第2話 自然な出会いを演出したら、自然と言えるのか

 自然な流れ、というものを水無月は大事にする。


 だから梨子の前で上城梓の名前を前触れなく出したのは本意ではなかったし、だから今、会社の廊下で何気なく彼女を尾行する事態に追い込まれている。


 覚悟を決め、水無月は梨子に上城梓の人となりや社内の評判を聞き込んだ。

 結果は十分満足のいくもので、それまで水無月が抱いていた彼女へのイメージを少しも損なうものではなかっただけでなく、むしろそれ以上だった。


 上城梓は口調が柔らかく、纏う空気も温かい。


 顔立ちは大きな目を中心に絵に描いたようにはっきりしている。


 それでいて同性にも疎んじられない、裏表を感じさせないキャラクターの持ち主でもあった。

 これは非常に大きな意味を持つ。

 かつて水無月から男としての自信を根こそぎ奪い去った五股女は、後から聞いた話だと同性に物凄く嫌われていたからだ。


 水無月は大いに頬を弛緩させた。

 梨子は「気持ち悪いな」と苦笑いしたが気にならなかった。


 既に頭の中で、この出会いは必然だ、俺の見る目は間違ってなかったと確信していた。


 だから梨子の

「で? 紹介してほしいって話?」

 という言葉にも

「いやいい。むしろしないでくれ」

 と、余裕の笑みを浮かべることができた。


 不思議がる梨子に水無月は説明した。


「出会い方は重要だ」と。


 最初にどう出会うかでその後の関係性が驚くほど変わる。


 部活の先輩後輩として出会うのと、町内の幼馴染みとして出会うのと、路上でナンパして出会うのと、取引先の客として出会うのとでは相手の見方がまず違う。


 特に悪いのは演出され誇張された出会い、言わば出会いのための出会いだ。

 合コンや紹介、なんて不自然な出会いじゃせっかくの彼女とのストーリーにけちがつく。


 自然な出会いがいい、と水無月は豪語した。


「自然な出会いねえ」


 梨子は酒が入ったときによくする、据わった目で笑った。


「自然な出会いってなんだよと言いたげだな。しかしこれは大きな」

「いや別にいいんだけどさ」


 遮って首を鳴らす。


「そんな時間ないかもよ? 自然な出会い殿とやらをお待ち申し上げてたら」

「どういうことだ」


「彼女辞めるから」


 電源コードをコンセントから抜かれた掃除機のように、水無月は次の言葉を出そうと開いた口のまま止まった。


 今月末が最終出社日、と続いた梨子の台詞で我に返り、スマホのカレンダーアプリを立ち上げた。

 そこで今日の日付を思い出す。


「六月二十九日」

「うん、つまり」


 明日が最後だ。


 その日一番の笑顔で梨子が宣告した。






 というわけで翌日の夕方、やむを得ず彼女を追っている。


 昨夜は一睡もできなかった。

 あらゆる可能性をシミュレーションし、紙に書き出しては丸めて捨てての繰り返しで、気付けば隣家の鶏が鳴いていた。


 出社時刻になっても考えたが結局名案は浮かばない。


 釣り竿で一本釣り!


 というアイディアを絵に描いた時点でようやく

「今の疲弊した脳味噌では素晴らしいプランを生み出すことはできない」

 と自覚し、電車に乗った。


 当然遅刻だったし、仕事が手につくはずもない……と思っていたのだが、そこは意外と始めた時点で身体と頭が勝手に動き始めた。

 膨大なメールに目を通し、幾つかの重要な件に対処し、進めているプロジェクトについて後輩に指示出しをして会議では大いに発言した。


 気付いたら定時を知らせる社内のチャイムが鳴っていた。


 仕事はいつもどおりまだまだ山積みだったが、ようやく残された時間がほとんどゼロになったことに思い至って席を立つ。


 書きかけのメールを放り出して「あとよろしく」と、後輩に呟いて部屋を出た。



 上城梓の部署名を頭の中で反芻し、半ば駆け込むように向かった。

 しかし着いてみると既に彼女の姿はない。


 同じ部署の梨子が水無月に気付いて、外を指した。表情は如実に語っていた。


「今出てったよ。残念だったね」と。


 微かに薄笑いが浮かんでいるようにも見えたのが気に障らないでもなかったが、構っている暇はない。


 今度は文字どおり駆け出す。

 何故か頭の中には不屈の精神を持つボクサー映画のテーマが流れ出した。



 そこまで広くはない、五階建ての社内を短距離走のスピード感で回った。


 いない、いない、ここにもいない!


