魔剣とこいぶみ
ヴァゴー
第1章 一度目は現世
第1話 五股のトラウマ
「一度しかない人生、後悔したくないの」
五年前、女は完璧な微笑みを浮かべて言った。
自分の幸せと努力を百パーセント肯定する態度に、
「あ……うん」
としか言えなかった。
なにが起きていたのかを説明する女の声は事務的で、朗読を強制された生徒のようだった。
それでいてはっきりと目を合わせ、自分には一点の非もないと言わんばかりに背筋を伸ばしていた。
愛想笑いを浮かべている水無月のほうが、悪いことをしたみたいだった。
女は美人だった。
優しい態度だった。心が通じ合っていると信じていた。運命の相手だと感じていた。
「君は五番目だったの」
種明かしをされてすぐには事態が飲み込めなかった。
予め用意していたのだろう、流暢な説明だったが耳から耳へ通り抜けていった。
女は気になった男五人と付き合って、全員に身体を開いた。
妊娠確率を五倍に増やし、できた時点で一番の本命に結婚を迫るという常識を越えるデキ婚を画策し、見事二十代後半にして年下の弁護士を捕獲した。
「君はね、ピュアな恋愛担当。
とっても好きだったけど、それだけじゃ生きていけないからね。
あと、ちょっと少女漫画の読み過ぎかもよ?
時々笑いそうになっちゃった」
水無月は冷静さを欠いていた。しかしそれでも涙を堪えて言った。
「俺の子どもかもしれないんじゃないかな」
女は五人を虜にした微笑みのまま言い切った。
「ううん、私には解るの。母親だもん」
そして「大変残念だけど」と前置きしてから、今でも水無月が夢に見る台詞を重ねた。
「君には失望したよ。生物として負けたんだね」
負けたんだね。
負けたんだね。
負けたんだね……。
言葉は凶器だ。
耳から入り込んで頭蓋骨の中をブロック崩しのボールのように反射し、破壊し続ける。
「深刻なトラウマなんだ、これは」
「で?」
それが今朝会社に遅刻した理由?
と、カフェで正面に座る
空いてる左指は手持ちぶさたに栗色のショートカットの毛先をもてあそんでいる。
小刻みに震える水無月と裏腹に、垂れ気味の目は呆れを隠そうともしない。
「それが遅刻した理由であり、俺が結婚していない理由だ」
「ぶっちゃけその作り話聞き飽きたんだけど」
「作り話じゃない!」
「そんな女実在する? それこそ漫画の読み過ぎなんじゃない、水無月君」
「そうなのかなあ」
水無月は眉をハの字にしてマグカップのコーヒーを茶のようにすする。
「実話ってのは本当だけど、確かに恋愛漫画は読んでる。
もう三十路を越えたし、親も結婚はしないのかってプレッシャーかけてくるし、運命の出会いは諦めて身近なところで手を打ったほうがいいのかなあ。
どう思う? ナシコ」
「あ、ごめん。間に合ってます」
「誰がナシコに求婚した!?」
「ああ違うのか。良かった」
梨子がストローをくわえる。
「そこまで追い詰められてるのかなって」
「それを言ったらお前はどうなんだ
水無月が睨む。
「同期だよな。三十二だよな。
あれ? 確か昨日もその前もガード下の立ち飲み屋で目撃証言が出てるぞ。
おっさんに混じっておひとり様だったって。
一体どういうことかな? ええ?」
梨子は水無月を一瞥し、アイスコーヒーを底まですする。
それから満面の作り笑いを浮かべながら、空になったグラスを叩き割るような勢いでテーブルに激突させる。
「めんどくさいな」
薄く開いた目は笑っていない。
「それ、三十過ぎの女性に言っていいことじゃないからね」
「俺だって言う相手は選ぶ」
「まあ選ばれたのね、嬉しい!
なんて思うわけないでしょ。
で、結局なに。なんで呼び出されたの。
私の女性的魅力の欠如を自覚させるのが目的なら、帰るよ」
言い終える前に梨子が立ち上がる。
「はやるな」
水無月は中腰になって梨子の両腕を掴んで引き留める。
目の奥を覗き込んで低めのトーンで囁いた。
「ナシコは、綺麗だよ。前々から、どうして君が結婚しないのか不思議に思ってた」
言った途端、梨子の腕がスマホのバイブみたいに震えた。顔が青ざめている。
「あの、何度も申し訳ないけどごめんね。
いくらあてがないからって、私は水無月君とは結婚できないよ」
「だから俺がいつ求婚した!?」
肩にゴキブリがとまってますよ、と指摘されたかのような勢いで梨子の腕を放り投げる。
「あ、違うの?」
「ああもう話が進まない……あのさ」
そして水無月は口にする。
わざわざ仕事上がりにナシコを誘ってカフェに来た理由を。
「
唐突に出たその名前に梨子の目が丸くなる。
然るべき沈黙の後、悪巧みをする悪の組織の下っ端のような顔に変化した。
「この、身の程知らずめ」
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