃないことが解らないのか!」
と怒鳴りたい衝動に駆られる。
「ほかの奴には言わない。口止め料だと思ってさ」
ごめんなさい、ともう一度聞こえる。
「まあ、こんなところじゃ話しづらいし、とりあえず出ようか」
立ち上がった男に、ごめんなさい、と繰り返す。
その手を男が力任せに引っ張った。
「いいから来い。被害者面してんじゃねえよ」
「やめてください」
「お前みたいな女が一番腹立つんだよ。今の状況を端から見れば、誰だって俺が悪いと判断するだろう。大勢の男をもてあそんでおいて、本当に悪いのはどっちだ? 都合のいいときに女の武器で乗り切ろうとするんじゃねえよ。だったら女として責任を取れ」
「あの、大丈夫ですか」
気が付くと話しかけていた。
なにをしてるんだ、俺! 背中が汗ばみ、鼓動が早くなる。
「なんだお前は。変態か」
スラックスに半袖ワイシャツとネクタイ、の上にある野球帽とサングラスを訝しげに見つめられる。
「あなたに話しかけたんじゃない」
男の顔を見ずに続ける。
「大丈夫ですか?」
上城梓は声こそ出さなかったが、俯いて小さく左右に首を振った。
青ざめた顔色を演技とは思えない。
「困ってるようなので」
そこで初めて男を見た。
「ここまでにしませんか」
「関係ねえ奴はすっこんでろよ」
「関係はありますよ」
「ああ?」
「この場所に居合わせた時点で、既に同じ場所を共有する立場です。出会いは一期一会。もう私たちの関係は始まっているんです」
「なんだお前、宗教か?」
「そういう偏見は感心しませんね。ステレオタイプな見方は自分の知見を狭めますよ」
男が上城梓の手を離し、水無月のネクタイを引っ張り上げた。
「なにが言いてえんだ、てめえ」
下手なことを言ったら殴られそうだ、と水無月は予測した。
「振られた男が逆上してんじゃねえ、ってことだよ」
あれ、俺今なに言った?
ちゃんと理解する前に男の顔が引きつり、額と目頭のあたりに破裂のような衝撃が走る。
涙腺が刺激されてサングラスの下を液体が伝った。
「ちょっと待って」
両手を顔の前に掲げる。
「暴力はいけない」
「……な、泣いてんのか、お前」
男は意外にも困惑顔だ。
「マジかよ?」
「いや、これは、黒ひげ危機一発みたいなもので」
「はあ?」
「正しい剣を挿したら飛び出す、ってあれです。いわばシステムです。自販機のボタンを押したらジュースが出てくるのも同じです」
言いながら、鼻水まで出てくる。
「おいやめてくれよ。殴ったんだから怒れ。俺は今ここでガチの殴り合いになっても構わねえ覚悟で手を出したんだ。そんな、被害者ですみたいな感じになられると気まずい」
そういうものなのか?
水無月のほうこそ困惑していた。
この手合いは相手がひるめばこれ幸いと弱さにつけ込み、攻め込むものと考えていた。
とにかく上城梓をこの場から離れさせないと、と思って
「まあとにかく」
横目で彼女のほうを見る。
「あれ?」
つい今までいたはずのところに、いなかった。
荷物も残されている様子はない。
男が「あいつ」と苛立たしげに吐き捨て、店のドアへ突進し、そのまま消えていった。
しばらく呆然と立っていたが、誰も帰ってくる様子がないので自分の残っていたアイスコーヒーを飲み干し、彼らの飲み残しとともにカウンターへ返却してからひとりで帰った。
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