 焦りと比例するように疲労も蓄積され、三十路過ぎの身体は全ての部屋を回り終えたときには真っ直ぐ歩けないほど困憊していた。

 痰が喉に絡みつき、呼吸もままならない。


 気が付けば食堂の前だったこともあってそのまま入り、自販機にコインを入れた。


 なににしよう、と選んでいたらすぐ背後で豪快なくしゃみが炸裂して、弾みで選ぶつもりのなかった『コーンスープカレーしるこ白玉入り』のボタンを押してしまった。


 なんだ誰だよと首だけで振り返ると、そこにいた。


 上城梓が。



 缶の出口に手を突っ込んだままの姿勢で固まりながら、食堂の扉を開けて出て行く彼女を見送った。


 幽体離脱したかのように動かなかった身体がやっと缶を掴んだ。


 勢い余って握り締めたコーンスープカレーしるこは罰ゲームのように熱く、水無月は「わっちゃ」とカンフー映画のアクションスターばりの高音で叫び、立ち上がりながらドアに突進する。


 ドアノブを掴めず頬骨で扉の強度を確かめる羽目に陥っても、めげずに外へ出た。



 上城梓が廊下を遠ざかっていく姿を捉えた。


 口を開いたが一切言葉が出てこない。

 発音習熟中の赤ん坊みたいに無音でぱくぱくした。



 自然な出会い!



 そうだ自然な出会いだ。この期に及んでも考えは曲がらない。

 なにができる?

 考えろ、考えろ、考えろ。


 手にはまだ灼熱のコーンスープカレーしるこがあった。

 わっちゃ!

 熱さに気付いて思わず投げ捨てる。


 廊下を転がり出す缶を……拾え! そうだ拾うんだ。

 水無月は駆け出す。缶を追う。

 必然的に、意図せず、高速で、上城梓の背が大きくなる。


 そして追い越す。

 追い越した?

 缶はまだ転がる。

 行き過ぎだ!

 ようやく手にする。

 熱くてまた投げ出す。


 目の端に上城梓をインする。

 意に介していない。

 表情もなく、歩みを止めるでもなく、水無月が見えていないように歩いてくる。


 どうする? 自然な出会い、自然な、自然……。



 ハンカチだ!



 頭の中に会社の後輩、きのしたの声がこだまする。


 水無月さん、街中で出会う必須アイテムはハンカチっすよ。

 財布はそのままばっくれられる可能性あるし、バッグごとはアホみたいっすから。

 落として去るんす。

 そしたら声掛けてもらえますから、あとはトークっす。

 センスあるのみっす。



 木下、俺やるよ!



「あー暑い」


 ハンカチをポケットから取り出して顔を拭く。

 演技するまでもなく真実汗だくだ。


「いきなり走り過ぎた」


 おもむろにポケットにねじ込む仕草をする。

 もちろん床に落とす。

 構わず歩いていく。


 一秒、二秒、三秒……五秒。


 まだか。

 我慢できずに首を回すふりをして背後を見る。


 ハンカチより手前を上城梓が歩いていた。



 なんてこった、無視しやがった!



「あっ!」


 オーバーに振り返る。

 ハンカチを拾うため歩みを戻す。


 上城梓とすれ違いざま、浅くだが確かに会釈された。



 彼女にはちゃんと俺が見えている!



 何故か涙ぐみそうになって喉の筋肉に力を込めた。

 ハンカチを拾う。


 上城梓の背はまた遠ざかった。

 彼女の先に伸びる廊下はもう五メートルもなかった。

 打開策はなにも浮かばない。

 三十二年の人生のどこを探っても、有効なアイディアは出てこない。


 俺は今まで一体なにをして生きてきたんだ。

 ノーアイディア?

 よくそれで企画なんて仕事をしてきたな恥を知れ!


 なんでもいい。


 出せ。

 ひねり出せ。


 今絞らなきゃ一生後悔するぞ。

 またトラウマをひとつこさえて、自分を正当化する度に大切ななにかを失っていく!

 今だ。今しかない。


 出せ。


「あの!」


 それは不自然に大きな声だったかもしれない。

 が、確かに上城梓の耳には届いた。


 彼女が振り返る。

 私ですか? なんでしょう? という表情で。


 そのかたちの良い両目に初めてさらされ、いよいよ水無月の思考は吹き飛んだ。

 台詞を綺麗さっぱり忘れて舞台に上がる役者って恐らくこんな気持ちじゃないかと思った。


「あの、あのですね」


 自分じゃない人間が喋っているみたいだった。

 額に新しい汗の川が滴ってくるのが解る。


「ハンカチ、落としましたよ」


 手にあった布を上城梓のほうに差し出して必死で笑顔を作った。


「僕が」



なんだそりゃ!



 上城梓が「はあ」とささやきに近い大きさで呟いた。

 初めて声を聞いた。


 やったよナシコ、俺だけに向けられた初めての声……やってない!

 我に返る。


 彼女は足を止めた。

 俺を見てる。

 今なにかを言えば、聞いてもらえる。


 だけどなんて言えば? 絶望的な状況は変わっていない。



 魔法の言葉だよ、水無月。



 そういえば。

 浮かぶ、大学時代の先輩の顔が。ナンパ王と呼ばれた男の笑みが。


 まず相手の顔をこちらに向けさせろ。

 なにかに気付いたような声を上げるとか、なんでもいい。

 そして次に、考えさせるんだ。自分について。

 ただの通行人という無機物のオブジェから、人間として認識させることができれば勝負は七割方決まる。

 そんなことできないって思うだろう?

