メレンゲドール

S

 甘い匂いがした。両の腕できつく抱きしめた女の子の、匂い。

 この子をこうして抱きしめるのは初めてのことで、「こんな匂いのする子なんだな」と、どこか驚きに似た感動とともにそれを感じていた。


 一つ下の学年らしいこの子とは、言葉を交わしたのも、なんなら名前を知ったのも、今日が初めてだった。


 普段となんら変わったところのない学生としての務めを果たし、今日も晴れて放課となったところで、別の後輩と連れ立ってホームルームに来たこの女の子に呼び出しを受けた。


 そこからはわざわざ口にするまでもない。テンプレートで飾られた道筋を辿って、今日から俺と彼女は恋人同士ということになった。


 帰りに二人で少し寄り道をして、今はその別れ際だった。彼女は電車通学の俺と最寄駅が同じで、随分前から俺を見ていたらしい。


 交際の申し込み。半ば嘆願と言っていいかもしれなかったほどのそれを受けたのに、理由はない。

 彼女の必死さをあわれに思ったわけでもなければ、彼女の想いと言葉に胸を打たれたわけでもない。


 もちろん、あの遠い春、胸に穿たれた空虚なあなを彼女が埋めてくれると思っているわけでも、けしてなかった。


 しかし、それでもこうして人肌のぬくもりを感じていると、その孔を吹き抜けていた冷たい風が、幾分か弱まるような気がした。


「ねぇ」


 腕を緩めて、口を開いた。


「……はい」

「俺もさ」


 言葉を切ると、彼女は俺の胸にうずめていた顔を上げた。自然と視線が絡み合う。日本人にしては明るい色の瞳がかすかに揺れている。


「俺も、しばらくきみのことを好きでいても、いいかな」

「……はい」


 一瞬、視線の交錯が淡くほどけて。

 先ほどと同じ言葉で、彼女は小さく返事をした。


 目を逸らされる直前。彼女の瞳の奥に見えた感情は、とても複雑な形貌をしているようだった。

 いくつもの絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたときのように様々な感情が見え隠れしていた、


 自分が酷いことを言っているという自覚は当たり前にあった。それでも彼女に対する姿勢を誤魔化し続けるよりはずっといいと思った。


 俺に、とって。


 曖昧な言葉でも言わないよりは、俺の良心はまだしも痛まない気がした。


 髪を梳くようにして彼女の頭を撫でる。彼女は少しくすぐったそうに首を竦めた。

 彼女の髪は、少し固い感触を右手に残した。


 瞬間、脳裏に過ぎった顔を打ち消すように少し長めの瞬きをして、彼女の瞳をじっと見つめる。


 甘く蕩けた表情で、熱に浮かされたように彼女が小さく息を吐いた。耳許の髪に指を通すようにして、彼女の頬に手を当てる。親指が、かすかに唇の端に触れた。

 彼女は少し首を反らせて、ゆっくりそのまぶたを閉じた。


 耳の輪郭を親指でなぞりながら、添えた手を彼女のうなじの方へ回す。緊張しているのか、身を固くしている彼女の唇の隙間から甘く色づく吐息が零れる。


 それに惹きつけられるように顔を近づけ、少し首を傾けて。


 彼女の唇の横に、そっと優しく口づけた。


 彼女の目が開かれる。困惑に揺れる視線。

 努めて無視して、謝辞と別れの挨拶を交わした。


 今日は楽しかったよ、ありがとう。

 じゃあまたね、おやすみなさい。


 帰り道。一人で歩くいつもの道が、妙に物寂しく感じる。それでも、あれでよかったのだ。


 あの子との間に生まれた恋は、メレンゲでできた人形のようなものだ。

 苦いほどに甘くて脆い、消費期限付きの恋。どれだけ精巧にできていても、それはあくまで偽物で。


 だから、あれでよかったのだと自分に言い聞かせた。


 唇を指でなぞる。頬に口づけたとき感じた、彼女の匂いが蘇る。それこそ甘いお菓子みたいな。


 そういえば、いつかの夜もこうしていた気がする。


 しばらくただ夜道を歩いた。穏やかな夜風にくすぐられた街路樹が、小さく笑い声を漏らす。


 なんとはなしに、スマートフォンを取り出した。


 画面には、あの子からのメッセージが浮かんでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

メレンゲドール S @warukunai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