第4話 プールと幼児と現実逃避

 水無月は浮かんでいた。

 幸福に浮かれていた、ではない。


 物理的に浮かんでいた。浮き輪を用いて。


 水無月は女を誘ってプールに来ていた。

 サングラスで視界を覆いつつ、これまでのことに思いを馳せていた。






 上城梓と初めてコーヒーを飲んでから一ヶ月以上が経っていた。


 まだ一ヶ月か、と思うくらいもう何度も会っている。

 最初の数回はなにを話すでもなくコーヒーを飲んで解散するという繰り返しだった。


 退屈に違いない、次はないだろうと毎回思ったが、いつも彼女のほうから次の誘いがあった。

 水無月が初めのころ会って発した言葉は「こんにちは」と「ありがとう」と「じゃあまた」と「沈黙は金」くらいのものだ。



 それでも同じ時間を過ごすうちに解ってくることもある。


 コーヒーにはスティック砂糖をきっちり半分とミルクを少々入れることとか、意外とジーンズに白シャツというような飾り気のない格好が多いとか、アクセサリは付けないとか、化粧は全体的に薄く、口紅は付けないこととか、並んで立つと水無月の胸くらいまでしか背がないこととか、爪はなにも塗らず、スポーツをする少年のようにちゃんと切りそろえられているとか、笑うと八重歯が割と尖っているのが目立つとか、人と長い時間目を合わせていても全然物怖じしないとか瞳の色が薄い茶色であることとか。


 平日の夜も含め結構なハイペースでコーヒー会(水無月が勝手に心の中でそう呼んでいた)を催し、すぐにそれは食事会に変わった。


 ある水曜の夜、上城梓が「なにか食べます?」と訊いたのがきっかけだった。

 カフェで生ハムとスモークサーモンのサンドという、これまでの人生であまり馴染みのない食物を頬張るところから始まって、じゃあ次は最初から食べる目的にしましょうかと彼女が提案し、当然水無月は同意した。


 店は一回ごとに代わりばんこで探してくることにして、食事代も、全部支払うという水無月の持ちかけを上城梓は断固として拒否し、自分が探してきた店の分を払うことにしましょう、と譲らなかった。


「おいしくなかったらごめんなさい、ですし」


 さすがに段々水無月も上城梓に対する気後れを感じなくなってきて、会話のボキャブラリーに


「雄弁もまあ、銀という価値あるものなんですよね」


 と加えたあたりから一気に口数が多くなった。


 とはいえもちろん梨子に対するそれと比べれば、ダムと水たまりくらいの違いではあるけれど。



 映画を見に行ったこともある。


 カフェで話をしていてどうしてか好きな映画の話になり、近年のドラマ化された邦画の中にも見るべきものはある、というところから盛り上がって、最近の話題作で興味があるものは? という話題になった。


 上城梓はアニメーション映画が一番好きで、ジブリやピクサー以外にも素晴らしい作品を作っているところはたくさんあるのに、偏見に満ちた目で見てる人が多過ぎます、と語った。


 そんな風に熱のこもった調子で彼女がなにかを話すのは初めてで、内容よりも、光をよく反射する瞳が一段と輝くのに目を奪われた。


 当然のように、次は映画でも行きますか? ということになった。


 水無月は映画よりも、映画の感想を語る彼女を見たいという思いでテンションが上がった。

 実際、映画に行った直後の彼女は台詞をまねてみたりあのシーンのどこそこがよかった、あのキャラクターのあそこが気にくわないと身振りを交えて力説したりと、まるでお気に入りのおもちゃで遊ぶ子どものようだった。