 安心しろ。コツの要らない方法がある。

 魔法の言葉だよ、水無月。

 特に外国人だ。彼女らは日本人の顔を区別できていない、という自覚がある場合が多い。

 こう言えば、ほぼ確実に相手はお前について考えるよ。


「ドゥーユーリメンバーミー?(僕のこと覚えてる?)」

「は?」



 外国人じゃないよ先輩! 変な顔されたよ!



「覚えてるっていうか……ええと」


 眉間にしわを寄せ、明らかに戸惑いと困惑の浮かんでいる表情もいい……じゃなくて、フォローだフォロー。なにかないか、なにか。


 次は同級生で将棋サークルだったたかやまが現れる。


 水無月、将棋の世界ではしばしば、まだ王手になっていなくても勝敗が決する。

 明らかにこの先どう動いても数十手先に負けると片方が悟ったときだ。

 何手も先を読むからこそ、早い段階で投了になる。

 諦めるとか諦めないとかの話じゃない。このままいくと負ける、ではなくすでに負けた、なんだ。

 そんな状況で足掻くのは無様でしかないよ。


 負けを認めろ、と言われた気がした。


 上城梓を改めて見る。

 初めて、ちゃんと見た気がした。


 初対面の男に意味不明な行動を取られてリアクションに困っている人の態度だった。

 微かに恐怖も混じっているように見える。


 多分彼女はこう思っていることだろう。


 なにこのおっさんいきなりハンカチ差し出して自分が落としたアピールした上にカタカナ英語で自分を覚えてるか、ですって?

 キモい、気持ち悪い。

 頭がおかしいのかもしれない。

 ヤバいな、どうすれば刺激せずに逃げられるかな。

 もう、最後の日になんでこんな目に遭わなきゃいけないの。



 この状況のどこが「自然」だ?



 彼女の心情を慮って申し訳ない気持ちになる。

 完全に誤ったんだ俺は。


 ……それにしても目、でっかいな。


 水無月はなにも始まりそうにないどころか既に終わっていることを悟り、肩を落とした。


 ……それにしてもいちいち表情可愛いな。


 勝手に漏れ出る思考に蓋をする。


「すみません」


 これ以上驚かせないように、丁寧なおじぎをした。

 数秒溜めて顔を上げてから


「企画部の水無月と言います」


 自己紹介をする。


「上城さんですよね? 確か、今日が最後だって」


 同じ部署に河島梨子っていたでしょ? 同期なんです、それでたまたま。


 当たり障りのない言葉を選び、警戒心を和らげてほしい、という思いを込めて笑ってみせた。


 それが功を奏したのか、上城梓の表情と肩から少しだけ緊張が抜けた、ように見える。

 あとは会社の先輩らしく、軽くねぎらいの言葉をかけて去るだけだ。


 ……それにしても肌、白くて綺麗だな。


「お疲れ様でした」


 軽く会釈をする。


 さよなら上城梓さん。


 すぐ顔を上げて背を向ける。


 ……今度コーヒーでも飲みません?


 こら、まだ出るのか勝手な思考。未練がましいにもほどがある。


「いいですよ」


 声をかけられた。のかどうか判断がつかなかった。

 聞き違いかと思って「はい?」と首から上だけ振り返った。


「え? だから、コーヒー、ですよね?」


 上城梓が首をかしげる。

 微妙に上目遣いで、目がさらに大きく見えた。


 あれ?


「漏れちゃってました?」

「はい?」

「声」

「あ、はい」

「あ、でもあれでしょ? これからの人生であなたは今後コーヒーを飲みますか? という質問だと思ったんでしょ?」

「そういう意味だったんですか?」


 上城梓は口元に手を当てる。

 驚きと戸惑いの表情だが、さっきとは明らかに硬さが違っていた。


「それ以外にどういう意味があると?」

「いや、普通に誘われたのかなって」

「俺と?」

「はい」

「君が?」

「はい」

「コーヒーを?」

「はい」

「一緒に飲むと」

「はい」


 水無月は天を仰いだ。起こっていることが理解できない。


「あの、じゃあもしよかったら」


 彼女が鞄からペンとメモ帳を取り出し、なにかを書いてよこした。


 自分はどんな顔をしているのだろう?

 そんなことも解らないままメモを視界に入れた。


 十一桁の番号が並んでいる。

 その下には最もメジャーなSNSのひとつであろうアプリ名とそのIDとおぼしき記号が書いてある、気がした。

 目の錯覚じゃなければ。


「ご都合の良いときに」


 ここに連絡ください、と、なんの含みもない平坦な口調で言った。


「たぶんご都合に合わせられます。しばらくは暇ですから」


 ではお疲れ様です、と、世間話の終わったご近所様のように去って行った。


 しばらく彫像のように動けなかった水無月はやがてメモを財布にしまい込む。

 落ちていたコーンスープカレーしるこ白玉入りの缶を開けて一口含み、すぐ吹き出した。


「夢じゃないな」

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