第3話 夢の中では本当に痛くないのか

「どういうことだと思う? ナシコ」

「私が聞きてえよ。こんな時間にどういうことだ」

「文句言うなら出るなよ」

「文句言うために出たんだよ。ふざけんな。じゃあね」

「わ、待って。切らないで」


 電話を持ちながら土下座したのが通じたのか、通話は継続された。

 時計の短針は二と三の間を指している。

 水無月は改めて事の経緯を説明した。


「怖かったんじゃないの?」


 梨子の感想第一声がそれだった。


「どういうこと?」

「下手に断ったらなんかされると思ったんじゃない?」

「そんなことは」


 あるかもしれない。

 もらった番号にかけてみたの? と訊かれ、水無月は首を横に振り


「いいや、怖くて」


 と答えた。


 本当はすぐにかけてみるつもりだったが、からかわれた可能性も否定できずメモを前に腕組みをすること数時間、時折


「会話しちゃった」

「可愛かった」


 などとにやけながら、悩みに悩んでとうとう電話を取ったのがさっきだった。


「当然こんな遅くに電話すると迷惑だろうから、仕方なくナシコにしたんだ」

「ほほう。私なら迷惑じゃないんだな」

「同期じゃん」

「同期って言えばなんでも許されると思うなよ」

「ナシコなら確実に起きてると思ったんだよ。事実起きてた」

「今まさに寝るとこだったんだよ。

 シャワーで汗流して髪乾かして寝る前のビール飲んで歯を磨いて横になった瞬間だよ、無粋なコール音が響いたのは。

 今日は営業終了、と思って自分の電源を落としたタイミングだ。

 私にとって最も至福な瞬間を、君はぶち壊した」


 水無月は重大なことに気付いた、というようにハッ、と息を短く吸い込み、言葉に甘い吐息を混じらせる。


「ごめんなさぁい。

 あたし、全然ナシコさんのこと考えてなかったぁ。

 三十路過ぎで結婚もしてないしぃ、毎晩深夜まで飲み歩いてるしぃ、まあいっかみたいなぁ軽い気持ちで頼ってしまったのぉ。

 本当にごめんなさぁい」


 喋りながらしなまで作った。


「なんの真似だ」

「でもお願ぁい。ナシコさんしかいないの、この瞬間地上であたしを救えるのは。

 困ってるの。お願いよぉ、このとおり」

「気色悪い、それやめて」

「やめたら話聞いてくれるのぉ?」

「そこに因果関係はねえよ。とにかくやめろ!」


 結構マジでイラッとしているのを感じて水無月は男に戻る。


「で、これってさ、期待していいんだと思う?」

「まあ私だったら、そんな出会い方をした男にいきなり個人情報は教えないね」

「私だったら? なにそのモテ子みたいな発言。

 ナシコ、いきなりコーヒー誘われたことなんてあんのかよ」

「訊かれたから答えたんだろうが!」

「いや、俺より恋愛経験豊富臭出したから、悔しくて」

「水無月君のほうがよっぽど豊富だよ」

「え、そう?」

「少なくとも私は五股をかけられたことはない」

「えぐるなよ……」


 うまく笑うことができず、引きつけを起こしたような声になった。


「ちなみに何股までならあるの?」

「何股もねえよ」

「かけたことも?」

「ねえよ」

「男と付き合ったことも?」

「ねえよ」

「嘘!」

「嘘だよ」

「なんだよ!」


 こんな調子で小一時間以上話したものの一切結論らしいものは出ず、最後は進まない会話に梨子がマジギレして一方的に切られた。


 翌日水無月がメモにあったSNSのIDに連絡すると上城梓から普通に返信があって、コーヒーを飲む日程は具体的になった。






「無理だよー。もう無理。絶対終わった」

「終わったならとっとと帰ってひとりで枕を濡らしてくんないかな」


 酷い、と両目を腕全体で覆って「さめざめ」と声に出して泣く水無月に、梨子は遠慮のない舌打ちを浴びせかける。


「りっちゃん、男連れとは珍しいね。コレかい?」


 その辺で飲んでたちょい悪風中年オヤジが小指を立てて笑った。


「オグさん、今どきその仕草はやめましょうよ。私だってもう少しいいのを見つけますよ」


 ゴーヤを初めて食べた人のような顔をしている。


「で、水無月君はどうやってここが?」

「木下に訊いた」


 リーマンが溜まるような立ち飲み屋に皆勤するお前が悪い、と顔を上げ、しなを作る。


「話を聞いてよぉ」

「キモいって言ってるでしょ、それやめて」

「聞いてくれるだけでいい。解決法を見出すとか、そういうのを求めてるわけじゃない」

「じゃあ地蔵様にでも聞いてもらいな」

「ナシコ様に聞いてもらいたいんだって」

「私は忙しい」

「飲んでるだけじゃん。いい年こいた女がおひとり様で」

「休日の夕方になにで忙しくたって文句を言われる筋合いはない!」


 怒るなって、と結構本気で涙を浮かべると、さすがに冷た過ぎたと思ったのか、ばつの悪そうな顔になる。


「勝手に話せば」

「飲まずには語れない」


 水無月はホッピーを注文する。


「うまい」


 梨子の焼き鳥を勝手に頬張り、空いた串を放り出す。

 そのノリで鳥、皮、ぼんじりと三本ほどたいらげた。


 店内にテーブルを殴り付ける音が響く。


「さっさと喋れ! 人が聞いてやると言った途端にくつろぎやがって」

「短気は寿命を縮めるよ、ナシコ」

「コーヒーは飲んだの?」


 漫画なら確実に血管が浮き出ているであろう剣幕で、それでも抑制しながら梨子が言う。


「飲んだよ、さっき」


 運ばれてきたホッピーを一気に半分ほど喉に入れた。