 ご都合主義の物語みたいに順調だった。


「夢みたいだ」


 と梨子に週七で語るごとに、頬をつねられた。






 そして今、プールに漂っている。


「大丈夫ですかあー?」


 連れてきた女が微動だにしない水無月を慮ってか、声をかけてくる。


「うん」


 体勢を変えて浮き輪から降り、プールから上がる。

 サングラスを外して今日イチの笑顔で女を見た。


「心配してくれてありがとう、上……」


 言いかけて、振り向いた美女の顔が類人猿だったときのような顔になる。


 眼前にあったのは見慣れた三十二歳だった。


「ナシコ」

「ナシコ、じゃないよまったく」

「どうしてここに?」

「あぁ? マジで言ってる?」


 苛立ち半分、あとの半分は本気で心配そうな顔をしていた。それで思い出す。


「ああ、いや」


 大丈夫、と掌をかざす。


「夢の世界に行ってた」

「イキオクレ!」


 前触れなくタックルをくらい、水無月の身体がよろめく。

 そのままバランスを崩してプールに落ちた。

 壮大な水しぶき越しに、小さな子どもが笑っているのが見える。


「こらおん! 本物の行き遅れの女がいる前でその呼び方はやめろって言っといただろ」


 水面に顔を出してたしなめると、殺人的な勢いでなにかが飛んできて頭にぶつかる。

 梨子が投げた浮き輪だった。剥き出しの眼球でこちらを睨んでいる。


「子どもに変な言葉教えんな」

「俺じゃない。姉たちが俺を行き遅れ、ってからかううちに勝手に覚えたんだ」


 玲音が曇りなき上目遣いで梨子を見上げる。


「お姉ちゃんもイキオクレなの?」

「レオン君、意味解ってて言ってる?」


 かろうじて笑顔を保ち、梨子が前屈みで言った。


「えっとね、シカルベキレールからダッセンジコのひと」

「ちがうよ」


 と言ったのは梨子よりずっと高い声だ。


「運命の相手が見つからないまま、オバサンになったひとだよ」


 玲音の後ろからさらが顔を出す。


「それはおっぱいがないから?」


 続くかずが屈んでも全く谷間が見えないことを指摘し、玲音は


「お姉ちゃん、オバサンなの?」


 と目を丸くした。


「俺知ってるぜ」


 得意げに笑ったのは角刈りのだ。


「お姉さん、って呼ばれて嬉しそうな女は、オバサンなんだ。そうだろせい


 そうだね、と物怖じしている小さな声が続いた。


「水無月君」

「はい」


 梨子の顔を直視できず、生返事をする。


「殴っていい?」

「幼児虐待は歓迎できないな」

「君をだよ!」


 言葉より早く、梨子が足の裏から飛び込んでくる。

 まともに喉仏で受けて呼吸困難に陥りながら水無月は


「蹴りじゃん」


 と思った。

 続いて玲音、更紗、一希、露魅男、星良も飛び込んで、水無月にまとわりついてくる。


「マジ、沈むっ!」


 悲痛な叫びは誰にも届かない。

 こうならないように梨子を呼んだのに、と思いつつ、しばらくもがき続けていた。






 子どもたちを預かってくれ、なんならプールにでも連れてってくれ、ていうか連れてけ、と下の姉から連絡があった。

 子どもたち、と聞いて嫌な予感がして


「たち、に玲音と更紗以外は含まれないよな」


 と念押しのつもりで訊いたら


「さすが我が弟。話が早くて助かる」


 電話の向こうで姉の口が裂けていくのが見える気がした。


 上の姉の子、一希も含まれることを覚悟した水無月へ、姉はさらに露魅男と星良という聞き慣れない名前を出した。


「誰だよそれは」

「サカちゃんの友だちの子」


 サカちゃん、とは上の姉のことだ。

 三人でケーキバイキングに行って、岩盤浴に行って、流行りのフレンチを堪能するらしい。


「母ちゃんに見てもらえよ」


 と言ったが


「残念。気ままな女子会旅行で信州の温泉中」


 と一蹴された。


「弟の盆休みを潰して楽しいか」

「どうせ暇でしょ」

「俺にだって予定が」


 なかった。

 上城梓と次会う予定は盆明けだったし、むしろ暇を持て余していた。



 しかしひとりで五人の幼児を相手にすることの困難さを思い、梨子に電話した。


「子どもの世話を押しつけられた。手伝ってくれ」

「今が盆休みって知ってる?」

「どうせ暇でしょ」

「私にだって予定が」


 なかった。

 水無月の予想どおりむしろ暇を持て余しており、夜に酒をおごるからと半ば強引に招集した。






「子どもって凄いよね」


 遊び倒してプールサイドに帰還した水無月に梨子が言った。


「なにが?」


 屋根のある場所のベンチに突っ伏して、隣に座る梨子に目だけ向ける。


「いろいろあるけど」


 少し考えるそぶりをしてから顎で子どもたちのほうを指し


「あんなんなのに」


 水無月を示した。


「こんなのになっちゃうとことか」

「いちいちトゲを感じる」


 気のせいだよ、と笑った顔は皮肉のない素直さだったので、なんとなく気まずくて子どもたちのほうを向いた。


「ナシコ少女も、昔はあんなんだったんだよな」

「信じがたいでしょ?」

「うんまあ、俺もあんなんだったから信じざるを得ないかな」


 盗み見た梨子の身体は凹凸が乏しいものの、締まっている。

 毎晩暴飲を繰り返すアラサーとは思えないストイックな曲線から、水無月は視線をそらした。


「全然自覚がないわけだよ、私は」

「自覚? なんの」

「歳をとった自覚かなあ。あんなんだったころから、そんなに変わってない気がしてね」

「それは無理がある」

「さすがに十歳以下で精神年齢が止まってるとは言わないけど」

「高校生くらいとか?」

「んー、まあ、二十代半ば? 実際、これでも私、二十代に見られるんだからね」

「ナシコ殿はお世辞、という言葉をググってみたほうがいいな」

「溺れ死にたいの?」

「や、望まない死に方ベストテンに入るね」


 睨みをきかされ、顔ごと逸らす。


「水無月君こそ、こじらせ三十代の代表取締役みたいな人じゃん」

「俺は若作りしてないけど?」


 梨子が水無月の頭をはたく。


「中身だよ。いつもいつも、クラスのマドンナみたいな美人に惚れては玉砕して、五股かけられたって嘆くくせに全然変わんなくて。未だに恋愛経験ゼロの童貞みたいな顔してる」

「それは褒めてるの? 馬鹿にしてるの?」

「両方」


 梨子は感情の読み取りにくい細めた目で水無月に笑いかける。

 立ち上がって長い手足を伸ばした。


「ていうか水無月君さ、誘うなら梓でしょ。せっかく水着姿を見るチャンスだったのに」


 首を鳴らしてから、ナシコが目を剥き出す。


「み、水無月君」

「ん?」

「なに泣いてんの?」


 言われて気付く。

 前触れなく、頬を冗談のような量の液体が流れていた。


「や、目から水が出てきたんだ」

「言い訳になってない……」


 梓となんかあった?

 と訊かれ、水無月はしゃっくりのような呼吸で涙を拭くこともなく遠くを眺めた。


 そして鼻の穴を全開にして言う。


「見ちゃったんだよね。彼女がほかの男といるところを」

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