第3話 Rougher Yet
土曜日、九時五十分。待ち合わせ場所の駅に着いた。鏡の前で服を着たり脱いだりを繰り返して、最終的にデニムに白いVネックのトップスという、無難中の無難な格好に落ち着いた。袖が丸く斜めにカットされていて、白地に白い糸で刺繍がしてあり、買ったばかりで気に入っている。一応シルバーのネックレスもしている。
お互いの番号も何も知らないので、私が断ったからそうなんだけど、吉田さん達に、地下鉄のA1出口の前で待ち合わせという風に巻田くんに伝えてもらった。お茶をするって話だったから、巻田くんが来たら近くのカフェにいこうと思っている。この街にはカフェが多い。アメリカの西海岸のカフェが日本進出第一号のお店を出してから、個人経営のカフェがあちこちにできた。駅から近いお店は賑わっているけれど、一本隣の細い通りに入ると割と静かで、コーヒー一杯で何時間でもいられる。休みの日は図書館で本を借りて、そういうところ沿いのカフェで読書をして、自分がちょっとお洒落な気持ちになった気がして満足している。
十時を十分ちょっと過ぎたところで、巻田くんとおぼしき人が私に駆け寄ってきた。短い髪はワックスでつんつんになっていて、
「あの、巻田です。よろしく」
巻田くんの額の汗が、つうと顔を垂れる。細い眉に切れ長の瞳がぱっと見こわい人に見える。吉田さん達曰く、すごくいい人らしい。とりあえず暑いから早くカフェにでも入ろうと言うと、巻田くんは首を横に振った。
「カラオケ行こう」
巻田くんは歌が好きなのだろうか。同じ室内ならカフェでもいいけれど、それならばと巻田くんに着いていく。半蔵門線で二駅、錦糸町のカラオケ屋に向かう。
巻田くんはよく喋る。学校のこととか、自分のこととか、なんでも喋る。家から学校まで自転車で通うのがキツい、でも満員電車はもっとキツい、とか、数学がわかんなくてキツい、とか、昔ボクシングをやってたけどキツくて辞めたとか。私はずっとうん、うん、と相槌を打ち続け、とにかく巻田くんはキツいという事はわかった。
カラオケ屋さんに入ると、待ってて、と巻田くんが言い、受付をしてくれた。透明なビニールのかかったマイク二本と退出時間の書かれたメモを挟んだ小さなバインダーを持って指定された部屋に行く。501号室。五階の一番隅の部屋。荷物をおいて、充電済みのタッチパネルのリモコンを巻田くんに渡す。巻田くんは手早く曲を入れて、リモコンを私に返してくれる。せっかく来たからにはたくさん歌おう。ランキングとか生音とか、一通りメニューを見てから好きなロックバンドの曲を入れた。曲がかかり、巻田くんがマイクを握る。
つまるところ巻田くんは物凄く歌が下手だった。音程はほぼほぼ外れているし、リズムも合ってない。ドリンクバーから持ってきたウーロン茶を一口飲んで、流れる曲に合わせて手拍子してみる。あれだろうか。同級生とはいえまともに話した事もないから、会話が続くか不安だったから、今日はカラオケを選んだのだろうか。それにしてはここに来るまでの電車の中ではよく喋っていたが、緊張なのかそわそわしていた気もする。巻田くんはよくわからない。
自分が歌う番になり、もう一本のマイクに被さるビニールをとる。夏になると、ショッピングセンターとか色んなところで流れる有名な曲だ。テレビ画面に流れる歌詞を目で追いつつ歌う。ふと、ソファーがきしむ。巻田くんが私の後ろに座り直した。私の背中と巻田くんの腕が触れてぞくりとする。座り直すフリをして巻田くんと距離をとる。またソファーがきしむ。脇腹に手が添えられる。後ろを振り向くことができない。背中越しに抱きしめられて鳥肌が立つ。マイクを強く握りしめる。首筋にかかる息が変に熱い。サビを全力で歌う。首、耳に柔らかい感触がする。熱い。トップスの下に巻田くんの手が侵入する。とにかくサビを、サビを全力で歌い切る。
「聞いたんだけど、進藤さん俺のこと好きなんでしょ?」
耳に鳥肌がたったのは生まれて初めてだ。曲が間奏に入ると同時に腕を振りほどいて立ち上がり、鞄を掴んで部屋を出て全力で階段を駆け下りる。カラオケ屋を出て駅に走り、地下鉄に飛び乗って気づいたら家にいた。
最悪。最悪だ。
何がどんな話になってこんな事になったのか。吉田さん、教えてよねぇ吉田さん。おい吉田。
月曜日、昇降口で巻田と目が合う。逃げるようにその場を去ったが教室に入る前に気持ち悪くなりトイレへ駆け込み個室に入って鍵をかける。後から女子が入ってきた。彼女達が出て行くと同時に大の方にコックをひねって流れる水と共にせっかく食べた朝ご飯を無駄にした。このまま教室に入る気になれなくて保健室に逃げた。顔色悪いわね、真っ白よ、貧血かしらと保健の先生は心配そうに私を覗き込むがさっき吐いたことは言わないで、貧血っていうことにして午前中ずっとベッドに寝かせてもらう。寝るふりのつもりがうっかりぐっすり眠ってしまい、気づいたら午後だった。もう教室行きたくない。もう午後もこのまま寝ていようと布団をかぶり直したら、ごそごそと布団の擦れる音で先生がやってきた。顔色を見られて、目の下を親指でぐいっとやられて、もう大丈夫、と先生がにっこり笑うのでもうそれ以上は保健室にいられなくなってしまった。とぼとぼと廊下を行く。
「進藤」
顔を上げると前にぱせりがいた。
「大丈夫?」
大丈夫と言いたかったけど、胸のもやもやはまだ全然晴れなくて、家に帰りたくて、返事に詰まった。お昼なのにぱせりはなぜか肩に鞄を下げていて、返事の代わりにそっちを聞いた。
「まだお昼でしょ。なんで鞄持ってんの」
「今日はもう帰る。見て」
そう言ってぱせりは窓の外を見る。
「雲がいっこもないの、今日の空」
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