「それで?」

「それでって?」

「その後は?」

「帰ったよ」


 梨子が天井を見て、また水無月に視線を戻す。


「まさか待ち合わせしてコーヒー飲んで、店を出てそのまま帰ったわけじゃないよね?」

「待ち合わせしてコーヒー飲んで、店を出てそのまま帰ったよ」

「マジで言ってる?」

「残念ながら」

「中学生か! いや今どき中学生だってそんなデートないだろ」

「しかもほとんど話せなかった。あがっちゃって」

「うぶか! 一応聞くけど水無月君て、童貞だっけ?」

「一応聞くなよ。ナシコさんがよーくご存じのとおりだよ」

「私があんたと寝たみたいに言うな」

「あの夜のことは忘れないよ」

「忘れて。お願いだから」


 結果的になにもなかったでしょ、と頭を抱える。


「それ以上言うならセクシャルハラースメントとみなすよ。もう今日の話はおしまい」


 口調は冗談めかしているが本気だと解ったので、水無月は「そもそもデートではないよね、あれは」と話題を戻した。


「俺は認識違いをしてたんじゃないかと思うんだ」

「どういうこと?」


 梨子の顔の向きが戻る。


「前提として、俺はデートしよう、とは誘ってない。コーヒーを飲もうって言ったんだ。

 そして彼女は応じた」

「ふむ」

「だからコーヒーを飲んで帰った。以上」

「いやいやいやいや」


 梨子がジョッキを持ってないほうの手を高速で左右に振る。


「解るでしょ、そこは。子どもじゃないんだから」


 と言ってから梨子はなにかに気付いたように「あ」と声を漏らした。


「そういうこと?」

「だったらいいな、と思ってる」


 梨子は首をひねり、ジョッキを空にしてから「うーん」とうなり、半笑いを浮かべて「いやないよ」と呟いた。


 次、お持ちしましょうか。


 店員の気遣いに応じて大ジョッキを追加してから水無月を見る。


「梓はあの外見だよ? さすがに経験がないとは」


 思えない、というところは省略される。


「確かに間近だと気圧されるほど美人だった。だからさっき、ナシコに会って安心したよ」

「それ褒めてんの? けなしてんの?」


 梨子の抗議は黙殺する。


「圧迫感、なんだよ。

 住む世界が違うという感じを抱かせるレベルなんだ。

 俺だってもう少しまともに会話したかったよ。

 自分でも驚いたさ、初めて大勢の前で演説をするみたいに、なんの言葉も浮かばないんだ。

 前日何十通りものパターンでシミュレーションしたのに、そもそも声すらまともに出ない。

 自分にがっかりしたけど、もし今まで彼女の前に現れた男たちもおんなじだったら?」

「水無月君」

「なんだよ」

 

 梨子が捨てられた犬を見るような目をしていた。


「認めたくない気持ちは解るけど」


 それ以上は言わず、ただかぶりを振った。


「まだ終わってない」


 水無月は唇を引き結ぶ。

 強い意志でというよりは、泣き出すのを我慢する子どものようなへの字で。


「終わってないもん」

「さっき来たとき、絶対終わった、って言ってたじゃん」

「社交辞令だもん!」

「その使い方、おかしい」

「まだ一回会っただけだもん。次は」

「次なんてないよ」


 梨子がにこりともせずに言う。


「水無月君、確かに諦めないことは人生においてたいていの場合美徳とされるけどね。

 かの有名なミスターも、『決してネバーギブアップしません』という名言を残している」

「それは」


 違くないか? と言おうとしたのを遮られる。


「一つだけ断言するよ」


 じっと目を見つめられる。

 上城梓ほどではないが、ちゃんと開けば梨子の目も十分大きい。


 数秒無言が続いたあと、水無月が沈黙に耐えきれず「なんだよ」と言った。


「ストーカーだけは駄目だよ。そんなことをしたら本気で絶交だからね」


 それは、常に梨子が言葉にまとわせている冗談めいた響きを含んでいなかったので、水無月は茶化さず頷いた。


「しないよ」

「よろしい」


 言った梨子の目はもう笑っている。


 調子が狂う、と思いながら水無月は杯を重ねた。


「でも実際まだ解らないじゃないか。自分でこんなことを言うのは惨めだから嫌なんだけど、もう一度誘う前から諦めなくたっていいだろ?」

「まあね」


 何段階か落ち着かせたテンションに梨子も合わせてくる。


「じゃあ聞いてみなよ。また行きましょう、って」

「そうする」

「今」


 顎でスマホを示された。


「今?」

「思い立ったが吉日。普通に考えても、今日会ったフォローメッセージができる今が最善のタイミングじゃない?」


 一理ある、とは思ったがそう簡単に踏ん切りはつかない。

 とりあえずスマホを手に取って指でもてあそぶ。


 そのとき掌の中で、端末が小刻みに震えた。


「電話?」

「いや」


 メッセージだ、と答えて画面を開く。


 上城梓から、SNSの通知だった。


「なんだって?」


 硬直する水無月に寄って、梨子が画面を覗き込む。すぐに間近で見上げた。


「これ……!」


 唇が触れそうな距離だが水無月は平常と変わらない態度で


「つねってくれ」


 と言った。


 一瞬後、水無月の絶叫が店内にこだましたのは言うまでもない。



AZUSA 今日はありがとうございました。よければまた誘ってください。暇なので。

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